朝の海は、眠りの名残をまだ手放していなかった。港の錆びた柵に触れると、指先に冷たさとともに夜の塩分が移ってくる。工房の裏で春一番がいたずら半分に鳴らしていったベルの音はもう消え、代わりに船のエンジンが低く続く。潮の匂いは薄く、代わりに紙の匂いが強い――今日は卒論発表会だ。海洋学科の大教室には、印刷した要旨の束と、プロジェクターの熱で乾きかけた空気が滞っている。
俺は講義棟の階段を上がる前に、胸のタグの穴を二度、指で叩いた。こん、こん。返事はなくていい。返事はあとで、あの人の声で受け取る。右手のカバンには、防湿ケース。真鍮とガラスと、二段の数字を抱えた潮時計が入っている。持ち運ぶ重量自体は軽いのに、歩幅は自然と短くなる。時間を運ぶのは、足の筋肉よりも、背骨のほうを疲れさせる。
教室の扉は開け放たれていた。前方のスクリーンには、青白い画面が映っている。樹は壇上で準備をしていた。背中しか見えないそれでも、分かる。肘の角度、キーボードに触れずに一拍置くくせ、スライド送りのリモコンを左親指と人差し指の腹で挟む癖。誰かの顔の輪郭を覚えられない樹が、世界を識別する指先の癖は、こちらからも識別できる。
彼は俺のことに気づき、客席へと視線を滑らせた。前から五列目、通路側。背もたれに要旨を立てかけるふりをして、俺は胸の穴を親指でひと撫でした。すると、壇上の樹が、自分の胸の襟元を軽く摘む。遠距離の合図――音を出せない場所で、音を持ち込む方法だ。
前の発表者の質疑が終わり、拍手と、椅子が擦れる音。司会の教授が名前を呼ぶ。「朝比奈くん」。樹はマイクの高さを一度確認してから、喉を近づける。その所作だけで、俺の背筋はすっと伸びた。そこにある声は、火の温度を測るときにも、クラゲの呼吸を読み取るときにも同じ高さで鳴る。
「海洋生物学科四年、朝比奈です。『発光クラゲの群泳における同期現象の定量化と破れ』について発表します」
破れ、という単語を彼は少しだけ強く発音した。それは紙の上の語彙ではなく、海の中で拾ったものの重さだ。スライドが進む。夜の海に吊ったカメラの映像。黒を背景に、冷たい青が微細な粒を連ね、やがて群れが一斉に光る。同期の一瞬。暗闇が糖衣のように剥がれ、光がその下でいっせいに息をする。息はすぐに乱れ、また整い、また乱れる。外乱と回復。彼の研究の軸はそこにある。
「同期は、完璧ではありません。外乱が入る。流れ、捕食者、温度、塩分、機械のノイズ。破れは、クラゲがクラゲであるための余白です。破れがあるから、回復が起きる。……これは、三十本の個体の発光タイミングを重ねた図です」
グラフが現れ、散った点がゆっくりと一本の線へと寄り、またほどける。彼は数式とともに、同期の指標を淡々と示した。淡々という言い方は、たぶん正確ではない。熱を孕んだ温度が、彼の声のすぐ横に立っていた。熱は、壇上から客席へ飛ぶ。俺の手の中の防湿ケースは、金属の冷たさを保っているのに、指の腹は汗ばむ。
「最後に、動画を一本」
スライドの隅に、小さな時間のラベル。撮影日は、AUG.20――あの日付。祖父の命日。画面の中で、海が同じテンポで寄せては返す。発光が、一度、大きく乱れる。雑音が走り、すぐに、静かに揃う。同期のいちばん美しい瞬間は、破れの直後にある。彼は言葉を選びながら、しかし躊躇わずに続けた。
「同期には、外乱と回復が必要です。……僕の回復は、ある声でした」
客席が、わずかにざわめいた。教授の一人が視線を上げ、別の学生がメモのペンを止める。樹は、そのざわめきごと受け止めるように、客席の俺へ、真っ直ぐに視線を投げてきた。投げられ、受け止める。胸が一度、強く鳴る。こん、こん。俺は姿勢を崩さずに、目だけで返事をした。ここにいる。
