最初は、いつもの冗談みたいなものだと思った。
工房の長テーブルに広げて乾かしておいたスケッチの端が、誰かの袖で少し濡れて、鉛筆の線がぼやけていた。絵の具の水が跳ねただけ。よくある事故。柏木が慌ててペーパータオルを差し出して、「すみません」と早口で謝る。俺は笑って「だいじょうぶ。クラゲなら、ぼやけた線のほうが似合う」と返した。
ぼやけるのは、いつだって予兆だ。輪郭が柔らかく溶け始めるとき、そこにあるものは、別の形に変わっていく。
夜になって、スマホが震えた。作業台に伏せていた画面の隅に、知らないアカウントからのタグ付け通知が光った。
――#芸大クラゲランプ #神デザイン #天才は誰。
押した指が、自分のものではないみたいに冷たい。
画面に出てきたのは、俺のスケッチに、ほとんど見間違う角度の写真だった。薄い方眼紙の上に置いた、ガラスシェードの構造図。発光の呼吸に合わせて厚みのテンポを変える矢印。端に走り書きで書いた「蜂蜜の暗さ」。
見覚えのない蛍光灯の反射が、紙の表面に斜めに走っている。工房の天井灯の並びとは違う。
胸が内側から掴まれる。誰かが撮った。ここで、じゃないどこかで。
コメント欄は速かった。
“これ、見た。ガラス棟のやつだよね?”
“パクり出た? てか学祭前に情報出すのプロモ? 匂わせ?”
“光らないのは作者の倫理”。
最後の一行を読んだ瞬間、喉奥が熱くなった。
光らない俺。誰かがそう言ったわけじゃないのに、自分で貼った札が、こんなときだけしっくり憎らしく貼り付いてくる。
スクリーンショットを撮る手が、微かに震えた。
樹に送ろうとしたメッセージは「見て」で始まり、「どうしよう」で終わった。送信ボタンに小さな青い光が走る。
すぐに既読がつき、「場所どこ」と一行来た。冷たい水みたいに落ち着いた文字列。
工房。画像を撮られたのはたぶん他所。
そう打とうとして、やめた。わからないことをわかったふりで書くのは、火より危ない。
結局、俺は短く「今から話せる?」とだけ送った。
“あと十五分”。樹の返事はいつも、時間を正確に刻む。潮時計の針みたいに。
◆
十五分後、防波堤の端に腰掛けた樹は、潮時計の蓋を一度だけ開いて閉じた。
風は強くなく、冷たすぎもしない。海は、夜になる前の一番あわい色にいる。
俺はスマホを手渡した。樹は一度、画面を暗くして、自分の指先の油膜を落としてからスクロールした。
小さく鼻を鳴らす。彼の「理解した」の合図だ。
「まず事実を固めよう」
「うん」
「投稿は三十分前。アカウントは新規。投稿履歴ゼロ。写真の蛍光灯の反射が三本。工房は二本。写り込んでいる机の木目は、この工房の材の癖と違う。角の欠けも違う」
「じゃあ、どこで?」
「“どこで”は今すぐには出ない。けど、“ここじゃない”は出る。次。誰が撮ったか。写り込みの影は……薄い。人がいない時間に撮られている可能性。鍵のある部屋なら合鍵、鍵のない部屋なら開放時間」
「海洋学科の実験室、掲示板の隣の備品室は、鍵が甘い」
「根拠は」
「前に試薬の搬入を手伝ったとき、ドアのラッチが戻りづらかった」
「了解」
淡々と音を拾っていく樹の声に、自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえる。
この人の「まず事実」という姿勢に救われる。救われるけれど、同時に、俺は彼にすら弱音を吐けなくなる。
弱音を吐く音が、自分の耳にだけうるさい。
「明日、学内の掲示板に、似たデザインが出たら?」
俺の声は、自分で驚くほど軽かった。軽く作らなきゃ、崩れるのがわかっていた。
「出たら、“似た”の程度を測る。図面が一致しているのか、コンセプトが近いだけか。判定は、怒りの量とは別にやる」
怒りの量は、今すでにこぼれていた。
自分の中のどこかに、透明な盃があって、そこにざばざば注がれる。溢れた怒りは、最初、熱い。でも、すぐ冷える。冷えた怒りは、重い。沈む。
「……ありがと。樹」
「礼はあとで。今は、情報」
彼の言い方は、まるで手術室の会話みたいだ。心拍数と血中酸素濃度を読みながら、執刀医に必要な器具を渡していく。
俺はうなずき、指先で自分の手の甲を、こん、こん――叩いた。合図。
樹も返す。こん、こん。
「あと、これ」
樹はスマホを取り出し、録音アプリを立ち上げて、潮時計をマイクに寄せた。五秒、十秒。針の音が淡く記録される。
送信。
ほどなく、俺のスマホが震えた。受信音と一緒に、聞き慣れたわずかな“カチ……カチ……”がイヤホンから漏れる。
樹は言った。「眠れない夜はこれを再生して。海は同じリズムで寄せては返す」
どこかで聞いたことのある呪文みたいだ、と思った。祖父の命日。Aug.20。彼が言った、“形にして見せたい”。
時計の針音は、波ではない。波のたとえ。
でも、たとえは時に現実より強い。
指先の震えは、潮が引くみたいに少しおさまった。
それでも胸のざわめきは、消えなかった。薄くなった水面の下で、別の流れがうねっていた。
◆
翌朝、やっぱり出た。
海洋学科棟一階の掲示板。クラゲ研究会の学祭展示のポスター。
センターにあるのは、薄く青いクラゲの傘――ではなかった。
“ガラスの傘”だ。
レンズシェードの厚みが呼吸する動線のイラスト。発光の強弱カーブ。
標題は「暗さの構築」。
俺のスケッチの言葉が、階調を変えてそこにいた。
パクり、と叫ぶ前に、喉の筋肉が硬くなった。声が出ない。
掲示板の前は人だかりだ。
