昼のチャイムが鳴るよりも早く、学内の掲示板に赤い紙が貼られた。
 大型台風接近。暴風域は深夜から明け方。学祭準備の前倒しを認める。工房・実習棟は二十三時まで臨時開放。停電時は非常電源で最低限の灯りのみ確保。ガスの使用は指導者の監督のもと最小運用――。
 紙に並ぶ文言は、乾いた紙やすりの手触りに似ている。必要で、実際的で、少しだけ心を削る。

 窓の外は、まだ晴れていた。視界の端に、鳥が風向きを確かめるみたいに斜めに飛ぶのが見えた。
 俺は工具棚の前で名簿を広げ、今日の配置に赤ペンを入れていった。カット、研磨、洗浄、配線、記録。
 ガスバーナーは最小運用。明るいうちに溶融を済ませる。夜は冷間作業と組立てに徹する。
 頭の中に、透明な時間割を立てる。割れ物を詰めるみたいに、すき間なく。すき間は、割れる。割れ目に、音が入り込む。

「蓮くん、これ、養生テープ」

 柏木が太い緑のテープの巻を二つ抱えて走って来た。
「ありがとう。窓の格子の交点に“十字”で貼って。内側も外側も」
「了解です!」

 廊下の向こうでは緒方がアルコールランプの数を数えている。非常電源でもつく、頼りない小さな炎。
「ガス、本当にやるのか?」
「最低限。圧は上げない。耳で聞くから、誰か、目で見て」
 言いながら、喉の奥で、古い音が囁く。
 ――ゴウッ。
 鋼鉄の地鳴りと空気の振動、白く跳ねる火舌。
 半年前に置いてきたはずのそれが、窓枠の影みたいに追いかけてくる。

「おはよう」

 低い声が、背後から波のように寄せてきた。
 振り向かなくても、わかる。歩幅と重心移動の癖。すれ違うときのわずかな潮の香り。
「樹」
 彼は頷いて、掲示の赤紙に目を通した。「二十三時まで。助かる。海のほうは船出し禁止。水槽の固定は済ませた」
「こっちは、溶かすのを夕方までに。夜は組む」
「了解。俺は目でいる。君は耳でいて」

 最初に出会ったときから、彼は役割を平気で言葉にする。誰の顔色も窺わない。
 “目”と“耳”。
 火の前では、目は嘘をつく。炎は美しい。美しさに騙される。
 耳は、裏切らない。火の“機嫌”は音に出る。ゴウッ、ヒュウッ、パチ。
 俺は耳でいよう。そう決めたのに――。

 午後三時。雲の底が急に低くなり、校舎をひとつ飲み込んだみたいに暗くなった。照明に白い輪ができる。
 試作のクラゲシェードは、傘の縁が六枚。厚みのリズムは“呼吸”を模した。
 緒方が研磨盤から顔を上げ、「縁、二番のピース、もう半ミリ落とせる」と言う。
「頼む。柏木、LEDの配線、呼吸モードの波形、昨日の三番でいこう」
「はい!」

 小さな足音が、控え目に近づいた。
 一年の真帆が、真新しい軍手を握りしめて立っている。背が低く、いつも窓の外の木の高さを見上げるみたいな目つきだ。
「水城先輩、バーナー、ちょっとだけ、やってみてもいいですか」
 喉の奥で、微かな“ゴウッ”が、たちまち火を噴くみたいに大きくなった。
 背骨の筋肉が勝手に固くなる。それでも俺は、言った。
「今日は最小運用。膨張係数の違いで割れるから、合わせ面だけ、軽く、炙る。圧は上げない。俺は……」
 言葉が杭みたいにつっかえる。
「俺は、監督に徹する。緒方、火の前、立てる?」
「立つ」

 真帆が悔しそうに唇を噛む。「……はい」
 俺は視線を落とし、図面に目をやる。見ているふり。耳のほうに、意識を寄せる。
 バルブの金属音。ガスが通る“スー”。火の“ボッ”。
 緒方のマスク越しの息。
 真帆が少し近すぎる。
 バーナーの先の色が、きっと黄色に寄った。
 ――ヒュウッ。
 音が細くなる。空気が足りない。
「真帆、下げて!」
 俺の声と同時、真帆の袖口の糸がふわりと揺れ、炎の舌が、そこに、触れ――。

 身体より先に、音が動いた。
 ゴウッ――過去が、一気にこちらを向く。
 視界の端が狭くなる。
 膝のひざ裏で留め具が外れたみたいに、力が抜ける。
 立っていられない。
 床のタイルの目地だけが、無意味に鮮明だ。

