「……うちは、ここなんだけど。どうぞ」
住宅街の一角にある、ごく普通の一軒家が我が家だ。
いつもよりひんやりとする鍵を握り、玄関の鍵穴を回す。扉が開いて、猪熊くんを中に入れた。
「……お邪魔します」
猪熊くんは礼儀正しくそう言って、靴を揃えてから玄関に上がる。おれのすすめた客用スリッパに足を入れる。
興味深そうに内部を見回して、
「水島の家の匂いがする」
「え、臭い!?」
想定していない一言におれは焦った。――消臭スプレーを念入りにかけておいたほうがよかったか!?
猪熊くんが笑う。
「いや、いい匂いだ。ほっとするってこと」
おれは胸を撫で下ろした。
「ならよかった。一応しっかり掃除はしたんだけどね、ごちゃごちゃしたところがあったらごめん」
「それは大丈夫。それと……これ」
猪熊くんはバッグの中から紙包装された箱を出した。包装紙の菓子屋を見て、中身がすぐにわかった。
「あ、栗羊羹?」
「そう。ちょっとチョイスが渋かったかな」
「いやいや、ありがとう! 家族みんな大好きなんだ」
おれがぱっと笑ってみせれば、猪熊くんもほっとした顔になる。
「よかった。あと、これも。うちの親から」
中身を確認させてもらうと、焼き菓子の入った缶だった。バターの良い香りが辺りに広がる。おいしそうだ。
「こっちも美味そう! ありがとう……!」
せっかくのご厚意だからありがたく受け取った。ふと思いつきを口にする。
「そうだ、こっちの栗羊羹、お茶受けにして少し食べよっか」
いいね、と言ってくれた猪熊くんをリビングのソファに案内し、おれはいそいそとキッチンへ向かう。
買い置きの緑茶缶を出しつつ、お湯を沸かし、お菓子を出そうとしていると、猪熊くんが顔を出した。
「オレに手伝えることある?」
「え、いいよ! 猪熊くんはお客様なんだから」
「なら見てていい?」
そう言って、肩越しからのぞきこんでくる。なぜ、と思ったが。
――あ、でもリビングで待っていてもすることないもんな。
それはお客様に失礼だったと思い直す。
おれはお茶を入れるのに集中しようとしたが……近くに猪熊くんの気配を感じて、変にそわそわする。それどころか体温まで上がる気がする。
佐野くんと話していたら軽くハグされた時と同じだ。
「そ、そういえば、前にも言ったけど、今日はタコパにする予定でさ、親が材料を買ってきてくれてるんだ。ほら、料理メモももらってきた」
おれは他のことを話すことで気を紛らわせる作戦に出た。
「へえ、見せて」
おれの思惑通り、猪熊くんも話に乗ってくれた……のだが、おれの持つメモを読もうとして、身をさらに寄せてきたものだから、おれの体がかちこちに固まる。
――気のせい、気のせい。
自分に言い聞かせる。
「……タコパ、よく水島んちでやるの?」
「まあね。焼くのは得意なほう。あとで準備手伝ってくれな」
「おう」
猪熊くんの体がメモから離れてほっとした。
それからふたりでお茶で休憩し、少し学校の課題をやってから、夕食の準備をはじめた。
おれは母から聞いていた食材を取り出し、もらったメモのとおりに準備していく。よく母の手つきを見ていたので、なんとなく手順はわかる。
――難しいところはスマホで調べればなんとかなるかな。
そう思っていたが、メモをじっと見ていた猪熊くんが、「ならタコとネギはオレが切っておくな」と言って手早くまな板の上で切り始めた。手つきがスムーズだ。
変わり種に使うウィンナーやチーズ、ちくわも輪切りになっていく。
おれはたこ焼き用の生地を混ぜながら感心していた。
「猪熊くん、料理するんだ」
「……さすがに水島だけにやらせるわけにはいかないだろ。練習した」
「そうなんだ」
猪熊くんはちらっとおれを見て、言いにくそうにする。
「たぶんすぐにボロが出てくるから……あんま期待しないで」
「わかったわかった。おれも普段全然料理しないからさ、お互いさまだよ。おれがバカやっても笑わないでくれな」
「しないよ」
そんなことを言い合ううちに、タコパの準備が整った。
たこ焼き機をセットし、ふたりでそのテーブルを囲む。
「じゃ、焼いていくぞ」
生地を流し込み、穴にタコや天かす、変わり種具材を入れて、焼いていく。
せっかくのたこ焼きだ。猪熊くんには出来立ての、完璧な焼き具合のたこ焼きを味わってもらいたい。その一心で、絶妙な焼き加減を見極めつつ、生地を返し、あの球体を形作っていく。
