朝いちの港は、ガラスよりも冷たい。
 海面の青がまだ硬く、光を弾く角度を探しあぐねている。ゴム長靴に潮が跳ねる音、フォークリフトのバックブザー、遠くで鳴る汽笛――音を幾つも重ねた上から、潮の匂いが布団みたいにかぶさってくる。こんな日は、工房の炉の唸り声を思い出さないぶん、少しだけ楽だ。

「水城さん」

 呼ばれて振り向くと、白衣にウィンドブレーカーを羽織った朝比奈 樹が、いつもの自転車を押して立っていた。
 正面から目が合っているのに、彼は一拍置いて、いつもの確認をする。

「……水城さん、ですよね?」

「はい、蓮で合ってます」

 樹はホッとしたように息を吐き、手の甲を人差し指で、こん、と二度、叩いた。
 合図――「触れてもいい?」。
 俺が頷くと、彼は軽く袖口を掴んだ。白衣の布が風に鳴る。触れ方はいつだって慎重で、海の表面をかすめるオールの先みたいに静かだ。

「顔で覚えられなくて、ごめんなさい。今日も声と歩幅と、靴底の擦れる音で判別しました」

「靴底?」

「ええ。水城さん、右足の外側だけ少し削れてる。石畳の上だと“シャラッ”って鳴るんです。あと、咳払いの仕方が独特」

「独特?」

「喉じゃなくて胸で咳く。肺の下のほうが先に震える感じ」

 そんなところまで観察されていたのか、と思うと可笑しくもあり、どこかむず痒くもある。樹は相貌失認ぎみだと自分で言う。目鼻立ちの記号をつなげて「人」を認識するのが苦手で、代わりに歩き方、咳、筆圧、手の振り幅、声の高さみたいな「動き」の束で誰かを掴む。
 彼の世界では、たぶん顔がいちばんあいまいで、歩調や音が輪郭を与えるのだろう。

「俺は逆だな。匂いと音が、怖い」

「火の音?」

「うん。バーナーに点火した瞬間の“シュッ”ってやつとか、炉の“ゴウッ”。あれが、体の真ん中に刺さる」

 言葉にしてみると、胸の奥の薄いガラス片が擦れた。半年前の事故で割れ残った欠片――再加熱炉の扉が乱暴に開かれ、火柱が踊り出たときの音が、まだ薄く膜みたいに張りついている。

「今日は、海の音だけにしましょう」

 樹がそう言って、台車のブレーキを外した。今日は海洋生物学科の実習一回目。俺は“交換労働”の一環として、サンプルの運搬を手伝う。代わりに樹は工房の材料搬入を持ってくれるという取り決めだ。白衣の胸ポケットからチェックリストを取り出し、俺にも一枚くれる。書体がきれいだ。均一な筆圧、几帳面な丸み。たしかにこの人は、筆圧で人を判別できる。

 冷蔵ボックス三つ、緩衝材入りのバット二つ、試薬箱が一つ。
 今日の主役は小さなクラゲだという。
 港の倉庫群の隙間から潮が吸いこむように引いて、すこしして押し返す。その周期に合わせるように、樹は歩幅を細かく調整していく。俺は台車を押し、彼は後ろから支える。二人の指先が台車のハンドルにときどき触れ合う。汗ばむほどの温度ではない。朝の海の温度――塩気を帯びた冷たさの上に、体温の幕が一枚。

「今日のクラゲは、発光しないやつです」

「発光しない?」

「しない、けど光を“見せる”体なんです。透明って、実は光学的にすごく贅沢だから」

「贅沢」

「そう、光を全部持ってて、どれも手放せる。欲張りで、気前がいい」

 言いながら樹が笑う。彼の笑いは、いつも静かな波が立つときみたいに、最初は小さく、あとから広がる。
 倉庫の曲がり角――そのとき、不意に金属の甲高い音が割り込んだ。
 コン、と鉄がぶつかる音。すぐに、箱が滑る擦過音。
 台車の上の試薬箱が、手前にずるりと落ちる。

「あ」

 樹の声より早く、体が動いた。
 反射的に左手を突きだし、箱の角を受け止める。
 次の瞬間、手のひらに鋭い痛みが走った。
 金属のコバに薄く切られたのだ。塩水が触れて、傷の輪郭が急に鮮やかになる。

