家に帰ってさっそくピザを注文した。配達を待つ間に課題をやる。
 ピザが届いたので、食べながら映画を観た。
 ファミリー向けの犬映画だった。初めてみたが、やばいぐらい泣けた。
 おれは途中からピザそっちのけでぐずぐずと鼻を啜りはじめた。
 どうにもおれは感動ものの映画に弱いのだ。死ぬほど泣いてしまう。
 ラストの主役ふたりの再会場面ではティッシュを力強く握りしめながら号泣。エンドロールでも感傷で嗚咽。

「ごめん、猪熊くん。おれ、どうにもこういう映画がさあ、たまらなくってさぁ……!」

 おれがずびずびと鼻を鳴らしながら言っていると、猪熊くんが無言でおれの目元の涙を拭ってくれた。

「……びっくりした」
「だよねー!」

 なお猪熊くんは無感動そのものの顔で画面に見入っていた。集中していたわけだから楽しめなかったわけではないはず。

「はぁ……やっと落ち着いてきたわ……」

 しばらく経って、映画の余韻がようやく醒めてきた。
 ピザは健啖家の猪熊くんもいたのできれいに空の箱だけ残った。
 おれは、ソファに身を沈め、この三日間の泊まりに思いを馳せていると。

「水島の家に泊まるの、楽しかったな……」

 猪熊くんも同じことを考えていた。口元が緩んでしまう。
 夜も更けてきた。猪熊くんが家に泊まる最後の夜と思えば、互いに振り返りたくなったのだろう。

「おれも楽しかったよ」
「ほんと?」

 少し心配を滲ませながら聞き返す猪熊くんに、頷く。
 
「ほんと。まさかこんなに猪熊と仲良くなれるなんて思わなかったよ」

 クラスでもまるきりタイプが違うと言われるおれと猪熊くん。
 でも話してみればすごくウマが合うし、楽しい時間を過ごすことができる。
 ちょっとしたきっかけからこんなことになるとは、思わなかったのだ。
 猪熊くんが後頭部をかいてからおれを見る。
 
「……付き合ってくれて、ありがとな」
「どういたしまして……なんていうと照れちゃうね」
「……そろそろ餅食べよっか」

 猪熊くんに言われて、昨日に買っておいた切り餅のことを思い出す。あれがあるからピザの量は調整しておいたのだった。
 
「そうしよ」

 おれたちはキッチンに行く。
 手分けして餅をトースターに入れ、醤油やきなこ、のりを皿に用意する。
 餅はあっという間にトースターの中で膨れ上がった。
 餅は大皿に乗せ、調味料の小皿をリビングに持っていく。テーブルを挟んで向かい合わせに座る。

「いただきます」
 
 おれは味付けした餅を箸で持ち上げようとしたところで――猪熊くんの視線に気づく。
 猪熊くんは、おれの口元を見ていた。

「三日目の餅……か」

 猪熊くんが無意識に呟いたのだろう、言葉。

――三日目の、餅……?

 おれの中で唐突に、疑問の答えが弾けた。
 いや、まさか、そんな。
 今にも口に吸い込まれそうになっていた餅を、皿に戻す。箸も置く。
 おれは、尋ねていた。
 
「……もしかしてさ、これ……『三日夜の餅』ってことで、合ってる?」

 猪熊くんの目が、これ以上ないぐらいに見開かれた。
 それこそが答えだった。
 おれは震える息を吐く。
 食欲などとうになくなっていた。
 
「そうか……やっぱり。ならこれさ……食べちゃだめだ」

 三日目の餅。……三日夜の餅。
 何気なく聞いていた古典の授業に、ヒントがあった。
 三日夜の餅は、平安時代における結婚の風習だ。男側が女性の元に三夜つづけて通い、三日目に周囲への披露として、餅を食べる。
 現代とはまるでちがう儀礼だから、猪熊くんの行動と結びつかなかった。
 でも、那須与一が活躍したのは屋島の戦いだと知っているぐらい歴史に詳しい猪熊くんが、短歌に詳しいなら和歌にも詳しくてもおかしくない。
 そう考えると、いつもとちがう短歌の投稿時間にも納得がいく。

――なら、朝にren_tankaさんが短歌を掲載していたのも。

 朝というのが大事だったのかもしれない。夜を過ごした後の朝、相手に短歌を贈るために。
 それこそ後朝《きぬぎぬ》の文《ふみ》にあやかって……。

 つまり猪熊くんは、おれを相手に見立て、夜を過ごすたびに朝に短歌を贈り、三泊目の今晩に餅を食べることで「三日夜の餅」をやろうとしたのだ。

 おれはぎゅっと目をつむった。そうしないと感情の波に呑まれてしまいそうだった。
 猪熊くんがどうして、そんなことをしたのか。その裏にある気持ちが、今ならわかる気がした。