ひと通り出来上がると、おれはひとり満足げに「もう良さそうだな」と呟く。用意していた小皿にぽんぽんと猪熊くん用のたこ焼きをよそう。
「どうぞ」
すると、猪熊くんが箸を片手に驚いた顔をしていた。
「……オレ、自分で取るものかと思ってた」
「え……あっ、そうか」
おれはすっかり「我が家のやり方」でやろうとしていたことに気づいた。我が家の常識は他人の非常識だ。各々でよそう家庭もあるはずだ。
「ごめんごめん、姉ちゃんがさ、いつも自分で取ろうとするとたこ焼きの皮が破けちゃうから代わりにいつもおれが取ってて……!」
猪熊くんの顔を見ながら言い訳をしていると、段々恥ずかしくなってきた。叫び出したい、この気持ち。
猪熊くんは唇の端に笑みを浮かべた。
「びっくりしただけ。食べる……なにこれ、うま」
「よかった」
その声に嘘などは微塵もなくて、おれは安堵した。意外にも、我が家の味が受け入れられるのか、変に構えていたらしい。
「オレ、こんなにうまいたこ焼き食べたのはじめてかも」
「大げさだなぁ」
「おおげさじゃないって」
「なら、素直に受け取っておく」
褒められたら悪い気はしない。ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす。それからおれの分もよそって、そのままふたりでたこ焼きをぱくついているうち、思い出したことがあった。
「あ、そうだ。明日と明後日の夜ごはんは自前調達だからさ、明日の帰りにスーパーへ寄ってもいい?」
両親からは食費に、とのことで晩御飯代という名の軍資金がある。
猪熊くんは頷いた。
「オーケー」
「ま、あんまり凝ったものとか作れないし、惣菜でも買うかな〜」
何気なく言ったところ、猪熊くんから思いもよらない申し出があった。
「それなら、さ。明日はオレが作ってもいい? 泊めてもらうわけだからお礼に」
「え、いいの」
「簡単なものでいいなら」
「十分すぎるよ!」
猪熊くんが料理をつくってくれる。これはめちゃくちゃ特別なことではないか。おれは飛び上がらんばかりに喜んでみせた。
猪熊くんはたこ焼きをつつく手をとめ、はは、と笑った。
「水島が期待してくれるなら、がんばろ」
ふたりきりの食卓は、驚くほど楽しくて、時間も忘れてしまいそうだ。
タコパの片付けを終えた後、猪熊くんを自分の部屋に連れていった。
「今日寝るところなんだけど……猪熊くん、ベッドとふとんとどっちがいい?」
ふとんはベッドの横に畳んで置いてあったので、広げながら猪熊くんに聞く。
おれは猪熊くんが選ばないほうで眠ろうと思っていたのだが。
興味深々におれの部屋を見回していた猪熊くんは、おれの問いに虚をつかれた顔になる。
「……水島といっしょがいい」
「え」
「……あ」
しまった、という顔をして口を押さえる猪熊くん。こちらをちらりと見て、恥ずかしそうに訂正した。
「間違えた。……ならふとんのほうで」
――だよね、聞き間違いだ! あーびっくりした!
そんな一幕がありつつも、夜も更けてくると、それぞれお風呂に入り、ベッドとふとんに各々入った。
ピアスを外し、おしゃれなスウェットに着替えた猪熊くんが我が家の客用布団に潜り込むのを確認してからおれは声をかけた。
「なら消すからね。おやすみなさい」
「おやすみ」
傍のリモコンで電気を切る。部屋が真っ暗になる。視界が閉ざされる代わりに、同じ部屋にいる互いの気配が色濃くなった。
おれは思い出して手探りでスマホの画面を見た。
「忘れてた。明日の目覚まし、こっちでつけておくね」
「おう……なぁ、水島」
隣から話しかけられて、おれはベッドの中で向きを変えた。自分のスマホのあかりに照らされた猪熊くんは、一段低いところに横たわってこちらをじっと見上げている。
何かを言いたそうな……でも少し不安げな目。
学校で見る猪熊くんより――無防備で、繊細な感じがした。
「ん?」
「いや……なんでもない」
猪熊くんがおれに背を向けた。スマホの光も消える。
――もう寝るのかな。
おれの方は友達を泊めている状況もあって、アドレナリンが出てしまった。眠れる気がしない。
だがそれでも目を瞑っているうちに睡魔がやってきて……。
「……ん」
夢うつつの中、暗闇で仰向けになる。
口元に熱い息がかかる。
――いのくま、くん……?
