翌日の昼休み。おれがいつものように机で弁当を広げていると、猪熊くんがやってきた。おれは慌てて点いていたスマホの画面を消す。

「水島、一緒にたべてもいい?」
「え……? あ、どうぞどうぞ」

 空いていた前の席から椅子を借りると、おれと向かい合うように座る猪熊くん。手にはコンビニで買ったパンと野菜ジュースがある。
 おれは猪熊くんのために机のスペースを空けてあげた。

「ありがと」

 猪熊くんはもそもそと礼を言いながらパンの袋を開けた。大きな焼きそばパンだ。

――猪熊くん、いつも一緒にお昼を食べる友だちがいたよね……?

 視線をそちらにやれば、これまでと変わらず、派手グループの男子たちが大笑いをしていた。

「……あっちがどうした?」

 パンをひとくち食べた猪熊くんは何も気にしていない様子だ。
 まあいいか。おれが気にすることじゃないか。
 おれはおかずの玉子焼きを口に運んでから結論づけた。

「なんでもないよ」
「……そ」

 猪熊くんは呟いてから、焼きそばパンにかぶりつき、あっという間に平らげた。もうひとつ持ってきたジャムパンの袋を封切りかけて、動きがとまる。

「あのさ、昨日聞き忘れたことがあって」
「え、なに?」

 一人分の机を分けて使っているので、おれと猪熊くんは至近距離にいる。視線があった気まずさからか、猪熊くんはきれいなラインの横顔を見せながら小さく告げた。
 
「……連絡先。交換してなかったなって」
「あっ、そうか。そうだね。いいよー」

 断る理由はまったくないので、すぐにスマホの画面を出し、連絡先を交換する。
 猪熊くんは頬杖をつきながら自分のスマホに表示されたおれの連絡先を眺めている。
 おれの連絡先アイコンはネットで拾ってきたフリー素材の柴犬だが、変なところがあっただろうか。

「今日の帰りにでも聞いてくれてもよかったのに。わざわざありがとう」
「……まぁ、いいじゃん。早く聞きたかったんだよ。な、さっきオレが話しかける前さ、スマホでなに見てた? 水島はよくスマホを眺めてるみたいだけど」

 猪熊くんはおれの行動を観察していたようだ。歯切れの悪い返事になる。
 
「あ……うん」
 
――ren_tankaさんの短歌を眺めてにやにやしてたって言ってもいいかな。ひかれないかな。

 おれの布教は今のところ失敗続きだ。だれも興味をもってくれない。かなしい。ren_tankaさんの短歌の素晴らしさを語り合いたいのに。
 猪熊くんの反応は予想できなかったが、おれはそっと切り出していた。
 
「猪熊くん、短歌って知ってる? 五・七・五・七・七で言葉を並べてつくるやつ」
「……知ってる」

 猪熊くんの返事にはためらうような間があった。
 
――猪熊くんは短歌を知ってるんだ。

 意外ではあったが、それはうれしい誤算だった。勝手におれの中の好感度バロメーターが爆上がりする。

「おれさ、最近SNS短歌を読むのが好きでさ……!」

 話し出したら止まらなかった。ぜひぜひ聞いてくれよ、おれの話を!

「特にren_tankaさんって人がお気に入りで。めっっっっちゃ! いいから! もうね、毎日ずっと眺めてるよ!」

 猪熊くんは、驚いたように顎を引く。まさかこんな勢いで来られるとは思っていなかったのだろう。
 
「……そうなんだ」

 合槌を打った猪熊くんは自分の胸の辺りのシャツを掴んでいる。視線がうろうろと忙しない。

「あっ……ごめんっ。困るよね」
「いや、いい。……もっと聞きたい」

 猪熊くんがそう言ってくれたから、おれはブックマークしておいたren_tankaさんの短歌をいくつか見せていく。
 猪熊くんのリアクションは派手なものではなかったけれど、おれの話にひとつひとつ頷いてくれたのが印象的だった。
 『那須与一 大弓を構え壇ノ浦 的は読者の心臓 射抜け』の短歌を見せた時、猪熊くんが反応した。

「那須与一が活躍したのは壇ノ浦じゃなくて、屋島の戦いな」
「えっ、そうなの」

 おれは慌ててググる。ほんとだ。
 
「そ。たぶん、壇ノ浦のほうがイメージしやすいから短歌ではそちらを使ってるね」

 壇ノ浦といえば平家終焉の地。インパクト重視なら、短歌ではそちらを採用するということなのだろう。

――ren_tankaさんも、考えて言葉を選んでいるんだな。
 
 またひとつ、短歌の解釈が深まった。

「そうなんだ〜。猪熊くん、歴史に詳しいね」
「そうでもないよ」

 猪熊くんは謙遜しているが、おれからしたら感心するばかりだ。
 ひたすらへぇ〜、だの、なるほど〜、などと猪熊くんの解説にリアクションをしていると、猪熊くんはフッと微笑んだ。

「……本当に好きなんだな、そのひとが」

――わっ……。

 不意打ちのような笑顔に、心まで射抜かれそうになる。

「そ……そう! すごいよね、ren_tankaさんは!」

――猪熊くんがいうと、なんだかちがうふうに聞こえてくるよ……!
 
