火を怖がる俺と、顔を覚えない君

 週明けの朝は、海霧が校舎の角を丸くした。
 学内掲示板の騒ぎは一応の沈静化を見せていたけれど――というより、人は祭の幕が下りると同時に別の見世物を探すのが上手い――その余韻の冷たさだけは、廊下の金属手すりに残っている。指を当てると、熱がちょっとだけ奪われる感じがした。

 学科会議、いわゆる“査問”は、教務棟の四階にある窓の少ない会議室で行われると告げられていた。
 “会議室”という言葉には、どうしても乾いた紙の匂いと蛍光灯の唸りがつきまとう。俺は事故以来、そういう音の帯域に弱い。喉の奥が紙で折られたみたいに詰まりやすくなる。
 だから事前に、樹と段取りを決めた。

「発表の構造は俺が組む。君の“言わなきゃいけない場所”には付箋を貼る。そこでだけ、君が“俺”で話す」
 樹はそう言って、ノートの余白に小さな□をいくつも描き、そこへ「合図→入る」「合図→黙ってうなずく」と手書きした。
「合図は胸ポケットにする。会議中は手の甲に触れられないから」
 彼は人差し指で空を二度叩き、俺の胸ポケットにそっと指先を当てるみたいな仕草をした。
 こん、こん。
 距離のある合図。
「喉が詰まったら、音を数える」
 樹は続ける。
「プロジェクターのファン、空調、ペンのノック、蛍光灯。バラバラに聞こえるそれを、君は厚みに変えられる。――それ、言葉にもなる」
 言葉にもなる。
 俺は頷いて、彼のノートに自分の字で「音→厚み」と書いた。紙がペン先の重みを受け止めて少し沈む感じ。沈んだぶんだけ、出る言葉の高さが一定になる気がした。

 会議室へ向かう前、工房に寄って、吊ってある“呼吸灯”のひとつに息を吹きかけた。蜂蜜の膜が一瞬だけ揺れ、青へ戻る。
 ――大丈夫。
 ガラスの厚みは、裏切らない。
 裏切らないものを持って部屋に入るのと、空っぽで入るのでは、喉の具合が違う。

 教務棟の階段を上がると、いつもより足音がよく響いた。
 四階の踊り場に出た瞬間、潮の匂いが弱くなり、紙と粉と冷房の匂いが勝った。
 会議室のドアの前で一度、深く息を吸う。
 樹が横で同じタイミングで吸う。肺の膨らみ方が違うのに、出入りする空気の重さは同じだ。
「行こう」
「うん」

 部屋に入ると、白い長机が“コの字”に並べられ、教授陣が二辺に座っていた。三辺目、開いているところに学生側が座る。俺と樹は真ん中。佐伯は一番端。真帆はその隣にいて、膝の上で手を握りしめている。
 壁際には事務の人が二人。パソコンの画面がこちら向きに置かれ、記録が始まっているのがわかる。
 蛍光灯は古いタイプで、点滅の周波数が僅かに目に刺さる。プロジェクターのファンが低く唸り、何かの空調の吹き出しが天井から遠くに聞こえる。
 音の群れ。
 数える。
 ひとつ、ふたつ、みっつ。
 厚みにする。
 重ねる。
 ――大丈夫。

 学科主任が開会を告げ、まず、現時点での“事実関係”の確認が読み上げられた。
 「学祭出展作品のデザイン下描きがSNSに流出」「類似する海洋学科ポスター」「当該ポスター作者の謝罪」「掲示板への虚偽の書き込み」「当事者間のやり取り」。
 名前はイニシャルで読み上げられるのに、部屋にいる全員がそれを名前に変換して受け取っているのが、空気の温度のわずかな変化でわかった。
 主任は眼鏡のブリッジを押さえ、資料の最後を閉じた。
「では、当該作品の制作プロセスについて、補足の説明を。――水城くん、お願いします」