“すごくない?”“海洋のほう、やっぱ頭ひとつ抜けてる”“ガラスのやつらも頑張れよ”“火の前に立てないらしいしな、あいつ”。
最後の一言だけ、刃物の角度が違う。斜めに入って、止血しづらいところを切る。
俺は人波を割って掲示板に近づき、ポスターの端の細い文字を読む。
作者名――“三浦”。
知らない名前。
掲示物の下の問い合わせ先。小さく書かれた責任者のメール。
そこに“佐伯”の字を見つけた。
佐伯。
昨日、正論の旗を掲げて去った同級生。
クラゲ研究会の支援に名を連ねている。そうだった、と思い出す。
胸の盃がまた傾く音がした。
自分の体の奥で、何かがコトリと落ちる。
怒りの温度は、もう測れない。代わりに重さが増す。沈む心。
足元が、海に近い。
「蓮」
背後から佐伯が呼ぶ。
振り返ると、彼の顔の輪郭は逆光に潰れている。声のテンポで、彼だとわかる。
俺は、言った。「見た」
「……誤解だと思う」
誤解、という言葉を、この場で出すのは悪手だと思う。
言っている本人も、どこかでそう知っている口調だ。迷いが相の手に乗る。
「誰の誤解」
「お前の、かもしれない。俺の、かもしれない。三浦の、かもしれない」
「三浦って誰」
「俺の幼馴染だ。海洋の、クラゲ班の」
空気が変わった。
幼馴染。
その二文字は、過去の正しさを背負って出てくる。初期値が高い言葉。
俺の背中が、わずかに反る。防御の癖。
「ポスターの“暗さの構築”、彼の言葉なんだ。昔から、海が暗いときほど情報が豊かだって言ってて。お前の“蜂蜜の暗さ”を見たのかどうかは、わからない。けど……」
「けど?」
「似てる。俺にも、似て見える。だから、今、説明しに来た」
誰に対しての説明?
俺?
それとも、自分自身に?
佐伯はいつも、言葉を整えてから話す。
整えきれなかった言葉が、彼の口からこぼれるのを、初めて見た。
「三浦に訊く。俺から。今日の昼、研究室に顔出す。来る?」
来る?
来い、じゃない。
選択権がこちらにある言い方。
樹の「まず事実」より、地面に近い。
俺は、ゆっくりと息を吸った。胸の膜がややきしむ。それでも、息は入る。
樹なら、どうする。
“まず事実”。
行って、聞く。
簡単に結論に飛ばない。
そうやって手に入れた結論じゃないと、あとで自分に刺さる。
俺は頷いた。「行く」
◆
午前中の工房は、音が多かった。
誰かが笑い、誰かがドアを閉める。研磨機が唸り、火が噛む。
噂の空気は、音の隙間を柔らかく這う。
“スケッチ、流出したらしいよ”“写真、どっから? 鍵は? 鍵って誰が持ってる?”
疑いの矢印は、あらゆる方向に伸びて、結び目になって、また解ける。
俺は緒方にシェードの最終チェックを頼み、柏木にLEDの配線をもう一度見てもらい、工房を出る準備をした。
スマホが震える。店長からだ。
昨日搬入したウィンドウの動画が添付されていた。夜、通りの灯りが、逆さの水面に刻まれている。
“最高だ。お前の光、街で息してる。納期、もし延ばしたかったら延ばせる。学祭に集中しろ”
短い一文が、逃げ道のように差し出される。
延ばせば、楽になる。
延ばせば、衝突は避けられる。
延ばせば――。
俺は、「大丈夫です。予定通りいけます」と返信した。
送信した瞬間、胸の奥で何かがきしむ。強がりの音だ。
強がりは、嘘ではない。自分に対する宣言だ。
宣言が重いときは、合図を使えばいい。
俺は自分の手の甲を、こん、こん。
見ている人はいない。それでも、音は身体に残る。
樹からも、ちょうどそのタイミングでメッセージが来た。“昼、行ける。入り口で”。
潮時計の針音が、ポケットの中で微かに鳴る気がした。あり得ない。でも、たとえだ。たとえは、時に現実より強い。
◆
海洋学科棟の扉に、樹が立っていた。
いつもの紺のパーカー。フードの紐が少し解けている。
俺が近づくと、彼はすぐわかる。歩幅で、咳払いで、靴のソールの減り方で。
俺は一歩手前で止まり、合図。
こん、こん。
樹も返す。
こん、こん。
それだけで、心拍が半拍整う。
佐伯が合流した。「研究室、空いてる時間、確認した。今なら三浦いる」
ドアを押すと、冷気と一緒に、海の匂いが押し込んできた。
白いタイル。蛍光灯は三本。
俺のスケッチを撮った写真の光条。
実験台の上に並ぶ透明の容器。薄い青の水。
奥のベンチに、黒いパーカーの肩が見えた。
佐伯が呼ぶ。「三浦」
肩が動く。振り向いた顔の輪郭より先に、指の癖が目に入った。
ペンを持つとき、中指が人差し指より少し前に出る。筆圧が強くなる直前の、静かな緊張。
樹が、低く息を吸った。相貌失認の彼でも、癖は拾える。
三浦は、こちらを見て、少し笑った。
“正論の旗”を持っていない笑い方。子どもの頃から知っている誰かに向ける顔。佐伯が幼馴染といった意味が、輪郭を持つ。
「水城だ。ガラスの」
「知ってる。展示、見たことある。去年の『水の縁』。よかった」
声は落ち着いて、言葉はまっすぐだ。
いいな、と思う素直さが、一瞬、怒りの場所を迷わせた。
「このポスターのデザイン……俺のスケッチに似てる。見た?」
直接訊いた。遠回しは、ここでは刃こぼれする。
三浦は頷き、「見てない」と言った。
嘘の音はしない。
嘘じゃないことと、事実が一致するとは限らない。
それでも、この“見てない”は、あまりにも透明だった。
樹が口を挟む。「写真、SNSに上がった」
三浦は目を細めた。「ああ、あれか。今朝、佐伯が見せてくれた。蛍光灯の線、うちだよねって話になった」
やっぱり。この部屋だ。
俺の背中が僅かに粟立つ。誰かが入った。いつ? 鍵は?
