猪熊くんとの約束の日。
 水族館の最寄駅にある改札口に辿り着くと、猪熊くんはすでに待ち合わせ場所で待っていた。
 時計を確認したところ、待ち合わせ時間の十五分前。余裕があると思ったのに、猪熊くんはさらに早い。
 猪熊くんは石柱に寄りかかり、スマホをいじっている。私服の猪熊くんを見るのは初めてだが、キレイめの黒ズボンに、暗い赤のカーディガンをゆるく羽織っていて、モデルかと思うぐらいに人目を引く。首元から下がるシルバーネックレスがさりげなくおしゃれだ。

――絵になるなぁ……。

 おれもおれで昨晩いろいろ悩んだ挙句、ブルーグレーのニットと、ちゃんとしてそうなシルエットのネイビーのズボンを合わせてきたのだが、正直「着られている」感は否めない。
 だがもうこの地味さはどうにもならないので、思い切って猪熊くんに近寄って声をかける。

「お待たせ。猪熊くん、早かったんだね。おれ、十分早くきたと思ったのに」
「おはよ……オレから誘ったのに遅れたくなかったから」

 猪熊くんは持たれた柱から背中を離し、スマホをズボンのポケットにしまった。

「行こ」

 おれたちは水族館へ向かう人たちの波に乗り、肩を並べてつかず離れずの距離で歩いていく。

「水島、私服はそんな感じなんだな」
「そんな感じってどんな感じだよ?」

 おれの服装に注目してくる猪熊くんに唇を尖らせる。おれだって気にしていたところなのに。勝手に拗ねた口調になる。

「これでもおれはさぁ、今日猪熊くんと出かけるからがんばってきたほうなんだよ。服のセンスに全然自信なくてさ」
「ちゃんと似合ってる」
「……そっか」

 間髪入れずに言う猪熊くんに拍子抜けし、逆に照れてしまった。

「ならいいや。さっき声かける前、私服の猪熊くんがかっこよすぎて、本音をいえばちょっとビビったよね。『え、ちょ、おれ、こんなイケメンと約束してたんだな!?』って」

 制服は学生たちの個体差をいい感じに均《なら》してくれていたらしい。偉大だ。

「水島はオレを持ち上げすぎ……ま、悪い気はしないけど」

 猪熊くんもおれに合わせて笑ってくれた。
 おれたちはゆっくりと水族館へと続く一本道を進んでいく。普段の学校とは違う、見慣れない景色とかすかに香る潮風。そのせいか今日は会話もまだぎこちない。
 相手がはじめて遊ぶ友だちだからか――それとも。
 猪熊くんもいつもより少し口数が少ない気がした。

「今日、はじめて猪熊くんと出かけると思うとちょっと緊張しちゃったよ」

 入場列に並びながらおれは素直に告白する。隣の猪熊くんもこくりと頷く。
 
「……オレも同じ。昨日はあんまり寝られなかった」
「そっか、同じか」
「でも水島とならきっと楽しい、って思っていたから」
「それも同じだな」

 猪熊くんは右耳につけたピアスに触りながら、小さく「そ」と呟いた。
 言葉通りに緊張しているのが互いにわかって、おれの気持ちもほぐれた。
 おれたちは順調に館内に入った。もらったパンフでそれぞれのコーナーを確認するや、まずおれたちは一番の目的地に直行した。
 それはこの水族館の目玉のひとつでもある、巨大水槽。
 視界いっぱいに広がる水槽に、たくさんの魚が泳いでいる。小さいものもいるから百匹や二百匹ではきかないだろう。どれもがみな、優雅な動きで回遊している。
 圧倒的な青の世界がそこにはあった。
 幸いにも、まだ早い時間なので近くには数組の客しかいない。
 さっそくぎりぎりまで水槽に近づく。背後からゆっくりと猪熊くんがついてくるのが気配でわかった。

