そう上手くはいかないとわかっていた。会場の二階席。俺は茜の傍で、今よりも随分と髪の短い俺を見つめている。若かりし日の俺は青春の汗を流している。

 過去は変えられないとはいえ、まさか自分自身を客観的に見ることになるとは思っても見なかった。もしかすると、茜がこの日のことを鮮明に本の中に書き記していたのかもしれない。

 そうでなければ、この胸に訴えかける緊張感の説明がつかないと思った。

 茜は同じ高校の友人に挟まれる形で座っていて、周りには俺のチームメイトがコート上でアップを行う選手に向かって声援を送っている。

「相手の高校、全員身長高くない?」
「ね。うちの高校よりも全体的に十センチ近くは大きいんじゃない? あっちのコートの方が狭く感じちゃうもん」
「でも茜の彼氏、やっぱり上手だよね!」
「うん、なんか一人だけいい意味で浮いてる」

「そりゃそうっすよ。匠先輩が居るんですから、絶対にうちが勝ちます!」

 そんな会話が近くで繰り広げられているというのに、茜が言葉を発することはない。一応、一つ一つの話に目だけは笑って応えていたが、会話が途切れるとすぐ、緊張の面持ちでコートの中へと視線を戻していた。その真剣な眼差しに、俺は茜の想いを見た気がした。

 結果を知っている俺でさえも緊張させるその顔は、試合に興味がない人間が作れるものでは決してない。

 試合開始の時間が刻一刻と迫っていく。先程までアップをしていた両チームの選手たちは自身のベンチに戻り、監督を中心に座っている。その中に、あの日の俺も居た。

 監督が力強く手を叩くと選手は立ち上がり、一人、また一人と練習着を脱いでユニフォーム姿へと変わっていく。今度はユニフォーム姿の五人を中心に、チーム全員で円陣を組む。

「がんばれー!」
「匠せんぱーい! ファイトでーす!」

 静かなコートとは対照的に、一気に観客席が騒がしくなっていく。両校ともに既存の曲にアレンジを加えた応援歌を叩き潰れたメガホンを使って大声で歌い、会場の興奮を煽る。試合開始のカウントダウンとともに、会場全体の熱気の上昇を肌で感じる。

 ビー、と試合時間を知らせるブザーの音が会場に響き渡ると、円陣を組んでいた選手は円陣の中心に向かって力強い一歩を踏み出し、叫び声にも似た掛け声とともに心を一つに天を仰ぐ。

 会場のボルテージは、最高潮に達していた。

 気合い十分で引き締まった表情をした選手たちが、センターラインを挟んで向かい合う。オフィシャルと三名の審判団が最終確認を行う僅かな間、今までの熱気は緊張へと変わり、胸の鼓動を助長した。

 俺は、茜が祈るように両手を顔の前で握り、震えながらコートに視線を送っていたことを知った。

 主審が片手を挙げ、口に咥えた笛を吹く。激しい熱気が息を吹き返す。

 コートを見つめる視線が一つ増えた試合は、高く上がったボールとともに幕を開けた。


 試合は一部の予想に反して白熱した展開となる。思えばこの試合を見返すのは初めてだった。

 手にはじっとりと汗が滲んでいる。

「きゃー! いけー!」
「おぉー!」
「ナイッシュー!」
「あぁ……戻れ! ディフェンス! ディフェンス一本!」

 歓声や拍手、落胆やため息が目まぐるしく行き交っていく。空調管理され冷えた空気も、肺に取り込むと瞬時に熱を帯びて吐き出された。茜も会場の熱気にも負けない大きな声で声援を送っている。

 前半は応援席から見て奥側のゴールに攻めていくため、この席からは相手の攻撃がよく見えた。声援は届いていたと思う。

 身長差はもちろん、身体の幅も全く異なる相手に対し、俺たちは必死にゴールを守っていた。床を叩く強いドリブル、激しくぶつかり合う身体の音が二階席にまで聞こえてくる。シュートが外れ、相手選手に何度リバウンドを取られても、それでも何度も何度も辛抱強く足を動かし、声を出し、チーム一丸で一つのボールを追っている。

 気付けば俺も、届かない声をコートに向かって荒げていた。

 競り合ったボールがコートのラインを割る瀬戸際、そのボールを追っていた俺が渾身のダイブで身体ごとコートの外まで身を投げ出す。惜しくも相手ボールとなってしまったが、会場からは大きな拍手が送られた。

 そんな姿に圧倒されたのか、茜は零れ落ちる涙を堪えきれずにいた。

「ちょっと茜、なに泣いてるの! まだ試合は序盤だよ!」
「でも、でも……」
「ほら! 泣く暇があったら応援して!」

 友人に促され、茜はなんとか視線をコートへと視線を戻す。上手く声を作れなかったのか、握った両手を顎に当て、泣きながら戦況を見つめるだけだった。

 理由はわからないけれど、俺は茜の後ろに立ち、触れられない手を肩に置いた。

 試合はその後も一進一退のまま過ぎていく。


 四十三対三十八。


 強豪相手に、五点のビハインドで前半戦を終えた。

「すごい! あのチーム相手に五点差だよ? いける、絶対いけるよ、この試合!」
「うんうん、本当よく守ってる! 茜、やっぱりあんたの彼氏さんはすごいよ! 相手にまったく負けてないもん!」