三浦が付け加える。「掲示板の前、ざわついてたから、先に説明しようと思って」
説明。
俺は言った。「“蜂蜜の暗さ”って、ポスターに書いてあった」
三浦は小さく笑った。「それはこっちの言葉じゃない。俺は“海藻の影の濃さ”って言う。蜂蜜の暗さ、いい言い方だね。食べ物に例えるの、強い」
言葉の由来。
俺の走り書きが、誰かの手に渡った証拠。
樹が、机の引き出しに目をやる。
三浦も視線を追う。引き出しは鍵付きだ。鍵穴に、細い傷。
佐伯が一歩前に出る。「鍵、最近替えた?」
「先週。ラッチが戻らなくて。合鍵は、俺と、主任と、あと――」
あと、の先に、固有名詞が落ちる音がした。
「巡回の清掃の人。朝の五時半、ここ通る」
朝の五時半。
工房の夜がまだ残っている時間。
俺は、鍵穴の傷を目でなぞった。焦げ跡ではない。材の毛羽立ち。
侵入の痕跡は、目立たないように作ってある。
誰かが、ここでスケッチを撮った。
誰かが、投稿した。
三浦が静かに言う。「俺は、盗んでない。似てると言われるなら、似てしまった。海の研究をしている。暗さの構築は、ずっと考えてきた。ガラスでやる発想は、あなたたちのほうが深い。だから、ポスターにガラスを描いた。敬意だったつもりが、逆に……ごめん」
謝罪の仕方が、下手ではなかった。
そのことが、余計に混乱を連れてくる。
悪意のきざみを探す目は、的を失うと、自分に向かう。
俺は自分の胸の中を探した。怒り、悲しみ、悔しさ、焦り。
全部が、沈殿している。
樹が、俺の手に触れた。合図。
こん、こん。
指先が一瞬、浮上する。
それでも、底は深い。
「……わかった。三浦、説明ありがとう。鍵の件、事務にも言ったほうがいい。SNSの投稿、学務経由で削除依頼を出す。ポスターは、このまま展示する?」
言いながら、自分の声が少し変わるのを感じた。現場の声。
三浦は「掲示板、別案に差し替える」と言った。「ガラスの部分は消す。クラゲの動線だけにする」
それが正しいかどうかは、わからない。
けれど、今必要なのは、火消しじゃない。
火は、火で消えない。
樹が静かに頷く。彼は火の言語ではなく、海の言語で見ている。
佐伯が、俺を見る。「……悪かった」
何に対して?
幼馴染であることに?
俺が昨日刺された言葉に?
問い詰めることは、今の俺にはできない。質問は刃だ。刃は、握りが弱いと自分の掌を切る。
「事実を固める。ありがとう」
それだけ言って、俺は研究室を出た。
廊下の空気が、工房より湿っている。
海が近い。
近い海が、遠い。
◆
外に出ると、雲が低かった。
樹が隣に立つ。佐伯は少し距離を置いて、ポケットに手を入れた。
落ち葉の上を踏む足音が、三人分。
樹が口を開く前に、俺は言った。
「怒ってる」
「うん」
「悲しい」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも、相手を叩く言葉が、口から出ない」
「正常」
正常。
この言葉を、俺は今、救命具みたいに掴んだ。
正常の輪っかに腕を通す。
海に浮く。
沈む心とは別に、身体は浮く。
浮いている間に、呼吸を整える。
呼吸が整えば、泳ぎかたを思い出す。
「夜、眠れなかったら、針の音、再生する」
「昨夜、少し聞いた。少しだけ、浅いところに戻れた」
「戻ったところで、また波は来る」
「来るね」
樹は合図をくれた。
こん、こん。
俺も返した。
こん、こん。
佐伯が、少し躊躇してから口を開いた。
「幼馴染のことを、盾にしたくなかった。俺は昨日、お前に“逃げだ”と言った。でも、正論の中に俺の顔を隠した。悪かった」
彼の謝罪の仕方は、不器用だった。
それでも、それは彼の言葉だ。
俺は頷いた。「……わかった。俺も、昨日、お前の言葉が正しいからこそ、余計に痛かったってこと、伝えられなかった」
言って、胸のどこかで何かが外れる。
硬く巻かれていたテープが、一本、はがれる。
空気が入る。
俺は、初めて自分から佐伯の手の甲を、こん、こん――叩いた。
彼は驚いた顔で俺を見、そして小さく笑って、手の甲を二度、返した。
合図は、親密さの私物じゃない。合図は、作業の合図であり、心の合図だ。
俺たちは今、作業の途中にいる。心の途中にもいる。
◆
学祭の準備は、待ってくれない。
噂の空気は、薄くなったり濃くなったりしながら、工房に居座った。
“清掃の人が鍵持ってるらしいよ”“いや、合鍵、学生が勝手に作ったって噂も”“ポスター変わったよね。前のやつのほうが映えたのに”
映え、という言葉が、いちいち傷に触れる。
映える光は、光っていない背景が作る。
それを言えば、自分に都合がよすぎる、と誰かの声が言う。
その誰かは、いつだって、俺の中にいる。
夜、店長からまた動画が送られてきた。
ウィンドウの前で立ち止まる人影。
子どもが指を伸ばし、大人がしゃがんで視線の高さを合わせる。
“街は、いい。見ている人の光が、作品の中に入る。学祭のとこも、後で行く。差し入れ持ってく”
画面の端に、コンビニの袋が映る。焼き菓子の箱。
食べ物のことを考えると、胸の重さが少しだけ軽くなるのは、人間が単純にできているからだろう。
俺は「待ってます」とだけ返した。
針の音を再生する。
カチ、カチ。
海は同じリズムで寄せては返す。
寄せるたびに、誰かの声が砂に混ざってくる。
返すたびに、幾つかの言葉は流され、幾つかの言葉は石のように残る。
目を閉じると、炉の音と波の音が重なる。
“ゴウッ”と“カチ”。
火と海。
熱と暗さ。
矛盾の中で、俺は作っている。
矛盾は、作品の骨になる。