質疑は容赦がなかった。「群泳サイズが違う場合のロバスト性」「個体差の定量化の仕方」「外乱のモデル化の妥当性」。教授たちの声は刃ではなく、刃を研ぐ砥石の音だ。樹は淡々と、しかししなやかに受け答えた。途中、ひとつだけ彼はひとの質問を待たずに補足した。「相貌失認ぎみの僕は、人を視覚の輪郭で識別しづらい。だから、海の図は逆に、音とテンポでよくわかる。そこから取った指標です」。会場が少し、笑った。その笑いは、緊張をほどくためのものではなく、納得の温度を持っていた。
終わりの拍手が長く続いた。樹は一礼し、壇から降り際、襟元をひと撫で、胸の穴を意識する癖で合図を送った。俺は膝の上で、机の裏で、そっと二回、指を打つ。こん、こん。音にはならないけれど、指の骨が微かに共鳴する。
教室の外に出ると、廊下は色々な温度で満ちていた。おめでとう、という声、疲れたね、という声、終わった、という声。佐伯が廊下の隅にいた。盗用騒ぎの渦中で、彼はずいぶん痩せた。顔を見た途端、俺は軽く頭を下げた。彼も同じように頭を下げる。言葉は交わさない。言葉を載せない謝罪が、今日は正確だと思った。
廊下の向こうから、店長が紙袋を抱えてやってきた。「差し入れ!」と声がやや高い。紙袋の中には、海苔巻きと、紙コップのコーヒーと、薄いチョコ。彼は俺の肩をぽん、と叩いた。「君んとこの海の人、良かった。……窓、今日も光ってる」。俺が笑うと、店長は「あ、泣くなよ」と言いながら、自分の目をこすった。泣いてるのは店長のほうだ。
人の波が薄くなった頃合いに、樹が出てきた。着替えのために白衣をバッグに押し込み、要旨の束を無造作にまとめる。近づいてきた彼は、周囲の目を自然に避ける角度で俺の右手に触れ、二回、軽く叩いた。こん、こん。触れていい? ――そう、尋ねられて、うなずく。今日は、この後に渡す。海のあるところで。
港へ向かう道すがら、雲が低かった。大気は一定の湿度で、誰の声も遠くまで届く。堤防に上ると、風は昨日より一段柔らかい。まだ冬の色の海に、夕陽の薄い金が浮かび始めている。ベンチは冷たい。俺は防湿ケースをカバンから取り出した。樹は立ったまま、それを受け取ろうとしなかった。顔を上げ、海のラインを見ている。視線を海から外し、俺の目を真っ直ぐに捉えると、いつもの合図。胸の穴へ、親指を添える。
「触れても、いい?」
「うん」
防湿ケースを開ける動作は、何十度も練習したのに、今日に限ってぎこちない。手袋を外し、布をめくる。真鍮の背、ガラスの蓋。潮の波紋を模した微細なカットは、低い光でも多方向に光を散らす。樹は手を伸ばす前に指を二度、俺の手の甲で叩き――こん、こん――それから指先でそっと蓋の縁に触れた。指が、光を撫でる。彼の指の腹が一ミリ沈む。ガラスは沈まない。沈まないけれど、触れられた感触だけが、こちらの皮膚の下にひと休みする。
「冷たいのに……あったかい」
樹は目尻に少しだけ笑いを集めて、言った。寒いね、の寒さでもなく、熱いね、の熱さでもない温度。あの日、工房で春一番が連れてきた温度が、もう一度ここにいる。「座る音」を思い出す。職人の工房で、蓋が“座”に座ったときの音が、港の風の中で再生される。ぴたり。ぴたり。秒針が動く。四から五へ、五から六へ。二拍子の歩み。
「ひっくり返してもいい?」
「気をつけて」
樹は潮時計を裏返し、裏蓋を見た。鏨で刻んだ二段の英数字――AUG.20 / APR.4――が、夕陽の斜光で浮かび上がる。彼は読み上げなかった。読み上げずに、親指で文字の溝を辿った。指が金属の呼吸を拾い、そのまま彼の喉に届く。喉が一回、鳴った。俺は息を止めた。止めたら、風が一段強く吹き、堤防の端の草が揺れた。揺れは大袈裟じゃない。ひとつひとつの葉が、自分の重さを確かめるみたいに振動するだけだ。
「……ありがとう」
樹は言った。ありがとう、以外の言葉を探していたんだと思う。でも、これ以外に正解はない。正解が一つしかない時刻というのは、世界にある。その時刻に一番近い発音で、彼は言った。ありがとう。二拍子で受け取る。こん、こん。俺は首を小さく縦に振った。
「ねえ」
「うん」
「一個、意味を増やしても、いい?」
