クラゲは、ぜんぶが光るわけじゃない――と知ったのは、樹と組むようになってからだ。
 発光生物の代表みたいに扱われるけれど、あの淡い明滅は、種によって仕組みも目的も違う。外敵に対する閃光、海面へ向けた誘い、仲間への合図。樹はノートの隅に、いくつもの矢印と小さなクラゲのスケッチを描きながら、行動パターンの仮説を淡々と紐解いていく。

「発光するクラゲの近くには、必ず“光らない”背景が必要です。暗がりが深いほど、光る側の情報量が増える」

 その言葉が妙に心臓に残った。
 光るものには、光らないものがいる。
 展示のために集めたシェードの試作品を並べて、明滅のカーブをLEDのプログラムで模す。室内灯を落とし、工房の夜の気配が濃くなるほど、ガラスはよく光った。火を使わずに光るように、光を溜めてから、ほどける。

 けれど、樹が次に持ち込んだのは、火の課題だった。

「水城さん。切子(カット)で面を作るのもいい。でもね、溶融成形で“内部屈折”を変えないと、クラゲの“息”は出ない気がする」

「溶融、って……炉で、もう一段階温度を乗せる……?」

「うん。“熱源は俺が管理する”。君は距離を取って指示して。緒方さんに、細部の判断は任せる」

 こともなげに言う。
 俺は、押し殺したはずの何かが疼くのを感じた。
 “熱源は俺が管理する”。
 火の言語は、俺の母語だった。夜明けに炉が息を吸う音で目が覚め、赤くなる口の奥で温度の節を見て、竿に絡め取った炎のご機嫌を取りながら硝子を引く――そういう日々が、半年の事故で、いとも簡単に奪われた。
 奪われた、のだと今も思っている自分がいる。
 だからこそ、樹の申し出は理にかなっているはずなのに、胸のどこかが意地を張る。言語の主導権を外に渡すのは、負けに似ている。炎と自分の距離を測り誤ったのは俺なのに。

「……俺、やれること、少ないな」

 自分の口から出た声は、思っていたよりも小さくて、湿っていた。
 樹は首を振る。顔じゃなくて、息が横に流れる音でわかる。

「怖さと“やれること”は関係ないよ。怖がってるときのほうが、慎重で、指示が正確になる人もいる。俺は……相貌失認ぎみで、顔で世界を掴めないから、世界の縫い目に耳を当ててる。君は火が怖い。そのぶん、火の縫い目に敏い」

 慰めじゃない、ということはすぐわかった。彼の言葉はいつだって、理屈の骨が通っている。
 それでも、疼きは疼きとして残る。仮に正論で丁寧に包まれたとしても、本音の棘は勝手に刺さったままだ。

「……やるよ。設計は俺。熱は任せる」

「ありがとう」

 樹はいつものように、俺の手の甲を二度、軽く叩いた。
 触れてもいい? の合図。
 俺は頷いたけれど、そのときはまだ、自分から合図を返すことを思いつきもしなかった。



 工房に戻ると、受話器が鳴っていた。固定電話の着信音は、いまどき場違いなくらい甲高い。電話機に駆け寄った柏木が「水城先輩宛です!」と受け皿に差し出す。

「水城? 覚えてるか、店長だよ」

 少ししゃがれた、懐かしい声。
 大学に入ってすぐの一年半、俺がバイトしていた駅前のヴィンテージ雑貨店「ハラペコ・スプーン」の店長だ。俺が初めて“水の記憶”シリーズの小物を置かせてもらった場所でもある。

「ご無沙汰してます」

「元気か。お前の“皿”、いまだに常連が訊くんだ。“あの作家、また置かないの?”って。でな、頼みがある。春の新作フェア、ショーウィンドウの中央のオブジェ、うちにくれないか。テーマが『灯りのフロート』でな。展示期間は学祭の週と被るが、搬入は――来週末までに」

「来週末……?」

 心臓が一拍、硬い音を立てた。
 学祭まで、三週間を切っている。クラゲ展示の設計と試作が佳境に入る時期だ。
 店長は続ける。あの調子で、相手の事情を瞬時に汲まず、でも最後に必ず「無理なら断っていい」と逃げ道をつける人の話し方で。