骨がなければ、光は立てない。
そう言い聞かせて、浅い眠りに沈んだ。
◆
翌朝。
工房の扉を開けると、緒方が真顔で立っていた。
「蓮。来い」
言い方に冗談がない。
彼に手を引かれて事務室に入ると、職員と教員が数人。佐伯と柏木。
机の上に、見慣れた紙。俺のスケッチ。
端に細い黒い粉。
職員が言う。「コピー機の投入口に、これがあった。朝一で清掃の方が回収した」
樹が少し遅れて入ってきた。息が上がっている。走ったのだ。
俺は、スケッチの紙端の黒い粉を指に取った。
煤だ。
コピー機の内部ではない。
別の場所の煤が付いている。
工房の隅の古いバーナー。
半年前の事故の、あのバーナー。
直接は触れない。触れたら、体が固まる。
けれど、煤は語る。
煤は、燃えたものの履歴だ。
職員は、「清掃の方が、四時半ごろ、工房棟の廊下で紙片を拾ったとのこと。監視カメラの映像を確認中」と言った。
四時半。
まだ夜、という名前の時間。
俺の胸の中で、針が一つ進む音がしたように思った。
樹が短く息を吐いた。
「事実が、こちらに寄ってきている」
彼の言い方は、海の潮の説明に似ていた。
寄せては返す。
今、寄せてきた。
俺は、震えが少しだけ止まるのを感じた。
“誰か”ではなく、“事実”が相手になると、呼吸の仕方が思い出せる。
ここから、泳げる。
「監視カメラの映像、見せてもらえますか」
自分の声が、現場の声になっていた。
職員が頷き、モニターに映像が出る。
廊下の薄暗い画面に、影が一本走る。
フードを深くかぶった小柄な人影。
肩の線。
歩幅。
樹が、小さく言った。
「……清掃の人ではない。君の工房の後輩の、歩幅に似てる」
柏木が硬い顔で画面を睨む。「誰……」
映像は荒い。顔はわからない。
けれど、歩き方のリズムは、正直だ。
俺は、胸の奥で何かがさらに沈むのを感じた。
“犯人”という言葉が、急に冷える。
俺の中で、怒りと悲しみが入れ替わる。
誰かの名前を、今ここで言うことはできない。
言い当てるのは容易い。容易いからこそ、危ない。
職員が言った。「学務と連携して、拡大映像を解析する」
樹が、俺の手の甲を叩いた。
こん、こん。
俺も返す。
こん、こん。
事実がこちらに寄ってくるのを待ち、そのときに備えて、呼吸を整える。
俺は、工房に戻った。
火は、相変わらず“ゴウッ”と言い、海は、相変わらず“カチ”と言った。
矛盾の中で、光は立てる。
俺の手は震えながらも、図面を引き直した。
今日の暗さは、蜂蜜より少し固い。
スプーンですくうと、糸を引く。
その糸は、切れそうで切れない。
◆
夕方、店長が工房に現れた。
焼き菓子の箱をぶら下げ、帽子をちょっとずらし、「おじゃま」と短く言う。
彼は場の空気を嗅ぎ分けるのが上手い。
笑いながら、余計なことは言わない。
ただ、箱を差し出し、中から出た小さなクッキーを、俺の掌に置いた。
「甘いもので、暗さの味を変えろ」
店長の言い方は、時々、樹に似ている。
俺は笑った。
笑いが出たことに、自分で驚いた。
その驚きもまた、救いだ。
焼き菓子の甘い匂いが、工房の煤の匂いと混ざる。
蜂蜜の暗さの中に、砂糖の光が混じる。
甘さは、暗さを塗り替えない。
ただ、混ざる。
混ざり方を、俺は学んでいる。
夜、潮時計の針音を再生した。
カチ、カチ。
合図。
こん、こん。
返事。
こん、こん。
俺は、沈む心の上を、ゆっくりと泳いだ。
泳ぎ方を忘れないうちに、朝が来る。
朝が来れば、事実がもう少し寄ってくる。
寄ってきた事実を、俺は拾い上げる。
拾い上げた事実で、光の骨を足す。
光は、きっと、立てる。
たとえ、蜂蜜の暗さが舌に残っていても。
たとえ、火の声がまだ怖くても。
たとえ、噂が消えなくても。
合図がある。
こん、こん。
俺は返す。
こん、こん。
夜は、深くなった。
でも、深い夜ほど、星は多い。
星の数を数えるように、俺は針の音を数えた。
十、二十、三十――。
数えることは、祈りに似ている。
祈りは、現実を変えない。
でも、心の重さの分配を変える。
俺は、少しだけ軽くなる。
明日、また、沈むだろう。
そのたびに、浮く方法を思い出せばいい。
俺は合図する。
こん、こん。
樹の返事を、暗がりの向こうで聞いた気がした。
こん、こん。
呼吸が合う。
俺は、呼吸を続ける。
光るクラゲの隣で、光らない俺の輪郭が、少しずつ、はっきりしていく。
工房の長テーブルに広げて乾かしておいたスケッチの端が、誰かの袖で少し濡れて、鉛筆の線がぼやけていた。絵の具の水が跳ねただけ。よくある事故。柏木が慌ててペーパータオルを差し出して、「すみません」と早口で謝る。俺は笑って「だいじょうぶ。クラゲなら、ぼやけた線のほうが似合う」と返した。
ぼやけるのは、いつだって予兆だ。輪郭が柔らかく溶け始めるとき、そこにあるものは、別の形に変わっていく。
夜になって、スマホが震えた。作業台に伏せていた画面の隅に、知らないアカウントからのタグ付け通知が光った。
――#芸大クラゲランプ #神デザイン #天才は誰。
押した指が、自分のものではないみたいに冷たい。
画面に出てきたのは、俺のスケッチに、ほとんど見間違う角度の写真だった。薄い方眼紙の上に置いた、ガラスシェードの構造図。発光の呼吸に合わせて厚みのテンポを変える矢印。端に走り書きで書いた「蜂蜜の暗さ」。
見覚えのない蛍光灯の反射が、紙の表面に斜めに走っている。工房の天井灯の並びとは違う。
胸が内側から掴まれる。誰かが撮った。ここで、じゃないどこかで。
コメント欄は速かった。
“これ、見た。ガラス棟のやつだよね?”