樹は潮時計を両手で包み込むように持ちながら、俺の右手を探す。その探し方は、初めて工房で会ったときと同じで、でも、ずっと慎重で、ずっと正確だった。彼は俺の手の甲に人差し指で軽く一回、叩いた。――こん。
「これは、“ただいま”の予告」
予告、という言葉は、未来の音に控えめなラベルを貼る。予告があると、人は前を向ける。向ける方向が確かになる。俺は合図を返した。二回。――こん、こん。
「“おかえり”の予約」
予約は、未来の場所を空ける方法だ。空けた場所は、風だけでなく、声も招く。樹が笑って、潮時計の蓋にもういちど、指を這わせる。指の腹に残った微細なカットの凹凸が、彼の世界の輪郭になる。顔の輪郭ではなく、音と触覚の輪郭。俺がそこにいるという事実は、装飾ではなく、合図で充分だ。
行きの便は一ヶ月後だ、と昨日メッセージにはあった。四週間。短い、と思えば短い。長い、と思えば長い。長さは温度で変わる。不安は、消えない。消えないからこそ、持ち運び方を決める。週一の“合図通話”の予約。胸の穴の触覚の練習。窓の前の二拍子。店長の店のガラスは、毎朝八時に拭く。拭くたびに、俺は二回、指で叩く。その音は、風に拾われ、いつか樹の耳に届く。届かなくとも、届く前提で、叩く。
「怖い?」
俺が聞く。彼が聞くべき質問を、俺が先に言った。樹は潮時計を胸に引き寄せ、小さくうなずいた。それは、勇敢であることの証明だ。怖いまま、前へ出る。それを彼は海で学んだ。俺は火で学んだ。怖くないふりをしていた頃より、怖いと言える今のほうが、遠くへ行けることを彼も俺も知っている。
「でも、続ける前提で準備するんだよね」
樹が言う。「試す、じゃなくて」
「うん」
言葉が海面に落ちて、小さな波紋をつくる。波紋は広がり、消える。消えるけれど、水はどこかで繋がっている。潮時計の秒針が、薄く速く進む音。風が一段強くなり、ガラスの蓋が夕陽をほどいて、海に撒いた。撒かれた光は、深いところへ落ちる途中で何度も形を変え、やがて海の生き物の体内の化学に触れて、別の光になる。似姿でも、本物でもなく、経路だ。俺たちは経路を持った。
「約束しよう」
樹は言い、潮時計を防湿ケースに戻し、俺の手に返す。それから、俺の両手を包んだ。堤防の端。人の目はある。目を避けるのではなく、正面の海に向き合う角度で、重ねた手を一度だけ強く握る。
「どんなに遠くても、二拍。――こん、こん。これで、呼ぶ」
「俺は、返す」
「それから」
彼は少しだけ視線を下げ、俺の手の甲へ唇を近づける――直前で止めた。触れていい? という合図を省かないのが、彼の作法だ。俺は、うなずくかわりに自分で手の甲を二回叩いた。こん、こん。樹は小さく笑い、ほんの、触れるか触れないかの距離で唇を寄せ、きっぱりと引いた。港の風が、その温度を持っていく。持っていかれても、消えない。皮膚の下に残る。
別れ際、樹は胸の穴を一度だけ撫で、それから俺の手の甲を――こん――と一回叩いた。「ただいまの予告」。俺は、こん、こん――二回、返した。「おかえりの予約」。予約は、空席じゃない。空けた椅子の上に、二拍が座っている。座る音が、またした。
その翌週から、準備は別々の時間帯で進んだ。俺は店長の新しい店の窓を磨き、灯の位置を微調整し、毎朝“二拍”を入れた。店長は「今日の二拍は湿度高めだね」と冗談を言い、俺は「そういう日もあります」と返した。工房では後輩たちが、新年度の安全講習の資料を直しながら、俺の動線の修正案を真似た。「怖がるを前提にレイアウトするって、目からウロコです」と言われ、俺は照れた。照れは、合図が拾ってくれる。
樹は、海のサンプルの最終整理で大学に泊まり込み、機材の搬出手続きで役所を往復し、パスポートの写真を撮り直した。初回のやつは、目が笑いすぎていたから。写真機の前で彼は自分の襟元を一度撫で――こん、こん――と胸の中で合図を入れたに違いない。送られてきた写真は、ほどよく真面目で、ほどよく眠そうで、ほどよく樹だった。
