最初は、いつもの冗談みたいなものだと思った。
 工房の長テーブルに広げて乾かしておいたスケッチの端が、誰かの袖で少し濡れて、鉛筆の線がぼやけていた。絵の具の水が跳ねただけ。よくある事故。柏木が慌ててペーパータオルを差し出して、「すみません」と早口で謝る。俺は笑って「だいじょうぶ。クラゲなら、ぼやけた線のほうが似合う」と返した。
 ぼやけるのは、いつだって予兆だ。輪郭が柔らかく溶け始めるとき、そこにあるものは、別の形に変わっていく。

 夜になって、スマホが震えた。作業台に伏せていた画面の隅に、知らないアカウントからのタグ付け通知が光った。
 ――#芸大クラゲランプ #神デザイン #天才は誰。
 押した指が、自分のものではないみたいに冷たい。
 画面に出てきたのは、俺のスケッチに、ほとんど見間違う角度の写真だった。薄い方眼紙の上に置いた、ガラスシェードの構造図。発光の呼吸に合わせて厚みのテンポを変える矢印。端に走り書きで書いた「蜂蜜の暗さ」。
 見覚えのない蛍光灯の反射が、紙の表面に斜めに走っている。工房の天井灯の並びとは違う。
 胸が内側から掴まれる。誰かが撮った。ここで、じゃないどこかで。

 コメント欄は速かった。
 “これ、見た。ガラス棟のやつだよね?”
 “パクり出た? てか学祭前に情報出すのプロモ? 匂わせ?”
 “光らないのは作者の倫理”。
 最後の一行を読んだ瞬間、喉奥が熱くなった。
 光らない俺。誰かがそう言ったわけじゃないのに、自分で貼った札が、こんなときだけしっくり憎らしく貼り付いてくる。

 スクリーンショットを撮る手が、微かに震えた。
 樹に送ろうとしたメッセージは「見て」で始まり、「どうしよう」で終わった。送信ボタンに小さな青い光が走る。
 すぐに既読がつき、「場所どこ」と一行来た。冷たい水みたいに落ち着いた文字列。
 工房。画像を撮られたのはたぶん他所。
 そう打とうとして、やめた。わからないことをわかったふりで書くのは、火より危ない。

 結局、俺は短く「今から話せる?」とだけ送った。
 “あと十五分”。樹の返事はいつも、時間を正確に刻む。潮時計の針みたいに。



 十五分後、防波堤の端に腰掛けた樹は、潮時計の蓋を一度だけ開いて閉じた。
 風は強くなく、冷たすぎもしない。海は、夜になる前の一番あわい色にいる。
 俺はスマホを手渡した。樹は一度、画面を暗くして、自分の指先の油膜を落としてからスクロールした。
 小さく鼻を鳴らす。彼の「理解した」の合図だ。

「まず事実を固めよう」
「うん」

「投稿は三十分前。アカウントは新規。投稿履歴ゼロ。写真の蛍光灯の反射が三本。工房は二本。写り込んでいる机の木目は、この工房の材の癖と違う。角の欠けも違う」
「じゃあ、どこで?」

「“どこで”は今すぐには出ない。けど、“ここじゃない”は出る。次。誰が撮ったか。写り込みの影は……薄い。人がいない時間に撮られている可能性。鍵のある部屋なら合鍵、鍵のない部屋なら開放時間」
「海洋学科の実験室、掲示板の隣の備品室は、鍵が甘い」
「根拠は」
「前に試薬の搬入を手伝ったとき、ドアのラッチが戻りづらかった」
「了解」

 淡々と音を拾っていく樹の声に、自分の心臓の音だけがやたら大きく聞こえる。
 この人の「まず事実」という姿勢に救われる。救われるけれど、同時に、俺は彼にすら弱音を吐けなくなる。
 弱音を吐く音が、自分の耳にだけうるさい。

