痛みを伴うほどの静かな時が、音も立てずに流れていく。
俺は茜の歩幅に合わせて、茜の半歩後ろを歩いている。後ろに組んだまま歩く茜の手は見た目以上に遠く、下を見る茜の視線は未来を見ないようにしているかのように映る。
明日、俺はこの島を出る。その事実は変わらないのだから、今はなにを言っても気休めにしかならない。
そう自分に言い聞かせ、茜の寂しさに気付いていながら並んで歩くことすらできない自分を情けなく思った。
「茜、ちょっと聞いてもいい?」
過去の自分も同じように感じていたのか、俺は茜の背中に問い掛けた。
夜風が茜の香りを運んでくる。
「ん、どうしたの?」
取り繕った笑みを浮かべた茜が振り返る。
「俺が島を出ていくこと……さ。やっぱり、反対だった?」
「明日出発だっていうのに、今更なによ? 嫌だって言ったら行くの止めようとでもしてるの?」
揶揄うように茜は言う。でも、それもありかもしれないと俺は思っていた。
茜が本の中へ行ってしまった理由が俺が島を出て行ったことであるのなら、そのこと自体を無かったことにしてしまえば良いのではないか。そうすれば茜の不安を根底から取り除くこともできるし、茜を元の世界に連れて戻れるのではないか。
俺の言葉を待たず、茜は続ける。
「反対とか、そんなこと思ってないよ。匠には匠のやりたいことがあるんだろうし、私はそれを止めたくないし。言っとくけど本心だよ? 遠距離になる不安は当然あるけどさ、それとこれとはまったくの別物の話じゃん」
茜の顔を街灯が照らす。歯並びの良い白い歯が並んでいる。嘘はついていないと思う。
「茜が不安に思うなら、俺は今からだって止める。島に残るよ」
まさに今言ってほしかった言葉を過去の俺は口にする。しかし、
「ほんと、今更なに? 絶対にダメ。それは、ほんとのほんとに反対だから」
茜は鋭い視線を向けて、俺の腕を力一杯掴んだ。細い腕からは想像も出来ないほど強い力だった。
「どうして? 俺が残れば茜と過ごす時間も増えるし、不安になることだってないだろ?」
「本気で言ってるの? 本気で私のために島を出ないって? 馬鹿にしないで。それで一緒に居られるようになったってね、そんなの本当の幸せって言わないじゃない」
「こうでもしないと、茜はまた居なくなるだろうが!」
自分で言って、血の気が引くほど驚いていた。
自分の意思で、自分の気持ちを言葉にしたからだった。
しかしこれで何かが変わると思った。茜が居なくなることを、過去の自分は知らない。間違ってもこの本に存在しない言葉を俺は今、発したのだ。
未来が変わる。そう確信した。でも、
「なにを言ってるの?」
何食わぬ顔で茜は言った。それどころか、違和感だらけの表情だった。
茜が茜じゃなくなった。そう思わずにはいられなかった。
目からは感情が消えていて、表情は作り物のように冷たい。そんな気がした。
「だから、茜が居なくなるっていうのは」
「は? 島を出ることに反対はしないって話でしょ?」
言葉に詰まって、俺は眉根を寄せる茜を見つめた。まるで鏡のように、茜も俺を見つめている。
「前にも言ったかもしれないけどさ」先に口を開いたのは茜だった。
「なんの相談も無しに匠は一人で決めちゃったから、初めて島を出るって聞いたときは正直反対する気持ちしかなかった。私だけ置いていかれるような気がした。でも時間が経つにつれて、匠を縛ってまで一緒に居ても全然嬉しくなんてないなって思うようになった。これは私の我儘なんだなって思った。そう思ってからは匠のやりたいことを応援しようって思えるようになったの。まあ要するに、今は本当にもう反対する気持ちなんて少しも残ってないから安心してほしいってことなんだけど」
その言葉は嬉しい。だけど、俺が今聞きたい言葉はそれじゃない。
「ちょっと待って。聞こえてただろ? 俺が、茜がまた居なくなるって言ったの」
ここが本の中の世界でも、この声は響いていたはずだ。
そんな想いを乗せて俺は言った。一度口にした言葉が消えるなんてありえない。
「えっと……、ごめん。なんて言ったの? 私の話は、聞こえてた?」
どうして突然会話ができなくなったんだ? いや、茜は俺を見ているのだから、会話はできているのか? ただ声が届かないだけか?