“パクり出た? てか学祭前に情報出すのプロモ? 匂わせ?”
“光らないのは作者の倫理”。
最後の一行を読んだ瞬間、喉奥が熱くなった。
光らない俺。誰かがそう言ったわけじゃないのに、自分で貼った札が、こんなときだけしっくり憎らしく貼り付いてくる。
スクリーンショットを撮る手が、微かに震えた。
樹に送ろうとしたメッセージは「見て」で始まり、「どうしよう」で終わった。送信ボタンに小さな青い光が走る。
すぐに既読がつき、「場所どこ」と一行来た。冷たい水みたいに落ち着いた文字列。
工房。画像を撮られたのはたぶん他所。
そう打とうとして、やめた。わからないことをわかったふりで書くのは、火より危ない。
結局、俺は短く「今から話せる?」とだけ送った。
“あと十五分”。樹の返事はいつも、時間を正確に刻む。潮時計の針みたいに。
◆
十五分後、防波堤の端に腰掛けた樹は、潮時計の蓋を一度だけ開いて閉じた。
風は強くなく、冷たすぎもしない。海は、夜になる前の一番あわい色にいる。
俺はスマホを手渡した。樹は一度、画面を暗くして、自分の指先の油膜を落としてからスクロールした。
小さく鼻を鳴らす。彼の「理解した」の合図だ。
「まず事実を固めよう」
「うん」
「投稿は三十分前。アカウントは新規。投稿履歴ゼロ。写真の蛍光灯の反射が三本。工房は二本。写り込んでいる机の木目は、この工房の材の癖と違う。角の欠けも違う」
「じゃあ、どこで?」
「“どこで”は今すぐには出ない。けど、“ここじゃない”は出る。次。誰が撮ったか。写り込みの影は……薄い。人がいない時間に撮られている可能性。鍵のある部屋なら合鍵、鍵のない部屋なら開放時間」
「海洋学科の実験室、掲示板の隣の備品室は、鍵が甘い」
「根拠は」
「前に試薬の搬入を手伝ったとき、ドアのラッチが戻りづらかった」
「了解」
淡々と音を拾っていく樹の声に、自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえる。
この人の「まず事実」という姿勢に救われる。救われるけれど、同時に、俺は彼にすら弱音を吐けなくなる。
弱音を吐く音が、自分の耳にだけうるさい。
「明日、学内の掲示板に、似たデザインが出たら?」
俺の声は、自分で驚くほど軽かった。軽く作らなきゃ、崩れるのがわかっていた。
「出たら、“似た”の程度を測る。図面が一致しているのか、コンセプトが近いだけか。判定は、怒りの量とは別にやる」
怒りの量は、今すでにこぼれていた。
自分の中のどこかに、透明な盃があって、そこにざばざば注がれる。溢れた怒りは、最初、熱い。でも、すぐ冷える。冷えた怒りは、重い。沈む。
「……ありがと。樹」
「礼はあとで。今は、情報」
彼の言い方は、まるで手術室の会話みたいだ。心拍数と血中酸素濃度を読みながら、執刀医に必要な器具を渡していく。
俺はうなずき、指先で自分の手の甲を、こん、こん――叩いた。合図。
樹も返す。こん、こん。
「あと、これ」
樹はスマホを取り出し、録音アプリを立ち上げて、潮時計をマイクに寄せた。五秒、十秒。針の音が淡く記録される。
送信。
ほどなく、俺のスマホが震えた。受信音と一緒に、聞き慣れたわずかな“カチ……カチ……”がイヤホンから漏れる。
樹は言った。「眠れない夜はこれを再生して。海は同じリズムで寄せては返す」
どこかで聞いたことのある呪文みたいだ、と思った。祖父の命日。Aug.20。彼が言った、“形にして見せたい”。
時計の針音は、波ではない。波のたとえ。
でも、たとえは時に現実より強い。
指先の震えは、潮が引くみたいに少しおさまった。
それでも胸のざわめきは、消えなかった。薄くなった水面の下で、別の流れがうねっていた。
◆
翌朝、やっぱり出た。
海洋学科棟一階の掲示板。クラゲ研究会の学祭展示のポスター。
センターにあるのは、薄く青いクラゲの傘――ではなかった。
“ガラスの傘”だ。
レンズシェードの厚みが呼吸する動線のイラスト。発光の強弱カーブ。
標題は「暗さの構築」。
俺のスケッチの言葉が、階調を変えてそこにいた。
パクり、と叫ぶ前に、喉の筋肉が硬くなった。声が出ない。
掲示板の前は人だかりだ。
“すごくない?”“海洋のほう、やっぱ頭ひとつ抜けてる”“ガラスのやつらも頑張れよ”“火の前に立てないらしいしな、あいつ”。
最後の一言だけ、刃物の角度が違う。斜めに入って、止血しづらいところを切る。
俺は人波を割って掲示板に近づき、ポスターの端の細い文字を読む。
作者名――“三浦”。
知らない名前。
掲示物の下の問い合わせ先。小さく書かれた責任者のメール。
そこに“佐伯”の字を見つけた。
佐伯。
昨日、正論の旗を掲げて去った同級生。
クラゲ研究会の支援に名を連ねている。そうだった、と思い出す。
胸の盃がまた傾く音がした。
自分の体の奥で、何かがコトリと落ちる。