「明日、学内の掲示板に、似たデザインが出たら?」
 俺の声は、自分で驚くほど軽かった。軽く作らなきゃ、崩れるのがわかっていた。

「出たら、“似た”の程度を測る。図面が一致しているのか、コンセプトが近いだけか。判定は、怒りの量とは別にやる」

 怒りの量は、今すでにこぼれていた。
 自分の中のどこかに、透明な盃があって、そこにざばざば注がれる。溢れた怒りは、最初、熱い。でも、すぐ冷える。冷えた怒りは、重い。沈む。

「……ありがと。樹」
「礼はあとで。今は、情報」

 彼の言い方は、まるで手術室の会話みたいだ。心拍数と血中酸素濃度を読みながら、執刀医に必要な器具を渡していく。
 俺はうなずき、指先で自分の手の甲を、こん、こん――叩いた。合図。
 樹も返す。こん、こん。

「あと、これ」

 樹はスマホを取り出し、録音アプリを立ち上げて、潮時計をマイクに寄せた。五秒、十秒。針の音が淡く記録される。
 送信。
 ほどなく、俺のスマホが震えた。受信音と一緒に、聞き慣れたわずかな“カチ……カチ……”がイヤホンから漏れる。
 樹は言った。「眠れない夜はこれを再生して。海は同じリズムで寄せては返す」

 どこかで聞いたことのある呪文みたいだ、と思った。祖父の命日。Aug.20。彼が言った、“形にして見せたい”。
 時計の針音は、波ではない。波のたとえ。
 でも、たとえは時に現実より強い。
 指先の震えは、潮が引くみたいに少しおさまった。
 それでも胸のざわめきは、消えなかった。薄くなった水面の下で、別の流れがうねっていた。



 翌朝、やっぱり出た。
 海洋学科棟一階の掲示板。クラゲ研究会の学祭展示のポスター。
 センターにあるのは、薄く青いクラゲの傘――ではなかった。
 “ガラスの傘”だ。
 レンズシェードの厚みが呼吸する動線のイラスト。発光の強弱カーブ。
 標題は「暗さの構築」。
 俺のスケッチの言葉が、階調を変えてそこにいた。
 パクり、と叫ぶ前に、喉の筋肉が硬くなった。声が出ない。
 掲示板の前は人だかりだ。
 “すごくない?”“海洋のほう、やっぱ頭ひとつ抜けてる”“ガラスのやつらも頑張れよ”“火の前に立てないらしいしな、あいつ”。
 最後の一言だけ、刃物の角度が違う。斜めに入って、止血しづらいところを切る。
 俺は人波を割って掲示板に近づき、ポスターの端の細い文字を読む。
 作者名――“三浦”。
 知らない名前。
 掲示物の下の問い合わせ先。小さく書かれた責任者のメール。
 そこに“佐伯”の字を見つけた。
 佐伯。
 昨日、正論の旗を掲げて去った同級生。
 クラゲ研究会の支援に名を連ねている。そうだった、と思い出す。
 胸の盃がまた傾く音がした。
 自分の体の奥で、何かがコトリと落ちる。
 怒りの温度は、もう測れない。代わりに重さが増す。沈む心。
 足元が、海に近い。

