火を怖がる俺と、顔を覚えない君

 潮時計の針が止まっていた理由を、樹はなかなか言わなかった。
 査問の帰りに時計屋で油を差し、いったんは動き出した秒針が、その夜にはまた口をつぐんだ。二度目の沈黙に、樹は笑って見せた。見せるためだけの笑顔だと、声の高さで分かった。

「学祭の搬入の日、落としちゃったんだよね。床に。蓋が閉まったままだったから、ガラスは割れてないけど、中の芯が歪んだのかも」
 届いたメッセージは、句点が多かった。
 気丈さと疲労は、句点に出る。
 電話をかけようとしたら、画面の上から“卒論ゼミ:発表準備”の通知が被さってきて、指は空中で行き場を失った。

 潮時計は祖父の形見だ。Aug.20――あの刻印の意味を俺は知っている。命日であり、目印。止まったら巻く、巻けないときは直す。直せないときは、直るまで“合図”を増やす。
 樹の「眠れていない顔」を、相貌失認ぎみの彼はきっと自覚できない。けれど、俺には分かる。声の張り、返事の間、句読点の配列、通話のときの空気の吸い込み。
 だから俺は、決めた。

 バイトを増やす。時計屋を変える。職人に直接、手を合わせる。
 “火に近づけない者”の決意はいつだって、遠くから始まる。遠くからでも、届くものがある。それは、時間。
 俺は翌日の朝一番のシフトに入れてもらい、閉店後まで居座る交渉をした。店長は例によって、理性的に笑う。

「無理はするな。けど、たまには、無理をしたほうがいい。使える筋肉は、使わないと固まる」
「筋肉」
「時間の筋肉。若いときの“むりやりのスケジュール”は、いずれ“適正”に変わる」
「……恋の筋肉も、ですか」
「それは知らん。俺は夜の人だから」
 ふっ、と片眉を上げる店長に、救われる。
 掃除用具の音、コーヒーミルの回転、扉の鈴の鳴り方――音がいつもより鮮明に聞こえるのは、決意が出力を上げているからだ。体は疲れているのに、耳が目になる。

 樹から潮時計を預かるとき、彼はあっさり差し出した。
「預けるね」
 言葉に絡む匂いは、潮でも油でもなく、紙と鉛筆の香りだった。卒論の匂い。
「修理、時間も、費用もかかるって。だから、しばらくは“合図”増やす」
 彼は胸ポケットを二度、そっと叩いた。
 こん、こん。
 俺も返す。
 こん、こん。
 “任せて”。
 「ありがとう」と言ったその声が、冬のガラス扉で二度跳ね返ってから、外へ出た。

 時計職人の工房は、駅のはずれの坂道を登った先にあった。看板は出ていない。小さな青い扉と、ほんの少しだけ開いた窓。中から、金属のわずかな擦過音が聴こえる。
 インターホンはない。扉をノックする。
「どうぞ」
 返ってきた声は、年代の割に粘りがあった。
 入ってすぐの壁に、古いゼンマイが額装されている。時代を外れた歯車の数が、そのまま文節の数みたいに見える。

