優しさを忘れた目覚ましの音が冷え込んだ部屋中に鳴り響く。
昨晩の暖房によって温められた空気はどこへ行ってしまったのだろう。
俺は寝返りを打つように音のする方へと腕を伸ばしたが、動いたことで生じた身体と布団の隙間に流れ込む冷気に負け、また腕を布団の中へと引っ込める。それでも指示通りに演奏を続ける目覚ましは使命を全うするため鼓膜に刺激を与え、夢と現実の狭間で彷徨っている俺の魂そのものを内側からノックし続けた。
――もしまた寝坊したなんて言ったら、本当に承知しないからね。
主張を止めない目覚ましに、茜の言葉が相乗りする。激しい身震いとともに眠りから覚めると、俺は慌てて三度掛けた目覚ましを全て解除した。頭は寝起きとは思えないくらいに冴えている。
一番の目覚ましはこれだなと、呼吸を整えながら思った。
本の中で日を跨いだのは初めてだった。もしかすると、茜は纏めて本に書いたのかもしれない。
二度寝をしないように布団を出て、手早く上着を羽織る。
時刻は五時半を少し過ぎている。
この島の初日の出は毎年午前七時前後なのだが、昨晩、眠りにつく前に確認した情報によれば、今年の予想は六時五十分頃らしい。茜は六時二十分を目安に家に行くと言っていたので、時間にはまだ余裕はある。それでも昨日の会話を思うと、早めに準備を済ませるに越したことはない。
俺は準備を急いだ。
結果として、準備は六時を五分前に控えて終了した。こんなところまで二年前と同じ道を辿ったと思うと、ちょっとだけ情けなかった。
出発前に外の気温を確かめようと窓を開ける。窓からは開けた幅と比例しない量の冷気が一気に室内へと流れ込んだ。すぐに窓は閉めたが、僅かな時間で部屋だけでなく、外に出る気持ちまでも冷え込んでしまった気がする。
気持ちだけでも高めようと、暖房の設定温度を上げた。ボタン一つで簡単に空気を変えてしまうエアコンに、少しだけ嫉妬する。
再びスマホが鳴ったのは、体内にも熱が蓄えられてきた頃だった。
通話状態を保ちながらカーテンを開ける。窓の向こうに、口元までマフラーを巻き、身体いっぱいに手を振る茜の姿があった。
俺はそれに応えるよう手を上げたが、窓を開けることだけはしなかった。
口を飛び出る白い息は、体温を乗せているようだ。吐き出すたび、身体はひどく震えた。熱を蓄えるには時間が掛るのに、体感ではその半分にも満たない時間で失われていく。こんなにも非効率的なものがあって良いものなのかと、わざとらしく可視化された自分の息を睨んだ。
茜はご機嫌だった。
「おはよ! ちゃんと起きてたんだ! 偉いじゃん」
「おはよう。そりゃ新年早々に説教だけは避けたかったからね」
「なにそれ。ほら、行くよ」
茜が俺の手を強く引くと、二人の距離が縮んだ。冷えた手のひらが、あっという間に熱を帯びていくのがわかる。
なんだこれ、すごく効率的じゃないか。
本の中でも茜の温もりを肌で感じられる。早起きは三文の徳とはよく言ったものだが、これだけで、一文以上の徳は積んでいると思った。
人けのない坂道を茜と並んで上っていく。袖を引っ張っていた茜の小さな手は、いつの間にか俺の手の中に収まっている。それがどこか、愛おしかった。
「ねね、初日の出を見終わったら神社に行かない? 初詣! 私、おみくじ引きたい」
「神社」という言葉が耳に残る。この辺にある神社といえば、茜とあの男が出会った場所のことだ。これは偶然か必然か。
俺には後者にしか思えなかった。
「せっかく早起きしたことだし行こうか。どっちの運勢が良いか、勝負しよう」
だから自然の流れを装い、神社に行こうと思った。
「どうしてそうなんでもかんでも、勝負にしたがるのかなあ? 神さまからのお告げだよ? 神聖なものだよ? そんなことしたらロマンチックの欠片もないじゃん」