『好き……好きだよ。水島』
胸を締め付けられるような、切ない告白――。
からかいや友情からのものだと勘違いする余地なんて、微塵もない。
――本気の声だった。おれ、どうしたらいいんだろ……。
ぼんやりとした意識の中で考えていると――スマホのアラームが鳴った。
体がびくっと反応して、スマホのアラーム音を反射的に消しにいく。
はあ、と息を吐いて、胸のどきどきをやり過ごす。そうするうちに思い出した。
――あ、猪熊くんが昨日から泊まってるんだった。
隣のスペースを見る。……ふとんはきれいに折りたたまれていた。
気づけばつぶやいていた。
「夢だよな……夢」
「水島」
ノックと一緒に猪熊くんが入ってくる。もう制服に着替えていた。耳元のフープピアスが窓辺の朝日を浴びて、きらっと光る。
猪熊くんが、ベッドの上にいるおれを見下ろして、笑んだ。とても親しげに。
「おはよう」
「……おはよう」
朝目覚めてすぐに見る猪熊くんは心臓に悪かった。ひたすらにかっこいいな、と馬鹿みたいなことを思う。
猪熊くんは朝でぼんやりしているおれに小さく笑いながら手を伸ばした。
「寝癖、ついてる」
髪先を少しだけ引っ張られる感覚。
なんの変哲もないおれの髪をくるくると弄び、はなす。
「朝はパンだったよな。一枚焼いておくから、早く着替えて降りてこいな?」
――なんだこれ、妙に甘い気が……。
猪熊くんが、優しい。友達に対する優しさ、みたいな範疇を超えている気がする。
じわじわと顔が熱くなって、おれは猪熊くんが出ていったドアを恨めしげに見つめる。
――これが、あと二泊分、か……。
どうにかなってしまうかもしれない、とおれはもう一度ベッドにひっくり返ったのだった。
『「夢か、ゆめ それでよかった」――「好きだ……好き」 まどろむうちに染み込めばいい
#恋するtanka #一夜目』
住宅街の一角にある、ごく普通の一軒家が我が家だ。
いつもよりひんやりとする鍵を握り、玄関の鍵穴を回す。扉が開いて、猪熊くんを中に入れた。
「……お邪魔します」
猪熊くんは礼儀正しくそう言って、靴を揃えてから玄関に上がる。おれのすすめた客用スリッパに足を入れる。
興味深そうに内部を見回して、
「水島の家の匂いがする」
「え、臭い!?」
想定していない一言におれは焦った。――消臭スプレーを念入りにかけておいたほうがよかったか!?
猪熊くんが笑う。
「いや、いい匂いだ。ほっとするってこと」
おれは胸を撫で下ろした。
「ならよかった。一応しっかり掃除はしたんだけどね、ごちゃごちゃしたところがあったらごめん」
「それは大丈夫。それと……これ」
猪熊くんはバッグの中から紙包装された箱を出した。包装紙の菓子屋を見て、中身がすぐにわかった。
「あ、栗羊羹?」
「そう。ちょっとチョイスが渋かったかな」
「いやいや、ありがとう! 家族みんな大好きなんだ」
おれがぱっと笑ってみせれば、猪熊くんもほっとした顔になる。
「よかった。あと、これも。うちの親から」
中身を確認させてもらうと、焼き菓子の入った缶だった。バターの良い香りが辺りに広がる。おいしそうだ。
「こっちも美味そう! ありがとう……!」
せっかくのご厚意だからありがたく受け取った。ふと思いつきを口にする。
「そうだ、こっちの栗羊羹、お茶受けにして少し食べよっか」
いいね、と言ってくれた猪熊くんをリビングのソファに案内し、おれはいそいそとキッチンへ向かう。
買い置きの緑茶缶を出しつつ、お湯を沸かし、お菓子を出そうとしていると、猪熊くんが顔を出した。
「オレに手伝えることある?」
「え、いいよ! 猪熊くんはお客様なんだから」
「なら見てていい?」
そう言って、肩越しからのぞきこんでくる。なぜ、と思ったが。
――あ、でもリビングで待っていてもすることないもんな。
それはお客様に失礼だったと思い直す。
おれはお茶を入れるのに集中しようとしたが……近くに猪熊くんの気配を感じて、変にそわそわする。それどころか体温まで上がる気がする。
佐野くんと話していたら軽くハグされた時と同じだ。
「そ、そういえば、前にも言ったけど、今日はタコパにする予定でさ、親が材料を買ってきてくれてるんだ。ほら、料理メモももらってきた」
おれは他のことを話すことで気を紛らわせる作戦に出た。
「へえ、見せて」
おれの思惑通り、猪熊くんも話に乗ってくれた……のだが、おれの持つメモを読もうとして、身をさらに寄せてきたものだから、おれの体がかちこちに固まる。
――気のせい、気のせい。
自分に言い聞かせる。