 勝手におれにまで言われているような気がしてきてしまう。
 おれは早口で話題を切り替えた。

「たまたまだけど、猪熊くんの名前と同じで「レン」が入っているよね」
「……あぁ。――そうだな」

 相槌に、不自然な間があった。透明な視線がおれをまっすぐ見つめていた。
 気まずさを感じつつも、おれは話をつづけた。少しでも、ren_tankaさんを良いと思ってほしくて。
 
「同い年ぐらいなのにさ、こんなにすごい短歌をつくれるんだっておもうと……ほんとうに尊敬するんだよ。ものをつくれるひとってすごいよね」
「……尊敬、か」

 猪熊くんが首をかしげている。その表情からは、自分でもよくわかっていないものの手触りを確かめているようにも思えた。
 
「そうだよ。おれは何かをつくる才能はないけどさ、感動したって気持ちとかよかったー!っておもったこととかさ、ちゃんと伝えたくて……自分なりに応援したくて。ちょっとだけだけど、リポストしたり、いいねを押したりとか……直接伝えるのは難しくてもそういうことだけでもやっていきたくて……変かな」

 最後の方、自信がなくなってきて、声が小さくなっていく。
 正面をちらりと見る。猪熊くんは……目を細めて、先ほどよりもよほど優しい顔をしていた。

「いいとおもう……きっとそのひとにも、水島のそういう混じり気のない応援の気持ち、届いているとおもう」

 その言葉に、心から励まされた。
 
「そうかな! ……そうだといいなぁ。やっぱりさ、これからも楽しく短歌をつくっていってほしいしさ……。もちろんおれの勝手な気持ちで、ren_tankaさんにもいろんな事情があるだろうけど」

 夢中になって話しつづける。
 
「おれ、いつも勇気づけられててさ、明日もこの人の短歌を読みつづけるためにがんばろうって思うんだ」
 
 視界の端で、机の上にあった猪熊くんの拳にぎゅうっと力が入った。猪熊くんは真摯な声で言う。
 
「水島は、いいやつだな」
「あはは、ちょっと照れるけどありがとう」
「……ほんとうに、心の底からそう思っているから」
 
――おもいきってぜんぶしゃべっちゃったけど、ぜんぶ真剣に聞いてくれた。猪熊くんこそすごく優しい人だな。かっこいいだけじゃないんだ。

 人気者である理由の一端を知れた気がした。
 さらに猪熊くんはこうも言ってくれた。
 
「……水島。また、短歌のことを話してくれ。聞きたい」
「もちろんだよ。聞いてくれる相手、なかなかいなくて――あ、とはいってもおれもそんなに詳しくないから、ren_tankaさんへの愛を叫ぶ感じになっちゃうんだけど」
「……むしろそれがいい」
「えっ?」

 ぼそっと告げられた言葉に、一瞬、意味を取り損ねそうになる。猪熊くんは少しからかうように付け加えた。
 
「水島が楽しそうに話しているのを眺めたいから」
「あはは、なんだよ、それ」

 おれは冗談だと思ってそれに付き合うが――猪熊くんの目の奥は笑っていなかったようにも思えた。

――気のせいかな。

 気を取り直した。
 
「じゃあ、おれは今日の帰り道でも好きなだけren_tankaさんの話をさせてもらお」
「任せろ」
 
 猪熊くんはピースをしてみせ、ジャムパンの残りににかぶりついたのだった。

 

 その夜のこと。寝る前に、SNSをチェックした。
 おれのアカウントに通知が届いていた。何気なく確認して、ふぉっ、と叫び声とともにベッドから飛び上がる。
 ren_tankaさんが、おれが書いた感想ポストのいくつかにいいねをつけていたのだ。

「嘘だろ、おい……!」

 スマホの画面をガン見する。アドレナリンがどばどば出てきた。
 ren_tankaさんはあまり自分からリアクションしない。何人か知り合いの歌人はいるようだが、おれのようなただの応援アカウントのポストにいいねをつけることはほとんどないと思っていた。

――読んでくれたんだ……!

 人によってはささやかな反応と思うだろうが、おれにとっては大事件だ。
 おれの応援の気持ちが届いたということなのだから。
 
――今日、猪熊くんに好きなだけren_tankaさんの話もできたし、おれ、めちゃくちゃラッキーだなぁ……。

 はぁ、と息を吐いて、ふたたびベッドに身を投げ出す。
 こんなに満足できる日もなかなかないだろう。
 だが。ぱちぱちと、すぐにニヤつきそうになる頬を軽く叩く。
 
――おれはあくまで純粋なファン! 適切な距離を保つべし、と……。
 
 それでも、ふふふ、と勝手に頬が緩んでしまう。ベッドをごろごろしてしまう。あ〜だめだ、今日はだめだ。
 ひとりジタバタしているうちに、またスマホが新しく通知をする。
 それは、ren_tankaさんの新しい短歌の到着を知らせるもの。
 おれの目に鮮やかに飛び込んできたものは――。
 
心臓を他人に譲る気持ちとはこんなものかと 君は知らない

 和紙を思わせる淡い桃色を背景に、綴られた短歌。
 ハッシュタグには、「#恋するtanka」とつけてあった。