 喉が、紙で折られたみたいに一度止まる。
 胸ポケットの下、シャツの布地越しに、二度、なにかが叩かれた気がした。
 こん、こん。
 樹の指だ。
 入る。

「水城蓮です。工房での“呼吸灯”は、――音で組んだ作品です」
 自分でも意外な言葉が最初に口を出た。
 教授の一人が眉をわずかに上げるのが見えた。
「音、ですか」
 問いの針が刺さる前に、俺は続けた。
「はい。炎の音、ガスの流量の変化、工具に伝わる震え、炉の唸り、そして――自分の鼓動。事故以降、長く喋ると喉が紙みたいに折れるようになって、耳がそのぶんよく拾うようになった。怖がる身体の音を、“厚み”に変換していく方法を、試行錯誤してきました」
 プロジェクターに映したスライドは、樹が組んでくれた“図説”。
 「厚みの地形図」と彼が呼んだスケッチに、俺の字で「鼓動」「炎の呼吸」「工具の滞在」と書かれている。
「溶融の厚みは、等高線のように、時間の重なりです。怖いからこそ、長居できない場所がある。長居できないぶん、別の場所に“滞在”を分配する。厚みの波が呼吸になる。――クラゲの脈動は、そういう“滞在の地図”で再現しました」
 喉の奥の紙が、少しほどける。
 言葉を置く場所が見える。
 樹がスライドを切り替える。「呼吸灯」の試作過程の写真。火口に最も近づけない俺が、どこに立ってどの工具にどう合図したか。樹の側から見た記録も同時に並ぶ。
「熱源の管理は朝比奈さんがしてくれました。僕は距離を取って、時間の配分とリズムを指示した。――出し惜しみをやめると決めたのは、学祭三日前です。それまでは、自分の“弱さ”が露見するのが怖くて、図面の中心を隠す癖があった。けれど、海洋学科の展示と繋ぐなら、呼吸の中心を共有するしかないと気づいた」
 胸ポケットに、二度。
 こん、こん。
 樹の“いい”の合図。
 俺はそこで一度、言葉を置いた。

 主任が頷き、今度は樹を見る。
「朝比奈くん、補足を」
 樹は席を立たず、口だけで静かに話し始めた。
「僕は相貌失認ぎみで、人の顔のディテールより、歩き方や咳払い、筆圧で識別するほうが得意です。研究対象も“発光クラゲの行動パターン”という、見えないリズムを相手にすることが多い。だから、水城くんが『音で厚みをつくる』と言ったとき、彼の“図面の中心”がどこか、すぐにわかった。――僕は火の“目”になりました。彼は耳でいてくれた。二人三脚で、炎の周囲に安全域を描く。その境界線の引き方も、作品の一部です」
 言いながら、樹は胸のあたりを軽く指で叩いた。
 こん、こん。
 会議室の誰も気づかないくらい小さい音。でも、俺の胸はちゃんと返事をした。
 こん、こん。

 質疑が始まった。
 最初は穏やかだった。制作メモの提示の仕方、日時の裏取り、図面ファイルの更新履歴、工房の出入り記録。
 事務の人が淡々と画面を切り替え、事実は事実として並べられていく。
 やがて、ひとりの教授が椅子に深く座り直し、両手を机に組んだ。
「“他人のアイデアを盗んだ”という誤情報が流れた背景を、どう考えるか。――“見せ方”の問題はないか」
 “見せ方”。
 その二文字は、工房のガラスより割れやすい。
 喉がまた紙で折られそうになる。
 胸ポケットの下、二度。
 こん、こん。
 入る。
「僕は“見せない”癖がありました。事故のあと、“弱さ”の中心を隠すように、図面のファイルも、写真のトリミングも、どこかで“外向き”の顔になっていた。――それが、誤解を生んだのは、認めます。けれど、隠したのは“盗み”のためではなく、怖さのためでした。出し惜しみをやめると決めたのは、海と繋げるためです。火に近づけない僕の作品に、火の密度が宿ると信じてもらうために」
 教室が、一秒ぶんだけ沈黙した。
 沈黙は、ときに拍手より温度がある。
 別の教授が腕を組み、ゆっくり言った。
「“火に近づけない者”の作品に、火の密度が宿るのは、面白い」
 面白い、という評価の使い方を知っている人の声だった。
 俺の喉の紙は、いくつも折られていたのに、いま一本だけ伸ばすことができた気がした。

 佐伯に関する話へと流れる。
 彼は席で足を組み、表情を動かさずに天井の一点を見ていた。
 主任が問いかける。「掲示板への投稿、写真の扱い、あなたの判断は軽率だったと考えますか」
 佐伯は一拍置いてから、両手を上げる仕草をした。
「軽率でした。悪意は――」
「“悪意はなかった”は、最初に言う言葉じゃない」
 主任が柔らかく遮る。
 佐伯は口をつぐみ、うなずいた。
 処分は保留。関係者全員に“共同での倫理講習受講”と“学祭運営側への報告書提出”。
 罰というより、線の引き直し。
 いい。
 それでいい。
 俺は心の中でうなずいた。