怒りの温度は、もう測れない。代わりに重さが増す。沈む心。
足元が、海に近い。
「蓮」
背後から佐伯が呼ぶ。
振り返ると、彼の顔の輪郭は逆光に潰れている。声のテンポで、彼だとわかる。
俺は、言った。「見た」
「……誤解だと思う」
誤解、という言葉を、この場で出すのは悪手だと思う。
言っている本人も、どこかでそう知っている口調だ。迷いが相の手に乗る。
「誰の誤解」
「お前の、かもしれない。俺の、かもしれない。三浦の、かもしれない」
「三浦って誰」
「俺の幼馴染だ。海洋の、クラゲ班の」
空気が変わった。
幼馴染。
その二文字は、過去の正しさを背負って出てくる。初期値が高い言葉。
俺の背中が、わずかに反る。防御の癖。
「ポスターの“暗さの構築”、彼の言葉なんだ。昔から、海が暗いときほど情報が豊かだって言ってて。お前の“蜂蜜の暗さ”を見たのかどうかは、わからない。けど……」
「けど?」
「似てる。俺にも、似て見える。だから、今、説明しに来た」
誰に対しての説明?
俺?
それとも、自分自身に?
佐伯はいつも、言葉を整えてから話す。
整えきれなかった言葉が、彼の口からこぼれるのを、初めて見た。
「三浦に訊く。俺から。今日の昼、研究室に顔出す。来る?」
来る?
来い、じゃない。
選択権がこちらにある言い方。
樹の「まず事実」より、地面に近い。
俺は、ゆっくりと息を吸った。胸の膜がややきしむ。それでも、息は入る。
樹なら、どうする。
“まず事実”。
行って、聞く。
簡単に結論に飛ばない。
そうやって手に入れた結論じゃないと、あとで自分に刺さる。
俺は頷いた。「行く」
◆
午前中の工房は、音が多かった。
誰かが笑い、誰かがドアを閉める。研磨機が唸り、火が噛む。
噂の空気は、音の隙間を柔らかく這う。
“スケッチ、流出したらしいよ”“写真、どっから? 鍵は? 鍵って誰が持ってる?”
疑いの矢印は、あらゆる方向に伸びて、結び目になって、また解ける。
俺は緒方にシェードの最終チェックを頼み、柏木にLEDの配線をもう一度見てもらい、工房を出る準備をした。
スマホが震える。店長からだ。
昨日搬入したウィンドウの動画が添付されていた。夜、通りの灯りが、逆さの水面に刻まれている。
“最高だ。お前の光、街で息してる。納期、もし延ばしたかったら延ばせる。学祭に集中しろ”
短い一文が、逃げ道のように差し出される。
延ばせば、楽になる。
延ばせば、衝突は避けられる。
延ばせば――。
俺は、「大丈夫です。予定通りいけます」と返信した。
送信した瞬間、胸の奥で何かがきしむ。強がりの音だ。
強がりは、嘘ではない。自分に対する宣言だ。
宣言が重いときは、合図を使えばいい。
俺は自分の手の甲を、こん、こん。
見ている人はいない。それでも、音は身体に残る。
樹からも、ちょうどそのタイミングでメッセージが来た。“昼、行ける。入り口で”。
潮時計の針音が、ポケットの中で微かに鳴る気がした。あり得ない。でも、たとえだ。たとえは、時に現実より強い。
◆
海洋学科棟の扉に、樹が立っていた。
いつもの紺のパーカー。フードの紐が少し解けている。
俺が近づくと、彼はすぐわかる。歩幅で、咳払いで、靴のソールの減り方で。
俺は一歩手前で止まり、合図。
こん、こん。
樹も返す。
こん、こん。
それだけで、心拍が半拍整う。
佐伯が合流した。「研究室、空いてる時間、確認した。今なら三浦いる」
ドアを押すと、冷気と一緒に、海の匂いが押し込んできた。
白いタイル。蛍光灯は三本。
俺のスケッチを撮った写真の光条。
実験台の上に並ぶ透明の容器。薄い青の水。
奥のベンチに、黒いパーカーの肩が見えた。
佐伯が呼ぶ。「三浦」
肩が動く。振り向いた顔の輪郭より先に、指の癖が目に入った。
ペンを持つとき、中指が人差し指より少し前に出る。筆圧が強くなる直前の、静かな緊張。
樹が、低く息を吸った。相貌失認の彼でも、癖は拾える。
三浦は、こちらを見て、少し笑った。
“正論の旗”を持っていない笑い方。子どもの頃から知っている誰かに向ける顔。佐伯が幼馴染といった意味が、輪郭を持つ。
「水城だ。ガラスの」
「知ってる。展示、見たことある。去年の『水の縁』。よかった」
声は落ち着いて、言葉はまっすぐだ。
いいな、と思う素直さが、一瞬、怒りの場所を迷わせた。
「このポスターのデザイン……俺のスケッチに似てる。見た?」
直接訊いた。遠回しは、ここでは刃こぼれする。
三浦は頷き、「見てない」と言った。
嘘の音はしない。
嘘じゃないことと、事実が一致するとは限らない。
それでも、この“見てない”は、あまりにも透明だった。
樹が口を挟む。「写真、SNSに上がった」
三浦は目を細めた。「ああ、あれか。今朝、佐伯が見せてくれた。蛍光灯の線、うちだよねって話になった」
やっぱり。この部屋だ。
俺の背中が僅かに粟立つ。誰かが入った。いつ? 鍵は?