「水城さん!」

 樹は合図を忘れない人だ。
 俺の手首を掴むかわりに、人差し指で俺の手の甲を二度、こん、こん。
 触れてもいい? の確認。
 頷く余裕はあった。俺が軽く頷くと、樹の指先が、ためらいなく俺の手を包んだ。

「痛い?」

「まあ、少し」

「消毒と止血、いいですか」

 答える前に、彼はすでに動いていた。白衣の胸ポケットから小さな救急パック――滅菌ガーゼ、テープ、消毒綿、絆創膏。海の現場では、これが常備だという。
 傷口を見つめる目は優しく、けれど余計な感情を挟まない。
 消毒綿を取り出しながら、もう一度、合図。俺が「どうぞ」と口にすると、樹は綿をひと呼吸あたため、傷にそっと触れた。

 じん、と痛みの輪郭がぼやける。塩のしみる痛さとアルコールの刺す痛さが重なって、かえって心が落ち着いた。
 樹の手当ては、手品の種明かしをするみたいに丁寧だ。何をどうするのか、都度短く説明する。

「いま押さえます。血は止まるから大丈夫。息、吐いてください」

 言われるままに息を吐くと、工房の炉の“ゴウッ”が一瞬だけ遠のいた。
 代わりに聞こえてくるのは、樹の呼吸と、包帯が指に巻かれていく擦れる音。声、手の温度、わずかな呼気。人間の音は火より優しい。

「――はい、終わり。痛かったら言ってください。包帯、少しきついかもしれないから」

「ありがとう」

 礼を言うと、樹は困ったように笑った。
 目を伏せ、少しだけ肩の力を抜いてから、ぽそりと付け足す。

「言葉って、どれが“ありがとう”なのか難しくて。でも、今の“ありがとう”は、ちゃんとわかる」

「どういう意味ですか、それ」

「声の温度。あと、指先の力が、さっきより緩んだ」

 彼の言うことはいつも正確で、どこか詩みたいでもある。
 俺は軽く咳払いをした。胸の奥が震え、樹が「あ、今の」と目を細める。
 ちゃんと認識してもらえたことが、こんなにも救いになるとは思っていなかった。

 試薬箱を台車に戻し、港の突堤まで運び終える。
 バイトの学生たちがクレートを受け取り、手早くチェックしていく。
 作業を見守りながら、樹がポケットの中で潮時計を撫でた。
 銀色の蓋には、「Aug.20」。――気になっていた刻印。
 帰り道、細い路地のコンクリートが潮を含んで、靴底から冷えが上がってくる。樹が少しだけ速度を落とし、俺と歩幅を合わせた。

「“Aug.20”って、祖父の命日なんです」

 喉から落ちるような低い声。
 ごく短い沈黙が、言葉を受け止めるスペースになる。

「海の研究者でした。潮とプランクトンの関係……古いタイプの研究者で、メモも紙に鉛筆でした。字がやたらと綺麗で。俺の筆圧は、祖父に似たのかもしれない」

「卒業を、楽しみにしていた?」

「ええ。『どんな顔で卒業証書を持つのか』と何度も訊かれました。俺、顔が覚えられないくせに、他人の“顔で見える幸福”に弱いんです。……祖父が亡くなる前の日、潮時計を渡されました。『時間は流れる。おまえは流れに仮の目盛りを打て』って」

 流れに仮の目盛り――樹の言葉は、ときにガラスをこする音に似ている。硬く透明で、どこか懐かしい。
 俺の胸の奥の、薄いガラス片がかすかに鳴った。あの日割れて残った破片。その端のほうが、今、微かに音を立てた。

「形に、して見せたいんです」

 樹が続ける。

「クラゲの光、潮の時間、祖父の言葉……全部を。目に見える“何か”に。
 水城さん、あなたは火を通して形を作るでしょう。俺は、形になりきれないものの側にいる。だから、どこかで交わる気がしてる」

 言葉の熱で、海風が少しだけ遠のいた。
 工房で火を見られなくなってから、“形にする”という言葉をできるだけ避けていた。
 形にする――火がいる、温度がいる、あの“シュッ”と“ゴウッ”がいる。
 そのすべてから遠ざかっていたのに、今はなぜか、樹の声なら耳を澄まして聞いてみようと思える。矛盾している。けれど、矛盾は人間の形だ。