時計職人からは、二日に一度、短いメモが届いた。「湿度六十。巻く」「湿度四十。巻かなくて良い」「秒針の粘り、上等」。職人のメモは、潮の高さの観測記録のようで、読んでいると海抜ゼロ地点に立っている錯覚になる。俺は潮時計のゼンマイを毎晩、同じ時刻に巻いた。巻いてから、二拍。こん、こん。巻けるうちは、生きている。生きているうちは、巻く。
行きの便の前日、店長が窓の前のライトを落として、しばらく黙って立っていた。「送り出す灯ってのは、いいもんだね」と彼は言った。「戻ってきた灯も、もっといいけどね」。俺は笑って、窓の内側からガラスを指で二回、叩いた。こん、こん。外を歩いていた子どもが、また真似をした。こん、こん。合図は、言葉よりずっと速い。速くて、ちゃんと届く。
出発の日の朝は、雨だった。空港のガラスは大きくて、拭き甲斐がある。俺が拭くわけじゃないのに、拭き心地が手に伝わる。出発ロビーには色んな泣き笑いが混ざっていて、金属のトレーの擦れる音がときどき響く。樹はスーツケースを片手で持ち、もう片手で俺の手の甲に指を置いた。――こん。新しい意味は、一回。一瞬で伝わる。「ただいま」の予告。俺は、二回。――こん、こん。「おかえり」の予約。
「向こうに着いたら、胸の穴、二回。……いや、一回だな」
「一回」
「“着いたよ”って」
「うん」
掲示板の文字が変わる。搭乗開始。時間は、巻いても巻かなくても進む。進むものに合わせるのではなく、進むものに二拍を刻む。彼は俺から手を離す直前、合図とは別に、指の腹を俺の指にほんの一瞬だけ滑らせた。言葉のない、「またあとで」。俺は「またあとで」と言い返さずに、胸を二度叩いた。こん、こん。
彼の背中を見送ってから、ベンチに座ると、雨が少し強くなった。窓ガラスを流れる水が、微細な筋を作っては合流し、途切れていく。流れは破れ、回復する。クラゲの動画と同じだ。同期の一瞬は、破れの直後にある。俺の喉は乾かない。乾かないように、水分を取る。コーヒーの紙コップは、店長が置いていったものと同じだ。紙コップを指で二回、叩いた。こん、こん。紙の音は軽い。軽い音でも、時間を立たせる。
空港を出ると、雨は細くなっていた。店に向かう前に、堤防に寄った。潮時計の針の音は聞こえない。聞こえないのに、聞こえる。俺は潮時計を胸の前で持ち、ゼンマイを一度、巻く。巻くとき、胸のタグの穴に風が入ってくる。風は冷たい。冷たいのに、あったかい。樹の言葉が、逆流してくる。
春は来る。来る前から、合図はここにある。二拍。こん、こん。俺は両手で潮時計を包み、額を軽く当てる。ガラスの蓋は冷たく、金属は少しだけ手の熱を吸って、返す。返ってくる温度は、俺のものだけじゃない。彼の指の熱、職人の手の温度、店長の涙の温度、工房の仲間が夜通し支えてくれた声の温度。全部が重ね書きされて、この時計は今、生きている。
怖いものは、まだ山ほどある。遠距離も、締め切りも、火も、海も、受け取る視線も、受け取れない沈黙も。怖いものの数を数えたら、手の指では足りない。足りないとわかっているから、数えるのをやめない。数えながら、二拍を打つ。こん、こん。怖いまま進む手を、俺は自分で選べる。選べるようになったのは、火のそばで膝が抜けた夜に、誰かが背中から合図を打ってくれたからだ。
次の春、またここで。自分で言って、自分で笑った。予約は早いほうが良い。来年の春一番に、堤防の上で二拍。こん、こん。海は同期して、破れて、回復する。火は熄えて、灯る。針は止まりそうになって、巻き直される。俺の声は、向こうの海まで飛ぶ。飛ばない日もある。飛ばない日は、翌日に飛ばす。続ける前提で、準備する。
潮時計の秒針が、また一つ先へ進んだ。四から五へ。五から六へ。俺は胸を二度、叩く。こん、こん。風が、返した。こん、こん。二拍で結ばれた未来は、遠くない。遠くにあって、近い。樹が選んだ遠くの海は、俺が選んだ窓と、合図で繋がっている。
