祭の朝は、潮の匂いが少し甘い。
 海沿いの大学は、風まで浮かれているのか、校門のアーチに結んだリボンをふくらませたりしぼませたり、気まぐれな拍手を送ってくる。俺はまだ人気のない中庭を横切り、工房前に積んだ木箱の角に腰をあてて持ち上げた。角の木目が手のひらに食い込み、夜更かしの痺れが一つずつほどける。

 ガラスのクラゲ――俺たちの“呼吸灯”は、薄布で包まれて揺れた。
 箱の底には、樹がラベルに書いた「波長変換板/青-緑」のメモ。
 昨夜二人でテストした“蜂蜜を一瞬だけ通してから海に戻す”光の調整は、仮眠明けの頭にもまだ残っていた。合図は午前四時に二度。こん、こん。火は機嫌がよく、俺の耳も機嫌がいい。

「おはようございます」
 背中からたたみかけるような明るい声。工房の扉が開き、樹が白いシャツの袖を肘まで折り返しながら出てきた。海洋学科の青い腕章が、祭の日差しに軽く照り返す。
 彼は俺の足取りを一度眺め、手の甲に視線を落としてきく。「……いい?」
 俺は頷いて、手の甲を差し出した。
 人差し指が二度、静かに触れる。こん、こん。
 “触れていい?”
 今日も、そこから始める。
 箱の反対側に回った樹が、声より先に体重で合図し、二人で運ぶ。足場の悪い中庭でも息が揃うのは、俺の踵のコツコツという音と、樹のわずかに速い呼吸が、もう互いの“北”になっているからだ。

 展示スペースは工房の隣に臨時で設けた。天井の梁から吊るすための金具は前夜に仕込んである。ミーティングボードには、昨夜決めたばかりの説明文が真帆の字で貼られていた。

海の呼吸を、ガラスの厚みで。
光の波長を、クラゲの脈で。
近づきすぎず、遠ざかりすぎず。

 開場五分前、照明を落とす。朝の教室みたいに白かった空間が、すっ、と夜の底を少しだけ借りてきた。
 樹がタブレットのスイッチを入れ、波形を流す。俺は“呼吸灯”の傘の縁を最後に磨き、手を引く。
 灯の下へ、蜂蜜色の粒が一瞬だけふりかかる。すぐに青へ沈む。
 呼吸の遅延――縁と中心のわずかな時間差――は、炎でつくった厚みのリズムと、樹が持ち込んだ波長変換板のわずかな色覚のずれで、見えないくらい見える。

「始まりまーす! おはようございまーす!」
 学生会の拡声器が校舎の隅々まで届き、早足の家族連れが流れ込んでくる。最初は遠巻きに眺められ、次に近づかれ、三番目の波で子どもが群がる――予想どおりの順番だったはずが、今日は二番目と三番目がほとんど同時だった。

「クラゲだー!」
「さわっていいの?」
「さわるのは見学用のほうねー、こっちは吊ってあるの見ててねー」
 真帆が笑いながら低い棚に置いたタッチ用の小型灯へ子どもを誘導する。小型のほうは角を丸くしてあるから手を置いても安全だ。
「見て、息してるよ」
 隣で母親が言う。
 息。
 その言葉が、俺の胸の奥でもういちど灯りを入れた。息は、出し惜しみができない。

 群衆の向こう側から、樹の声が飛ぶ。
「海洋学科、クラゲ展示こちらでーす。光の説明はこのガラスの作品と一緒に――」
 振り返ると、海洋学科のブースにも、俺の“呼吸灯”がひとつ置かれていた。昨夜借り渡しした個体だ。樹はその前で、子どもと大人の高さを視線で交互に拾いながら、光の波形とクラゲの行動を言葉にしていた。
「光は“誘い水”です。ここはガラスの方がうまい。厚みで息をつくってる」
 “うまい”。
 穏やかな言い方のなかに、樹の癖のない肯定が混じる。胸の下が軽くなる。
 俺は工房側のブースへ戻りながら、吊り下げた灯の揺れをひとつずつ見た。支柱のねじれ、天井の梁の微妙な弛みを、光の揺れが暴いてくれる。
 ――今日は、揺らぎを急がせない。
 灯たちの呼吸に、俺の呼吸を合わせた。