 ――こん、こん。

 手の甲に軽い音が落ちた。
 合図。
 それだけで、視界に色が戻る。
 樹が、俺の後ろに回り、両手で俺の肘を外側にそっと押し広げる。「距離」
 彼の声は、火の音より近い。
 俺の腕が少し上がり、その動きに合わせて、緒方が真帆の肩を引いた。
 袖口は、焦げていない。
 “ここでは俺が目になる、君は耳でいて”。
 樹が、俺の耳のすぐそばで小さく囁いた。

 俺は喉の奥の古い音を、今の音にすり替える。
 炎は青。音は低く太い。
「圧、半回転落として。空気、四分の一上げる。ノズル、十度、回して、先端の炎の縁を、ガラスの合わせ目にだけ触れさせる。――そう。止める。温度を置く。割るな」
 自分の声が戻った。指示の速度が、音の速度に追いつく。
 緒方が応える。「了解」
 真帆が小さく震え、「すみません」と言った。
「謝るなら、今じゃない。次の一本を正しくやる。――ほら、まだ波は戻ってない」
 言いながら、樹の手がまだ俺の肘を支えているのに気づく。
 俺は小さく、こん、こん――と返した。
 彼の指が、同じリズムで返す。
 波が引く。
 膝の留め具が、仮にもう一度はまる。

 その後の時間は、奇妙に静かだった。
 外の風が強くなり、窓ガラスが遠くで鳴った。
 工房の炎は最小。アルコールランプが、匙先で水面を撫でるみたいに、薄く、温度を置いていく。
 俺は耳で世界を見る。
 ガラスの中の微かな歪みが、熱に応えて“ピン”と鳴く。
 緒方のリズムは正確。柏木のはんだ付けは深呼吸のリズムと一致する。
 真帆の足音は最初より軽く、怖がる方向が、正しく変わった。
 樹は、目で火を見て、手で距離を測る。
「今、息を止めたでしょ」と言えば、「止めた。止めない」と返ってくる。
 俺は笑った。笑った自分に驚いた。
 笑いが出るとき、火は怖い対象から、扱う対象に戻る。

 夕方四時半。
 空の色は、圧縮した鉛のようになった。
 工房の蛍光灯が、ひとつ、またひとつと微かに明滅し始める。
 ――停電の前触れ。
「組みに入る」
 俺の声に、みんなが手を止め、それぞれの持ち場の道具を布で包む。
 仮固定、確認、仮固定。
 配線の端子を合わせ、シェードの内側にLED基板を差し込み、スリーブで逃がす。
 樹が「電源、入れるよ」と言い、柏木がコードリールのスイッチを押した。
 ビッ、と小さく音がし、LEDの制御回路が生きる。
 俺は深呼吸して、スイッチを切り替える。呼吸モード。
 最初の一秒、何も起きない。
 次の一秒、シェードの縁が、ごくわずかに白んだ。
 さらに二秒、中心が遅れて、薄いミントを含んだ乳白ににじむ。
 光は、“息をする”。
 誰もしゃべらない。
 樹の喉が、透明に鳴る。
 工房の空気に、ほのかに甘い匂いが混じる。蜂蜜を薄めて、海水でさらに延ばしたみたいな匂い。
 ――発光。
 クラゲはまだ海ほどは光らない。けれど、確かに、暗さの中に呼吸が置かれた。

 停電は、その五分後に来た。
 ばち、と軽く弾ける音のあと、蛍光灯がまとめて落ち、一瞬だけ黒の時間が来る。
 すぐに非常灯が点き、緑がかった小さな明りが四角く床に落ちる。
 外の風は、窓の格子を叩き、壁を這って屋根に走り、低い唸りになって戻ってくる。
「作業、いったん休止。ガスは閉める。火口、確認。――よし。非常灯だけで組める範囲をやる」
 俺は言い、みんなの顔――いや、気配を順に確かめる。
 緒方の“了解”。柏木の「電源、予備に差し替えます」。真帆の、小さな深呼吸。
 樹が、俺の手の甲を叩く。
 こん、こん。
 暗がりの中の合図は、光だ。