俺は歩き出した。ガラスの蓋が夕陽をほどいて、また海に撒いた。撒かれた光の経路だけが、足元を照らす。照らしすぎない、ほどよい明るさ。ほどよい、は、人生でいちばん手強い温度だ。だからこそ、二拍。こん、こん。俺の足は、それに合わせて前へ出る。次の春、またここで。胸の中の真鍮タグが、軽く鳴った。ベルみたいな、小さな音。合図の返事だ。
俺は講義棟の階段を上がる前に、胸のタグの穴を二度、指で叩いた。こん、こん。返事はなくていい。返事はあとで、あの人の声で受け取る。右手のカバンには、防湿ケース。真鍮とガラスと、二段の数字を抱えた潮時計が入っている。持ち運ぶ重量自体は軽いのに、歩幅は自然と短くなる。時間を運ぶのは、足の筋肉よりも、背骨のほうを疲れさせる。
教室の扉は開け放たれていた。前方のスクリーンには、青白い画面が映っている。樹は壇上で準備をしていた。背中しか見えないそれでも、分かる。肘の角度、キーボードに触れずに一拍置くくせ、スライド送りのリモコンを左親指と人差し指の腹で挟む癖。誰かの顔の輪郭を覚えられない樹が、世界を識別する指先の癖は、こちらからも識別できる。
彼は俺のことに気づき、客席へと視線を滑らせた。前から五列目、通路側。背もたれに要旨を立てかけるふりをして、俺は胸の穴を親指でひと撫でした。すると、壇上の樹が、自分の胸の襟元を軽く摘む。遠距離の合図――音を出せない場所で、音を持ち込む方法だ。
前の発表者の質疑が終わり、拍手と、椅子が擦れる音。司会の教授が名前を呼ぶ。「朝比奈くん」。樹はマイクの高さを一度確認してから、喉を近づける。その所作だけで、俺の背筋はすっと伸びた。そこにある声は、火の温度を測るときにも、クラゲの呼吸を読み取るときにも同じ高さで鳴る。
「海洋生物学科四年、朝比奈です。『発光クラゲの群泳における同期現象の定量化と破れ』について発表します」
破れ、という単語を彼は少しだけ強く発音した。それは紙の上の語彙ではなく、海の中で拾ったものの重さだ。スライドが進む。夜の海に吊ったカメラの映像。黒を背景に、冷たい青が微細な粒を連ね、やがて群れが一斉に光る。同期の一瞬。暗闇が糖衣のように剥がれ、光がその下でいっせいに息をする。息はすぐに乱れ、また整い、また乱れる。外乱と回復。彼の研究の軸はそこにある。
「同期は、完璧ではありません。外乱が入る。流れ、捕食者、温度、塩分、機械のノイズ。破れは、クラゲがクラゲであるための余白です。破れがあるから、回復が起きる。……これは、三十本の個体の発光タイミングを重ねた図です」
グラフが現れ、散った点がゆっくりと一本の線へと寄り、またほどける。彼は数式とともに、同期の指標を淡々と示した。淡々という言い方は、たぶん正確ではない。熱を孕んだ温度が、彼の声のすぐ横に立っていた。熱は、壇上から客席へ飛ぶ。俺の手の中の防湿ケースは、金属の冷たさを保っているのに、指の腹は汗ばむ。
「最後に、動画を一本」
スライドの隅に、小さな時間のラベル。撮影日は、AUG.20――あの日付。祖父の命日。画面の中で、海が同じテンポで寄せては返す。発光が、一度、大きく乱れる。雑音が走り、すぐに、静かに揃う。同期のいちばん美しい瞬間は、破れの直後にある。彼は言葉を選びながら、しかし躊躇わずに続けた。
「同期には、外乱と回復が必要です。……僕の回復は、ある声でした」
客席が、わずかにざわめいた。教授の一人が視線を上げ、別の学生がメモのペンを止める。樹は、そのざわめきごと受け止めるように、客席の俺へ、真っ直ぐに視線を投げてきた。投げられ、受け止める。胸が一度、強く鳴る。こん、こん。俺は姿勢を崩さずに、目だけで返事をした。ここにいる。
質疑は容赦がなかった。「群泳サイズが違う場合のロバスト性」「個体差の定量化の仕方」「外乱のモデル化の妥当性」。教授たちの声は刃ではなく、刃を研ぐ砥石の音だ。樹は淡々と、しかししなやかに受け答えた。途中、ひとつだけ彼はひとの質問を待たずに補足した。「相貌失認ぎみの僕は、人を視覚の輪郭で識別しづらい。だから、海の図は逆に、音とテンポでよくわかる。そこから取った指標です」。会場が少し、笑った。その笑いは、緊張をほどくためのものではなく、納得の温度を持っていた。