――だから、食べちゃだめだ。知らなかったらよかったかもしれないけど……。

 そこまで考えても、「いいや、それでもだめだ」と心の声が答えた。

「どう、して」

 その声に目を開けた。テーブル向こうで呆然と固まっている猪熊くんがいた。
 取り繕うこともしない、無防備な顔だった。

「いいじゃん。オレの、ただの自己満足だしさ」

 上擦った声。普段クールにも見える猪熊くんの目も揺れていた。拒まれて、途方にくれた子どもみたいだった。

「付き合ってよ、このぐらい。お遊びなんだしさ。こんなこと、何の意味もないだし」
「おれは……猪熊くんがお遊びでやった、とは思わないよ……」

 この言葉に猪熊くんはまた大きく動揺した。

――もう今、聞くしかないよな……。

 とうとう、話を切り出した。

「昨晩の、夜中。おれのおでこにちゅーした? その前の夜は、好きだって寝てるおれに告白した?」

 猪熊くんの喉仏が上下した。猪熊くんは目をつむり、ゆっくり頷いた。

「……ぜんぶ、した。勝手した、ごめん」

 真摯に謝罪する猪熊くんに、おれはぽつりと言っていた。
 
「おれのこと……好きなの」
「うん……恋愛的な、意味で、好き」

 曖昧だったすべてを決定する言葉だった。
 ここまできてまったく予想していなかったわけでもないのに、猪熊くんの口から改めて聞く「好き」の二文字はあまりにも日常からかけ離れている。
 猪熊くんが、おれを、好き。
 事実がおれの心の中にまっすぐ突き刺さって、それだけで何も他のことが手につかなくなりそうになる。

――でもだめだ……まだ。

 聞きたいことがある。
 おれは荒くなりそうな息を整えつつ、慎重に問う。
 
「ならさ……これも、聞いていい? 猪熊くんの名前は廉、だったよね。もしかしてそこからSNSで使う名前をとったの――おれが大ファンの、ren_tankaさんって……猪熊くん?」

 大きな沈黙があった。
 おれは目を伏せていた猪熊くんが、次の瞬間も少し弱った態度を取り続けると思っていたから――。
 だからこそ、本当に、今度こそ息をのんだ。
 指摘した途端、猪熊くんの目は……一瞬、彼が身につけているフープピアスが放つような、冴え冴えとした鋭い光を帯びた。
 まるで那須与一のようにこちらを射抜こうとする挑戦的な目。顔つきに、強い意志がみなぎる。
 雰囲気が、塗り替わったようだった。
 短歌が言葉を磨き上げるものならば、その言葉を操る歌人は常に言葉の刃を研いでいるのではないか。猪熊くんの、歌人としての一面が見えた気がした。
 返事を聞かなくたってわかる。おれはたくさんその人の短歌を読んできたのだ。おれの中で想像していたひととと現実が重なった。
 この人だ。この人こそが。

 ――ren_tankaさん……。

 SNSで人気となった高校生歌人、ren_tankaが、まさしくおれの前にいる猪熊廉そのひとなのだと、納得させられた。

「ばれたな」

 猪熊くんが小さく漏らした一言にさえ、たじろぐ。
 
――おれは、猪熊くんのこと、なんにも見えちゃいなかった。

 猪熊廉であり、ren_tankaでもある男の目に心臓が止まりかけた。あからさまに視線を逸らしてしまう。
 ふと目の前の猪熊くんの雰囲気が和らいだ。おれの知る猪熊くんだ。

「ごめん、言えなかった。水島がオレのこと、ただ純粋に褒めてくれるから……もっと聞いていたくて。でも、話してしまいたかったのも本当」
「そっか……うん、理解した」

 猪熊くんが言いにくかった気持ちはわかった。おれがあまりにもren_tankaさんと連呼していたわけだから。
 騙されたなどとは思わない。穴が入りたいぐらいの恥ずかしさはあるが。すごいすごいと本人に言いまくっていたわけだし。
 それよりも、大きな問題がおれの前に立ちはだかっていた。
 猪熊くんが、おれのことを好きだと言った。
 次は――どうなる?
 様子をうかがうおれに、猪熊くんはテーブルを回り込む。そのゆったりとした動作は、まるでカウントダウンのようにじわじわとおれを追い詰めてくる。
 おれはもうすでに受け止めきれないぐらいにいっぱいいっぱいなのに――。
 
「ここからは――堂々と、口説くことにする。短歌で」

 座っているおれを見下ろし、猪熊くんは静かに宣言した。
 短歌で。短歌で……口説く、と。
 
「え、それって、どういう……」

 猪熊くんは微笑んだ。ちっとも安心できない肉食獣の笑みだった。
 
「すぐにわかるよ。オレはどうにも――愛が重いらしいから」

 そうしておれの耳に口元を近づけて――ささやきかける。

「ほとばしる水の流れに堰《せき》はなく 忍べずあらわに落ちていく恋――」
 
 めまいがして、テーブルに突っ伏した。
 猪熊くんの熱がじかにおれに伝わってくる。怖いぐらいだ。怖いぐらいに……気持ちが向けられている。
 猪熊くんに頭を軽く撫でられ、すぐに離れた。髪がこそばゆい。
 開き直った猪熊くんの声が、降ってきた。