 会議が終わるころには、蛍光灯の唸りの高さがわずかに下がっていた。
 プロジェクターが切られ、ファンの音が止む。
 途端に、部屋の静けさが残り香みたいに濃くなる。
 主任が最後に言った。
「火も海も、“近づき方”の設計で芸術になる。――今日は、それを学んだ気がします」
 言葉の端に、ほんの少しだけ潮の匂いが混じった気がした。
 俺と樹は席を立ち、一礼して会議室を出た。

 廊下に出ると、窓のない直線に、午後の光が横から差していた。誰かがドアを開け閉めするたび、光の帯が切られ、つぎはぎになる。
 俺たちは踊り場まで歩き、誰もいないのを確かめてから、同時に息を吐いた。
 長い息。
 樹が俺の両肩に手を置いた。
「よくやった」
 手のひらの重みは、褒め言葉より先に届く。
 俺は頷き、樹の胸ポケットを軽く叩いた。
 こん、こん。
 “ありがとう”。
 彼は笑って、返す。
 こん、こん。

「喉、どう?」
「紙三枚ぶんくらい折れたけど、二枚は戻った」
「うまいこと言う」
「うまく言えたのかな」
「うまくじゃなく、正確に言えた。――それが“うまい”の本質」
 樹は俺の肩から手を離し、ジャケットの内ポケットから潮時計を取り出して蓋を開けた。
 いつもの小さな音が、踊り場の静けさに馴染むはずだった。
 ……ならなかった。
 秒針が、止まっている。

 樹の指が、ほんの少しだけ震えた。
 彼は時計を耳に当て、軽く揺すった。
 カチ、と一瞬だけ音が戻り、また止まる。
 バネの里帰りに失敗したみたいな沈黙。
「巻きが、甘かった?」
 俺が小声で問うと、樹は首を横に振った。
「昨日の夜、寝る前に巻いた。……たぶん、中の油が寒さで固くなってるのか、――いや、違う」
 彼の声が、少しだけ遠のいた。
 相貌失認ぎみの彼は、人の表情よりも、手の震えや呼吸で世界を読む。
 だから、今、自分の指の震えを一番先に読んでしまったのかもしれない。
 俺は彼の指を包むように手を重ね、胸ポケットのあたりを二度、そっと叩いた。
 こん、こん。
 “今は、呼吸”。
 樹は小さく笑って、うなずいた。
「うん。――深呼吸」

 踊り場の窓を開けると、海の冷たい匂いが戻ってきた。紙と粉の匂いの層を剥がすみたいに、潮が肺に入る。
 樹は潮時計を両手で持ち直し、親指の腹でそっと蓋を撫でた。
「祖父の命日、“Aug.20”の刻印は、俺のための目印じゃない。――止まることもある。止まるたびに、巻き直す。そう教わったのに、今日、止まっただけで、身体が先に止まりそうになった」
 自嘲するみたいな笑い方。でも、笑いの温度は低くない。
 俺は頷き、言った。
「止まったから、巻ける。止まらなかったら、巻けない」
「……名言」
「店長の真似」
「夜の人の、いい影響だ」
 樹は時計を内ポケットに戻し、少しだけ姿勢を正した。指の震えは、もうない。
「後で、時計屋に寄ろう。油のこと、見てもらう」
「付き合う」
「ありがとう」

 階段を降りながら、俺はふと思った。
 会議室の沈黙は、責め立てるためのものじゃなかった。
 そこに置かれた“止まった秒針”を、誰もが数秒だけ見つめ、各自の時間に巻き直すための間だったのかもしれない。
 沈黙の教室。
 沈黙の踊り場。
 沈黙の胸ポケット。
 そこに二度、合図を打てば、言葉は出てくる。
 怖いまま、出てくる。

 外に出ると、冬の光が斜めに降り、工房の屋根のガラス片に小さな虹が生まれていた。
 真帆が走ってきて、両手で俺の腕を掴んだ。
「どうだった?」
「なんとか、なった」
「教授がね、『面白い』って言ってたよ。廊下で聞いた」
「うん、聞いた」
 真帆はほっとして、握っていた手を離した。
「佐伯は?」
「処分は保留。講習と報告書」
「それで、いい」
 真帆はぽん、と俺の肩を叩いた。
「喉、飴いる?」
「紙三枚ぶん戻ったから、大丈夫」
「なにそれ」
「蓮の新しい物差し」
 樹が笑って答える。
 真帆は首をかしげ、でもすぐに意味がわかったみたいに「へぇ」と言った。
「じゃあ、紙ゼロになるまでしゃべらせないように、今日は送っていく」
「助かる」
「時計屋、寄ってもいい?」
 真帆が樹を見る。
「もちろん」

