「そうなの。ただね、その神さまにも問題があるって話よ」

「神さまに問題ですか?」

 俺は食い気味に言った。声のボリュームも自然と上がる。男の姿を思い返すと、落ち着いて聞いてなどいられなかった。

 おばさんは、そう、と言って話を続ける。

「まずこの神さまのありがたいところはね、預けた幸せを返してもらったとき、その幸せを〝本当の幸せとして〟胸に刻んでくれるところにあるの。ほら、人間って誰しもが忘れていく生き物じゃない? でも一度思念の神さまに預けた幸せは月日とともに色褪せたり、忘れたりすることなくまた味わうことができる。私たちおばさんからしてみたら嬉しい限りの話ね」


「そのときは忘れるわけなんてない、って思っていても時が経てば忘れちゃう。人間ってほんと、不思議だと思わない?」


 別のおばさんも自虐するように笑う。でも今は、その笑顔に応えることはしなかった。

「それで、問題っていうのは?」

 俺は続きを急かした。おばさんは顔色一つ変えなかったが、俺はたぶん、物騒な顔をしている。

「大きくは二つね。一つは、その神さまが決まった場所に居るわけではないこと。ほら、神さまとかって大体こういった神社とか祠とか? そういうところに住まれているじゃない? でも思念の神さまはね、そこに別の神さまが祀られていようがお構いなしに、気になったところにふらりと現れるのよ。神さまが不法侵入するなんて信じられないでしょ? それでいて、またすぐどこかへと消えてしまう。だから会いたいと思っても簡単には会えないらしいのよ」

「神さまなのに罪を犯しちゃってるんですか? 本当に、神さまですか?」

 そもそも神さまに法律とかって関係ないんですかね、とただの迷信だと高を括ってか、茜はおばさんたちにも負けない無邪気な笑顔をしている。

「二つ目は?」

 血の気が引いていくような感覚に陥りながら口にした俺はたぶん、さっきよりももっと物騒な顔をしているはずだ。

 まるで顔全体で話すかのようなおばさん軍団の演技がかった表情からは、話の信憑性が見えてこない。それでも、この話だけは最後まで聞かなければいけない。そんな気がした。

 不安を煽るように深い皺を眉間に刻み、「本当かどうかは、わからないけどね」とおばさんは低い声を作って話し出す。


「預けた幸せの全てが、必ず返ってくるってわけでもないらしいのよ」


 怪談話か、都市伝説の真似事だろうと思った。おばさんは目を細めながら顔の横に手を運び、人差し指を立てている。「信じるかどうかはあなた次第」なんて言葉は聞きたくなかった。

「そうなったらもう、いよいよ神さまじゃないかもですね」
「ほんとそうよね」

 話の波長が合うのか、茜はすっかり演技派のおばさんたちと意気投合し、一緒になって笑っている。俺だって、あの光景を目にしていなければ笑っていた。それくらいの話を、今はしている。どちらかと言えば俺だって一緒に笑っていたかった。でも、


「ということは、返ってこない場合もあるってことですよね?」


 そう真剣に聞かずにはいられなかった。

「どうしたの? こんな話を信じるなんて匠らしくないじゃない」

 そんな茜の声は右から左へと抜けていく。おばさんたちに感化されたのか、その顔は大袈裟に驚きの表情を浮かべていた。今の俺にその顔は真似できなかったけれど、代わりに、おばさんの声には耳を澄ませた。

「ええ、そういうことになるわ。それにね、私が私のおばあちゃんから聞いた話だとね、その人の預けた幸せの大元にある〝想い〟がわからないと、そのまま幸せにまつわる記憶や感情とともに自分の存在そのものがどこかに消えてしまうらしいの。どうやらそれが、『思念の神さまと呼ばれる所以』らしいわ」