三浦が付け加える。「掲示板の前、ざわついてたから、先に説明しようと思って」
説明。
俺は言った。「“蜂蜜の暗さ”って、ポスターに書いてあった」
三浦は小さく笑った。「それはこっちの言葉じゃない。俺は“海藻の影の濃さ”って言う。蜂蜜の暗さ、いい言い方だね。食べ物に例えるの、強い」
言葉の由来。
俺の走り書きが、誰かの手に渡った証拠。
樹が、机の引き出しに目をやる。
三浦も視線を追う。引き出しは鍵付きだ。鍵穴に、細い傷。
佐伯が一歩前に出る。「鍵、最近替えた?」
「先週。ラッチが戻らなくて。合鍵は、俺と、主任と、あと――」
あと、の先に、固有名詞が落ちる音がした。
「巡回の清掃の人。朝の五時半、ここ通る」
朝の五時半。
工房の夜がまだ残っている時間。
俺は、鍵穴の傷を目でなぞった。焦げ跡ではない。材の毛羽立ち。
侵入の痕跡は、目立たないように作ってある。
誰かが、ここでスケッチを撮った。
誰かが、投稿した。
三浦が静かに言う。「俺は、盗んでない。似てると言われるなら、似てしまった。海の研究をしている。暗さの構築は、ずっと考えてきた。ガラスでやる発想は、あなたたちのほうが深い。だから、ポスターにガラスを描いた。敬意だったつもりが、逆に……ごめん」
謝罪の仕方が、下手ではなかった。
そのことが、余計に混乱を連れてくる。
悪意のきざみを探す目は、的を失うと、自分に向かう。
俺は自分の胸の中を探した。怒り、悲しみ、悔しさ、焦り。
全部が、沈殿している。
樹が、俺の手に触れた。合図。
こん、こん。
指先が一瞬、浮上する。
それでも、底は深い。
「……わかった。三浦、説明ありがとう。鍵の件、事務にも言ったほうがいい。SNSの投稿、学務経由で削除依頼を出す。ポスターは、このまま展示する?」
言いながら、自分の声が少し変わるのを感じた。現場の声。
三浦は「掲示板、別案に差し替える」と言った。「ガラスの部分は消す。クラゲの動線だけにする」
それが正しいかどうかは、わからない。
けれど、今必要なのは、火消しじゃない。
火は、火で消えない。
樹が静かに頷く。彼は火の言語ではなく、海の言語で見ている。
佐伯が、俺を見る。「……悪かった」
何に対して?
幼馴染であることに?
俺が昨日刺された言葉に?
問い詰めることは、今の俺にはできない。質問は刃だ。刃は、握りが弱いと自分の掌を切る。
「事実を固める。ありがとう」
それだけ言って、俺は研究室を出た。
廊下の空気が、工房より湿っている。
海が近い。
近い海が、遠い。
◆
外に出ると、雲が低かった。
樹が隣に立つ。佐伯は少し距離を置いて、ポケットに手を入れた。
落ち葉の上を踏む足音が、三人分。
樹が口を開く前に、俺は言った。
「怒ってる」
「うん」
「悲しい」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも、相手を叩く言葉が、口から出ない」
「正常」
正常。
この言葉を、俺は今、救命具みたいに掴んだ。
正常の輪っかに腕を通す。
海に浮く。
沈む心とは別に、身体は浮く。
浮いている間に、呼吸を整える。
呼吸が整えば、泳ぎかたを思い出す。
「夜、眠れなかったら、針の音、再生する」
「昨夜、少し聞いた。少しだけ、浅いところに戻れた」
「戻ったところで、また波は来る」
「来るね」
樹は合図をくれた。
こん、こん。
俺も返した。
こん、こん。
佐伯が、少し躊躇してから口を開いた。
「幼馴染のことを、盾にしたくなかった。俺は昨日、お前に“逃げだ”と言った。でも、正論の中に俺の顔を隠した。悪かった」
彼の謝罪の仕方は、不器用だった。
それでも、それは彼の言葉だ。
俺は頷いた。「……わかった。俺も、昨日、お前の言葉が正しいからこそ、余計に痛かったってこと、伝えられなかった」
言って、胸のどこかで何かが外れる。
硬く巻かれていたテープが、一本、はがれる。
空気が入る。
俺は、初めて自分から佐伯の手の甲を、こん、こん――叩いた。
彼は驚いた顔で俺を見、そして小さく笑って、手の甲を二度、返した。
合図は、親密さの私物じゃない。合図は、作業の合図であり、心の合図だ。
俺たちは今、作業の途中にいる。心の途中にもいる。
◆
学祭の準備は、待ってくれない。
噂の空気は、薄くなったり濃くなったりしながら、工房に居座った。
“清掃の人が鍵持ってるらしいよ”“いや、合鍵、学生が勝手に作ったって噂も”“ポスター変わったよね。前のやつのほうが映えたのに”
映え、という言葉が、いちいち傷に触れる。
映える光は、光っていない背景が作る。
それを言えば、自分に都合がよすぎる、と誰かの声が言う。
その誰かは、いつだって、俺の中にいる。
夜、店長からまた動画が送られてきた。
ウィンドウの前で立ち止まる人影。
子どもが指を伸ばし、大人がしゃがんで視線の高さを合わせる。
“街は、いい。見ている人の光が、作品の中に入る。学祭のとこも、後で行く。差し入れ持ってく”