 午後、工房に戻る。
 硝子科の棟の廊下は、どの季節もほんの少し暖かい。炉が完全に冷めることなんてないからだ。
 自動ドアを抜けた瞬間、鼻腔に焼けた砂の匂いが立つ。
 喉の奥が警戒して、小さく咳が出た。胸で咳く。樹が言ったとおりの場所が震える。

「先輩!」

 作業台に手をついたまま呼ばれて、反射的に体を固くした。
 振り向くと、二年の柏木が、両手でスケッチブックを抱えて立っている。
 大きな目が妙にきらきらしていて、俺が苦手な「期待」の温度を孕んでいた。

「学祭展示の件、聞きました? 三年の先輩方、実習で抜けるから、リーダーを四年から出せって先生が。で、全会一致で水城先輩に」

「全会一致って、何がどうなって――」

「先輩の“水の記憶”シリーズ、みんな好きなんです。配置と光の使い方、えぐいって。で、テーマが『反射』に決まったんで、先輩しかいないねって」

 喉の奥が重くなる。“反射”。
 火の反射、炉の口の内側で踊るオレンジ。
 浮かべたイメージが、すぐさま耳の奥で音に転じる。シュッ。ゴウッ。
 体が先に拒否の姿勢を取った。肩が硬直し、掌が汗ばむ。

「ごめん、柏木。俺、リーダーは――」

 断る、のつもりだった。
 その瞬間、胸ポケットのスマホが震えた。
 画面を覗くべきか迷って、音だけで誰かを判別する自分に苦笑した。たぶん樹だ。短文で、必要なことだけを寄越す人。

 ――「お願いがある。今夜、時間ありますか」

 柏木が身を乗り出す。「だいじょうぶですか? 顔色、悪い」

「大丈夫。連絡、返すだけだから」

 指が勝手に動いていた。
 ――「大丈夫。工房のラウンジなら」
 送信してから数秒で、返事がくる。

 ――「クラゲ展示の照明を“ガラス”で作れないか、相談したい」

 文字が、胸の奥で現実の重さを持つ。
 クラゲの展示。光をどう見せるかが肝。
 そこで“ガラス”。火を通した“ガラス”。
 海の光を、火で、作る?

「先輩?」

 柏木が心配げに覗きこんだ。
 俺は肯定とも否定ともつかない曖昧な笑いを作って、彼のスケッチブックを受け取る。描かれているのは、球形の薄いガラスシェード。内側に魚眼レンズみたいな膨らみがいくつも付いていて、光源の光を多重に屈折させる意図が見て取れる。
 たしかに、面白い。
 たしかに、火がいる。
 舌の上に砂粒が乗るみたいに、怖さと好奇心が一瞬だけ共存した。

「……案出しは手伝う。でも、炉の前は任せられる人を探して」

「ありがとうございます!」

 柏木は破裂するみたいに笑った。
 その笑顔は、樹が言った「顔で見える幸福」に近かった。俺はその光をまぶしいと思いながら、同時に後退りしたくなる自分の足を、ごまかす。



 日が傾いて、工房のラウンジの窓ガラスが赤く染まるころ、樹がやってきた。
 白衣はやめて、古い紺色のパーカー。髪は潮風で少し乱れている。
 彼は入ってくるなり、俺の右肩の数センチ横を見て、合図した。人差し指が、二度。
 俺は頷く。触れた手が一瞬で“俺を俺だと確認する”安心の形に変わる。

「ごめん、急に時間作らせて」

「大丈夫。柏木に捕まってたから、助かったくらい」

「柏木くん、スケッチ上手いですよね。球形レンズ案、いい」

「見えてる、のか」

「見えてますよ。スケッチの線は見える。……人の顔が見えないだけ」

 さらりと言って、樹は持ってきた資料を広げた。
 クラゲの展示計画。大型水槽の配置、導線、回遊する来場者が立ち止まる角度。「光害」を避けるための照明制御プログラム。
 その横に、走り書きされた単語――“硝子”“屈折”“撥水コート”“導光”。
 樹の字は均一で、やっぱり綺麗だった。