「お前の“光”を、街に一回出したいんだ。ウィンドウに通りの灯りが反射するじゃないか。お前の“水”が夜に浮くの、見たいんだよ。謝礼はちゃんと出す」

 謝礼、という語の硬さに、学費の小さな計算機が頭の中で回り出す。
 工房の材料費だって、ばかにならない。
 けれど、それ以上に、あのショーウィンドウに自分の“光”を置けるという誘惑が、喉の奥の膜を震わせた。
 俺は“光らない俺”だ。火を前にして固まる俺。
 それでも、ガラスの“光”は体が覚えている。水の面に落ちる街灯の粒を、キラキラじゃない光として掴まえ直す作業が、好きだった。

「……やります。納期、守ります」

「恩に着る。サイズは――」

 メモを取りながら、同時に、頭のどこかでクラゲのレンズの厚みを計算している自分がいた。
 これを引き受けるのは、綱渡りだ。落ちたら二つとも台無しになる。
 わかっていても、体は勝手にバランスの取り方を探し始めている。
 店長が電話を切る直前、「無理すんなよ。お前、真面目で不器用だから」と言った。励ましなのに、咎めにも聞こえるのは、俺の心がいま尖っているからだろう。

「先輩?」

 柏木が心配そうに覗き込む。
 たぶんまた顔色が悪い。俺はいつもの曖昧な笑いを作った。

「仕事、入った。ウィンドウのオブジェ。やる」

「学祭と被ってますよね」

「わかってる。わかってるけど、やる」

 言い切ると、柏木は口を結び、「手伝えることがあれば言ってください」とだけ言った。
 その言葉が、ありがたく、重い。貸し借りの勘定が心の片隅で増えていく。



 夕方、硝子棟の廊下で佐伯に呼び止められた。
 同級生。背が高く、いつも黒いシャツを着ている。俺の“火が怖い”ことも、“リーダーの打診を保留にしている”ことも知っているタイプの友達だ。情報の回りが早いのは、善でも悪でもない。ただの事実。

「リーダー、断るつもり?」

「保留してるだけだよ」

「断るの、逃げだよ」

 刺すときの、刺し方を知っている声。
 彼は悪意で言っていない。
 “正論”の旗のもとに立っている人の声。正論は悪意や善意を超えて鈍器になる。

「楽に見える場所を選び続けたら、戻れなくなるって。俺たち、もう四年だよ。今逃げると、そのまま逃げる大人になる」

「……お前は、火の前に立てるよな」

「うん」

「俺は、立てない」

「知ってる。でも、リーダーは火の前に立つ奴だけの仕事じゃない」

 正しい。
 正しいから、余計に痛い。
 痛いから、反射的に言葉を探す。でも見つからない。
 佐伯は肩をすくめる。「悪く思うな」と言って去っていった。
 善意のつもりの針ほど、抜きにくい。

 廊下の窓から見える海は、薄く金色だ。
 工房の方角から“ゴウッ”が一瞬だけ届いて、喉の奥が硬くなる。
 息を吐こうとして、胸で咳が出た。
 そのとき、背後から俺の名前を呼ぶ声。樹だ。白衣の上に紺のパーカー、手には潮時計。

「歩く?」

 問われて、俺は頷いた。
 ふたりで校舎の裏の坂を下り、港まで出る。
 低い防波堤に腰かけると、樹は何も言わず、足を投げ出した。靴先が波に触れそうで触れない。

「今日、熱の件、言い方が悪かった気がして」

「いや」

「“俺が管理する”は、権限の問題じゃない。責任の問題。怖い火の管理を、君に背負わせたくないだけ」

「わかってる。でも、プライドって、勝手に疼くからさ」

「うん。疼くのは、正常」

 海風に混じって、金属の匂いがした。潮時計の蓋の匂いかもしれない。
 樹はポケットから小さなLEDを取り出し、俺に見せた。樹の手のひらの上で光る極小の粒。
 夜のクラゲの呼吸を模すために、光量の立ち上がりと減衰を滑らかに調整してあるという。彼は光にも“間”があるのだと熱心に話す。
 話を聞きながら、海の色が一段階暗くなるのを感じた。
 俺は今日、誰かに刺されて穴が開いた場所を、自分で指で確かめたくなった。

