「ばれたな」
 
 溜め息が、おれたちの間にひとつ。冷えた夜の空気に溶けていくようだった。
 
――こんな猪熊《いのくま》くん、はじめて見る……。

 クラスでも密かな人気を誇るクールなクラスメート。
 最近仲良くなったばかりの友人。
 その二つに当てはまらないもうひとつの「顔」――。
 夜の月みたいに孤独を抱え。でも恋焦がれるものを見つけてしまい、詠まずにはいられなかった――本来の、猪熊くんだ。
 彼は瞳に熱を宿して、おれを――おれだけしか、見ていない。
 おれはとうとう猪熊くんが抱える秘密の箱を開けてしまったのだ。
 知ったからには、戻れない。

「ごめん、言えなかった。水島が純粋に褒めてくれるから……もっと聞いていたくて。でも、話してしまいたかったのも本当」
「そっか……うん、理解した……」
 
 言葉が口の中で滑っていった。本当はなんにもわかっちゃいなかった。精一杯だったのだ、ぜんぶが。
 おれの目の前で明かされたのは、猪熊くんの秘密だけでなくて――その、心。
 狼狽えるおれに対し、猪熊くんはすでに覚悟を決めていた。猪熊くんは宣言した。

「ここからは――堂々と、口説くことにする。短歌で」
「え、それって、どういう……」
「すぐにわかるよ。オレはどうにも――愛が重いらしいから」

 かすかに笑った猪熊くんは、さりげなくおれの耳元に唇を寄せると――囁く。

ほとばしる水の流れに堰《せき》はなく 忍べずあらわに落ちていく恋

 身が震えるほどの甘さだった。猪熊くんの低い声が上乗せされると、指先からどろどろに溶けてしまいそうになる。
 猪熊くんの武器は――短歌。彼は、だれよりもおれの弱いところを知っている。

 

 
 はじまりは、学校の教室だった気がする。
 昼休み、おれは友人の柿本に「布教」をしていた。
 
「だからな、この人の短歌がいいんだって!」
「えぇ? 短歌ぁ? またかよ、それ」

 柿本は、おれが突き出したスマホ画面から興味なさそうに顔をそらす。それどころか顔を机に突っ伏した。

「ついこの間も言ってなかったか? はまりすぎだろ」
「いいじゃんよ、聞いてくれよ」
「やだ。もう聞かぬ」
「今回は違うんだって! おれさ、今回こそ出逢っちゃったの、運命の歌人《ひと》に!」
「えぇ……?」

 おれの物言いに興味を引かれたのか、柿本がいやいや顔をあげた。おれのスマホ画面をぼんやり見やる。
 スマホに表示されるのは、つい先日見つけたばかりのSNSのプロフィールだ。
 アイコンは淡い青色。プロフィール文はシンプルに「短歌を詠む高校生」とある。フォロワーは……六百人。アマチュア歌人としては破格の多さだ。

「えぇ? だれよ、これ」
「おれのお気に入り。――ren_tankaさん」

 え、と近くで小さな声があがる。視線を脇に振れば、声の主と思われる人物の横顔だけ見えた。彼の耳についた銀のフープピアスが光の軌跡を描く。

――名前の響きが同じだから思わず反応しちゃったのかな。
 
 クラスメートの猪熊廉《いのくまれん》は、この高校でも有名人だ。
 見た目は涼しげなイケメン。着崩した制服の着こなしも、片耳だけつけたピアスも、無造作に見せかけつついつも決まってる髪型も、どれをとっても洗練されている。
 勉強は学年で一番で、運動神経もいい。先日のバスケの授業ではスリーポイントシュートを決め、女子にきゃあきゃあ騒がれているのを目撃した。
 モテているのは間違いないだろうが、男子ウケもいい。ボケとツッコミを器用に立ち回る。なによりも、さらっとした気遣いは男女問わないし、本人に浮ついたところがいっさいない。
 猪熊くんは、平々凡々なおれにとって「すごいなぁ」と口を開けて眺めるだけの存在なのだ。――おれの話に興味があるとは、思えない。水島陸斗というおれの名前も認識されているだろうか?
 だからこの時も、猪熊くんの反応を流すことにして、柿本に向き直る。

「知ってるか、柿本。昨今は短歌ブームらしいんだ。SNSで短歌を発表し、人気になる人もいる。ren_tankaさんもそんなSNS歌人のひとりなんだよ」
「ふうん? そんで、そのひとが、運命ってわけ? 顔知らん相手じゃん」
「それでもだ。びびっときた。運命だよ、これは恋だって確信したね」

 SNSをいじるうちにやがてたどり着いた短歌というジャンル――五・七・五・七・七でつくる短詩の世界をなんとなく追っていった先で、おれはren_tankaさんに出逢ってしまったのだ。
 これを恋と言わずしてなんという。ひとりの歌人の発表短歌をぜんぶ辿り、ひとり画面を前ににやつき、ときめく。
 ren_tankaさんを追いかけることが今やおれの人生の一部である。

「正直、ここまではまるとは思ってなかったんだけどさ、本当にすごいんだよ! 短歌でずどんと心を射抜いてくるんだよ、もう最高なんだって! ほら、これが最近バズった短歌なんだけどさぁ」

 柿本にブックマークしておいた画像を見せる。そこに打ち込まれている短歌は――。

那須与一 大弓を構え壇ノ浦 的は読者の心臓 射抜け

 おれは短歌を読み上げた。
 
「これでおれたちと同じ高校生だなんて思えないよなぁ〜。那須与一! 大弓! 壇ノ浦! どれをとってもカッコいい! はぁ〜ツラい。かっこよすぎてつらいわ」

 身震いしたおれに柿本は冷めた目を向けてくる。

「俺はおまえがそこまでオタクの才能発揮するとは思わなかったよ」
「おれもそうおもうわ〜」
「水島は重症すぎるな」
「おう。それでさ、ren_tankaさんはネットでも人気なわけよ〜。更新頻度も高いしさ」

 例の那須与一の短歌も、いいねが二千、リポストが千を超えている。おれもささやかながら、いいねとリポストで応援させていただいている。

「ren_tankaさんの短歌はおれの宝物、今やおれの元気の素《もと》なわけだ、うん――」

 ren_tankaさんのすばらしさをさらに語ろうとしたおれの耳に――別の会話が割り込んでくる。

「廉? どした?」
「んー、なんでも」

 近くでスマホをいじりながら談笑していたはずの猪熊くんが――また、こちらをジッ、と見ていた。

――おれ、なにかしたっけ?

 覚えがなかった。
 柿本は頭の後ろで両手を組み、背もたれに体重をかけて伸びをした。

「やっぱ、短歌なんて俺には難しいな。マンガやゲームのほうがわかりやすくていい」
「おれは身近に同好の士がほしいんだよ。仲間になろうぜ……! ……え、ほんとにだめ?」
「悪いな」
「えぇ〜そんなぁ!」
「はいはい。おまえが大ファンなのは伝わった」
「そうだよ〜! おれはren_tankaさんが好き、大好きなんだよ!」

 自分でもおおげさに思うぐらいに力強く言い切った途端、がたん、と机が動く音がした。
 猪熊くんが教室を早足で出ていったのだ。
 あんなに慌てた猪熊くんは見たことがなかった。まるでおれに顔を見られまいと背けるように……。

――といっても、全然接点ないからよく知らないんだけどね。

 ただ、おれに向けていた眼差しの色に引っかかるものを感じたのだった。