様々な想いが浮かんでは、新たな想いに上書きされる。そして、一つの答えへと集約する。
……いや、違う。俺の言葉は消えたわけじゃない。〝最初から存在していない〟ことになったんだ。
ここは茜の本の中。会話ができないわけではなくて、本に書かれた内容から大きく逸れた話ができないだけ。
一つずつ、一歩ずつ。
俺は、茜の本に書かれた内容を進んでいく。記憶に残っているページもあるのかもしれない。でも、中身を飛ばして結末に辿り着くことはない。
茜を見つけるために、俺はこの先、茜の本の中を歩いていくしかないのだ。
「なぁ、茜。茜は俺が島を出てから、なにかやりたいことはあるの?」
ころころと話が変わるなぁ、とぼやきながら、茜は言う。
「うーんとね、実はまだ『これだ』っていうものがなくて。だからと言って匠みたいに島を出たいって気持ちもないから、とりあえずアルバイトの回数を増やして、金銭的に自立できるところまで頑張ってみようかな。そこからゆっくり、なにかを見つけて良ければ良いのかなって。大きな目標がないからこそ、出来るところをコツコツとしていくつもり」
会話が成立した。声が届いた。
小さな仮定は立証された。過去にこの質問をした記憶はないから、今の話は本の内容とはあっていないはずだからだ。
本の中の世界では内容進行に支障がない程度であれば会話を成立させられる、厳格な縛りがあるわけではない、ということだろうか。
考えながら、茜との会話を続けていく。
「あの商店街のパン屋か。じゃあ島に帰って来たときは寄るようにするよ。茜がサボってないか、確認しないと」
「えー、せっかく戻って来てるときくらい休ませてよ。一緒に遊ぼうよ」
しかめっ面で俺を見ながら、茜は笑う。何事もなかったかのように、笑う。
その笑顔に向かって、俺はまた別の質問をした。仮説を立証するためなのに心は痛む。
「そういえばさ。あの本のこと覚えてる? 濃紺色のノートみたいなやつだったと思うんだけど、あれっていつから書いてるんだっけ?」
声よ、届け。会話を、続けさせてくれ――俺は祈るように茜を見据えた。
それなのに茜の瞳からはまた、感情の光が消えてしまった。
「……ごめん、今、なんて言ったの?」
「ううん、なんでもないよ」
笑みを作るために上げた口角が下がりそうになったけれど、俺はもう一度、上げた。口角を上げて、茜の目を見て答えた。
声が届かない代わりにまた一つ、仮説は立証された。胸の奥がざわめいて、俺と茜の距離が可視化された気がしていた。
「一つだけ、お願いしても良い?」
茜は俺に背を向けて歩き出している。今までよりもゆっくりと、それでいて力強い一歩を、踏み出している。
「お願いって?」
進み続ける背中に問う。茜が空を見上げる。
「匠が島を出て行くこと、反対はしていないんだけど」
月明かりが、茜の横顔を照らしている。
「匠が島のことを忘れていっちゃうのは絶対に嫌。だからさ、たまにでいいからさ、島のこと、ちゃんと思い出してよね」
振り返り、茜は今日一番の笑顔で言った。その瞳が輝いて見えたのは、月明りのいたずらかもしれない。
俺が頷くと、茜の視線が寒空の中を彷徨い始める。
静寂が落ちる直前のことだった。
「私のこともね」と続けた茜と目が合った時、ページはまた、捲られた。
俺は茜の歩幅に合わせて、茜の半歩後ろを歩いている。後ろに組んだまま歩く茜の手は見た目以上に遠く、下を見る茜の視線は未来を見ないようにしているかのように映る。
明日、俺はこの島を出る。その事実は変わらないのだから、今はなにを言っても気休めにしかならない。
そう自分に言い聞かせ、茜の寂しさに気付いていながら並んで歩くことすらできない自分を情けなく思った。
「茜、ちょっと聞いてもいい?」