 駅前の古い商店街に、小さな時計店がある。ガラス戸の内側に、昭和から止まっているみたいな柱時計と、平成で止まっているみたいなデジタル置時計が並んでいる。
 店主の年齢は時計よりは若いけれど、声は針の音に近い。
「油ですね。寒いと固くなるのもある。――少し手入れしましょう」
 作業台に潮時計が置かれ、ほんの短い間、樹の手から離れる。
 離れた瞬間、彼の指先がまた少し震えた。
 “祖父の形見”である以前に、彼の時間を、毎日たしかに刻んでいたもの。
 店主が小さな刷毛で油を差し、ピンセットでどこかをつつく。
 カチ、カチ、カチ。
 秒針が戻る。
 音が戻る。
 樹の肩の力が、静かに抜けた。

 店を出ると、夕方の風はもう夜の匂いを少しだけ含んでいる。
 真帆が小走りでバス停へと向かい、俺と樹は歩幅を合わせて大学のほうへ戻った。
 合図は胸ポケット。
 こん、こん。
 “戻った”。
 返す。
 こん、こん。
 “知ってる”。

「ねえ、蓮」
「うん」
「今日、君が“俺の言葉”で話したところ、よかった」
「俺の言葉?」
「『怖いからこそ、長居できない場所がある。長居できないぶん、別の場所に滞在を分配する』。――それ、今日の会議室でも使ってた」
 樹は笑う。
「“滞在の配分”。会議室は火口じゃないけれど、君にとっては似た場所だ。近づき方を設計できた。だから、言葉が厚みになった」
 褒められているのに、心は静かだった。
 静かな嬉しさは、音が小さいぶん、長く鳴る。
「明日、海に行く? 祖父の命日じゃないけど。巻き直した針で、海を見たい」
「行こう」
「朝と夜、どっちがいい?」
「夜」
 即答して、今度は自分で笑った。
「夜の人だから」
「うん。――夜の呼吸で、灯をまたひとつ作ろう」
 樹の言葉に、喉の紙が完全にほどけるのを感じた。

 学内の掲示板に戻ると、昼間のスレッドは下の方へ流れ、別の話題が上にあった。新しい展示、落とし物情報、迷子のフェレット。
 俺たちの件は、砂になりつつある。
 汗をかいたぶんだけ、砂は風で飛ばされる。
 飛ばされた砂のあとに残るのは、足跡じゃなく、厚みの等高線だ。
 “火に近づけない者”の図面。
 “海に顔を覚えてもらえない者”の地図。
 それが重なる場所に、灯は立つ。

 夜、工房に戻ると、誰もいないはずなのに、天井の梁がうっすら温かかった。昼間の灯の余熱が残っているのかもしれない。
 俺は吊り下げ金具の一本に手をかけ、数ミリだけ位置をずらした。
 樹が波長変換板の角度を一度だけ変え、蜂蜜の滞在時間を半呼吸伸ばした。
 灯が、呼吸をひとつ増やした。

「明日の夜、海に行ったら、針の音、録るね」
 樹が言う。
「ボイスメモで?」
「うん。――眠れない夜はこれを再生して。海は同じリズムで寄せては返す」
 以前、彼から届いた音声メモの言葉を、彼自身が繰り返す。
 繰り返しは、約束になる。
 俺は頷き、胸ポケットを二度叩いた。
 こん、こん。
 “期待してる”。
 樹が返す。
 こん、こん。
 “任せて”。

 蛍光灯のスイッチを切る。
 工房は一瞬で夜になる。
 でも、真っ暗ではない。
 外の海の反射と、遠くの街灯と、吊られた灯の蜂蜜の記憶が、薄く残光を作っている。
 俺と樹はその中を歩いて扉へ向かい、同じタイミングで足を止めた。
 言葉はない。
 合図だけ。
 こん、こん。
 こん、こん。
 扉が開き、潮の匂いが流れ込む。
 沈黙の教室の外で、俺たちはまた、言葉を巻き直す。
 秒針は動き出した。
 火は眠っている。
 海は息をしている。
 明日の夜、俺たちはまた、厚みを一段、増やす。