「はぁ〜。水族館なんて小学生ぶりなんだけど、見応えあるなぁ」

 おれは目の前の鮮やかな光景にすっかり見入ってしまっていた。

「きれいだよなぁ。猪熊くんもそう思わない?」

 隣にきた猪熊くんに同意を求めるように顔を向けたおれは、思わず息が止まりそうになる。
 案外近くにきていた横顔……ばかりでない。照明の具合で猪熊くんの表情も青みがかり、いつもよりも神秘的な雰囲気をたたえていたのだ。水槽の水面が揺れるたび、ゆらゆらと猪熊くんの顔に投影された青の濃度も変化していく。

「うん……オレも久しぶりだけど、いいな」

 しみじみとつぶやく猪熊くんはおれが受けた衝撃など知るよしもない。
 おれは慌てて視界を変えて。
 
「おっ、あれはナポレオンフィッシュだ! すっごい顔のインパクト……! こっちにきたきたきた!」

 ガラス越しに寄ってきた大きな魚にテンションが上がる。

「おぉ〜」

 猪熊くんもノってくれた。おれは水槽にかぶりつきながらガラス越しの魚と見つめ合う。
 
「迫力あるなぁ。口をぱくぱくさせてる!」

 しばらくこちらを気にしたように泳ぎ、そしてのんびりと去っていくナポレオンフィッシュ。
 ユーモラスな見た目だがなかなか気に入った。おれは視線で魚を見送りながら猪熊くんへ言った。

「猪熊くん、あれはいいよ。『本日の水島MVP』になるかもしれない……!」
「そんなアワードが存在したのか」
「今つくった!」

 すると猪熊くんが吹き出した。ツボに入ったようで腹を抱えて笑いを噛み殺している。

「じゃ、オレもMVP目指してがんばるわ」

 涙を拭う仕草までする猪熊くん。彼は笑い上戸なのかもしれない。
 ひとしきり笑った猪熊くんが、ふう、と自分を落ち着けるように息を吐いた。
 沈黙。少し歩きながら、いろんな方向から水槽を眺める。
 猪熊くんは、水槽を泳ぐ魚たちと、水槽外の客に視線を向けた。照明の光量は抑えられている。ほかの客も、まるで影法師のようにおぼろげだ。

「この水槽前にいる人よりも、魚の数のほうが圧倒的に多いよな。1匹ずつに一対の目があってさ……実はオレたちのほうが観察されているのかもね」
「あっ! それって……!」

 おれはハッとなってスマホを開き、ブックマークした画像を呼び出した。

ほの暗き 水槽の外 影ふたつ 眺めるようで眺められている

 短歌の画像と今の景色を見比べて、

「あっ、そうかぁ。あ〜、体感した、これはすごいや」

 満ち足りた気持ちで息を吐く。これはもはや聖地巡礼だ。尊い。これは尊いぞ……!
 
「よかったな、体験できて」

 おれのおおげさな反応が面白かったのか、猪熊くんは笑みを刻んだまま水槽を見上げはじめる。
 猪熊くんの耳のフープピアスがこんな青の世界にもひときわ鋭い光を放っていた。目が離せなくなる。
 こうして一緒にいるのが不思議な気がしてきた。

――ついこの間までは想像してなかったな……。

 教室では接点もなく遠目で眺めるだけだったカースト上位の人気者が、今は一緒に出かけて笑い合えるようになっている。本当にすごいことだ。

――やっぱりしゃべってみないと、わからないものだな。

 この状況を感慨深く思っているうちに、猪熊くんがおれを見つめていることに気づく。
 どうしてか、動けなくなった。時間が止まる。ほかの客の声すらも遠くなる。
 ふたりで青い水槽の世界に閉じ込められてしまったわけでもないのに。……猪熊くんの眼差しが、真剣に見えてしまったから。

「……なんだか照れるな」

 魔法が解けたきっかけは、猪熊くんの言葉だった。頬をかきながら視線を逸らす――その頬が、赤くなっているような気がした。

「え……うん」
 
 おれは油の切れたロボットみたいに頷く。無意識に胸に手を置いていた。どきどきしている心臓を隠すように。

「次、行くか」

 猪熊くんが背を向けて歩き出すのについていく。