「樹」

「うん」

「リーダー、断るの、逃げだって言われた」

 樹はすぐに何かを言わなかった。
 潮の音を一回聞いてから、口を開く。

「逃げるかどうかは、君が知ってる“今の位置”と“行きたい位置”の距離で決まる。他人に見える線じゃない」

「……言い訳に、聞こえるかな」

「言い訳は、いつだって必要だよ。呼吸と同じ。言い訳を悪者にする人は、自分の呼吸が浅いと気づいてない」

 呼吸。胸で咳く俺の呼吸は、確かに浅い。
 さっき佐伯に刺された場所が、少し温かくなる。
 樹は俺の歩幅に合わせて座り直す。腿と腿が少しだけ触れる距離。波が寄せ、引く。寄せ、引く。呼吸と同じ。

「怖いのは正常。怖いままで立てるやり方、探そう。君が炉の前に立たないまま、リーダーができる方法もある。チームの“音楽”を整える人って意味のリーダー。火の前に立つのは緒方さん。テンポの指揮は君。俺は、合図係」

「合図係?」

「君が止まったら、二回叩く。再開の音。俺が止まったら、君が叩く。俺たち、そうやって稼働してきた」

 樹は人差し指で自分の手の甲を、こん、こん。
 それを見た瞬間、胸の奥の硬いガラス片が、すこしだけ位置を変えた。
 気づいたら、俺の指先が、樹の手の甲に伸びていた。

 ――こん、こん。

 初めて、自分から叩いた。
 潮風が肌の上を滑っていく。
 さっきまでの塩辛さが、少しだけ甘くなったように感じた。
 気のせいかもしれない。でも、甘いと思うことを“言い訳で塗りつぶす”必要はないと、今は思えた。

「……ありがとう」

 俺が言うと、樹は「こちらこそ」と短く返した。
 “ありがとう”が二重奏になる。
 言葉と、指先。
 光るクラゲの隣には、光らない背景がいる。
 俺は今、光らない側にいるのかもしれない。けれど、光らない側には、光の輪郭を際立たせる役割がある。
 それを役割と呼ぶのは卑屈かもしれない。でも、役割がある、と思えるだけで、海風は甘くなる。



 翌朝から、綱渡りの時間割が始まった。
 午前はクラゲのためのシェードの厚み調整。午後はヴィンテージ雑貨店向けの“灯りのフロート”。夜は樹のプログラムに合わせてLEDの光量カーブの確認。
 緒方は炎の前で涼しい顔をして、柏木は研磨機の前で汗だくになり、佐伯は相変わらず正論を携え、工房の空気はいつにも増して熱を帯びた。
 俺は炉の前に長くはいない。距離を取る。
 距離を取るのは、逃げではなく、方法だと自分に言い聞かせる。
 「方法だ」と口に出して言うたびに、胸の膜の緊張がわずかに緩む。

「蓮、光の“もつれ”、いい感じだぞ」

 緒方が言う。
 火の中でやわらかく溶けたガラスが、内部に“もつれ”を抱え込む。
 温度の抜き方をわずかにずらし、冷却の速度差で屈折率の微差をつくる。
 その“もつれ”が、LEDの光をクラゲの傘の縁のようにほどいていく。
 俺は図面を見ながら、緒方の声を聞く。
 “シュッ”。“ゴウッ”。
 炎の音に重なる、緒方の笑い声。
 今日は、恐怖の音に勝つまで笑ってはいない。でも、並んで鳴るくらいにはなっている。
 それで十分だと、樹が言っていた。十分じゃないと、佐伯が言っていた。
 どちらも正しい。
 だから俺は、自分の“今の位置”を、仮の目盛りに打つ。



 「ハラペコ・スプーン」のショーウィンドウ用オブジェは、最終的に高さ七十センチの“逆さの水面”になった。
 薄い板を何層も重ね、その間に極細の導光板を挟み込む。上から見るとただの濡れた板ガラスに見え、横から見ると街灯の粒が内部でさざめく。
 店長は搬入のとき、何度も「いいなぁ」を繰り返した。目尻に皺を寄せ、ガラス越しの街を覗く大人の顔は、子どもの顔になる。そして最後にいつもの調子で、「体、壊すなよ」と言った。
 壊れない。壊れないで進む。
 そう自分に言い聞かせながら、俺は工房に戻った。
 学祭まで、あと一週間。