「蓮」

 背後から佐伯が呼ぶ。
 振り返ると、彼の顔の輪郭は逆光に潰れている。声のテンポで、彼だとわかる。
 俺は、言った。「見た」

「……誤解だと思う」

 誤解、という言葉を、この場で出すのは悪手だと思う。
 言っている本人も、どこかでそう知っている口調だ。迷いが相の手に乗る。

「誰の誤解」

「お前の、かもしれない。俺の、かもしれない。三浦の、かもしれない」

「三浦って誰」

「俺の幼馴染だ。海洋の、クラゲ班の」

 空気が変わった。
 幼馴染。
 その二文字は、過去の正しさを背負って出てくる。初期値が高い言葉。
 俺の背中が、わずかに反る。防御の癖。

「ポスターの“暗さの構築”、彼の言葉なんだ。昔から、海が暗いときほど情報が豊かだって言ってて。お前の“蜂蜜の暗さ”を見たのかどうかは、わからない。けど……」

「けど?」

「似てる。俺にも、似て見える。だから、今、説明しに来た」

 誰に対しての説明?
 俺?
 それとも、自分自身に?
 佐伯はいつも、言葉を整えてから話す。
 整えきれなかった言葉が、彼の口からこぼれるのを、初めて見た。

「三浦に訊く。俺から。今日の昼、研究室に顔出す。来る?」

 来る?
 来い、じゃない。
 選択権がこちらにある言い方。
 樹の「まず事実」より、地面に近い。
 俺は、ゆっくりと息を吸った。胸の膜がややきしむ。それでも、息は入る。
 樹なら、どうする。
 “まず事実”。
 行って、聞く。
 簡単に結論に飛ばない。
 そうやって手に入れた結論じゃないと、あとで自分に刺さる。
 俺は頷いた。「行く」



 午前中の工房は、音が多かった。
 誰かが笑い、誰かがドアを閉める。研磨機が唸り、火が噛む。
 噂の空気は、音の隙間を柔らかく這う。
 “スケッチ、流出したらしいよ”“写真、どっから? 鍵は? 鍵って誰が持ってる?”
 疑いの矢印は、あらゆる方向に伸びて、結び目になって、また解ける。
 俺は緒方にシェードの最終チェックを頼み、柏木にLEDの配線をもう一度見てもらい、工房を出る準備をした。
 スマホが震える。店長からだ。
 昨日搬入したウィンドウの動画が添付されていた。夜、通りの灯りが、逆さの水面に刻まれている。
 “最高だ。お前の光、街で息してる。納期、もし延ばしたかったら延ばせる。学祭に集中しろ”
 短い一文が、逃げ道のように差し出される。
 延ばせば、楽になる。
 延ばせば、衝突は避けられる。
 延ばせば――。
 俺は、「大丈夫です。予定通りいけます」と返信した。
 送信した瞬間、胸の奥で何かがきしむ。強がりの音だ。
 強がりは、嘘ではない。自分に対する宣言だ。
 宣言が重いときは、合図を使えばいい。
 俺は自分の手の甲を、こん、こん。
 見ている人はいない。それでも、音は身体に残る。
 樹からも、ちょうどそのタイミングでメッセージが来た。“昼、行ける。入り口で”。
 潮時計の針音が、ポケットの中で微かに鳴る気がした。あり得ない。でも、たとえだ。たとえは、時に現実より強い。



 海洋学科棟の扉に、樹が立っていた。
 いつもの紺のパーカー。フードの紐が少し解けている。
 俺が近づくと、彼はすぐわかる。歩幅で、咳払いで、靴のソールの減り方で。
 俺は一歩手前で止まり、合図。
 こん、こん。
 樹も返す。
 こん、こん。
 それだけで、心拍が半拍整う。
 佐伯が合流した。「研究室、空いてる時間、確認した。今なら三浦いる」

 ドアを押すと、冷気と一緒に、海の匂いが押し込んできた。
 白いタイル。蛍光灯は三本。
 俺のスケッチを撮った写真の光条。
 実験台の上に並ぶ透明の容器。薄い青の水。
 奥のベンチに、黒いパーカーの肩が見えた。
 佐伯が呼ぶ。「三浦」
 肩が動く。振り向いた顔の輪郭より先に、指の癖が目に入った。
 ペンを持つとき、中指が人差し指より少し前に出る。筆圧が強くなる直前の、静かな緊張。
 樹が、低く息を吸った。相貌失認の彼でも、癖は拾える。
 三浦は、こちらを見て、少し笑った。
 “正論の旗”を持っていない笑い方。子どもの頃から知っている誰かに向ける顔。佐伯が幼馴染といった意味が、輪郭を持つ。

「水城だ。ガラスの」
「知ってる。展示、見たことある。去年の『水の縁』。よかった」
 声は落ち着いて、言葉はまっすぐだ。
 いいな、と思う素直さが、一瞬、怒りの場所を迷わせた。