 前半の波が落ち着くまでは、ほとんど無言のまま手を動かす。売り子用のカードを補充し、子どもの背の高さに合わせた脚立を片づけ、質問に短く答え、落ちたパンフレットを拾い、落とした言葉を拾い直す。
 “すごい”“きれい”“涼しい”――祭の言葉は、どれも短い。短い言葉が、積み木のように積み上がって、昼頃には天井に届きそうになった。

 そこへ、バイト先の店長が現れた。
 エコバッグに紙コップのコーヒーと、焼きっぱなしのクッキー。いつもみたいに不似合いなパステルカラーのスニーカー。
「水城くん」
 名前を呼ばれる。店長は人の名前を真っ直ぐ呼ぶ。
「差し入れ、いい?」
「ありがとうございます。……来てくれるとは」
「君の“クラゲ”、見たかったんだ」
 コーヒーは砂糖なし、クッキーは粉砂糖が多め。口の中が忙しくなる組み合わせだ。店長は灯を見上げ、目をすがめ、唇の片方だけで笑い、言った。
「ショーウィンドウに、置きたい。うちの店、年明けにリニューアルするから。その正面、海の側に向けて」
 心臓の鼓動が、二拍ほど音程を上げた。
 嬉しさと怖さは兄弟みたいに似ている。
 嬉しい。怖い。嬉しい。怖い。順番はつかない。
「委託でも買い取りでも、条件は応相談。納期は……学祭が終わってからでいい。どう?」
「……考えさせてください」
「もちろん」
 店長は短く頷き、コーヒーの蓋を取りながら付け加えた。
「君の灯は、夜の人が見ると元気になるタイプだ」
 “夜の人”。
 店長はときどき、意味のわからない褒め方をする。でも、そのわからなさが妙に体温に合うから、嫌いになれない。
「それとね」
 店長は軽く声を落とした。
「掲示板のこと、気にしてる?」
 掲示板。
 胸の奥、クッキーの粉砂糖の甘さが急に喉につかえる。
「……見たんですか」
「お客さんが教えてくれた。『学内の掲示板がざわついてる』って。――君が、誰かのデザインを盗んだって」
 盗んだ。
 言葉は短いほど刃物になる。
 俺は、答える言葉が見つからずに、首を横に振った。
 店長は、うん、とひとつだけ頷いた。
「噂は、汗をかかない。だからしつこい。でも汗をかかないものは、いつか砂になる。君は、自分の手で汗をかいていればいい」
 意味はわかるのに、うまく飲み込めない言葉。
 その上から、樹の声が落ちてくる。
「店長さん、ありがとうございます」
 いつの間にか隣に立っていた樹が、軽く会釈をした。
「彼の灯は、海で呼吸しています。砂には埋もれません」
 店長は笑って、「じゃあ、なおさら」と言って帰っていった。エコバッグがカラカラ鳴る。
 俺は紙コップの縁に唇を当て、熱さの上で少しだけ安心した。

 昼過ぎ。
 屋台の焼きそばの匂いが風の筋を変え、祭の音楽が古いスピーカーから少しだけ割れて出てくる。
 俺のスマホが、手のひらで震えた。
 通知。
 「学内掲示板:新着スレッド」
 冷たい水をいきなり飲んだときみたいに、胃がぎゅっと縮む。
 開くと、そこに短い行がいくつも並んでいた。

水城=他人のアイデアを盗む側、って聞いた
先にSNSに上げたのは向こう(※画像あり)
てか工房の人、火の前に立てないってマジ?
展示止めたほうがよくない?