 その一週間は、噂に聞く“地面が傾いてる”みたいな日々だった。
 寝ているのか、起きているのか、目を閉じたままどこかを歩いているのか、境目が曖昧になる。
 それでも、合図は忘れない。
 樹は俺が立ち止まる気配を嗅ぎ取って、二度叩く。
 俺も、樹が言葉を紡げなくなった瞬間を見つけて、二度叩く。
 合図だけで、場所が共有できることを、俺たちは少しずつ身体で覚えた。
 合図は親密さの特権ではない。作業の路肩標識に近い。
 けれど、その路肩標識が、俺の生きる道の幅を少しだけ広げる。

 そうやって迎えた前夜。
 展示室にシェードが並び、光の呼吸が壁一面で繰り返される。
 クラゲの水槽は静かに脈打ち、来場者を待っている。
 俺は“光らない背景”の暗さの調整を最後まで迷っていた。暗さは、光るものを増幅するけれど、暗すぎれば来場者は足を止めない。
 暗さの質――それは、火の言語にはない概念だ。海の言語だ。
 樹に訊くと、彼は短く「目が暗さに慣れる時間を、展示の“間”にする」と答えた。
 “間”。
 沈黙のように見えて、情報が詰まっている時間。
 俺は、暗さを少し甘くした。蜂蜜くらいの暗さ。
 樹は「いい」と言った。理由は訊かなかった。訊かなくても、合図で十分だった。



 学祭の朝は、雲が薄く広がっていた。
 晴れたり曇ったりする空は、展示にはむしろ都合がいい。暗さが揺れるぶん、来場者の足が止まる。
 緒方が鼻歌を歌い、柏木がスイッチの最終チェックをし、樹は潮時計を一度だけ開閉した。
 俺は胸で咳を一つし、窓を閉めた。
 反射が室内に入りすぎないように。

 最初の来場者は、近所の小学生だった。
 背伸びをして、水槽を覗く。
 LEDの光がレンズシェードの縁でほどけ、クラゲの傘の縁に淡い呼吸を落とす。
 子どもが小さく「わ」と言った。
 誰かが小さく「わ」と言うとき、その場にいる全員が少しだけ「わ」と言ったことになる――不思議な同調の波。
 俺は展示の隅で、その波が壁を伝って戻ってくるのを感じた。
 光るクラゲ。
 光らない俺。
 でも、いまは、光らない背景にいる自分を嫌いではない。

 昼すぎ、見慣れた顔――の、咳払いの仕方で、店長が来たことがわかった。

「水城」

「店長」

「ウィンドウ、良かったよ。店の前で立ち止まる人の影、増えた。光らない夜が、少しだけ揺れて見えた」

「……良かったです」

 彼は展示を一周し、クラゲの前で立ち止まった。
 黙って、光の呼吸に合わせて自分も呼吸を整える。
 それからぽつりと、「お前、光ってるよ」と言った。
 それはたぶん、比喩であり、励ましであり、彼なりの祝辞だった。
 俺は曖昧に笑い、礼を言った。
 光る/光らない――二項対立の言葉は、現場では混じり合う。
 俺は今、混じり合う場所にいる。

 夕方、佐伯が来た。
 彼は展示を隅から隅まで見て、最後に俺のところへ来て、小さく頷いた。

「……いいじゃん」

「ありがと」

「リーダーの件、先生、結局、蓮に頼むってさ。学祭終わったら、打ち合わせ」

 逃げだよ――という言葉を受け取った同じ口から、別の言葉が渡された。
 俺は頷き、深く息を吸った。
 胸で咳が出なかったのは、たまたまだ。
 たまたまでも、記録しておく価値がある小さな偶然。

 夜、来場者が途切れたタイミングで、樹が俺の隣に立った。
 合図。
 こん、こん。

 俺も返す。
 こん、こん。

「水城さん」

「うん」

「“光らない俺”って言ってたけど、俺から見れば、音で光ってる。声の温度で、光ってる」

 樹の言葉は、海風みたいに、甘いときがある。
 あの日、防波堤で初めて合図を返した夜の風の味が、舌の上に戻ってきた気がした。
 俺は、潮時計の蓋の鈍い光を眺めた。
 Aug.20――祖父の目盛り。
 きっと、今日もどこかで目盛りは刻まれている。
 光るものの隣で、光らないものが輪郭を作り、光らないものの中で、わずかな光が呼吸を始める。

 工房の窓の外、海は薄く闇を敷き、街の灯りを細かく刻んでいた。
 光はいつも、誰かの“合図”で始まる。
 俺たちは、それに気づける距離で、立っていた。