髪をからかう風が吹き止んでも、茜は口を真一文字に結んだままだった。ただその場に立ちすくむだけで、茜の瞳が本当に俺に向けられているのかもわからなくなる。
鉛のように重い足。茜から目を離さずに、俺は茜の元へと足を向ける。
ず、ず、と砂利に擦れる足が俺を置き去りにして、二人の間に響いた。
俺の足を止めたのは茜だった。茜は俺の視線の先で首を振った。
鎖で繋がれてしまったように、足はピタリと止まってしまう。
茜が口を開いたのは、俺の視線を嫌うように逸らした、その直後だった。
「久しぶり……で良いのかな?」
表情に深みが増した気がした。顔自体は変わっていないはずなのに、その顔は、高校生のものとは思えない。
俺の記憶に残る、一番新しい茜と重なっている。
「ずっとここに居たの?」
できる限り自然に、優しく。離れていたことなどなかったように、俺は言った。
茜はまた首を振る。
「ううん。私も匠がこの本のどのページに居るのかわからないんだ。ここに来たのはついさっき」
そっか、と言ったつもりだったけれど、吐息が漏れるだけで音が伴わなかった。目の前に居る茜が本物の茜だとわかると、途端に言葉が喉に引っ掛かる。脳が冷静になるよう指示を出すから、俺は余計に混乱する。
「どう? 私の〝幸せの中〟は?」
自分で言うのも変だけど、と白い歯を覗かせて茜が笑って、俺の頭は真っ白になる。文字を消しゴムで消すように、頭に浮かんだ言葉も消えていく。
残された消しカスは、二度と文字には戻らない。
「結構たくさん書いていたんだな、あの本に」
苦し紛れに発した言葉だけだと寂しくて、俺は必要のない笑顔を装飾した。
「自分でも驚いたよ。匠がどのページを進んできたのかはわからないけど、こんなことまで書いたっけ? って思うページもたくさんあって。とりあえず書いたまでは良いけど、まだ私、読み返したりはしてなかったから」
「どのページ……っていうことは、俺は本に書かれた全部のページを見ているわけではないんだ?」
「たぶんね。もし全部を見ていたのだとしたら、もっと色んなページで会ってると思う」
「俺が気付かなかった可能性もありそうだけどね」
それはあるかも、と茜は笑う。久しぶりに見る、本当の茜の笑顔。
「茜は他のページも自由に行き来ができるの?」
一度会話が始まると、続く言葉は驚くほど流れるように出てくるものだ。今までろくに連絡もしていなかったくせに、と話しながらに思う。
「ある程度はね。でも一度そのページに行ったら、そのページを最後まで見ないと他のページには行けないようになってるみたい。読み飛ばしなんてもちろんできないし」
「茜は行った先のページでも〝ずっと茜〟なの?」
目の前に居る本物の茜は、過去の茜に乗り移った状態だ。もしも茜以外の人にも乗り移れるのなら。この状況が偶然ではないのなら。
この先に訪れるページのどこかで俺はまた、本物の茜と会うことができる。茜が思念の神さまに預けた幸せの大元にある想いを見つける手掛かりだって得られるかもしれない。
そんな甘えた思考は俺の頬を緩ませていた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
茜は口元だけで笑みを作る。
でもその顔は決して、俺を笑顔にするものではないことがわかる。
「初詣で甘酒を飲んだとき、クリスマスケーキを買ったとき。本の中には思念の神さまによって創られた過去があった。似ていたんだよ。雰囲気や感性、感覚や話の波長――そこで話した人の空気が、茜とそっくりだったんだ」
目を見開いて驚きを表現し、茜は何やら呟いた。はっきりとは聞こえなかったけれど、俺には茜が、
「そういうところは気が付くんだ」
と口にした気がした。
「ごめんね。約束があるから、それは言えない」
「それは〝思念の神さまとの約束〟ってことだよね?」
あえて口にする。本物の茜が約束を交わす相手など、一人しか居ないことはわかっていた。
茜の眉間に皺が寄る。困っているというより悲しげな顔。もう言葉は要らない。
答えは〝YES〟だ。
「いまの私が言えることは」
眉根を寄せたまま茜は言う。