「水城さん。クラゲの“発光しない光”を、ガラスで見せたいんです。火を通した物質で、火の温度からいちばん遠い光を作る。矛盾の試み」

 矛盾――口の中で転がすと、砕けそうで砕けない語感をしている。
 俺の中のガラス片が、また小さく鳴った。
 樹は、俺の顔ではなく、俺の声の出所を聞くみたいに首を傾ける。

「怖いのは知ってます。だから、手順を変えましょう。炉の前に立つのが水城さんじゃなくてもいい。型の設計と光の設計を、あなたがやる。成形と火の管理は、あなたの信頼している人に任せる」

「信頼……」

「いますか?」

 脳裏に浮かぶのは、同級の緒方の顔――ではなく、彼の癖の強い笑い声だった。つられて笑ってしまう低い声。信頼できる。炉の前でも体が揺れない男だ。
 そして、樹の文字。
 “導光”。“屈折”。“撥水”。

「クラゲの傘は、表と裏で屈折率が違う。水滴が滑る角度で光が砕ける。その砕け方を、“薄いレンズを散りばめたシェード”で再現できるんじゃないかって」

「――柏木のスケッチ」

「そう。彼の案はいい。けど、経験が足りない。薄くて割れる。だから、あなたの設計が要る。厚みの出し方、火の抜き方。あなたの“水の記憶”を、貸してほしい」

 “水の記憶”。
 俺の卒制で作ったシリーズ。水面に落ちた音を固めたような皿や、凪のときの海を閉じ込めた球体のオブジェ。火が怖くなる前、夜明けの工房で、ひとり黙々と作った。
 あのときの俺は、火と会話できていた。
 今は、炎が何語を話しているのか、わからない。
 けれど、樹のこの提案は、火と違う言語を介す。“光”だ。水だ。
 海と火。
 矛盾は、もしかすると橋になる。

「――やってみたい、かもしれません」

 口が勝手に言葉を作った。
 言ってから、胸がざわざわした。怖さと高揚と、自己嫌悪と、救済願望。いろんな温度が混ざって、沸点が近い。

「ありがとうございます」

 樹は深く頭を下げた。
 顔じゃない。背中の筋肉の使い方、肩甲骨の動き、指先の角度――そこにある礼の形に、俺は息を呑む。

「ただし、条件があります」

「条件?」

「俺は炉の前に立てない。たぶん、まだ。だから、成形は緒方に頼む。それから、俺の指示が途中で途切れても、怒らないでください。音が来たら、体が止まるかもしれない」

「怒りません。止まったら、その場で合図します」

 人差し指が、こん、こん。
 樹の瞳孔がほんの少し開く。光を取り込む量を増やすように。
 俺の指の甲に二回の点が残る。
 この合図が、俺たちの“再開”の印であってほしいと思う。

「クラゲの展示、いつです?」

「学祭初日。準備は三週間。タイトだけど、やれると思う」

「三週間」

 数える。炉のスケジュール、柏木の授業、緒方のアルバイト。
 火は生き物だから、段取りを統べないやつを許さない。
 半年前までは、その苛烈さに酔っていた。
 今は、その苛烈さが怖い。
 けれど、樹の目盛りが、俺の中の流れに仮の線を引いてくれる。

「――わかった。図面、起こす。明日、緒方にも話す」

「ありがとう」

 樹がまた礼を言う。
 彼の“ありがとう”は、いつも二重奏になっている。言葉の音階と、指の温度。
 俺の胸のガラス片が、音に共鳴する。
 ほんの少し、輪郭が丸くなる。



 夜、工房が完全に静まり返った時間。
 ラウンジの隅で図面を引く。薄いレンズを敷き詰めた球体シェード――外側は凸、内側は微妙な凹。散乱の角度を計算し、光源の位置を上下にずらして、クラゲの傘の縁で光がほどけるような配光カーブを描く。
 紙の上の線が、少しずつ形になる。
 鉛筆を滑らせるたびに、工房の空気に溶けているかすかな熱を思い出す。
 “シュッ”。“ゴウッ”。
 遠くの天井で、換気扇が低く鳴く。音が背骨を伝って、腹に沈む。
 そのとき――スマホが震えた。
 メッセージ。樹だ。