「このポスターのデザイン……俺のスケッチに似てる。見た?」
 直接訊いた。遠回しは、ここでは刃こぼれする。
 三浦は頷き、「見てない」と言った。
 嘘の音はしない。
 嘘じゃないことと、事実が一致するとは限らない。
 それでも、この“見てない”は、あまりにも透明だった。
 樹が口を挟む。「写真、SNSに上がった」
 三浦は目を細めた。「ああ、あれか。今朝、佐伯が見せてくれた。蛍光灯の線、うちだよねって話になった」
 やっぱり。この部屋だ。
 俺の背中が僅かに粟立つ。誰かが入った。いつ? 鍵は?
 三浦が付け加える。「掲示板の前、ざわついてたから、先に説明しようと思って」
 説明。
 俺は言った。「“蜂蜜の暗さ”って、ポスターに書いてあった」
 三浦は小さく笑った。「それはこっちの言葉じゃない。俺は“海藻の影の濃さ”って言う。蜂蜜の暗さ、いい言い方だね。食べ物に例えるの、強い」

 言葉の由来。
 俺の走り書きが、誰かの手に渡った証拠。
 樹が、机の引き出しに目をやる。
 三浦も視線を追う。引き出しは鍵付きだ。鍵穴に、細い傷。
 佐伯が一歩前に出る。「鍵、最近替えた?」
「先週。ラッチが戻らなくて。合鍵は、俺と、主任と、あと――」
 あと、の先に、固有名詞が落ちる音がした。
「巡回の清掃の人。朝の五時半、ここ通る」
 朝の五時半。
 工房の夜がまだ残っている時間。
 俺は、鍵穴の傷を目でなぞった。焦げ跡ではない。材の毛羽立ち。
 侵入の痕跡は、目立たないように作ってある。
 誰かが、ここでスケッチを撮った。
 誰かが、投稿した。
 三浦が静かに言う。「俺は、盗んでない。似てると言われるなら、似てしまった。海の研究をしている。暗さの構築は、ずっと考えてきた。ガラスでやる発想は、あなたたちのほうが深い。だから、ポスターにガラスを描いた。敬意だったつもりが、逆に……ごめん」

 謝罪の仕方が、下手ではなかった。
 そのことが、余計に混乱を連れてくる。
 悪意のきざみを探す目は、的を失うと、自分に向かう。
 俺は自分の胸の中を探した。怒り、悲しみ、悔しさ、焦り。
 全部が、沈殿している。
 樹が、俺の手に触れた。合図。
 こん、こん。
 指先が一瞬、浮上する。
 それでも、底は深い。

「……わかった。三浦、説明ありがとう。鍵の件、事務にも言ったほうがいい。SNSの投稿、学務経由で削除依頼を出す。ポスターは、このまま展示する?」
 言いながら、自分の声が少し変わるのを感じた。現場の声。
 三浦は「掲示板、別案に差し替える」と言った。「ガラスの部分は消す。クラゲの動線だけにする」
 それが正しいかどうかは、わからない。
 けれど、今必要なのは、火消しじゃない。
 火は、火で消えない。
 樹が静かに頷く。彼は火の言語ではなく、海の言語で見ている。
 佐伯が、俺を見る。「……悪かった」
 何に対して?
 幼馴染であることに?
 俺が昨日刺された言葉に?
 問い詰めることは、今の俺にはできない。質問は刃だ。刃は、握りが弱いと自分の掌を切る。

「事実を固める。ありがとう」

 それだけ言って、俺は研究室を出た。
 廊下の空気が、工房より湿っている。
 海が近い。
 近い海が、遠い。



 外に出ると、雲が低かった。
 樹が隣に立つ。佐伯は少し距離を置いて、ポケットに手を入れた。
 落ち葉の上を踏む足音が、三人分。
 樹が口を開く前に、俺は言った。

「怒ってる」
「うん」
「悲しい」
「うん」
「悔しい」
「うん」
「でも、相手を叩く言葉が、口から出ない」
「正常」

 正常。
 この言葉を、俺は今、救命具みたいに掴んだ。
 正常の輪っかに腕を通す。
 海に浮く。
 沈む心とは別に、身体は浮く。
 浮いている間に、呼吸を整える。
 呼吸が整えば、泳ぎかたを思い出す。