「潮時計?」
 カウンターの奥にいる職人は、俺の顔より先に、俺の両手を見た。
「はい。海で使うわけじゃなく、祖父の、形見です」
「落とした?」
「搬入のときに」
「ふーん」
 短い返事。手際は早い。
 職人は蓋を開け、耳に押し当て、首を傾け、光に透かす。ひとつひとつの動作が、合図に見える。
「芯が、ねじれてる。油も、固くなってる。手を入れてやれば、動く。しかし、完全に“元通り”は無理かもしれない」
「動けばいいです。動いて、時間を、刻んでくれたら」
「動くだけなら、安くもできる。だが、君の言う“刻む”をやるには、手をかける必要がある。歯車の噛み合わせを全部追い直す。しばらく預かる」
 見積もりの数字は、俺の財布の厚みより、少しだけ分厚かった。
 でも、やれる。
 俺は頷き、封筒を置いた。
 職人はそれを押し戻した。
「先に全部払うな。何が起こるか分からん。――代わりに訊く。君は何をしている人だ」
「ガラスです。工房で、灯りを作っています」
「火のそばか」
「五メートル先から、見守るのが得意です」
 職人は笑った。口角ではなく、喉が笑った。
「いい距離だ。時計も、火も、女房も、五メートルがいちばん難しい」
「……はあ」
「近すぎると盲目、遠すぎると不信。五メートルは、信じる距離だ。巻き上げた音が、届く距離」
 祖父のような比喩だと思った。樹が聞いたら喜ぶ。
「卒論とやらで忙しいのか」
「忙しいのは、あっちです。俺は――巻く側」
「巻く側は、油を差し忘れるな。自分に」
 頷く。
 工房を出ると、午後の光はすでに傾いていた。坂道の途中で息を整え、胸ポケットを二度叩く。
 こん、こん。
 “今、巻いた”。

 駅前まで戻る途中、店長から電話が入った。
「今日の夜、時間取れるか」
「閉店まで大丈夫です」
「店じゃない。新しい場所の図面、見せたい」
 “新しい場所”。
 店長の声の湿度が半音だけ上がる。
「来春、移転する。海沿いの、もう少し小さくて、窓が大きい店だ。――そこで、君の卒業制作をショーウィンドウの“顔”にしたい」
 心臓が、二回、余分に打った。
 余分に打ったぶん、指先が熱くなる。
「俺の、ですか」
「君の。『呼吸灯』じゃない。君の“卒制”。最後に、君の名前で置いてほしい」
「……置かせてください」
 言ったあと、身体の奥から何かがほどけた。言葉は足りない。けれど、今はそれで十分だ。
「具体の話はまた。費用のことも持つ。――俺は夜の人だが、君の朝にも立ち会う」
 電話が切れたあと、橋の上で足を止めた。
 潮の匂いが強い。橋脚の影が水面で震える。
 俺はポケットの中で拳を握り、胸の内側を二度叩いた。
 こん、こん。
 “跳ねた”。
 しばらく誰にも言わないでおこうと思った。樹にさえ。
 軽々しく渡せない喜びがある。熟成させたほうが、灯の色になるものがある。贈り物を“贈り物”にするのは、包む時間だ。

 時間を包むには、手を動かすしかない。
 工房に戻ると、誰もいないはずの空気が、うっすら温かかった。昼の授業の余熱か、それとも、灯の記憶か。
 炉の温度計は安定。自動再点火の表示は“待機”。
 五メートルの線を床にテープで引いた。誰に見せるわけでもない、俺の距離。
 その線の手前に立ち、炉口の音を数える。ファンの送り出す空気の量、ガスの流量計のひっかかり、ブロアの脈動。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 厚みにする。
 俺は長い棒を持たず、工具にも触れない。エプロンの紐を結び、一歩も線を越えないで、見守る練習をした。
 誰の作業もないのに、練習になるのか――そう思う声もある。けれど、俺には必要だ。
 燃える音を、耳で分解し、呼吸に変換する。恐怖の波を、音符に置き換える。線を越えずに、灯に寄り添う。
 五メートル先の火は、俺の体温を奪いもしなければ、与えもしない。奪い合わない距離。
 胸ポケットを二度叩く。
 こん、こん。
 “ここにいる”。
 返事はない。返事は要らない。
 線の手前に立ち続けるうちに、膝がふるえることはなかった。ふるえが出る前に、音を一つ増やす。
 合図は、外側に向かってだけではない。内側にも打てる。
 俺の“合図”は、俺にも有効だ。