 理由はわからないが、この話がすっと胸の内に落ちてきた気がして、なんの反応もできなかった。本当の話だと思った。

 深みのあるおばさんの声が頭の中を駆け回る。その声が臨場感を高めるために作られたものだと気付く余裕も、この一瞬には持ち合わせていなかった。

 だけど「茜を見つけるだけではこの本からは出られない」ということだけは、なんとなく理解していた。

「試練があるからこそ、本物の幸せを掴めるってことでもあるわよね! 若さにはロマンチックが付き物だもの」

 どうせなら、ここまでは台詞染みていてほしかった。日常会話のような温度では、急に身近に感じてしまう。


「本物の幸せか……。ねえ、匠。もし私が本当にその思念の神さまに出会ったらさ、試練なんて、必ず乗り越えてよね?」


「まあ素敵。一度で良いから言ってみたい台詞だわ」

 おばさんたちは手を叩き、茜の言葉に賛同の意を示す。まさに今、その試練とやらの最中なんだよと、俺は心の声を大にした。

「とは言ったものの、大元にある想いとやらを急に見つけろと言われても、結構ハードルは高いような気もしますね」

 茜は甘酒を息で冷ましながら、呟くように言う。

「どうなのかしらね。ただ、思念の神さまは〝想いを魅せる〟とも言うわ。もしかしたらその答えに近づくためのヒントをくださるのかもしれないわね」

 取るに足らない言葉だったかもしれない。だけど俺は、頭の中にピコンとスマホの通知音が鳴るくらい納得していた。

 この本の世界がやけに詳細に再現されていると感じたのは、記憶と感情を預けたからだけではない。あの男に、思念の神さまに魅せられていたのだ。


 茜の想いの、ほんの一部を。


 それを裏付ける証拠は、今この瞬間にも手にしていた。思念の神さまの名前を聞いた時に抱いた、違和感の正体でも合った。

 俺はこの会話の記憶を知らない。忘れたのではなく、知らない。

 すなわちこれこそが「想いを魅せる」ことであり、「答えに近づくためのヒント」なのだと思う。思念の神さまによってもたらされた、あるいは創られた想像の中の現実を俺にも茜にも刻まれていない記憶と合わせていくことで〝一つの想い〟に辿り着かせようとしているのかもしれない。

 想いを見せるといえば聞こえは良いが、要するに「ヒントを与えるから試練を乗り越えてみせろ」という、思念の神さまからの挑戦状なのかもしれなかった。


「さっきの話、ちょっと現実味があって面白くなかった?」

 甘酒を飲み終え、おみくじを引きに社務所へと向かいながら茜は言った。面白いと捉えられるだけで幸せだよなと切に思う。

「そうかな? 幸せを奪うなんて、俺には怖い話に聞こえたけど」
「だーかーらー」茜が眉根を寄せる。「匠らしくないって。なんであんな話を真に受けるのよ? 生まれも育ちもこの島の私たちが今まで聞いたこともなかった話よ? おとぎ話か迷信に決まってるじゃない」
「あの人たちも限られた地域での話って言ってたし。本当のことかもしれないし?」

 いつからそんなに素直になったんだかー、と口にする茜に、「近い将来、嘘みたいな現実になるんだよ」と言ってやりたかった。でもそんなことを言ったところで結末は目に見えている。

「確かに、馬鹿馬鹿しいよな」と吐き捨てて、俺はこの話を纏める事を選んだ。

 社務所にはお守りやお神札、絵馬や縁起物など様々な物が置かれていた。行き交う人はそれぞれが迷いながらも今の自分に合った「人並外れた力を宿すとされるもの」に手を伸ばしている。

 一ヶ所に集められた神のご加護の宿るもの全てを目にすると、改めて「神頼み」とはとても身近で、ごく自然に行っていたことなのだと気付く。だからこそ思念の神さまも人々から崇められるような、神聖な存在であってほしいと願いながら、俺はお賽銭入れの付いたおみくじ箱にお金を入れた。

「なんだか今年は悪い結果になりそうな気がする。もう少しで、匠も島を出て行っちゃうし」
「引く前からそんなこと言うなって。そう思ってると本当にそういう結果になっちゃうぞ?」

 わかってるけどさ、とぼやきながら、茜は手を入れたおみくじ箱の中からおみくじを取り出す。茜が中身を開くのと同時に、俺も手にしたおみくじを開いた。

「俺の運勢は……小吉か、なんとも言えないな。見た目も良いとは言えないし」
「凶じゃなかっただけ良かったと思わなきゃ。私はねー……うわ、末吉じゃん。匠よりも悪いじゃん」

 下唇を突き出し、茜は明らかに不満な顔をした。

「凶じゃなかっただけ良かったと思うんだろ? それにほら、『吉』って書かれてるんだし、それなりに良いってことでしょ。あくまで占いなんだから、そんなに気にするなよ」
「単純だなあ。占いって大切なの。あー、匠より良いのが出るまで引こうかな」

「結局勝負ごとにしてるのは茜じゃん」と言うと、「冗談に決まってるじゃん。ほんと、単純だなあ」と茜は笑った。

 その表情の豊かさは、甘酒をくれたおばさんたちにも負けない演技力だと思った。

「ねえ……匠?」

 おみくじの中身を確認し、「おみくじ掛け」と書かれた場所にある左右の竹に張られた糸におみくじを結んでいると、茜が少し真面目な口調で言う。

「どうした?」

 俺は前を見たままに返事をする。

「……ううん、なんでもない」

 先程までの演技力はどこにもない。茜の見せる笑顔は作り物だった。


「来年も……一緒に来ようね」


 おばさんたちの演技を勉強しておけば良かった。「そうだな」と言った俺の笑顔も作り物だと、茜にバレた気がした。