「夜、眠れなかったら、針の音、再生する」
「昨夜、少し聞いた。少しだけ、浅いところに戻れた」
「戻ったところで、また波は来る」
「来るね」

 樹は合図をくれた。
 こん、こん。
 俺も返した。
 こん、こん。

 佐伯が、少し躊躇してから口を開いた。

「幼馴染のことを、盾にしたくなかった。俺は昨日、お前に“逃げだ”と言った。でも、正論の中に俺の顔を隠した。悪かった」

 彼の謝罪の仕方は、不器用だった。
 それでも、それは彼の言葉だ。
 俺は頷いた。「……わかった。俺も、昨日、お前の言葉が正しいからこそ、余計に痛かったってこと、伝えられなかった」
 言って、胸のどこかで何かが外れる。
 硬く巻かれていたテープが、一本、はがれる。
 空気が入る。
 俺は、初めて自分から佐伯の手の甲を、こん、こん――叩いた。
 彼は驚いた顔で俺を見、そして小さく笑って、手の甲を二度、返した。
 合図は、親密さの私物じゃない。合図は、作業の合図であり、心の合図だ。
 俺たちは今、作業の途中にいる。心の途中にもいる。



 学祭の準備は、待ってくれない。
 噂の空気は、薄くなったり濃くなったりしながら、工房に居座った。
 “清掃の人が鍵持ってるらしいよ”“いや、合鍵、学生が勝手に作ったって噂も”“ポスター変わったよね。前のやつのほうが映えたのに”
 映え、という言葉が、いちいち傷に触れる。
 映える光は、光っていない背景が作る。
 それを言えば、自分に都合がよすぎる、と誰かの声が言う。
 その誰かは、いつだって、俺の中にいる。

 夜、店長からまた動画が送られてきた。
 ウィンドウの前で立ち止まる人影。
 子どもが指を伸ばし、大人がしゃがんで視線の高さを合わせる。
 “街は、いい。見ている人の光が、作品の中に入る。学祭のとこも、後で行く。差し入れ持ってく”
 画面の端に、コンビニの袋が映る。焼き菓子の箱。
 食べ物のことを考えると、胸の重さが少しだけ軽くなるのは、人間が単純にできているからだろう。
 俺は「待ってます」とだけ返した。
 針の音を再生する。
 カチ、カチ。
 海は同じリズムで寄せては返す。
 寄せるたびに、誰かの声が砂に混ざってくる。
 返すたびに、幾つかの言葉は流され、幾つかの言葉は石のように残る。

 目を閉じると、炉の音と波の音が重なる。
 “ゴウッ”と“カチ”。
 火と海。
 熱と暗さ。
 矛盾の中で、俺は作っている。
 矛盾は、作品の骨になる。
 骨がなければ、光は立てない。
 そう言い聞かせて、浅い眠りに沈んだ。



 翌朝。
 工房の扉を開けると、緒方が真顔で立っていた。
「蓮。来い」
 言い方に冗談がない。
 彼に手を引かれて事務室に入ると、職員と教員が数人。佐伯と柏木。
 机の上に、見慣れた紙。俺のスケッチ。
 端に細い黒い粉。
 職員が言う。「コピー機の投入口に、これがあった。朝一で清掃の方が回収した」
 樹が少し遅れて入ってきた。息が上がっている。走ったのだ。
 俺は、スケッチの紙端の黒い粉を指に取った。
 煤だ。
 コピー機の内部ではない。
 別の場所の煤が付いている。
 工房の隅の古いバーナー。
 半年前の事故の、あのバーナー。
 直接は触れない。触れたら、体が固まる。
 けれど、煤は語る。
 煤は、燃えたものの履歴だ。
 職員は、「清掃の方が、四時半ごろ、工房棟の廊下で紙片を拾ったとのこと。監視カメラの映像を確認中」と言った。
 四時半。
 まだ夜、という名前の時間。
 俺の胸の中で、針が一つ進む音がしたように思った。