 夜は長かった。
 暴風警報の更新通知が何度も鳴り、大学の防災センターから「構内交通の停止」「バス運休」「外出禁止」の一斉メールが来た。
「缶詰、だな」
 緒方が笑って、倉庫から折りたたみのマットを引っ張り出す。
 柏木は非常食のクラッカーと水のペットボトルを両手いっぱいに抱えて戻ってくる。「売店、ほぼ売り切れでしたけど、これだけ」
 真帆が、「私、保健センターから毛布借りてきます」と走って行った。
 誰も不満は言わなかった。目の前の呼吸を見てしまったからだろう。
 光は、腹を満たすものではない。でも、腹が鳴る音を、少しだけ待たせてくれる。

 非常灯の薄緑の下、俺と樹は工房の隅の長テーブルに向かい合って座った。
 シェードの試作一号は、机の上で静かに息をしている。
 「蜂蜜、じゃなくて、今日はゼラチンの透明度だな」と言うと、樹は笑い「ゼラチンは猫舌に優しい」と返した。
 窓の外は、黒い布の裏で誰かがバケツをひっくり返し続けているみたいだった。
 風の音の合間に、遠くで何かが倒れる鈍い音がする。
 俺の耳は、そのどれもを“今ここ”から切り離して聞く。
 樹の呼吸は一定。潮時計の針の録音が、ポケットの奥で小さく鳴っている気がする。あり得ない。でも、たとえだ。たとえは、時々、現実よりも支える。

「眠れない?」
 樹が問う。
「眠れるけど、眠るのが惜しい」
「惜しい?」
「光、点いてるから」
 樹が頷き、机の上のシェードを見た。「君の呼吸、入ったね。俺、点灯した瞬間、背中、ぞわってした」
「俺は膝が抜けた」
「さっき抜けそうになってたのは、別件」
「見てた?」
「目でいるって言ったから」

 指先が冷えている。樹はポケットから手を出し、自分の手の甲を、こん、こん、と叩いた。
 俺も返す。
 こん、こん。
 そのリズムは合図であり、体温の確認でもある。

「……ねえ、蓮」
「ん?」
「俺、子どもの頃、顔を覚えられなくて、よく迷子になった。母親が手を離したスーパーマーケットの生鮮コーナーで、振り返ったら、同じコート着た別の人の背中に“お母さん”って声をかけて、違うと言われるたび、世界から名前が消えた」
 樹の声は、非常灯の緑に少しだけ滲んだ。
「顔が線でできてるって、今でも感覚としては理解してない。輪郭も、目鼻も、色も、一定の光と角度でしか、俺の中に固定されない。だから覚え方を変えた。歩き方、筆圧、咳払い、コートの裾の揺れ方。あと、何より、声」
「声」
「声を覚えられると、世界に名前が付く。君が“緒方、十度”って言うときの十度の“じゅ”の出し方。柏木が“了解です”って言うときの“了”の膨らませ方。真帆の“すみません”が、謝罪じゃなくて“次、何をやればいいですか?”の意味を含んでる感じ。――それが名前になる。誰かが自分の前で名乗ってくれるとき、俺は安心する。名前が世界に刺さって、風が吹いても飛んでいかない」
 窓の外で、風がちょうど強くうなった。
 樹は笑い、続けた。
「だから、俺は、合図が必要だったんだと思う。触れていい? っていう合図。触れていいよ、っていう返事。名前を付けるのと同じ。勝手に触れるのも、勝手に名前を付けるのも、間違える可能性が高いから。合図を決めれば、間違いの確率は減る。俺の世界では、それが居場所になる」

 俺は、無意識に喉の奥で呼吸を整えた。
「俺の声は、どこに置かれる?」
 自分で口にしてから、心臓が強く鳴る。
 樹は、少しだけ首を傾げて、考える間を取った。
「北」
「北?」
「方位磁針の“N”のあたり。潮位表を開いたときの、左上の余白。そこに“蓮”って書いておけば、俺は迷っても戻れる。海は、夜になると、少しずつ自分の縁がわからなくなる。音と匂いと温度で、輪郭を探す。そのときに、北が必要になる。君の声は、そこに置く」
 嘘の音はしない。
 冗談の薄皮は、ある。けれど、その下に、色が通っている。
 俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。
 合図。
 こん、こん。
 樹も返した。
 こん、こん。