 首に巻いたタオルで汗と涙を拭いながら、茜は何度も頷いた。もう化粧崩れなど気にしていないようだった。

 ハーフタイムの間、同じコートでは次の試合を待つチームのアップが行われている。しかし顔を上げた茜はその様子を見ることも、友人たちと話すこともせず、俺の居るベンチを見つめていた。

 ベンチでは試合前同様、監督が作戦盤を手に身振り手振りを交えながら、選手に指示を伝えている。俺もコートを指さしながら、チームメイトになにやら話をしていた。

 さすがに、その会話の内容は覚えていなかった。

 ハーフタイム終了の一分前を知らせるブザーが鳴ると、選手は一斉に立ち上がり、再び円陣を組んだ。静かなベンチをよそに、応援席、そして会場の熱はまたふつふつと煮えたぎっているようだった。

「いける! 絶対にいける! ぜんぶ出し切れー!」

 応援席から声援を送る部員が持ったメガホンは、強く叩きすぎたせいで試合前よりも変形している。それでも構わず、部員たちははち切れんばかりの声を出して前の手すりやメガホン同士を叩き続ける。なんだかそれが、すごく嬉しかった。

 ファイトー、と叫ぶ声と重なるように、試合再開を知らせるブザーが鳴った。円陣の中から轟く大きな声とともに、選手たちは腕を上げ、想いを一つにコートへと向かう。ベンチに戻るメンバーたちはまるでなにかの祭りのように、応援席を煽りに煽った。それに応えるように応援席から選手を鼓舞する一際大きな声援が飛ぶと、会場が一体になったような気がした。

 その横で、茜は鞄に付けた「必勝」のお守りを取り外し、願いを込めるように手に包んで握りしめた。

 後半戦は重たい空気を纏いながら始まった。前半とは攻めるコートが逆となり、応援席に向かって攻めていくのだが、互いになかなかシュートが入らず息の詰まる我慢の時間が続いていく。あれほどまでに熱を帯びていた声援も、息を呑むように静かに戦況を見守っていた。


 試合が動いたのは、俺のシュートからだった。


 俺は味方のスクリーンを上手く使い、鋭くペイントエリアの中へと侵入した。俺を止めようと、相手のヘルプディフェンダーがカバーに入る。ディフェンスと対峙する間際、俺は体のスピードを殺した。目線で味方へのパスを示唆する動きを見せると、ディフェンスは視線の方向へと顔を向ける。その瞬間、俺は再びスピードを上げて視線とは逆方向へと自ら切れ込んだ。反応の遅れたディフェンスがシュートを防ごうと慌てて飛び上がったが、俺はディフェンスと接触しながらもシュートをゴールにねじ込んだ。

 当然、俺は俺のプレーに歓声を上げた。


「「きゃー!」」


 ベンチも応援席も総立ちで喜びを表現し、茜も友人とハイタッチを繰り返す。会場が余韻に酔いしれる中、俺はフリースローも確実に決めて、点差を二点にまで縮めた。茜は控えめなガッツポーズをしていた。

 このプレーを皮切りに重たい空気は一転し、両チーム、シュートの外れない時間が訪れる。こちらが決めれば相手が決め返し、相手が決めればこちらも負けじと決めていく。追いつくことがあっても逆転には至らない。

 そんな嫌な時間はしばらく続いたが、体格で優る相手チームの圧力が徐々に試合の空気を飲み込み始めた。点差は九点にまで広がっていた。

 たまらず監督がタイムアウトを要求したが、残り時間はすでに三分を切っていた。

「まだまだ、ここから!」
「全然追いつけますよ! 大丈夫! 大丈夫!」

 ガラガラにかすれた声が、応援席からベンチに向かって飛んでいく。茜は終始、「大丈夫かな? 大丈夫だよね?」と友人の手を握りながらベンチと友人の顔を交互に見ていた。

「こっちには彼氏さんがいるんだよ? 絶対に、大丈夫!」

 友人からの慰めじみたフォローに唇を噛みながら頷くと、心配に満ちた視線をベンチへと送った。

 タイムアウトが終わり、選手たちはコートへと戻ってくる。コートに立つ俺は右手に着けた白いリストバンドを強く握ると、不意に応援席を見上げた。

 俺の視線に気付いた茜は姿勢が伸びるほどに大きく息を吸い込み、叫んだ。


「たくみ! 頑張れ! 負けるなー!!」


 たぶん、異様なまでの会場の熱気にかき消されていたと思う。俺はその声が聞こえていたのかどうか、覚えていなかった。

 でも、応援席に向かって微笑む俺は力強く頷いていた。


 ビー――……


 試合終了のブザーが響く。敵味方も関係ない。会場は今までで一番の、大きな拍手に包まれた。

 選手たちが再びセンターラインを挟んで向かい合う。

「スコア通り、礼!」
「「ありがとうございました!」」

 主審の号令を合図に深くお辞儀をすると、選手は選手同士で抱擁しながら言葉を交わし、互いの監督は握手をしながらなにかを話していた。


 七十六対七十五。


 会場の熱気は俺の目頭へと移り、二度目の青春は幕を閉じた。応援席が悲しみに暮れる中、茜だけは涙を見せることなく、拍手をしながら優しい視線をコートに向かって送っている。

 あのお守りが、鞄の隙間から俺を見ていた。