また女心というやつか、と思っていると、「おみくじがロマンチック? あれって業者の人が印刷して、中に入れてるんじゃないの?」という俺の声が聞こえた。これもまた、早起きが運んだ徳かもしれない。
本の中には「俺の言葉」も残っている。その事実を教えてくれていた。
そこに規則性はないのだろうが、茜が書き記した、印象に残った言葉なのだと思う。このことを裏付けるように、「もう! そうじゃなくて!」と頬を膨らます茜の顔には見覚えがあった。
「……とにかく、神社にも付き合ってよね?」
消えたはずの記憶が蘇る。茜の記憶に呼び覚まされていく。まるで二つで一つかのように合わさっていく。
ここに、俺が本の中に来た本質があるような気がしてならなかった。
「そういえばさ。今から行く場所のこと覚えてる? あそこに初めて行ったときのこと」
「たしか去年の夏祭りのとき……だったっけ?」
「うそ? 覚えてるの? 匠にしては珍しいね」
正直に言うと昨日、初日の出の話を聞いた時に思い出したのだが、そのことは伏せた。代わりに「ダチョウじゃなくて、人類なもんで」と微笑みかけてみる。しかし茜は間髪入れずに「まだ昨日のことを根に持ってるの? 女々しいねえ」と、またも簡単にあしらってみせた。
舗装のされていない山道に入ったところだった。
残った記憶と合わせながら山道を歩いて行く。茜は昔のことを思い出しているのか、嬉しそうな表情を浮かべている。「あのときはまだ付き合ったばっかりだったし、まさか匠がこの島を出て行くなんて思いもしなかったな」
そう言った時だけ、少しばかり寂しそうだった。
「今思えば、そのときからなんだよね。私が〝本を書き出したのって〟」
予想もしていなかった言葉に、俺は足を止めた。まさか茜の方から「本」のことを口にするとは思わなかった。
「え……、あの本の最初のページって、夏祭りの日なの?」
思わず聞いていた。
「ちょっと……、急に大きな声出さないでよ。びっくりするじゃない」茜も足を止める。
「ごめん。それで、あの夏祭りが最初なんだな?」
「そこ、そんなに気になるところ?」
俺は今、飢えた獣のような顔をしているかもしれない。だけどそんなことに構っている余裕もなく、早く答えが欲しかった。始まりがわかれば、きっとなにかが見つかる。そんな気持ちで頭は埋め尽くされていた。
「確かに書き始めたのはあの頃ではあるけど、だからと言ってその日ってわけじゃ――」
強い風が木々の間を擦り抜けて、冷ややかな音を伴いながら二人の間を駆け抜ける。その風音に遮られ、茜の言葉がよく聞こえない。
まるで誰かが意図的に、風を吹かせたようだった。
「え、ごめん。なんて?」
「あ! 見えた!」
俺の質問に答えることもなく、茜は再び足を動かした。無邪気に、走り出した。
本当は叫んで止めたい気持ちもあったけれど、一瞬見えた茜の笑顔が、それをさせてはくれなかった。
「うわー……。やっぱりキレイだね……」
山道を抜けた丘の上からは、水平線の向こうで赤にも似た強いオレンジ色の空が覗いている。あと数分で、この島にも日が昇る。
聞きそびれた言葉は、喉元まで出かかっている。気になって仕方がない。
でも今度は、顔いっぱいに感激の表情を浮かべる茜が、俺の口を閉じさせた。だから意味の乗らない息だけを吐き出して、茜の隣で日の出を待つことにした。
海は少しずつ陽の色の真似をして、強い日差しが瞳の奥へと到着する。
「やっぱり、ここから見える景色が一番キレイなんだろうね」
息を漏らすように呟いて、茜は俺の肩にそっと頭を預けてくる。
日差しがこの世界を染めるまで、俺は静かに陽の温もりに溺れていた。
視界の全てが鮮やかなオレンジ色に包まれていく。あまりの眩しさに、二つの目は閉じることを余儀なくされる。
水面に反射する光は脳裏に焼き付いていたけれど、開いた瞳が捉えた景色は、またしてもあの神社になっていた。