 ――「祖父のノート、見ます?」

 写真が続く。黄色く焼けた大学ノート。
 鉛筆の細い線で、波の周期、潮の満ち引き、クラゲの浮沈。
 言葉ではなく、手が覚えた知識。
 ページの端に小さく、「Aug.20」。
 日付じゃない。目盛りだ、と思った。
 祖父という人の世界の“仮の目盛り”。
 それを孫が引き継ぎ、今、俺に渡している。

 ――「ありがとう。見たい」

 送信して、手を止める。
 窓の外、港の黄色い明かりが水面に千切れて落ちる。
 反射――今日、柏木が言ったテーマ。
 反射は、過去をいまに持ってくる運動かもしれない。
 あの日の炎の反射、赤い光、誰かの叫び。それがまだ俺の中で反射を繰り返し、薄く像を作り続けている。
 だけど、同じ反射なら、別の像を作ってやればいい。
 潮の光。クラゲの傘の縁でほどける、火のいらない光。
 火を通したガラスで、火のいらない光を――矛盾の橋。



 翌日。
 緒方を捕まえるのに、三十分かかった。
 工房の裏の喫煙所で、彼は例によって笑いながら煙を吐いた。

「クラゲ? ガラスで光? 面白そうじゃん。やるやる。蓮は設計な」

「成形と火の管理、任せたい」

「任せろ。お前が口出ししたら止める。止めてほしかったら、合図しろ」

 俺は無言で人差し指を二度、こん、こん。
 緒方は眉をひそめて笑った。「なにそれ、かわい。朝比奈のやつか?」

「……まあ」

「いいじゃん。合図は多いほうが事故が減る」

 緒方の声は、いつだって心臓に優しい重さで届く。
 彼は火に強い。炎の言語に堪能で、冗談を言いながら温度を操る。
 半年前、俺の体が凍りついたときに、炉の前に飛び込んだのも彼だった。

「蓮、お前の“水の記憶”、また見たいんだよ。あれ、火の前でやるからこその静けさがあった。火の言葉、全部聞いた上で、黙るやつ」

 彼の“見たい”は、俺の“怖い”と正面衝突する。
 けれど、その衝突音は不思議と、耳障りじゃない。
 音には、発火させる音と、鎮める音がある。
 緒方の笑い声は、後者だ。

「頼む」

「任された」

 短い会話が、図面よりも具体的な土台になる。
 俺と樹と緒方――火と海と、火に触れない俺。
 矛盾だらけの三角形。
 でも、三点があるなら、面は張れる。
 そこに光を落とせば、屈折はきれいに裏切る。



 夜、樹から写真ではなく、現物のノートが届いた。
 工房のラウンジで向かい合って、彼は大切そうにノートの背を撫でた。

「祖父の字、好きなんです」

「うん。紙が鳴る字だ」

「鳴る字?」

「ほら、鉛筆が紙の繊維を撫でる音がするタイプ」

「ああ、そうか……そうですね」

 ページをめくるごとに、潮が満ちてくる。
 “Aug.20”の文字は、ノートのいくつかのページの隅に打たれていた。
 日付というより、節。潮の折り返し、学期の区切り、仮のゼロ。

「学祭の初日、祖父の命日から数えた目盛りに重なるんです」

「偶然?」

「偶然です。でも、こういう偶然、俺は好きだ。生きてる時間を誰かと共有できた気がするから」

 樹はノートから目を上げ、俺の声の方角を見た。
 彼の瞳の色は、光の量で変わる。
 暗がりでは煤けた木の色、光の下では薄い蜂蜜。
 今日の色は中間。曇りと晴れの境目みたいな琥珀。

「……水城さん。怖いと言ってくれて、ありがとう」

「ありがとう?」

「怖いって、信頼しないと言えないから。俺は“顔が見えない”ってこと、ずっと言えなかった。笑われるから。けど、言えないことのほうが、あとで喉を塞ぐ」

 喉――胸で咳く俺は、その言葉に少し笑った。
 樹も小さく笑う。
 合図を忘れずに、彼は俺の手の甲を二度、こん、こん。
 そして、ほんの短いキスをするような強さで包帯の上から親指を当てた。
 触れた場所から温度が広がる。
 火の温度とは違う。海の温度でもない。
 人の温度――俺の中のガラス片が、やっと自分の位置を思い出す。