終わりの拍手が長く続いた。樹は一礼し、壇から降り際、襟元をひと撫で、胸の穴を意識する癖で合図を送った。俺は膝の上で、机の裏で、そっと二回、指を打つ。こん、こん。音にはならないけれど、指の骨が微かに共鳴する。
教室の外に出ると、廊下は色々な温度で満ちていた。おめでとう、という声、疲れたね、という声、終わった、という声。佐伯が廊下の隅にいた。盗用騒ぎの渦中で、彼はずいぶん痩せた。顔を見た途端、俺は軽く頭を下げた。彼も同じように頭を下げる。言葉は交わさない。言葉を載せない謝罪が、今日は正確だと思った。
廊下の向こうから、店長が紙袋を抱えてやってきた。「差し入れ!」と声がやや高い。紙袋の中には、海苔巻きと、紙コップのコーヒーと、薄いチョコ。彼は俺の肩をぽん、と叩いた。「君んとこの海の人、良かった。……窓、今日も光ってる」。俺が笑うと、店長は「あ、泣くなよ」と言いながら、自分の目をこすった。泣いてるのは店長のほうだ。
人の波が薄くなった頃合いに、樹が出てきた。着替えのために白衣をバッグに押し込み、要旨の束を無造作にまとめる。近づいてきた彼は、周囲の目を自然に避ける角度で俺の右手に触れ、二回、軽く叩いた。こん、こん。触れていい? ――そう、尋ねられて、うなずく。今日は、この後に渡す。海のあるところで。
港へ向かう道すがら、雲が低かった。大気は一定の湿度で、誰の声も遠くまで届く。堤防に上ると、風は昨日より一段柔らかい。まだ冬の色の海に、夕陽の薄い金が浮かび始めている。ベンチは冷たい。俺は防湿ケースをカバンから取り出した。樹は立ったまま、それを受け取ろうとしなかった。顔を上げ、海のラインを見ている。視線を海から外し、俺の目を真っ直ぐに捉えると、いつもの合図。胸の穴へ、親指を添える。
「触れても、いい?」
「うん」
防湿ケースを開ける動作は、何十度も練習したのに、今日に限ってぎこちない。手袋を外し、布をめくる。真鍮の背、ガラスの蓋。潮の波紋を模した微細なカットは、低い光でも多方向に光を散らす。樹は手を伸ばす前に指を二度、俺の手の甲で叩き――こん、こん――それから指先でそっと蓋の縁に触れた。指が、光を撫でる。彼の指の腹が一ミリ沈む。ガラスは沈まない。沈まないけれど、触れられた感触だけが、こちらの皮膚の下にひと休みする。
「冷たいのに……あったかい」
樹は目尻に少しだけ笑いを集めて、言った。寒いね、の寒さでもなく、熱いね、の熱さでもない温度。あの日、工房で春一番が連れてきた温度が、もう一度ここにいる。「座る音」を思い出す。職人の工房で、蓋が“座”に座ったときの音が、港の風の中で再生される。ぴたり。ぴたり。秒針が動く。四から五へ、五から六へ。二拍子の歩み。
「ひっくり返してもいい?」
「気をつけて」
樹は潮時計を裏返し、裏蓋を見た。鏨で刻んだ二段の英数字――AUG.20 / APR.4――が、夕陽の斜光で浮かび上がる。彼は読み上げなかった。読み上げずに、親指で文字の溝を辿った。指が金属の呼吸を拾い、そのまま彼の喉に届く。喉が一回、鳴った。俺は息を止めた。止めたら、風が一段強く吹き、堤防の端の草が揺れた。揺れは大袈裟じゃない。ひとつひとつの葉が、自分の重さを確かめるみたいに振動するだけだ。
「……ありがとう」
樹は言った。ありがとう、以外の言葉を探していたんだと思う。でも、これ以外に正解はない。正解が一つしかない時刻というのは、世界にある。その時刻に一番近い発音で、彼は言った。ありがとう。二拍子で受け取る。こん、こん。俺は首を小さく縦に振った。
「ねえ」
「うん」
「一個、意味を増やしても、いい?」
樹は潮時計を両手で包み込むように持ちながら、俺の右手を探す。その探し方は、初めて工房で会ったときと同じで、でも、ずっと慎重で、ずっと正確だった。彼は俺の手の甲に人差し指で軽く一回、叩いた。――こん。
「これは、“ただいま”の予告」