 夜の九時を過ぎる頃、校舎の窓ガラスが冷えて、外の光が線になった。
 工房の扉を閉めると、扉はしっかりと寝息を立てて、暗闇の厚みが増す。
 携帯が震えた。
 樹から、一文。
 ――君の声、今欲しい。
 シンプルな文字列は、逆に体温を逃がさない。
 電話をかける。呼び出し音が三回鳴って、留守電に切り替わる。
『メッセージをどうぞ――』
 聞き慣れた機械の声が、今夜は海の音に聞こえた。
 俺は息を吸い、いつもの“短い声”ではなく、“長い声”を選んだ。
 長い声は、沈黙を怖がらない。

「樹。蓮です。……いま、工房。炉は寝てる。五メートル先から見てる。何もないのに、見てる。意味がないことを、練習しています」
 自嘲の笑いは入れない。
「意味がないこと、って、言い切るとき、胸が軽くなる。多分それは、意味が“あとから来る”って知ってるから。昼間に引いた線の意味は、夜になってから分かる。――樹の潮時計だってそう。止まった針の意味は、すぐには分からない。けど、直す意味は、あとからくる。だから預けた。職人さん、五メートルが大事だって言ってた。火も時計も女房も五メートル。女房はいないけど、わかる気がする」
 言いながら、自分の言葉の“厚み”を測る。
 嘘がないか。見栄が混じっていないか。
「店長に、卒制の話をもらいました。来春、店を移転するって言ってた。新しい窓に、俺の灯を置くって。――嬉しい。言いたかった。けど、まだ言わない。もう少し、包んでいたい。包んだら、光が違って見えると思うから」
 暗闇の中で笑う。
「笑ってる。今のは自分で笑ってる。……樹、眠れてる? 眠れてないよね。眠れない夜のために、音を置いておきます。工房の音。ファンの音、ブロアの音、何もしてないのに鳴ってる音。鳴ってないのに鳴ってる音。時計屋で聞いた針の音を思い出して、重ねます」
 俺は携帯を胸に近づけ、胸ポケットの上を二度、叩いた。
 こん、こん。
「合図。――合図。君の胸のポケットにも、二回打って。今は返事いらない。君は“巻く側”じゃない。巻かれる側でいればいい。卒論、発表、準備……。言葉にすると、紙が喉に差さるの、分かる。だから代わりに、今夜だけ、俺が喋る」
 沈黙が挟まる。機械はまだ待ってくれている。
 長い留守電のコツは、波を作ることだ。海のように。
「事故の音、まだ出る。出るけど、前より怖くない。怖いまま、線の手前に立てる。樹が言ってくれたから。『怖がるのは正常。怖いままで立てるやり方を一緒に探そう』って。――あの時、救われたの、まだ続いてる。続いてる時間を、俺は返したい。返す方法は、灯を作ることと、声を送ること。声は、火みたいに温度がある。君はそれを測れる人だ。今日は留守電に預ける。明日は、胸に預ける。明後日は、海に預ける」
 自分でも驚くほど、言葉が出てくる。
 ひとつひとつ薄いのに、重ねていくと厚みになる。
「潮時計、完全には元通りにならないかもしれない。でも、動く。動くなら、それでいい。止まったことのある針のほうが、好きだ。止まったことのある心臓のほうが、好きだ。再開の音を知ってるから。――俺たちは多分、止まるたびに合図を増やしていく。増やすだけじゃなく、質を変えていく。指先の二回、それに声の二回、灯の二回、息の二回。二拍子で生きる。君のクラゲは三拍子でも、俺たちは二拍子。二人だから」
 留守電の時間制限に、まだ余裕がある。
 機械に許された長さの、ぎりぎり手前で止めたい。
「喉の紙は、今日は一枚も折れてない。折れたら、君に見せる。折れても、戻せる。――樹、眠くなったら、切っていいよ。切らなくても、切れるから。機械は優しい。海も優しい。俺は、たまに優しくない。だから、声のやわらかさで埋めます。おやすみ。……あ、工房を出るとき、灯に息を吹きかける。蜂蜜の膜が、今夜はちょっと濃い。寒いから。濃いぶん、光がやわらかい。君の眠りに、やわらかい光が届きますように」
 最後に、胸ポケットを二度叩いた。
 こん、こん。
「おやすみ」
 通話が切れる。
 耳が突然に静かを拾い、工房の天井が低くなる。
 留守電という無人の容器に、声を置くのは、灯を吊るすのに似ている。吊り上げたあと、手を放しても、そこに在る。