 “=”は、数学より残酷だ。
 俺は息を吐いて、画面を閉じた。
 閉じた画面に、自分の顔がうっすら映る。血の気の引いた頬と、祭の色の反射。
 ――見るな。
 心のどこかが言った。
 ――でも、逃げるな。
 別のどこかが言い返した。
 板挟みの間で、指先だけが確かに暖かい。さっき磨いたガラスの縁の熱が、まだ残っている。

「蓮」
 樹が、ひと呼吸ぶんの距離で呼んだ。
 俺は顔を上げる。
 樹の眉尻が、ほんの少しだけ下がっている。
「見なくていいものは、俺がまとめておく。今は、光を見て」
 彼は俺の手の甲を見た。訊かずに、ゆっくり二度、指を置く。
 こん、こん。
 “触れてもいい?”じゃない。その逆だ。
 “離れても、いい?”
 俺は頷いた。
 樹が掲示板を開き、淡々とスクショを撮り、必要な部分に印をつける。
「事実だけ拾う。意見は、後で聞いても意見だ」
 彼の声は、海底の砂を手で探るときの動きに似ている。慌てない。濁らせない。

 その時だった。展示の端で、白い影が立ち止まり、こちらを見た。
 小柄な女の子。見覚えがある。海洋学科の掲示ポスターに似た線を描く子だ。
 彼女は一歩だけ近づいて、声が砂糖菓子みたいにすぐ崩れる調子で言った。
「……ごめんなさい」
 会場のざわめきの中でもはっきり届く、いちばん低い言葉。
 「え?」
 彼女は深く頭を下げ、胸の前で握った手が小刻みに震えているのが見えた。
「ポスター……私の。私、ほんとは、あなたの下描き、見てた。佐伯くんに見せてもらった。『相談に乗って』って言われて……それで……。先にSNSに上げたのは佐伯くん。私の名前で。……私も、止められなかった。ほんと、ごめんなさい」
 彼女は早口で言い終え、息を詰めた。
 頭のなかで、ここ数日のざわめきが一本の糸につながる音がした。
 佐伯の、壁際の笑い。
 俺の、喉に引っかかった出し惜しみ。
 彼女の、線の癖。
 全部に、それぞれの温度が戻ってくる。

 怒りはある。でも、ここで燃やすべきじゃない火がある。
 燃やすなら、外の空気が薄いところで。
 灯の下で、燃えやすい言葉を吐かない。
 俺は、彼女の肩の少し上、空気の位置を見て、ゆっくり言った。
「言ってくれて、ありがとう。――その言葉、俺にだけじゃなくて、あなた自身にも必要だと思う。後で、掲示板に書ける?」
 彼女は泣き笑いみたいな顔で頷いた。
「書きます。自分の言葉で」
「うん。……それから、佐伯に、話す」
 肩甲骨の内側が熱くなる。
 足が、自然と工房の出口に向かいかけたとき、樹の指が俺の肩にそっと触れた。
 こん、こん。
 “今は展示を守って”。
 脳より先に、膝が頷いた。
 俺は足を止め、深呼吸をひとつ。
 灯が、俺の呼吸に合わせて小さく揺れる。
 守るべきものが、目の高さにある。

 それでも、火は腹の奥で燃え続ける。
 佐伯に言わなければならないことが、舌の上で形を待っている。
 形は、夕方まで預けておく。
 預けている間に、言葉が冷めるかもしれない。
 冷めた言葉は、刃物にならない。
 刃物が要る場面か。
 ――今日は、線引きだ。

 夕方。
 祭の音楽は少しだけ速くなり、人混みは拍手のリズムで上下する。
 子どもたちの波が引き、大人の波が近づく。
 店長が提案したショーウィンドウのことを、樹と短く話した。
「やってみる?」
 樹は、俺が“怖い”と言う前に、半分だけ肩を貸すように訊く。
「納期、いつ?」
「二月頭。……火の前に立たないやり方で設計する。夜の人が見るって言われたなら、夜の強さに合わせる。数は三。多くない。君の“今”で握れる数」
 俺は首を縦に振った。
「やる。――怖いけど」
「正常」
 樹は笑い、指を二度。
 こん、こん。
 俺も返す。
 こん、こん。
 それは、契約の握手より柔らかいが、俺たちにとってはそれ以上の印。