予告、という言葉は、未来の音に控えめなラベルを貼る。予告があると、人は前を向ける。向ける方向が確かになる。俺は合図を返した。二回。――こん、こん。
「“おかえり”の予約」
予約は、未来の場所を空ける方法だ。空けた場所は、風だけでなく、声も招く。樹が笑って、潮時計の蓋にもういちど、指を這わせる。指の腹に残った微細なカットの凹凸が、彼の世界の輪郭になる。顔の輪郭ではなく、音と触覚の輪郭。俺がそこにいるという事実は、装飾ではなく、合図で充分だ。
行きの便は一ヶ月後だ、と昨日メッセージにはあった。四週間。短い、と思えば短い。長い、と思えば長い。長さは温度で変わる。不安は、消えない。消えないからこそ、持ち運び方を決める。週一の“合図通話”の予約。胸の穴の触覚の練習。窓の前の二拍子。店長の店のガラスは、毎朝八時に拭く。拭くたびに、俺は二回、指で叩く。その音は、風に拾われ、いつか樹の耳に届く。届かなくとも、届く前提で、叩く。
「怖い?」
俺が聞く。彼が聞くべき質問を、俺が先に言った。樹は潮時計を胸に引き寄せ、小さくうなずいた。それは、勇敢であることの証明だ。怖いまま、前へ出る。それを彼は海で学んだ。俺は火で学んだ。怖くないふりをしていた頃より、怖いと言える今のほうが、遠くへ行けることを彼も俺も知っている。
「でも、続ける前提で準備するんだよね」
樹が言う。「試す、じゃなくて」
「うん」
言葉が海面に落ちて、小さな波紋をつくる。波紋は広がり、消える。消えるけれど、水はどこかで繋がっている。潮時計の秒針が、薄く速く進む音。風が一段強くなり、ガラスの蓋が夕陽をほどいて、海に撒いた。撒かれた光は、深いところへ落ちる途中で何度も形を変え、やがて海の生き物の体内の化学に触れて、別の光になる。似姿でも、本物でもなく、経路だ。俺たちは経路を持った。
「約束しよう」
樹は言い、潮時計を防湿ケースに戻し、俺の手に返す。それから、俺の両手を包んだ。堤防の端。人の目はある。目を避けるのではなく、正面の海に向き合う角度で、重ねた手を一度だけ強く握る。
「どんなに遠くても、二拍。――こん、こん。これで、呼ぶ」
「俺は、返す」
「それから」
彼は少しだけ視線を下げ、俺の手の甲へ唇を近づける――直前で止めた。触れていい? という合図を省かないのが、彼の作法だ。俺は、うなずくかわりに自分で手の甲を二回叩いた。こん、こん。樹は小さく笑い、ほんの、触れるか触れないかの距離で唇を寄せ、きっぱりと引いた。港の風が、その温度を持っていく。持っていかれても、消えない。皮膚の下に残る。
別れ際、樹は胸の穴を一度だけ撫で、それから俺の手の甲を――こん――と一回叩いた。「ただいまの予告」。俺は、こん、こん――二回、返した。「おかえりの予約」。予約は、空席じゃない。空けた椅子の上に、二拍が座っている。座る音が、またした。
その翌週から、準備は別々の時間帯で進んだ。俺は店長の新しい店の窓を磨き、灯の位置を微調整し、毎朝“二拍”を入れた。店長は「今日の二拍は湿度高めだね」と冗談を言い、俺は「そういう日もあります」と返した。工房では後輩たちが、新年度の安全講習の資料を直しながら、俺の動線の修正案を真似た。「怖がるを前提にレイアウトするって、目からウロコです」と言われ、俺は照れた。照れは、合図が拾ってくれる。
樹は、海のサンプルの最終整理で大学に泊まり込み、機材の搬出手続きで役所を往復し、パスポートの写真を撮り直した。初回のやつは、目が笑いすぎていたから。写真機の前で彼は自分の襟元を一度撫で――こん、こん――と胸の中で合図を入れたに違いない。送られてきた写真は、ほどよく真面目で、ほどよく眠そうで、ほどよく樹だった。
時計職人からは、二日に一度、短いメモが届いた。「湿度六十。巻く」「湿度四十。巻かなくて良い」「秒針の粘り、上等」。職人のメモは、潮の高さの観測記録のようで、読んでいると海抜ゼロ地点に立っている錯覚になる。俺は潮時計のゼンマイを毎晩、同じ時刻に巻いた。巻いてから、二拍。こん、こん。巻けるうちは、生きている。生きているうちは、巻く。