 暴風雨は、深夜二時過ぎ、いったん音の質を変えた。叩く音から、擦る音へ。
 建物が低く、長く鳴った。
 真帆は毛布に包まって眠り、柏木は器用に椅子を二脚並べて横になり、緒方は床の上で大の字になっていた。
 俺は樹と並んで、工房の床に腰を下ろし、机の上のクラゲの呼吸を見た。
 「眠れ」と言われたら眠れた。でも、眠らなかった。
 樹が、ポケットから潮時計を取り出し、蓋を開けて閉じる。
 短い、確かな音。
 カチ。
「Aug.20」
 刻印に指の腹が触れる。
「祖父の命日」
「うん。祖父は、台風が来ると、必ず潮位表を机に広げて、針を置いた。台風の目がどこにいて、ここに来るまで何時間、と予想を立てる。俺はその横に座って、針の音を聞いた。針は嘘をつかない。台風の予報は外れることもあるけど、針は、必ず一秒を刻む。安心した」
「安心」
「今、君の声があるから、俺は安心する。北の音があるから」

 台風の目には、空があるという。
 暴風雨の真ん中に、一瞬だけ晴れ間がくる。
 工房の天井は、もちろん晴れない。でも、非常灯の緑が、ほんの一瞬、色温度を変えたみたいに見えた。
 俺は、笑っていることに気づいた。
 樹も、笑っていた。
 合図。
 こん、こん。



 明け方の四時、風の調子が変わった。
 叩く音が遠のき、擦る音が細くなり、建物の低い唸りが短く切れた。
 非常灯の下で、誰かの寝息が規則正しくなる。
 俺は立ち上がり、窓に近づき、テープで格子に組まれたガラスの向こうに薄い青を見つけた。
 夜明けは、不公平だと思うことがある。
 昨日の夜を全部帳消しにするみたいな顔をして、何度でも来る。
 でも、今朝に限っては、矛盾のない顔をしている気がした。
 昨夜の呼吸は、机の上で続いている。
 光は、消えていない。

 バスの運行再開のメールは六時半に来た。
 防災センターの係が一人、工房の扉を開け、「お疲れさま」と言って缶コーヒーを配っていった。
 緒方が身体をのびをし、柏木が首を鳴らし、真帆が「おはようございます」と小さく笑った。
 俺は工房の中央に立って、みんなを見渡した。
「昨夜、いい呼吸が入った。今日、もう一本、行ける。――でも、帰ってシャワー浴びて、朝ごはん食べて、昼に戻ってこい。倒れたら、いい呼吸も全部無駄になる」
 緒方が「了解」と言い、柏木が「すぐ戻ってきます」と笑い、真帆が「袖、繕ってから」と袖口を見た。焦げてはいない。でも、糸が少しほつれている。
「糸を新しくして、来い」
 真帆は嬉しそうに頷いた。

 樹は、工具を丁寧に元の場所に戻しながら、「台風の目、過ぎたね」と言った。
「過ぎた」
「君、膝、抜けなかった」
「抜けかけた」
「合図、した」
 言葉のキャッチボールは、短い。
 短いのに、たくさんのことが受け渡される。
 俺は、彼の手の甲に指を置き、こん、こん――と叩いた。
「夜、ありがとう」
「こちらこそ」

 工房の扉を閉め、廊下に出ると、湿った空気が足首にまとわりついた。
 外に出ると、一面に落ち葉が貼りついている。
 水たまりに非常灯の緑がまだ映っていて、その上に、朝の白が薄く重なった。
 俺は息を吸い、潮の匂いを肺の奥まで入れた。
 潮の匂いが、昨日の蜂蜜の暗さの上を、うすく洗っていく。
 全部は落ちない。
 落ちない暗さと、残る甘さの重なり方を、俺は覚えておこうと思った。
 覚えておけば、次に光を置く場所がわかる。

「蓮」
 樹が呼ぶ。
 振り返ると、彼は潮時計を軽く掲げて見せた。
「八月二十日じゃないけど、今日も、針は同じ音」
「同じ?」
「うん。北、ずれない」
 彼は笑い、短く合図をくれた。
 こん、こん。
 俺は返す。
 こん、こん。

 バス停までの道の水たまりを飛び越えるたび、昨夜の工房の音が足元でほどけた。
 “ゴウッ”はもう、過去の方角に戻っていく。
 “カチ”が、今に重なる。
 俺の声は、樹の世界で北に置かれる。
 その言葉の重さが、少しだけ怖い。
 怖いままで、胸の真ん中に置いた。
 怖さの上に、光の骨を足す。
 息をして、前に出る。
 風は、まだ強い。
 でも、方角は、ある。
 俺は、歩く。
 合図。
 こん、こん。
 返事。
 こん、こん。

 そのリズムが、ガラスの縁を伝って、朝の空に吸い込まれていく。
 台風前夜の停電工房で拾った呼吸は、まだ俺の中で、確かに、光っていた。