「私が茜だって言って良いのは、茜として会話をして良いのは、『茜の中に居るとき』ってことだけなの。仮に匠が気付いたとしても、そのとき以外は何も言えない」
「じゃあ乗り移れるのは過去の茜だけじゃないってことだ。それなら毎回、そのページの中の茜になれば良いんじゃない? そうすれば今みたいに話ができるんじゃない?」
俺は矢継ぎ早に質問を重ねた。願望を質問に置き換えた。でも、
「それはできない」
俺の言葉が届くことすらも拒むように、茜は冷たく遮断した。
「どうして?」
「私がそう思念の神さまにお願いをしたから。それ以上でも、それ以下でもない」
もっと食い下がって問いただしたい。それなのに、茜の瞳に込められた有無を言わさぬ圧力を前に、俺は言葉を呑み込んでいた。呑み込まざるを得なかった。
茜には茜の考えがある。そのことは俺も理解しているつもりだ。
しかし、茜が望んで俺と話せないような状況を作ったという事実は思いの外、心に重くのしかかる。
「思念の神さまについて私から話せることもなにもない。それとね、」
茜は小さく嘆息を漏らし、俺から視線を外した。眉間に刻まれた皺は消えて、柔らかい表情が浮かんでくる。
再び目が合った時、茜は笑っていた。
「私が私の中に入るのはこれで最後。ごめんね、これも約束なんだ」
一人吹っ切れた顔をする茜。その場に置いていかれた俺。
島を出ると告げたあの日、茜は今の俺と同じ気持ちを抱いていたのかもしれないと思った。
本の中で初めてまともに茜と会話ができたから、俺は淡い思いを抱いていた。何かが動き出したのではないかと感じていた。自分の力で何かをしたわけでもないのに。
なんておめでたい奴なのだ。こんなことで全て解決するのなら、茜は居なくなったりなんてしないだろう。
他力本願の自分の情けなさに心底笑えた。
もうどこにも行くなよ。そんな言葉も出てこない。だから世間話でもするような口調で俺は言った。
「たまにさ、魂? だけが宙に浮いてる感覚になることがあるんだけど、茜もそうなの?」
「そうって?」
「本の内容を俯瞰で見てる感じになるのかなって。俺はできないけど、茜は過去の茜以外の人の中にも入れるわけでしょ?」
茜は少し驚いた顔をして、「なるほど、そういうことね」と呟く。
「たしかに私は他の人の中にも入れるけど、基本的には匠と同じで、昔の私たちを遠くから見てるだけ」
「基本的に」
「私たちは過去に戻って来たっていう同じ立場にあるけど、厳密には少し違ってるの。私がある程度自由に本の中のページを行き来できることもその一つ。匠は一時的にこの本のどのページにも実体が無くなっているから、話すことも、他の人の中に入ることもできない」
「つまり茜の実体は別のページにちゃんと存在してるってことか」
問うと、茜は小さく頷いた。
茜がこの本の中に居る確証を得て心は安堵する。ただの世間話のつもりが思わぬ収穫だ。
俺は茜を、本当の意味で見つけたわけではない。ここに居るのはあくまで過去の茜に乗り移った茜の魂であり、探している茜そのものではないのだ。
「次に茜に会えるのは、茜の実体があるページってことになるのかな?」
「そうなる……のかな。そうであってはほしいけど」
会話の温度が昔に戻ったようだった。俺を試すような言葉に、向かい合った俺たちはどちらからともなく笑顔になる。
改めて、この笑顔を見つけ出さなければいけないと強く思った。
「それで。この本は一体、どれくらい前から書いてたわけ?」
茜の口調に合わせて、俺は軽口を叩くように言った。
「あれ、もしかして忘れちゃってる? 本当にそんなことで大丈夫なのかなあ」
「これが最後の質問だからさ」
茜はわざとらしく唇を尖らせ腕を組む。睨むような視線も柔らかい。
「ね?」
言いながら拝むように手を合わせてみせると、茜は「わかったよ」とため息混じりに呟いて、片側の髪の毛を耳に掛けた。
「ここよりもう少し前……かな。だけど、そこでまた会えるかどうかは」
迷わなかった。俺は茜の言葉に被せるように口にする。
「大丈夫。必ず茜の〝想い〟を見つけて迎えに行く」