行きの便の前日、店長が窓の前のライトを落として、しばらく黙って立っていた。「送り出す灯ってのは、いいもんだね」と彼は言った。「戻ってきた灯も、もっといいけどね」。俺は笑って、窓の内側からガラスを指で二回、叩いた。こん、こん。外を歩いていた子どもが、また真似をした。こん、こん。合図は、言葉よりずっと速い。速くて、ちゃんと届く。
出発の日の朝は、雨だった。空港のガラスは大きくて、拭き甲斐がある。俺が拭くわけじゃないのに、拭き心地が手に伝わる。出発ロビーには色んな泣き笑いが混ざっていて、金属のトレーの擦れる音がときどき響く。樹はスーツケースを片手で持ち、もう片手で俺の手の甲に指を置いた。――こん。新しい意味は、一回。一瞬で伝わる。「ただいま」の予告。俺は、二回。――こん、こん。「おかえり」の予約。
「向こうに着いたら、胸の穴、二回。……いや、一回だな」
「一回」
「“着いたよ”って」
「うん」
掲示板の文字が変わる。搭乗開始。時間は、巻いても巻かなくても進む。進むものに合わせるのではなく、進むものに二拍を刻む。彼は俺から手を離す直前、合図とは別に、指の腹を俺の指にほんの一瞬だけ滑らせた。言葉のない、「またあとで」。俺は「またあとで」と言い返さずに、胸を二度叩いた。こん、こん。
彼の背中を見送ってから、ベンチに座ると、雨が少し強くなった。窓ガラスを流れる水が、微細な筋を作っては合流し、途切れていく。流れは破れ、回復する。クラゲの動画と同じだ。同期の一瞬は、破れの直後にある。俺の喉は乾かない。乾かないように、水分を取る。コーヒーの紙コップは、店長が置いていったものと同じだ。紙コップを指で二回、叩いた。こん、こん。紙の音は軽い。軽い音でも、時間を立たせる。
空港を出ると、雨は細くなっていた。店に向かう前に、堤防に寄った。潮時計の針の音は聞こえない。聞こえないのに、聞こえる。俺は潮時計を胸の前で持ち、ゼンマイを一度、巻く。巻くとき、胸のタグの穴に風が入ってくる。風は冷たい。冷たいのに、あったかい。樹の言葉が、逆流してくる。
春は来る。来る前から、合図はここにある。二拍。こん、こん。俺は両手で潮時計を包み、額を軽く当てる。ガラスの蓋は冷たく、金属は少しだけ手の熱を吸って、返す。返ってくる温度は、俺のものだけじゃない。彼の指の熱、職人の手の温度、店長の涙の温度、工房の仲間が夜通し支えてくれた声の温度。全部が重ね書きされて、この時計は今、生きている。
怖いものは、まだ山ほどある。遠距離も、締め切りも、火も、海も、受け取る視線も、受け取れない沈黙も。怖いものの数を数えたら、手の指では足りない。足りないとわかっているから、数えるのをやめない。数えながら、二拍を打つ。こん、こん。怖いまま進む手を、俺は自分で選べる。選べるようになったのは、火のそばで膝が抜けた夜に、誰かが背中から合図を打ってくれたからだ。
次の春、またここで。自分で言って、自分で笑った。予約は早いほうが良い。来年の春一番に、堤防の上で二拍。こん、こん。海は同期して、破れて、回復する。火は熄えて、灯る。針は止まりそうになって、巻き直される。俺の声は、向こうの海まで飛ぶ。飛ばない日もある。飛ばない日は、翌日に飛ばす。続ける前提で、準備する。
潮時計の秒針が、また一つ先へ進んだ。四から五へ。五から六へ。俺は胸を二度、叩く。こん、こん。風が、返した。こん、こん。二拍で結ばれた未来は、遠くない。遠くにあって、近い。樹が選んだ遠くの海は、俺が選んだ窓と、合図で繋がっている。
俺は歩き出した。ガラスの蓋が夕陽をほどいて、また海に撒いた。撒かれた光の経路だけが、足元を照らす。照らしすぎない、ほどよい明るさ。ほどよい、は、人生でいちばん手強い温度だ。だからこそ、二拍。こん、こん。俺の足は、それに合わせて前へ出る。次の春、またここで。胸の中の真鍮タグが、軽く鳴った。ベルみたいな、小さな音。合図の返事だ。