昨晩の暖房によって温められた空気はどこへ行ってしまったのだろう。
俺は寝返りを打つように音のする方へと腕を伸ばしたが、動いたことで生じた身体と布団の隙間に流れ込む冷気に負け、また腕を布団の中へと引っ込める。それでも指示通りに演奏を続ける目覚ましは使命を全うするため鼓膜に刺激を与え、夢と現実の狭間で彷徨っている俺の魂そのものを内側からノックし続けた。
――もしまた寝坊したなんて言ったら、本当に承知しないからね。
主張を止めない目覚ましに、茜の言葉が相乗りする。激しい身震いとともに眠りから覚めると、俺は慌てて三度掛けた目覚ましを全て解除した。頭は寝起きとは思えないくらいに冴えている。
一番の目覚ましはこれだなと、呼吸を整えながら思った。
本の中で日を跨いだのは初めてだった。もしかすると、茜は纏めて本に書いたのかもしれない。
二度寝をしないように布団を出て、手早く上着を羽織る。
時刻は五時半を少し過ぎている。
この島の初日の出は毎年午前七時前後なのだが、昨晩、眠りにつく前に確認した情報によれば、今年の予想は六時五十分頃らしい。茜は六時二十分を目安に家に行くと言っていたので、時間にはまだ余裕はある。それでも昨日の会話を思うと、早めに準備を済ませるに越したことはない。
俺は準備を急いだ。
結果として、準備は六時を五分前に控えて終了した。こんなところまで二年前と同じ道を辿ったと思うと、ちょっとだけ情けなかった。
出発前に外の気温を確かめようと窓を開ける。窓からは開けた幅と比例しない量の冷気が一気に室内へと流れ込んだ。すぐに窓は閉めたが、僅かな時間で部屋だけでなく、外に出る気持ちまでも冷え込んでしまった気がする。
気持ちだけでも高めようと、暖房の設定温度を上げた。ボタン一つで簡単に空気を変えてしまうエアコンに、少しだけ嫉妬する。
再びスマホが鳴ったのは、体内にも熱が蓄えられてきた頃だった。
通話状態を保ちながらカーテンを開ける。窓の向こうに、口元までマフラーを巻き、身体いっぱいに手を振る茜の姿があった。
俺はそれに応えるよう手を上げたが、窓を開けることだけはしなかった。
口を飛び出る白い息は、体温を乗せているようだ。吐き出すたび、身体はひどく震えた。熱を蓄えるには時間が掛るのに、体感ではその半分にも満たない時間で失われていく。こんなにも非効率的なものがあって良いものなのかと、わざとらしく可視化された自分の息を睨んだ。
茜はご機嫌だった。
「おはよ! ちゃんと起きてたんだ! 偉いじゃん」
「おはよう。そりゃ新年早々に説教だけは避けたかったからね」
「なにそれ。ほら、行くよ」
茜が俺の手を強く引くと、二人の距離が縮んだ。冷えた手のひらが、あっという間に熱を帯びていくのがわかる。
なんだこれ、すごく効率的じゃないか。
本の中でも茜の温もりを肌で感じられる。早起きは三文の徳とはよく言ったものだが、これだけで、一文以上の徳は積んでいると思った。
人けのない坂道を茜と並んで上っていく。袖を引っ張っていた茜の小さな手は、いつの間にか俺の手の中に収まっている。それがどこか、愛おしかった。
「ねね、初日の出を見終わったら神社に行かない? 初詣! 私、おみくじ引きたい」
「神社」という言葉が耳に残る。この辺にある神社といえば、茜とあの男が出会った場所のことだ。これは偶然か必然か。
俺には後者にしか思えなかった。
「せっかく早起きしたことだし行こうか。どっちの運勢が良いか、勝負しよう」
だから自然の流れを装い、神社に行こうと思った。
「どうしてそうなんでもかんでも、勝負にしたがるのかなあ? 神さまからのお告げだよ? 神聖なものだよ? そんなことしたらロマンチックの欠片もないじゃん」