 三週間は、思ったより短かった。
 昼間は図面と試作。夜は導光と屈折のシミュレーション。
 緒方は火の前で、柏木は厚みの勘所を手で覚え、俺は型の修正を繰り返す。
 樹はその間を潮のように往復して、必要なところにだけ塩を置いていく。
 俺が立ち止まると、合図。
 二回、こん、こん。
 止まっていい。再開するとき、また叩く。

 事故から初めて、炉の前に立った。
 緒方の背中越しに、短い時間だけ。
 “シュッ”の音で視界が白くなる手前、樹が俺の手を取って二度、叩く。
 “ゴウッ”のうねりが胸の薄膜に触れた瞬間、緒方の笑い声がそれを押し返す。
 音がぶつかり合って、薄くなる。
 世界が、すこしずつ“火の音だけじゃない世界”に戻っていく。

 試作四号――球体の内側に散りばめたレンズの厚みを微妙に変えた。
 撥水コートを施し、水滴を弾かせる。
 樹が持ってきた小さなLEDを沈め、照度を落とす。
 工房の灯りを落として、点す。

 薄い光が、シェードの縁でほどけた。
 クラゲの傘の縁で、海が光るあの感じ――
 遠浅の砂地に、波紋が映って、砂粒ひとつひとつが呼吸するみたいに見えるあれ。
 音も匂いもないのに、潮の温度が立ち上がる。

「――きれい」

 誰の声かわからなかった。俺か、柏木か、樹か。
 緒方が「やるじゃん」と笑い、柏木が目を潤ませ、樹は静かに潮時計を撫でた。
 ガラスの中で、光が生き物みたいに動いている。
 火で作った器の中に、火のいらない光。
 矛盾が橋になり、橋の上を光が渡る。

 俺の胸の奥で、ガラス片が音を立て、そして――すっと静かになった。
 割れ残った輪郭が、すこし丸くなったのだ。
 完全に治ることなんてないかもしれない。
 けれど、ここに一つ、新しい辺ができた。
 触れても痛くない場所が、増えた。



 学祭前夜。
 展示室は仮止めの配線で蜘蛛の巣みたいになっていた。
 樹は最後の調整に追われ、俺はシェードの取り付け位置をミリ単位でずらす。
 緒方は「徹夜か」と笑い、柏木は「コーヒー買ってきます」と走る。
 深夜二時、誰も喋らなくなったころ、窓の外で雨が降り始めた。
 ガラスに当たる小さな雨粒の音が、無数の指の合図みたいに聞こえる。
 こん、こん。こん、こん。
 世界中が、俺に「触れてもいい」と言ってくれている気がした。

「水城さん」

 樹が呼ぶ。
 顔じゃなく、声で確かめる。
 俺は頷く。樹は合図をし、俺の手を取った。
 潮時計の蓋が小さく鳴る。
 「Aug.20」。祖父の目盛り。
 学祭の初日まで、あと数時間。

「祖父が、生きてたら見せたかった」

 樹の声は、雨に濡れた木みたいにしっとりしている。
 俺は言う。喉じゃなく、胸で。
 胸で咳く人間の声で。

「見てるよ、きっと。光って、反射するから」

 樹は目を細め、ふっと笑った。
 俺の言葉が、彼の中でどんな像になったのかはわからない。
 顔を覚えない彼の世界では、たぶん声が顔になる。
 だったら、俺はこの声で、何度でも合図を送る。
 こん、こん。
 触れていい。
 触れてほしい。
 触れなくても、ここにいる。



 学祭初日の朝。
 天気は、また快晴だと予報は言ったくせに、空の端に薄い雲が残っている。
 潮の匂いは、昨日より甘い。
 展示室の灯りを落とし、来場者の足音を待つ。
 樹が隣で潮時計を撫でる。
 緒方が手を振って、柏木が緊張で固まる。
 俺は深く息を吸い、胸で咳をひとつ。
 合図。
 こん、こん。

 光が、海の縁のようにほどけ始めた。
 火を通したガラスの中で、火のいらない光が満ちる。
 反射が過去を連れてきて、同時に未来に目盛りを打つ。
 俺の胸の奥のガラス片は、もう鳴らない。
 かわりに、潮時計の中で、聞こえないはずの針が――ほんの少し、進んだ気がした。

(つづく)