 日が落ちる前、工房のシャッターを半分閉めて、展示の灯を夜仕様に調整する。波長変換板の角度を一段階だけ深くし、蜂蜜の滞在時間を半呼吸ぶん伸ばした。
 夜は、甘さに寛容だ。
 甘いものが、誰かの救いになることがある。

 シャッターを閉め切った二十時過ぎ、片づけを終えて外へ出ると、風が昼より柔らかかった。
 工房の前の薄暗い通路に、細長い影がひとつ。
 佐伯が壁にもたれていた。
 スマホの画面の光が顔の下から照らし、目の下に小さな影を作る。
「待ってた」
 彼は短く言い、口角を上げた。
「悪気はなかった」
 最初にそれか。
 悪気は、いつも最初に否定される。
 否定されるたびに、形を変えて居座る。
 俺は、樹の視線を背中で感じながら、歩幅を少しだけ広げた。
 距離の取り方は、火で覚えた。

「俺の下描き、いつ見た?」
 俺の声は薄い鉄みたいに乾いていた。
「先週。真帆に頼んで机の写真撮ってもらってたから。――いや、もちろん直接は撮ってないよ。たまたま映り込んでた」
「“たまたま”は便利だな」
「誤解だって。盛り上げるために、ネタ出しの一環で。ほら、学祭って宣伝合戦じゃん。君もさ、出し惜しみやめたほうがよかったんだよ。最初から全部見せれば、誤解されなかった」
 彼は肩をすくめ、俺の顔を覗き込もうと一歩近づく。
 俺は一歩だけ後ろに下がり、壁との距離を測り直した。
 樹の指が、離れたところで二度、空気を叩く気配がした。
 こん、こん。
 ――ここで燃やすな。
 わかってる。
 俺は佐伯を正面から見た。
「境界線、引く」
「は?」
「俺の下描きに、君の目を重ねるのを、やめてもらう。写真に“たまたま映ってた”としても、見ないでほしい。見たなら、使わないでほしい。使ったなら、名前を出してほしい。出さないなら、君の名前で“見ました”“使いました”って掲示板に書いてほしい」
 息を吸う。
 喉の奥が痛い。
 でも、痛いのは、悪くない。
「それから――ポスターの子に謝って。彼女は君の“相談”で判断を誤った。謝る順番と場所は、間違えないで」
 佐伯の笑いが、顔から落ちる。
「……俺だけが悪いわけじゃないだろ」
「“悪い”じゃなく“線引き”の話をしてる。俺は俺の作業台の周りに線を引く。君は君の線を引けばいい。交わるところがあるなら話す。ないなら、近づかない」
「それ、脅し?」
「違う。お願いでもない。宣言」
 海の夜風が、シャツの襟を少し引っ張る。
 樹の足音が、俺の後ろで止まる。
 佐伯は舌打ちを飲み込み、顔をそらした。
「……掲示板は、書いとく。『誤解させました』って。謝罪文のテンプレとかない?」
「テンプレは、汗をかかない」
 店長の言葉が、ここで役に立つとは思わなかった。
 佐伯は鼻で笑い、スマホの画面を見下ろして指を動かした。
「書いた。――ほら」
 画面に並ぶ短い文。
 誠実とは、文の長さでは測れない。
 でも、彼の目が少しだけ沈んだ位置にあるのを見て、俺はまあいいか、と思った。
「ありがとう。――それから、俺の展示には二度と近づかないで」
 佐伯が顔を上げる。
「出禁?」
「線引き」
 彼は肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んで廊下の奥へ消えていった。足音はなぜか軽く、壁の角で反響して消えた。

 静かになった通路で、樹が俺の隣に並ぶ。
 何も言わず、手の甲を軽く叩いた。
 こん、こん。
 返す。
 こん、こん。
 それだけで、膝の力が戻る。
 夜の灯りが工房の隙間から漏れ、床に薄い帯を作る。
「……言えたね」
 樹が小さく言った。
「言った」
 声にして、初めて俺の身体は自分の言葉の形を知る。
「怖かった?」
「怖い。……でも、怖いままで立てた」
「正常」
 いつもの返事が、いつもよりゆっくり俺の胸に沈む。
「ねえ、蓮」
「うん?」
「海、見に行く?」
 夜の海は、祭とは別の音で呼吸している。
 俺は頷いた。
「少しだけ」