「……タコパ、よく水島んちでやるの?」
「まあね。焼くのは得意なほう。あとで準備手伝ってくれな」
「おう」
猪熊くんの体がメモから離れてほっとした。
それからふたりでお茶で休憩し、少し学校の課題をやってから、夕食の準備をはじめた。
おれは母から聞いていた食材を取り出し、もらったメモのとおりに準備していく。よく母の手つきを見ていたので、なんとなく手順はわかる。
――難しいところはスマホで調べればなんとかなるかな。
そう思っていたが、メモをじっと見ていた猪熊くんが、「ならタコとネギはオレが切っておくな」と言って手早くまな板の上で切り始めた。手つきがスムーズだ。
変わり種に使うウィンナーやチーズ、ちくわも輪切りになっていく。
おれはたこ焼き用の生地を混ぜながら感心していた。
「猪熊くん、料理するんだ」
「……さすがに水島だけにやらせるわけにはいかないだろ。練習した」
「そうなんだ」
猪熊くんはちらっとおれを見て、言いにくそうにする。
「たぶんすぐにボロが出てくるから……あんま期待しないで」
「わかったわかった。おれも普段全然料理しないからさ、お互いさまだよ。おれがバカやっても笑わないでくれな」
「しないよ」
そんなことを言い合ううちに、タコパの準備が整った。
たこ焼き機をセットし、ふたりでそのテーブルを囲む。
「じゃ、焼いていくぞ」
生地を流し込み、穴にタコや天かす、変わり種具材を入れて、焼いていく。
せっかくのたこ焼きだ。猪熊くんには出来立ての、完璧な焼き具合のたこ焼きを味わってもらいたい。その一心で、絶妙な焼き加減を見極めつつ、生地を返し、あの球体を形作っていく。
ひと通り出来上がると、おれはひとり満足げに「もう良さそうだな」と呟く。用意していた小皿にぽんぽんと猪熊くん用のたこ焼きをよそう。
「どうぞ」
すると、猪熊くんが箸を片手に驚いた顔をしていた。
「……オレ、自分で取るものかと思ってた」
「え……あっ、そうか」
おれはすっかり「我が家のやり方」でやろうとしていたことに気づいた。我が家の常識は他人の非常識だ。各々でよそう家庭もあるはずだ。
「ごめんごめん、姉ちゃんがさ、いつも自分で取ろうとするとたこ焼きの皮が破けちゃうから代わりにいつもおれが取ってて……!」
猪熊くんの顔を見ながら言い訳をしていると、段々恥ずかしくなってきた。叫び出したい、この気持ち。
猪熊くんは唇の端に笑みを浮かべた。
「びっくりしただけ。食べる……なにこれ、うま」
「よかった」
その声に嘘などは微塵もなくて、おれは安堵した。意外にも、我が家の味が受け入れられるのか、変に構えていたらしい。
「オレ、こんなにうまいたこ焼き食べたのはじめてかも」
「大げさだなぁ」
「おおげさじゃないって」
「なら、素直に受け取っておく」
褒められたら悪い気はしない。ふふん、と自慢げに鼻を鳴らす。それからおれの分もよそって、そのままふたりでたこ焼きをぱくついているうち、思い出したことがあった。
「あ、そうだ。明日と明後日の夜ごはんは自前調達だからさ、明日の帰りにスーパーへ寄ってもいい?」
両親からは食費に、とのことで晩御飯代という名の軍資金がある。
猪熊くんは頷いた。
「オーケー」
「ま、あんまり凝ったものとか作れないし、惣菜でも買うかな〜」
何気なく言ったところ、猪熊くんから思いもよらない申し出があった。
「それなら、さ。明日はオレが作ってもいい? 泊めてもらうわけだからお礼に」
「え、いいの」
「簡単なものでいいなら」
「十分すぎるよ!」
猪熊くんが料理をつくってくれる。これはめちゃくちゃ特別なことではないか。おれは飛び上がらんばかりに喜んでみせた。
猪熊くんはたこ焼きをつつく手をとめ、はは、と笑った。
「水島が期待してくれるなら、がんばろ」
ふたりきりの食卓は、驚くほど楽しくて、時間も忘れてしまいそうだ。
タコパの片付けを終えた後、猪熊くんを自分の部屋に連れていった。
「今日寝るところなんだけど……猪熊くん、ベッドとふとんとどっちがいい?」
ふとんはベッドの横に畳んで置いてあったので、広げながら猪熊くんに聞く。
おれは猪熊くんが選ばないほうで眠ろうと思っていたのだが。
興味深々におれの部屋を見回していた猪熊くんは、おれの問いに虚をつかれた顔になる。
「……水島といっしょがいい」
「え」
「……あ」
しまった、という顔をして口を押さえる猪熊くん。こちらをちらりと見て、恥ずかしそうに訂正した。
「間違えた。……ならふとんのほうで」
――だよね、聞き間違いだ! あーびっくりした!