 樹が短く息を吐いた。
「事実が、こちらに寄ってきている」
 彼の言い方は、海の潮の説明に似ていた。
 寄せては返す。
 今、寄せてきた。
 俺は、震えが少しだけ止まるのを感じた。
 “誰か”ではなく、“事実”が相手になると、呼吸の仕方が思い出せる。
 ここから、泳げる。

「監視カメラの映像、見せてもらえますか」
 自分の声が、現場の声になっていた。
 職員が頷き、モニターに映像が出る。
 廊下の薄暗い画面に、影が一本走る。
 フードを深くかぶった小柄な人影。
 肩の線。
 歩幅。
 樹が、小さく言った。
「……清掃の人ではない。君の工房の後輩の、歩幅に似てる」
 柏木が硬い顔で画面を睨む。「誰……」
 映像は荒い。顔はわからない。
 けれど、歩き方のリズムは、正直だ。
 俺は、胸の奥で何かがさらに沈むのを感じた。
 “犯人”という言葉が、急に冷える。
 俺の中で、怒りと悲しみが入れ替わる。
 誰かの名前を、今ここで言うことはできない。
 言い当てるのは容易い。容易いからこそ、危ない。

 職員が言った。「学務と連携して、拡大映像を解析する」
 樹が、俺の手の甲を叩いた。
 こん、こん。
 俺も返す。
 こん、こん。

 事実がこちらに寄ってくるのを待ち、そのときに備えて、呼吸を整える。
 俺は、工房に戻った。
 火は、相変わらず“ゴウッ”と言い、海は、相変わらず“カチ”と言った。
 矛盾の中で、光は立てる。
 俺の手は震えながらも、図面を引き直した。
 今日の暗さは、蜂蜜より少し固い。
 スプーンですくうと、糸を引く。
 その糸は、切れそうで切れない。



 夕方、店長が工房に現れた。
 焼き菓子の箱をぶら下げ、帽子をちょっとずらし、「おじゃま」と短く言う。
 彼は場の空気を嗅ぎ分けるのが上手い。
 笑いながら、余計なことは言わない。
 ただ、箱を差し出し、中から出た小さなクッキーを、俺の掌に置いた。
「甘いもので、暗さの味を変えろ」
 店長の言い方は、時々、樹に似ている。
 俺は笑った。
 笑いが出たことに、自分で驚いた。
 その驚きもまた、救いだ。
 焼き菓子の甘い匂いが、工房の煤の匂いと混ざる。
 蜂蜜の暗さの中に、砂糖の光が混じる。
 甘さは、暗さを塗り替えない。
 ただ、混ざる。
 混ざり方を、俺は学んでいる。

 夜、潮時計の針音を再生した。
 カチ、カチ。
 合図。
 こん、こん。
 返事。
 こん、こん。
 俺は、沈む心の上を、ゆっくりと泳いだ。
 泳ぎ方を忘れないうちに、朝が来る。
 朝が来れば、事実がもう少し寄ってくる。
 寄ってきた事実を、俺は拾い上げる。
 拾い上げた事実で、光の骨を足す。
 光は、きっと、立てる。
 たとえ、蜂蜜の暗さが舌に残っていても。
 たとえ、火の声がまだ怖くても。
 たとえ、噂が消えなくても。
 合図がある。
 こん、こん。
 俺は返す。
 こん、こん。

 夜は、深くなった。
 でも、深い夜ほど、星は多い。
 星の数を数えるように、俺は針の音を数えた。
 十、二十、三十――。
 数えることは、祈りに似ている。
 祈りは、現実を変えない。
 でも、心の重さの分配を変える。
 俺は、少しだけ軽くなる。
 明日、また、沈むだろう。
 そのたびに、浮く方法を思い出せばいい。
 俺は合図する。
 こん、こん。
 樹の返事を、暗がりの向こうで聞いた気がした。
 こん、こん。
 呼吸が合う。
 俺は、呼吸を続ける。
 光るクラゲの隣で、光らない俺の輪郭が、少しずつ、はっきりしていく。