「もう高校生活の半分が終わっちゃったね。卒業まで、こんな感じであっという間なんだろうなー……。あ、そういえばさ、匠はもう進路決めた?」

 茜は晴れやかな表情を浮かべている。それなのに、俺の心は激しく乱れた。

 荒れる鼓動に押し出された血液が脳まで達して、俺の中に残る記憶を呼び起こす。言葉にならないモヤモヤの正体が明らかになる。


 そうか。ここは、あの日のページか。


「あ、ああ。もう決めてるよ」

 乾いた唇を舐めて口にする。

「おー、早いじゃん! 私はまだ全然だ……。それで? やっぱりお家の仕事を継ぐの? 酒屋さんだもんね?」

 明るさを増す茜の笑顔に比例して、鼓動が速くなる。どうあがこうと過去は未来に向かって進んでしまうのだから、未来を知っていることは辛いことだと思った。

 俺はこれから、この笑顔を奪うのだ。

 あの時の俺は、こう考えた。

 話を引き延ばせば、きっと不穏な空気になるだろう。その時間が茜の期待を変に煽って、その時間が俺の決意を濁そうとするから、と。

 だから俺は事実だけを端的に述べた。間違った正解だとわかっていて選んだ。


「俺……この島を出ようと思う」


 やはりこの言葉は、茜の本に記されていた。俺の口から、俺の意思とは関係なく言葉が漏れた。

 鋭い風に切り裂かれたようだった。その風は、季節外れの冷たい時間を連れてくる。遅れて届く葉擦れの音が、逃げ場のない空間を作り上げていく。

 この過去も、未来に彩りを添えるのだろうか。そんな想いすらも奪っていく。


「なん……で?」


 茜の足が止まった。俺は、この表情を覚えていた。切ないとも儚いとも違う、ただただ途方にくれた表情だった。

 茜は瞬きをすることもなく、口元だけで笑顔を作っている。視線はまっすぐと前を向いているが、その視線が俺の視線と交わることはない。

 鼓動の音が脳内に響く。夕焼けがいたずらに茜の頬を染めている。

 決して色褪せることのないその顔は、この日も俺の胸を強く締め付けた。

「今まで島のことしか見てこなかったからさ、もっと視野を広げて見ようと思うんだ。都会にはきっと、色んなことが転がってる。それを見たいんだ。店を継ぐことも考えたけど、やっぱりこのまま親に頼りっぱなしじゃダメだなって」

 当時の俺が咄嗟に考えた言い訳。茜を納得させる、それらしい嘘。

「転がってるって、匠はそれを拾いに行くの? 島を出ると、親を頼らないってことになるの?」

 ようやく合わさった視線は、強いメッセージ性の込められた言葉に変わる。言葉は胸に、突き刺さる。いや、感覚的には貫いていた。

 それはもう、高校生には耐えられない痛みだったはずだ。

 これもまた思念の神さまの力なのかもしれない。俺は自分の意思で言葉を探したが、喉元に引っかかって出てこない。

 過去はあの日の事実を、変わることなくただ鮮明に映し出した。

「私が今、どんな気持ちかわかる?」

 作られた優しい声が辺りの冷えた空気を飲み込んで、静寂を呼び寄せる。音の消えたこの世界で、俺は茜の言葉を待つことしかできなかった。

「匠がもう決めたって言うのなら応援したいとは思う……。でもさ、都会に行けばなにかが変わるとか、親を頼りたくないから島を出るとか、そんなの、特に理由がないから無理矢理こじつけたって感じがするよ? 島の外に出れば、勝手になにかが変わるの? 変わってくれるのを待つために行くの? それは違うんじゃないの?」

 夕焼けを反射する瞳の潤いは、悲しみや寂しさを表していたのだと思う。いきなり「島を出る」と聞かされて、動揺もしていたと思う。それなのに、茜の言葉は至極真っ当なものだった。俺は反論の「は」の字も出てこないまま、「なにより」と口にした茜をじっと見つめている。


「どうしてなにも話してくれなかったの……?」


 そう言って、茜は笑った。喚いたり、嘆いたり、泣き叫んだりするよりも、それはずっとずっと俺の心を掴んで離さなかった。

 淡いオレンジが、茜の全てを包んでいる。

「私たち付き合ってるんだからさ。匠が気持ちを固める前に、相談くらいあっても良かったんじゃないのかな?」

 茜はきっと蓋をした。胸に抱いた感情も、想いも、先を見据える眼差しも、なにもかもを自分から零れ落ちないように、しっかりと蓋をした。

 この日を経験していたからこそ、俺にはわかる。

 茜が拳を強く握っていたこと。その手が微かに震えていたこと。その震えを抑えようと、必死に唇を噛んでいたこと。

 そして、自分を守ることばかりを考えて、そんなことにも気付けなかった俺が居たことを。

「でも……大丈夫。ちょっとまだ頭の中が整理できていないけど、私は匠の決断を応援する……ちゃんと応援できるようにしておくから。だから私のことは気にしないで、決めたことは最後まで頑張ってよね」

 当時の記憶が溶け出してくる。

 俺の口を衝いて出た言い訳は、少しの真実を練り込んだ嘘。俺が島を出ようと決めた本当の理由は他にある。

 昔の俺は思っていた。茜に相談しなかったのは、本当のことを言えば反対されると思ったから。茜の気持ちはわからなかったけれど、その思いが真実を濁らせ、俺に嘘をつかせたのだと。

 どうして俺の想いに気付いてくれないんだと非難さえしていた。

 茜と話す。茜に相談する。二人の意見をぶつけ合う――そんな簡単なことが、この時の俺には一番難しいことだった。

 彼女の前では男らしくありたい。相談することはダサいことで、恥ずかしいことだ。高校生の俺は、そう考えていた。

 だからプライドと呼ぶにはあまりにも軽く薄い感情でさえ破れずにいた。何より自分が中心だったから、自分勝手も自分本位も厭わなかった。

 ぶつからなければわかりあえないことだってある。結局のところ、俺は必要な争いから逃げていたのだ。

 それなのに、自分の気持ちに気付いてほしいと甘えていた。茜なら気付いてくれるはずなのだと思い上がっていた。

 そんな自分を、俺は見ないようにしていた。

「帰ろっか」

 茜の言葉に促されるように歩き出す。愛を求める虫の音が、身体に掛かる重力に変わる。ベンチに座る男性が、こちらを見ている気がする。踏み出す一歩が重くなっていく。

 大きく息を吐きながら考える。


 茜はどうして、この日のことを本に残したのだろう?


 本に残しておくのは、「そのときの想いや気持ちを残しておきたいから」だったはずだ。俺はこの日、茜を失望させただけ。苦い思い出の一ページ。どちらかと言えば、忘れ去りたい記憶なのではないか。


『茜の幸せ』とは、一体なにを指しているのだろう。


 様々な思いが雪崩のように押し寄せる。

「ねえ、匠」

 俺は茜の声が聞こえるまで、茜が歩みを止めていたことにも気付かなかった。

 オレンジ色の夕焼けが、茜の背後で輝いている。逆光で、茜の姿は黒く染まっている。

 影のような茜は言った。


「どうして〝ここ〟を残したと思う?」


 頭の中を覗かれたのかもしれない。少しずつ目が光に慣れてきて、茜が微笑んでいるのが見えてくる。

 その顔は、俺が探している顔だった。

「茜……なんだな?」

 返事をすることも、頷くこともしない。風に遊ぶ髪を手で抑え、茜は静かに俺を見つめている。