そんな一幕がありつつも、夜も更けてくると、それぞれお風呂に入り、ベッドとふとんに各々入った。
ピアスを外し、おしゃれなスウェットに着替えた猪熊くんが我が家の客用布団に潜り込むのを確認してからおれは声をかけた。
「なら消すからね。おやすみなさい」
「おやすみ」
傍のリモコンで電気を切る。部屋が真っ暗になる。視界が閉ざされる代わりに、同じ部屋にいる互いの気配が色濃くなった。
おれは思い出して手探りでスマホの画面を見た。
「忘れてた。明日の目覚まし、こっちでつけておくね」
「おう……なぁ、水島」
隣から話しかけられて、おれはベッドの中で向きを変えた。自分のスマホのあかりに照らされた猪熊くんは、一段低いところに横たわってこちらをじっと見上げている。
何かを言いたそうな……でも少し不安げな目。
学校で見る猪熊くんより――無防備で、繊細な感じがした。
「ん?」
「いや……なんでもない」
猪熊くんがおれに背を向けた。スマホの光も消える。
――もう寝るのかな。
おれの方は友達を泊めている状況もあって、アドレナリンが出てしまった。眠れる気がしない。
だがそれでも目を瞑っているうちに睡魔がやってきて……。
「……ん」
夢うつつの中、暗闇で仰向けになる。
口元に熱い息がかかる。
――いのくま、くん……?
『好き……好きだよ。水島』
胸を締め付けられるような、切ない告白――。
からかいや友情からのものだと勘違いする余地なんて、微塵もない。
――本気の声だった。おれ、どうしたらいいんだろ……。
ぼんやりとした意識の中で考えていると――スマホのアラームが鳴った。
体がびくっと反応して、スマホのアラーム音を反射的に消しにいく。
はあ、と息を吐いて、胸のどきどきをやり過ごす。そうするうちに思い出した。
――あ、猪熊くんが昨日から泊まってるんだった。
隣のスペースを見る。……ふとんはきれいに折りたたまれていた。
気づけばつぶやいていた。
「夢だよな……夢」
「水島」
ノックと一緒に猪熊くんが入ってくる。もう制服に着替えていた。耳元のフープピアスが窓辺の朝日を浴びて、きらっと光る。
猪熊くんが、ベッドの上にいるおれを見下ろして、笑んだ。とても親しげに。
「おはよう」
「……おはよう」
朝目覚めてすぐに見る猪熊くんは心臓に悪かった。ひたすらにかっこいいな、と馬鹿みたいなことを思う。
猪熊くんは朝でぼんやりしているおれに小さく笑いながら手を伸ばした。
「寝癖、ついてる」
髪先を少しだけ引っ張られる感覚。
なんの変哲もないおれの髪をくるくると弄び、はなす。
「朝はパンだったよな。一枚焼いておくから、早く着替えて降りてこいな?」
――なんだこれ、妙に甘い気が……。
猪熊くんが、優しい。友達に対する優しさ、みたいな範疇を超えている気がする。
じわじわと顔が熱くなって、おれは猪熊くんが出ていったドアを恨めしげに見つめる。
――これが、あと二泊分、か……。
どうにかなってしまうかもしれない、とおれはもう一度ベッドにひっくり返ったのだった。
『「夢か、ゆめ それでよかった」――「好きだ……好き」 まどろむうちに染み込めばいい
#恋するtanka #一夜目』