 工房を出る前に、もう一度、五メートルの線を見た。
 線は床に貼られたまま、何も言わない。
 明日は、樹と海に行く約束をしていた。時計はまだ職人の手の内。針の音は、無い。
 無い音を聞く練習は、灯の練習に似ている。
 扉を閉めると、冷たい空気が頬に触れた。冬は嘘をつかない。冷たいものが、冷たいと告げる。
 ポケットの中の携帯が震えた。
『留守電、聞いた。――ありがとう。眠る前に、君の二拍子、胸に置いた』
 樹のメッセージ。
 絵文字も飾りもない、四行。
 一行ずつ読み、胸ポケットを叩く。
 こん、こん。
 “おやすみ”。

 翌日、午前中はバイト、午後は工房、夜は海。
 指先の油は切らしていない。時計職人にもらった小瓶を、ポケットに入れているだけで、少し強くなった気がした。
 バイトの合間、店長が新聞の切り抜きを渡してくれた。
「この商店街、移転する店が多い。生き残るのは、窓のいい店だ。窓の外に季節が入る。窓の中に時間が立つ。――ガラス屋には、窓の管理を頼む」
「管理」
「風の当たり方、光の進入角、夜の反射。灯りは、窓で変わる」
 管理という言葉で、背筋が伸びる。
 俺は夜の人ではないけれど、夜の人の背中の使い方を、少しずつ覚えている。
 閉店間際、店長は言った。
「君の卒制、君のものにして持ってこい。誰の影でもない。君の二拍子で、立て」
「はい」
 短く、深く答える。
 店の鍵を閉め、海へ向かった。

 冬の海は、音が少ない。
 砂の粒が乾いているぶん、足音がよく響く。打ち寄せる波が小刻みに、二拍子になっている。
 樹は防寒のフードを目深にかぶって待っていた。顔の輪郭が見えないぶん、姿勢の癖で彼だと分かる。
「遅くなった」
「早く来た」
 彼は笑って、胸ポケットを二度叩いた。
 こん、こん。
 俺も返す。
 こん、こん。

 防波堤に座る。風が鼻の奥を痛くする。
「留守電、長かった」
「長すぎた?」
「ちょうどよかった。長い声は、波に似てる。眠りの浅いところで、波が寄せてきた。――眠れた」
 安堵が、耳の横で音を立てる。
「よかった」
「蓮の話、全部覚えてる。女房のところも」
「そこ?」
「女房はいないって言ったところ、笑った。笑って、眠れた」
 樹はポケットから、小さな手帳を取り出した。
「卒論、骨は出来た。明日、ゼミで叩かれてくる。叩かれる前に、叩けるところは叩いた」
「叩くのは、紙?」
「脳。脳の皺。……潮時計、今日、職人さんから電話があった」
「どうだった」
「“動く”。ただ、完全には戻らない。――蓮の留守電の通り」
 波が、二拍子で砂を揉む。
「動けばいい。音が戻る。戻った音は、最初の音より少し濃い。油の匂いがするから」
「匂いのする音」
「好き」
 短い会話が、夜の空に縫い付けられていく。
 樹がポケットの中で何かを握り、俺に差し出した。
 白い紙に包まれた、小さな箱。
「これ、先に渡しておきたい。――卒論、終わったら改めてでもいいけど、今、渡したい気がした」
「開けても?」
「うん」
 包みを解く。中から出てきたのは、薄い真鍮のタグだった。蜂蜜色に鈍く光る。小さな穴が二つ。
「二つ穴?」
「うん。……“合図”のタグ。胸ポケットの内側に縫い付ける。触ると、二回、指が迷わない。迷わないと、打てる」
 胸が鳴った。
 こん、こん。
 「ありがとう」しか出てこない。
「俺、顔が覚えづらい。けど、タグの位置と、蓮の指の動きなら、きっと覚えられる。卒論の間、針がないときの代わりに、音の座標が欲しかった」
「俺も欲しかった。……これ、俺からも同じやつ、渡してもいい?」
「欲しい」
「じゃあ、卒制の資材買うついでに、真鍮買う。――二拍子の穴をあける」
 タグを掌に乗せ、冷たさを測る。冷たさは、やがて体温に馴染む。
「職人さん、言ってた。五メートルが、信じる距離」
「うん」
「俺たちは、五メートルの練習が上手い。上手いから、近寄れる」
 樹はタグを俺の胸ポケットの内側に仮留めしてくれた。針と糸を持ち歩いているのかというと、持ち歩いていた。ゼミで資料の角を綴じ直すのに必要だから、と言う。
 等間隔の二つの縫い目。指の腹で触ると、確かに迷わない。
 胸の内側から、二度、叩いた。
 こん、こん。
 樹が笑って、外側から返す。
 こん、こん。