 大学の裏手の防波堤は、祭の日でも静かだ。
 潮位は満ちと引きの真ん中あたり、波は低い。
 灯台が一回光って、二回暗くなる。規則正しい欠落。
 樹は防波堤に腰をおろし、潮時計を取り出して蓋を開けた。
 カチ。
 夜の針音は、昼より少し丸い。
「“Aug.20”じゃないけど」
 彼が言う。
「今日も、針は同じ」
「うん」
 俺は防波堤の端に座り、足の裏にざらざらしたコンクリートの手触りを確かめる。
 潮の匂いが少しだけ甘いのは、祭の屋台の綿あめのせいか、灯からこぼれてきた蜂蜜のせいか、わからない。

「店のウィンドウの件」
 樹が切り出した。
「怖いなら、受けない選択もある」
「受けたいよ」
 即答して、自分の声の速さに驚く。
「受けたい。……怖いけど。怖いって言いながら、受けたい」
 樹の指が、俺の手の甲へ落ちる。
 こん、こん。
 返す。
 こん、こん。
「“夜の人”って、店長さん言ってた」
「うん」
「君も、夜の人だ」
 樹は小さく笑う。
「夜の波は、浅いところではなく、深いところで整う。深いところの呼吸に合わせれば、表面は勝手に静かになる。……今日、君が言葉で線を引いたみたいに」
 言葉の評価を、樹はいつも結果ではなく“呼吸の整い方”で見ている気がする。
 俺は頷き、胸の奥に手を当てた。鼓動の数を数えるみたいに、今日の出来事を数え直す。
 子どもたちの目。
 店長のスニーカー。
 掲示板の“=”。
 謝罪の震える声。
 佐伯の軽い足音。
 合図。
 こん、こん。
 灯の蜂蜜。
 海の塩。

「……ありがとう」
 ぽつりと出た。
 樹は首をかしげる。
「なにに?」
「全部に。――“今は展示を守って”って押さえてくれたこと。掲示板のスクショまとめてくれたこと。午前四時の合図を増やしてくれたこと。……それから、俺に“今の俺”の手綱を渡してくれたこと」
「どういたしまして」
 樹は潮時計の蓋を閉じ、ポケットに戻した。
 指が、俺の手の甲を探す。
 こん、こん。
 “おやすみ”の音。
 俺は返した。
 こん、こん。
 “おはよう”の予告。

 背後の大学は、まだ祭の後片づけでざわついている。
 笑い声は、遠くの灯台の光より短い。
 でも、短い笑いが積み木のように重なって、夜は少しだけ高くなる。
 俺は樹と並んで、波の数を数えた。
 数えることは、線を引くのと似ている。
 境界を、まず自分の内側に描く。
 それから、必要なところにだけ外側の線を持っていく。
 今日、俺ははじめて、自分の言葉で境界線を引いた。
 誰かの顔のせいにせず。
 事故のせいにせず。
 火のせいにせず。
 海のせいにせず。
 俺は俺の灯を守る。
 守るために、灯を外へ出す。
 出し惜しみは、もうしない。
 ただし、出す場所と出し方は、俺が決める。

「――明日も早いね」
 樹が立ち上がる。
「学祭二日目。海の潮は、たぶん今日と違う」
「火の音も、違う」
「じゃあ、合図は同じでいこう」
「こん、こん」
 俺が先に叩くと、樹が笑って返した。
 こん、こん。
 防波堤のコンクリートが、二度、小さく鳴った。
 夜の灯台が一度光り、二度暗くなる。
 俺たちはその間に歩き出し、工房へ戻る細い道で、何度も同じリズムを確かめ合った。
 誰に見せるためでもない、二拍の約束。
 それは、祭の喧噪の裏で一番静かな音で、俺の中で一番大きく響いていた。