茜の後ろから風が吹いた。俺を過去へと戻そうとしているようだった。
俺は茜から目を離さないまま、ページの捲れる音に身を委ねた。
鉛のように重い足。茜から目を離さずに、俺は茜の元へと足を向ける。
ず、ず、と砂利に擦れる足が俺を置き去りにして、二人の間に響いた。
俺の足を止めたのは茜だった。茜は俺の視線の先で首を振った。
鎖で繋がれてしまったように、足はピタリと止まってしまう。
茜が口を開いたのは、俺の視線を嫌うように逸らした、その直後だった。
「久しぶり……で良いのかな?」
表情に深みが増した気がした。顔自体は変わっていないはずなのに、その顔は、高校生のものとは思えない。
俺の記憶に残る、一番新しい茜と重なっている。
「ずっとここに居たの?」
できる限り自然に、優しく。離れていたことなどなかったように、俺は言った。
茜はまた首を振る。
「ううん。私も匠がこの本のどのページに居るのかわからないんだ。ここに来たのはついさっき」
そっか、と言ったつもりだったけれど、吐息が漏れるだけで音が伴わなかった。目の前に居る茜が本物の茜だとわかると、途端に言葉が喉に引っ掛かる。脳が冷静になるよう指示を出すから、俺は余計に混乱する。
「どう? 私の〝幸せの中〟は?」
自分で言うのも変だけど、と白い歯を覗かせて茜が笑って、俺の頭は真っ白になる。文字を消しゴムで消すように、頭に浮かんだ言葉も消えていく。
残された消しカスは、二度と文字には戻らない。
「結構たくさん書いていたんだな、あの本に」
苦し紛れに発した言葉だけだと寂しくて、俺は必要のない笑顔を装飾した。
「自分でも驚いたよ。匠がどのページを進んできたのかはわからないけど、こんなことまで書いたっけ? って思うページもたくさんあって。とりあえず書いたまでは良いけど、まだ私、読み返したりはしてなかったから」
「どのページ……っていうことは、俺は本に書かれた全部のページを見ているわけではないんだ?」
「たぶんね。もし全部を見ていたのだとしたら、もっと色んなページで会ってると思う」
「俺が気付かなかった可能性もありそうだけどね」
それはあるかも、と茜は笑う。久しぶりに見る、本当の茜の笑顔。
「茜は他のページも自由に行き来ができるの?」
一度会話が始まると、続く言葉は驚くほど流れるように出てくるものだ。今までろくに連絡もしていなかったくせに、と話しながらに思う。
「ある程度はね。でも一度そのページに行ったら、そのページを最後まで見ないと他のページには行けないようになってるみたい。読み飛ばしなんてもちろんできないし」
「茜は行った先のページでも〝ずっと茜〟なの?」
目の前に居る本物の茜は、過去の茜に乗り移った状態だ。もしも茜以外の人にも乗り移れるのなら。この状況が偶然ではないのなら。
この先に訪れるページのどこかで俺はまた、本物の茜と会うことができる。茜が思念の神さまに預けた幸せの大元にある想いを見つける手掛かりだって得られるかもしれない。
そんな甘えた思考は俺の頬を緩ませていた。
「どうしてそんなことを聞くの?」
茜は口元だけで笑みを作る。
でもその顔は決して、俺を笑顔にするものではないことがわかる。
「初詣で甘酒を飲んだとき、クリスマスケーキを買ったとき。本の中には思念の神さまによって創られた過去があった。似ていたんだよ。雰囲気や感性、感覚や話の波長――そこで話した人の空気が、茜とそっくりだったんだ」
目を見開いて驚きを表現し、茜は何やら呟いた。はっきりとは聞こえなかったけれど、俺には茜が、
「そういうところは気が付くんだ」
と口にした気がした。
「ごめんね。約束があるから、それは言えない」
「それは〝思念の神さまとの約束〟ってことだよね?」
あえて口にする。本物の茜が約束を交わす相手など、一人しか居ないことはわかっていた。
茜の眉間に皺が寄る。困っているというより悲しげな顔。もう言葉は要らない。
答えは〝YES〟だ。
「いまの私が言えることは」
眉根を寄せたまま茜は言う。
「私が茜だって言って良いのは、茜として会話をして良いのは、『茜の中に居るとき』ってことだけなの。仮に匠が気付いたとしても、そのとき以外は何も言えない」