画面の端に、コンビニの袋が映る。焼き菓子の箱。
食べ物のことを考えると、胸の重さが少しだけ軽くなるのは、人間が単純にできているからだろう。
俺は「待ってます」とだけ返した。
針の音を再生する。
カチ、カチ。
海は同じリズムで寄せては返す。
寄せるたびに、誰かの声が砂に混ざってくる。
返すたびに、幾つかの言葉は流され、幾つかの言葉は石のように残る。
目を閉じると、炉の音と波の音が重なる。
“ゴウッ”と“カチ”。
火と海。
熱と暗さ。
矛盾の中で、俺は作っている。
矛盾は、作品の骨になる。
骨がなければ、光は立てない。
そう言い聞かせて、浅い眠りに沈んだ。
◆
翌朝。
工房の扉を開けると、緒方が真顔で立っていた。
「蓮。来い」
言い方に冗談がない。
彼に手を引かれて事務室に入ると、職員と教員が数人。佐伯と柏木。
机の上に、見慣れた紙。俺のスケッチ。
端に細い黒い粉。
職員が言う。「コピー機の投入口に、これがあった。朝一で清掃の方が回収した」
樹が少し遅れて入ってきた。息が上がっている。走ったのだ。
俺は、スケッチの紙端の黒い粉を指に取った。
煤だ。
コピー機の内部ではない。
別の場所の煤が付いている。
工房の隅の古いバーナー。
半年前の事故の、あのバーナー。
直接は触れない。触れたら、体が固まる。
けれど、煤は語る。
煤は、燃えたものの履歴だ。
職員は、「清掃の方が、四時半ごろ、工房棟の廊下で紙片を拾ったとのこと。監視カメラの映像を確認中」と言った。
四時半。
まだ夜、という名前の時間。
俺の胸の中で、針が一つ進む音がしたように思った。
樹が短く息を吐いた。
「事実が、こちらに寄ってきている」
彼の言い方は、海の潮の説明に似ていた。
寄せては返す。
今、寄せてきた。
俺は、震えが少しだけ止まるのを感じた。
“誰か”ではなく、“事実”が相手になると、呼吸の仕方が思い出せる。
ここから、泳げる。
「監視カメラの映像、見せてもらえますか」
自分の声が、現場の声になっていた。
職員が頷き、モニターに映像が出る。
廊下の薄暗い画面に、影が一本走る。
フードを深くかぶった小柄な人影。
肩の線。
歩幅。
樹が、小さく言った。
「……清掃の人ではない。君の工房の後輩の、歩幅に似てる」
柏木が硬い顔で画面を睨む。「誰……」
映像は荒い。顔はわからない。
けれど、歩き方のリズムは、正直だ。
俺は、胸の奥で何かがさらに沈むのを感じた。
“犯人”という言葉が、急に冷える。
俺の中で、怒りと悲しみが入れ替わる。
誰かの名前を、今ここで言うことはできない。
言い当てるのは容易い。容易いからこそ、危ない。
職員が言った。「学務と連携して、拡大映像を解析する」
樹が、俺の手の甲を叩いた。
こん、こん。
俺も返す。
こん、こん。
事実がこちらに寄ってくるのを待ち、そのときに備えて、呼吸を整える。
俺は、工房に戻った。
火は、相変わらず“ゴウッ”と言い、海は、相変わらず“カチ”と言った。
矛盾の中で、光は立てる。
俺の手は震えながらも、図面を引き直した。
今日の暗さは、蜂蜜より少し固い。
スプーンですくうと、糸を引く。
その糸は、切れそうで切れない。
◆
夕方、店長が工房に現れた。
焼き菓子の箱をぶら下げ、帽子をちょっとずらし、「おじゃま」と短く言う。
彼は場の空気を嗅ぎ分けるのが上手い。
笑いながら、余計なことは言わない。
ただ、箱を差し出し、中から出た小さなクッキーを、俺の掌に置いた。
「甘いもので、暗さの味を変えろ」
店長の言い方は、時々、樹に似ている。
俺は笑った。
笑いが出たことに、自分で驚いた。
その驚きもまた、救いだ。
焼き菓子の甘い匂いが、工房の煤の匂いと混ざる。
蜂蜜の暗さの中に、砂糖の光が混じる。
甘さは、暗さを塗り替えない。
ただ、混ざる。
混ざり方を、俺は学んでいる。
夜、潮時計の針音を再生した。
カチ、カチ。
合図。
こん、こん。
返事。
こん、こん。
俺は、沈む心の上を、ゆっくりと泳いだ。
泳ぎ方を忘れないうちに、朝が来る。
朝が来れば、事実がもう少し寄ってくる。
寄ってきた事実を、俺は拾い上げる。
拾い上げた事実で、光の骨を足す。
光は、きっと、立てる。
たとえ、蜂蜜の暗さが舌に残っていても。
たとえ、火の声がまだ怖くても。
たとえ、噂が消えなくても。
合図がある。
こん、こん。
俺は返す。
こん、こん。
夜は、深くなった。
でも、深い夜ほど、星は多い。
星の数を数えるように、俺は針の音を数えた。
十、二十、三十――。
数えることは、祈りに似ている。
祈りは、現実を変えない。
でも、心の重さの分配を変える。
俺は、少しだけ軽くなる。
明日、また、沈むだろう。
そのたびに、浮く方法を思い出せばいい。
俺は合図する。
こん、こん。
樹の返事を、暗がりの向こうで聞いた気がした。
こん、こん。
呼吸が合う。
俺は、呼吸を続ける。
光るクラゲの隣で、光らない俺の輪郭が、少しずつ、はっきりしていく。