また女心というやつか、と思っていると、「おみくじがロマンチック? あれって業者の人が印刷して、中に入れてるんじゃないの?」という俺の声が聞こえた。これもまた、早起きが運んだ徳かもしれない。
本の中には「俺の言葉」も残っている。その事実を教えてくれていた。
そこに規則性はないのだろうが、茜が書き記した、印象に残った言葉なのだと思う。このことを裏付けるように、「もう! そうじゃなくて!」と頬を膨らます茜の顔には見覚えがあった。
「……とにかく、神社にも付き合ってよね?」
消えたはずの記憶が蘇る。茜の記憶に呼び覚まされていく。まるで二つで一つかのように合わさっていく。
ここに、俺が本の中に来た本質があるような気がしてならなかった。
「そういえばさ。今から行く場所のこと覚えてる? あそこに初めて行ったときのこと」
「たしか去年の夏祭りのとき……だったっけ?」
「うそ? 覚えてるの? 匠にしては珍しいね」
正直に言うと昨日、初日の出の話を聞いた時に思い出したのだが、そのことは伏せた。代わりに「ダチョウじゃなくて、人類なもんで」と微笑みかけてみる。しかし茜は間髪入れずに「まだ昨日のことを根に持ってるの? 女々しいねえ」と、またも簡単にあしらってみせた。
舗装のされていない山道に入ったところだった。
残った記憶と合わせながら山道を歩いて行く。茜は昔のことを思い出しているのか、嬉しそうな表情を浮かべている。「あのときはまだ付き合ったばっかりだったし、まさか匠がこの島を出て行くなんて思いもしなかったな」
そう言った時だけ、少しばかり寂しそうだった。
「今思えば、そのときからなんだよね。私が〝本を書き出したのって〟」
予想もしていなかった言葉に、俺は足を止めた。まさか茜の方から「本」のことを口にするとは思わなかった。
「え……、あの本の最初のページって、夏祭りの日なの?」
思わず聞いていた。
「ちょっと……、急に大きな声出さないでよ。びっくりするじゃない」茜も足を止める。
「ごめん。それで、あの夏祭りが最初なんだな?」
「そこ、そんなに気になるところ?」
俺は今、飢えた獣のような顔をしているかもしれない。だけどそんなことに構っている余裕もなく、早く答えが欲しかった。始まりがわかれば、きっとなにかが見つかる。そんな気持ちで頭は埋め尽くされていた。
「確かに書き始めたのはあの頃ではあるけど、だからと言ってその日ってわけじゃ――」
強い風が木々の間を擦り抜けて、冷ややかな音を伴いながら二人の間を駆け抜ける。その風音に遮られ、茜の言葉がよく聞こえない。
まるで誰かが意図的に、風を吹かせたようだった。
「え、ごめん。なんて?」
「あ! 見えた!」
俺の質問に答えることもなく、茜は再び足を動かした。無邪気に、走り出した。
本当は叫んで止めたい気持ちもあったけれど、一瞬見えた茜の笑顔が、それをさせてはくれなかった。
「うわー……。やっぱりキレイだね……」
山道を抜けた丘の上からは、水平線の向こうで赤にも似た強いオレンジ色の空が覗いている。あと数分で、この島にも日が昇る。
聞きそびれた言葉は、喉元まで出かかっている。気になって仕方がない。
でも今度は、顔いっぱいに感激の表情を浮かべる茜が、俺の口を閉じさせた。だから意味の乗らない息だけを吐き出して、茜の隣で日の出を待つことにした。
海は少しずつ陽の色の真似をして、強い日差しが瞳の奥へと到着する。
「やっぱり、ここから見える景色が一番キレイなんだろうね」
息を漏らすように呟いて、茜は俺の肩にそっと頭を預けてくる。
日差しがこの世界を染めるまで、俺は静かに陽の温もりに溺れていた。
視界の全てが鮮やかなオレンジ色に包まれていく。あまりの眩しさに、二つの目は閉じることを余儀なくされる。
水面に反射する光は脳裏に焼き付いていたけれど、開いた瞳が捉えた景色は、またしてもあの神社になっていた。