「じゃあ乗り移れるのは過去の茜だけじゃないってことだ。それなら毎回、そのページの中の茜になれば良いんじゃない? そうすれば今みたいに話ができるんじゃない?」
俺は矢継ぎ早に質問を重ねた。願望を質問に置き換えた。でも、
「それはできない」
俺の言葉が届くことすらも拒むように、茜は冷たく遮断した。
「どうして?」
「私がそう思念の神さまにお願いをしたから。それ以上でも、それ以下でもない」
もっと食い下がって問いただしたい。それなのに、茜の瞳に込められた有無を言わさぬ圧力を前に、俺は言葉を呑み込んでいた。呑み込まざるを得なかった。
茜には茜の考えがある。そのことは俺も理解しているつもりだ。
しかし、茜が望んで俺と話せないような状況を作ったという事実は思いの外、心に重くのしかかる。
「思念の神さまについて私から話せることもなにもない。それとね、」
茜は小さく嘆息を漏らし、俺から視線を外した。眉間に刻まれた皺は消えて、柔らかい表情が浮かんでくる。
再び目が合った時、茜は笑っていた。
「私が私の中に入るのはこれで最後。ごめんね、これも約束なんだ」
一人吹っ切れた顔をする茜。その場に置いていかれた俺。
島を出ると告げたあの日、茜は今の俺と同じ気持ちを抱いていたのかもしれないと思った。
本の中で初めてまともに茜と会話ができたから、俺は淡い思いを抱いていた。何かが動き出したのではないかと感じていた。自分の力で何かをしたわけでもないのに。
なんておめでたい奴なのだ。こんなことで全て解決するのなら、茜は居なくなったりなんてしないだろう。
他力本願の自分の情けなさに心底笑えた。
もうどこにも行くなよ。そんな言葉も出てこない。だから世間話でもするような口調で俺は言った。
「たまにさ、魂? だけが宙に浮いてる感覚になることがあるんだけど、茜もそうなの?」
「そうって?」
「本の内容を俯瞰で見てる感じになるのかなって。俺はできないけど、茜は過去の茜以外の人の中にも入れるわけでしょ?」
茜は少し驚いた顔をして、「なるほど、そういうことね」と呟く。
「たしかに私は他の人の中にも入れるけど、基本的には匠と同じで、昔の私たちを遠くから見てるだけ」
「基本的に」
「私たちは過去に戻って来たっていう同じ立場にあるけど、厳密には少し違ってるの。私がある程度自由に本の中のページを行き来できることもその一つ。匠は一時的にこの本のどのページにも実体が無くなっているから、話すことも、他の人の中に入ることもできない」
「つまり茜の実体は別のページにちゃんと存在してるってことか」
問うと、茜は小さく頷いた。
茜がこの本の中に居る確証を得て心は安堵する。ただの世間話のつもりが思わぬ収穫だ。
俺は茜を、本当の意味で見つけたわけではない。ここに居るのはあくまで過去の茜に乗り移った茜の魂であり、探している茜そのものではないのだ。
「次に茜に会えるのは、茜の実体があるページってことになるのかな?」
「そうなる……のかな。そうであってはほしいけど」
会話の温度が昔に戻ったようだった。俺を試すような言葉に、向かい合った俺たちはどちらからともなく笑顔になる。
改めて、この笑顔を見つけ出さなければいけないと強く思った。
「それで。この本は一体、どれくらい前から書いてたわけ?」
茜の口調に合わせて、俺は軽口を叩くように言った。
「あれ、もしかして忘れちゃってる? 本当にそんなことで大丈夫なのかなあ」
「これが最後の質問だからさ」
茜はわざとらしく唇を尖らせ腕を組む。睨むような視線も柔らかい。
「ね?」
言いながら拝むように手を合わせてみせると、茜は「わかったよ」とため息混じりに呟いて、片側の髪の毛を耳に掛けた。
「ここよりもう少し前……かな。だけど、そこでまた会えるかどうかは」
迷わなかった。俺は茜の言葉に被せるように口にする。
「大丈夫。必ず茜の〝想い〟を見つけて迎えに行く」
茜の後ろから風が吹いた。俺を過去へと戻そうとしているようだった。
俺は茜から目を離さないまま、ページの捲れる音に身を委ねた。



