この日も猪熊くんと一緒に登校する。
 最近、朝がだいぶ冷え込んできた。そろそろコートが欲しくなる。

「水島、手が寒そうだな」

 猪熊くんが、おれの手元を見下ろしていた。おれはいつもの癖で無意識にカーディガンの裾を伸ばして握っていたのだ。猪熊くんの手が差し出される。

「あたためておく?」

 冗談めいた口調。なのに、おれはその目が真剣なものに思えてならない。
 おれが「おねがい」と言えば、その大きな手のひらはおれの手を握って学校まで連れていくのだろうか。
 そこまで考え、冷静になる。

「いやいや、人に見られたら恥ずいじゃん」
「そ?」
「そうだよ」
「……ま、オレはそれでも」

 道でサラリーマン姿の人とすれ違う。言葉を切った猪熊くんは、さらにおれと距離を詰めた。肩先が触れ合う。その人が離れても、猪熊くんはそのままにしていた。
 またあの疑問がおれの中で頭をもたげてくる。

――猪熊くんは……ren_tankaさんなのだろうか。

 ネットの海は広大だ。そんな偶然があるか、とは思う。
 だけど、一度思えば共通点がいくつも浮かぶ。
 同年代。名前の読みに「ren」が入る。猪熊くんが泊まったタイミングではじまった朝の投稿には「#一夜目」「#二夜目」のタグがついていた。
 そして猪熊くんがスマホをいじってすぐに、ren_tankaさんの投稿がされていた――。

 「夢か、ゆめ それでよかった」――「好きだ……好き」 まどろむうちに染み込めばいい

『好きだよ、水島』。夢だと思っていたことは、現実かもしれない。猪熊くんがおれの枕元でそう囁いている情景が頭に浮かんでくる。

 唇は夜に沈んでなお慕わしく 「実は獣だ」そう言えたなら

 猪熊くんが、おれに思っていることは――。
 おれがren_tankaさんのファンであり、熱心に最新作を追っているのだから猪熊くんがren_tankaさんなら、おれがそれらの短歌にすぐ目を通すこともわかっている。
 ならば、これらの短歌はだれのために詠まれたものか。
 #恋するtankaシリーズで、ren_tankaさんがだれを思って詠んでいるのか。

――……だめだ、これ以上考えてはいけない。

 おれは、自分で短歌をつくらない。だから同じように短歌を知ってた猪熊くんも、鑑賞専門だと思い込んでた。
 猪熊くんは、ひとことも短歌を作らないとは言っていなかったのに。

「水島、今日は口数が少ないのな」

 あと少しで駅につく交差点で猪熊くんがぽそっと言った。
 
「あはは、そうかな」
「そうだよ……なにかあった?」

 声のトーンが低くなる。おれを見つめてくる猪熊くんの目に直感した。

――猪熊くんは、おれが気づいていることをわかっている。

 おれの口が勝手に動いた。

「あのさ、変なこと聞いてもいい?」
「うん」
「猪熊くんって……短歌をつくったりする?」

 交差点が青になる。行きかけていた猪熊くんの足が止まる。小さく息を吸い、おれを振り返り、はっきりと言った。

「――つくるよ。その話……聞く?」
 
 どうする、と目で問われたおれは急にひるんだ。
 猪熊くんはおれの返事を待っている。

――おれ、これを聞いて、どうしたいんだろ。

 クラスのだれも知らない事実。
 猪熊くんが、ren_tankaさん。
 それを確認してしまったら、おれは猪熊くん自身の秘密に触れるということになる。
 秘密を暴いた先にあるもの。猪熊くんが望んでいることは……。
 頭の中でぐるぐると考えるうちに、信号は赤になっている。
 猪熊くんはおれのところまで歩いてきて、ふっと口元を緩めた。でもそれは楽しさからくる笑みではなくて……。

「別に水島を困らせたいわけじゃないだけどなー……。あぁ、どうしてもそうなっちゃうかぁ……」

 ひとりで置いて行かれたようなさみしげなものだった。
 歩いていないと体が冷えていく。吹いてくる風が体温を奪っていった。

「でもさ、もう少しだけ付き合って? 今日の夜食で餅食べるの、楽しみにしててさ」
「え、うん」

 少し甘えているような声におれは無意識に頷いていた。
 
――まぁ、前から三泊って決まってたし……。

 言い訳をしていたが、ふと三泊という言葉に何かが引っかかる。
 
――……なんだろ。

 小骨が喉にひっかかったみたいな違和感を抱えながら、また信号が変わるのを待っていた。



 学校につくと、驚くぐらいにいつもどおりの日常だった。
 授業を受け、授業の合間や昼休みにくだらない話で盛り上がる。
 ……ただひとつだけ、ren_tankaさんの話題は猪熊くんに出せなかった。
 今朝に投稿された短歌にはいいねをひとつつけただけ。
 悶々とした気持ちを抱えたまま、放課後になった。

「行こ」

 猪熊くんの声に促され、おれはいつも通りを装って頷いた。

「うん……帰ろう」

 猪熊くんを意識しながらまっすぐ家路につく。
 電車内はこれまでより静かになった気がした。
 猪熊くんから、おれがいつ切り出すか、待っている雰囲気を感じる。

「今日はピザにしようと思って。デリバリにするんだけど、どのメニューがいいかな」
「えー、そうだな。どうしよ」

 メニューが表示されたおれのスマホを横から覗き込む猪熊くん。おれの頬のあたりに髪先がかすめる。

――いい匂いがする。

 そう思った自分が途端に恥ずかしくなる。変だ、おれは変な人間になっている。

「水島?」
「え!」

 面食らって大きな声が出た。車内の視線を感じて縮こまる。

「へんな反応」

 猪熊くんはからかい声を上げた後、おれの肩に軽く手を乗せた。たわいもない友達同士の戯れみたいに。でも。

「ねぇ……まじで意識してくれてる、とか?」

 低い声で、だれにも聞こえないように呟かれたら、たまらない。
 ぎゅっと目をつむって衝動をやり過ごした後、おれは非難の声を上げた。

「猪熊くん」
「ごめんって」

 うれしそうな猪熊くんは降参するかのように両手を上げた。今度こそ注文するピザの話に戻ったのだった。