「まだこのぐらいじゃ、序の口じゃん? 顔真っ赤。これじゃ、すぐに口説き落とされるんじゃない? 心配だ」
「猪熊、くん」

 おれは顔をあげ、ちらっと猪熊くんを見る。
 隠すことのなくなった猪熊くんは楽しいとすら思っていそうだ。
 
「廉って呼んでよ。オレも陸斗って呼ぶから。ほんとはずっとそう呼びたかったんだよね」

 おれは答える気も失せて、テーブルに突っ伏した。
 すると、猪熊くんはあっさりと言った。

「じゃ、オレは帰るよ」
「えっ! 帰る?」

 おれが慌てて起きると、猪熊はポケットに手を入れながらリビングを出ようとしていた。
 
「だって三日夜の餅作戦は失敗したし、陸斗には気持ちも正体もばれた。このまま一緒にいたら陸斗を襲っちゃうかもしれない」
「襲う? えっ、襲うって」
「まぁ、性的に?」

 そう言われ、体が固まる。
 猪熊くんがやんわりと告げた。

「……大丈夫だよ、オレもさ、それなりに真剣だからさ。だから出てくよ。まぁ夜中だけど歩けば帰れるし」
「そうかもしれないけど、今補導される時間だよ!」

 咄嗟に口から出てきたのは、馬鹿みたいな言い分だっだ。

――猪熊くんを引き留めなくちゃ。

 そう思ったのに、言いたいことが伝わった気がしなかった。
 
「こんな見た目だし、なんにもおかしくないって」

 猪熊くんが軽い感じで自分の耳にはまったシルバーピアスを触る。
 本当に猪熊くんは、今から家に帰りかねない……!
 おれは立ち上がり、猪熊くんの服の袖を掴んだ。
 
「……やっぱりだめだよ、三日間泊めるって約束した。親にもそう言ったし、猪熊くんのご両親にもそう説明した。おれも、猪熊くんにここから出ていってほしくない」
「どうして、って聞いてもいい?」

 自分の袖を見つめた猪熊くんが静かに問うてくる。
 おれは散々迷った挙句、やっと自分の気持ちにふさわしい言葉を見つけた。
 
「夜中でひとり帰り道をいくのはきっと寂しいにちがいないから」

 猪熊くんが、息を呑む。

「……そっか」
 
 彼は泣き笑いの顔になった。さらにおれは言葉を重ねる。

「おれ自身の気持ちはまた考えることにするけど、今日はこのまま泊まっていって」
「考えてくれるんだ」

 驚いたリアクションをする猪熊くんに、おれは不満をあらわにした。
 
「……当たり前だよ。おれをなんだと思ってるわけ。そこまで薄情じゃないよ」
「ん。そういうとこ、オレも好きだな。……な、ぎゅってしてもいい?」
「は?」

 おれが戸惑ううちに、腕を広げる猪熊くん。ここに飛び込んでこいというのか。
 あー、えーと。おれは意味もなくうろうろとした後に、自分に言い訳することにした。
 
「友だちだしな、これぐらいは……」
「言い訳、苦しくない?」

 笑みを含みながら、猪熊くんが腕を回してきた。
 ぎゅっと、とのわりにはぎこちなく、慎重な動きだ。
 実際、これぐらいなら友達間でもあるだろう――そのぐらいのハグだ。

――あったかい。
 
「あー、うん……そうかも。返事、後日でもいい?」
「待ってる」

 示し合わせたように離れる体。熱が遠ざかるのを実感すると、寂しさを感じた。
 テーブルにはとうに冷めた餅がある。
 おれと猪熊くんは互いに目配せをしあい、おれが言った。

「……もったいないし、食べるか」
「だな」
「ただの夜食だからね」
「そこまで念押ししなくても」

 猪熊くんは呆れた笑いを漏らした。
 その夜は猪熊くんがリビングで寝ることになった。
 次の日の朝。寝る部屋以外のことはそれまでの二夜と変わらずに、ごく普通に時間がすぎていった。
 学校は休みの日だったので、午前中にゲームをして、昼ごろに猪熊くんが帰っていくのを見送る。

「なら帰る……じゃあな、陸斗」

 昨夜から猪熊くんは、宣言どおりおれを名前で呼ぶようになった。
 おれのほうは呼べていない。

「うん……また学校で」

 手を振って、猪熊くんの姿が見えなくなるまで見送る。
 曲がる直前、猪熊くんがポケットからスマホを取り出しているのが見える。
 おれが玄関から家に入ろうとしたタイミングで……スマホの通知があった。

『冷めきった餅を頬張る君との時間 真白にのびていついつまでも #恋するtanka #三夜目 #最後の夜』

 鼓動が、また大きく跳ねた。