過去の自分も同じように感じていたのか、俺は茜の背中に問い掛けた。
夜風が茜の香りを運んでくる。
「ん、どうしたの?」
取り繕った笑みを浮かべた茜が振り返る。
「俺が島を出ていくこと……さ。やっぱり、反対だった?」
「明日出発だっていうのに、今更なによ? 嫌だって言ったら行くの止めようとでもしてるの?」
揶揄うように茜は言う。でも、それもありかもしれないと俺は思っていた。
茜が本の中へ行ってしまった理由が俺が島を出て行ったことであるのなら、そのこと自体を無かったことにしてしまえば良いのではないか。そうすれば茜の不安を根底から取り除くこともできるし、茜を元の世界に連れて戻れるのではないか。
俺の言葉を待たず、茜は続ける。
「反対とか、そんなこと思ってないよ。匠には匠のやりたいことがあるんだろうし、私はそれを止めたくないし。言っとくけど本心だよ? 遠距離になる不安は当然あるけどさ、それとこれとはまったくの別物の話じゃん」
茜の顔を街灯が照らす。歯並びの良い白い歯が並んでいる。嘘はついていないと思う。
「茜が不安に思うなら、俺は今からだって止める。島に残るよ」
まさに今言ってほしかった言葉を過去の俺は口にする。しかし、
「ほんと、今更なに? 絶対にダメ。それは、ほんとのほんとに反対だから」
茜は鋭い視線を向けて、俺の腕を力一杯掴んだ。細い腕からは想像も出来ないほど強い力だった。
「どうして? 俺が残れば茜と過ごす時間も増えるし、不安になることだってないだろ?」
「本気で言ってるの? 本気で私のために島を出ないって? 馬鹿にしないで。それで一緒に居られるようになったってね、そんなの本当の幸せって言わないじゃない」
「こうでもしないと、茜はまた居なくなるだろうが!」
自分で言って、血の気が引くほど驚いていた。
自分の意思で、自分の気持ちを言葉にしたからだった。
しかしこれで何かが変わると思った。茜が居なくなることを、過去の自分は知らない。間違ってもこの本に存在しない言葉を俺は今、発したのだ。
未来が変わる。そう確信した。でも、
「なにを言ってるの?」
何食わぬ顔で茜は言った。それどころか、違和感だらけの表情だった。
茜が茜じゃなくなった。そう思わずにはいられなかった。
目からは感情が消えていて、表情は作り物のように冷たい。そんな気がした。
「だから、茜が居なくなるっていうのは」
「は? 島を出ることに反対はしないって話でしょ?」
言葉に詰まって、俺は眉根を寄せる茜を見つめた。まるで鏡のように、茜も俺を見つめている。
「前にも言ったかもしれないけどさ」先に口を開いたのは茜だった。
「なんの相談も無しに匠は一人で決めちゃったから、初めて島を出るって聞いたときは正直反対する気持ちしかなかった。私だけ置いていかれるような気がした。でも時間が経つにつれて、匠を縛ってまで一緒に居ても全然嬉しくなんてないなって思うようになった。これは私の我儘なんだなって思った。そう思ってからは匠のやりたいことを応援しようって思えるようになったの。まあ要するに、今は本当にもう反対する気持ちなんて少しも残ってないから安心してほしいってことなんだけど」
その言葉は嬉しい。だけど、俺が今聞きたい言葉はそれじゃない。
「ちょっと待って。聞こえてただろ? 俺が、茜がまた居なくなるって言ったの」
ここが本の中の世界でも、この声は響いていたはずだ。
そんな想いを乗せて俺は言った。一度口にした言葉が消えるなんてありえない。
「えっと……、ごめん。なんて言ったの? 私の話は、聞こえてた?」
どうして突然会話ができなくなったんだ? いや、茜は俺を見ているのだから、会話はできているのか? ただ声が届かないだけか?