「蓮、店長の話、聞いた」
 不意に樹が言った。
 心臓が跳ねて、耳たぶが熱くなる。
「え?」
「“移転する”って。――真帆から」
「真帆」
「真帆は噂の中心に住んでるから。けど、卒制の“顔”にって話は、聞いてないよ。今、蓮の顔を見て、分かった」
 顔を見なくても分かったのだろうけど、樹はそう言った。
「包んでおきたかったんだよね」
「うん」
「包んでから、渡して」
「渡す」
 短く、深く答える。
「俺の潮時計も、包まれて戻ってくる。油の匂いと一緒に。――針の音、戻ったら、録る。夜の窓で。二拍子で。店長の窓に置く灯と、合図する」
「合図」
「こん、こん」
 俺たちは同時に、胸を二度叩いた。
 海が、二度答える。
 ざん、ざん。
 二拍子は、世界のどこにでも潜んでいる。

 帰り道、坂道で息が切れた。
 樹は歩幅を合わせる。俺も合わせる。合わせることに、むず痒さはない。体はそのたび、歩き直す。それが、決意の運動だ。
「蓮」
「うん」
「明後日、査読。ゼミの。怖い」
「怖いままで、立てる」
「立てる」
 樹は胸ポケットを二度叩いた。
 俺は外側から、二度叩いた。
 構造は単純で、拡張性がある。
 こん、こん。
 こん、こん。

 部屋に戻ってから、タグを本留めした。針目を揃え、二つの穴を確かめる。
 針の動きはゆっくりで、呼吸と合う。
 糸の結び目を前歯で軽く噛んで締めたとき、電話が鳴った。
 店長だ。
「図面を描き直した。窓の幅、あと十二センチ伸ばせる。――灯の直径、あと一回り大きくできる」
「できます」
「喉の紙は、何枚」
「ゼロ」
「いい夜だ」
 電話を切ったあと、俺は机の引き出しからスケッチブックを出し、卒制の最初の図面を描いた。
 これまでの「呼吸灯」とは違う、俺だけの灯。樹のクラゲとも違う。店長の窓に、夜を呼び込むための灯。
 二拍子の厚み。
 火の近くに立てない図面。
 五メートルの信頼。
 これで、行ける。

 ペン先が紙を押す重さで、意識が静かになった。
 眠る前に、胸ポケットを二度叩いた。
 こん、こん。
 “明日も”。
 返事はない。返事はいらない。
 合図は、眠りにも有効だ。
 目を閉じる直前、潮時計の針の音が幻のように耳に届いた。
 カチ、カチ。
 止まった針と、止まらない決意。
 どちらも、俺の胸の中で、同じ二拍子で鳴っていた。