様々な想いが浮かんでは、新たな想いに上書きされる。そして、一つの答えへと集約する。
……いや、違う。俺の言葉は消えたわけじゃない。〝最初から存在していない〟ことになったんだ。
ここは茜の本の中。会話ができないわけではなくて、本に書かれた内容から大きく逸れた話ができないだけ。
一つずつ、一歩ずつ。
俺は、茜の本に書かれた内容を進んでいく。記憶に残っているページもあるのかもしれない。でも、中身を飛ばして結末に辿り着くことはない。
茜を見つけるために、俺はこの先、茜の本の中を歩いていくしかないのだ。
「なぁ、茜。茜は俺が島を出てから、なにかやりたいことはあるの?」
ころころと話が変わるなぁ、とぼやきながら、茜は言う。
「うーんとね、実はまだ『これだ』っていうものがなくて。だからと言って匠みたいに島を出たいって気持ちもないから、とりあえずアルバイトの回数を増やして、金銭的に自立できるところまで頑張ってみようかな。そこからゆっくり、なにかを見つけて良ければ良いのかなって。大きな目標がないからこそ、出来るところをコツコツとしていくつもり」
会話が成立した。声が届いた。
小さな仮定は立証された。過去にこの質問をした記憶はないから、今の話は本の内容とはあっていないはずだからだ。
本の中の世界では内容進行に支障がない程度であれば会話を成立させられる、厳格な縛りがあるわけではない、ということだろうか。
考えながら、茜との会話を続けていく。
「あの商店街のパン屋か。じゃあ島に帰って来たときは寄るようにするよ。茜がサボってないか、確認しないと」
「えー、せっかく戻って来てるときくらい休ませてよ。一緒に遊ぼうよ」
しかめっ面で俺を見ながら、茜は笑う。何事もなかったかのように、笑う。
その笑顔に向かって、俺はまた別の質問をした。仮説を立証するためなのに心は痛む。
「そういえばさ。あの本のこと覚えてる? 濃紺色のノートみたいなやつだったと思うんだけど、あれっていつから書いてるんだっけ?」
声よ、届け。会話を、続けさせてくれ――俺は祈るように茜を見据えた。
それなのに茜の瞳からはまた、感情の光が消えてしまった。
「……ごめん、今、なんて言ったの?」
「ううん、なんでもないよ」
笑みを作るために上げた口角が下がりそうになったけれど、俺はもう一度、上げた。口角を上げて、茜の目を見て答えた。
声が届かない代わりにまた一つ、仮説は立証された。胸の奥がざわめいて、俺と茜の距離が可視化された気がしていた。
「一つだけ、お願いしても良い?」
茜は俺に背を向けて歩き出している。今までよりもゆっくりと、それでいて力強い一歩を、踏み出している。
「お願いって?」
進み続ける背中に問う。茜が空を見上げる。
「匠が島を出て行くこと、反対はしていないんだけど」
月明かりが、茜の横顔を照らしている。
「匠が島のことを忘れていっちゃうのは絶対に嫌。だからさ、たまにでいいからさ、島のこと、ちゃんと思い出してよね」
振り返り、茜は今日一番の笑顔で言った。その瞳が輝いて見えたのは、月明りのいたずらかもしれない。
俺が頷くと、茜の視線が寒空の中を彷徨い始める。
静寂が落ちる直前のことだった。
「私のこともね」と続けた茜と目が合った時、ページはまた、捲られた。



