春一番は、水平線の向こうから吹いてくるのではなく、工房の裏口の隙間から、粉砂糖みたいに入り込んでくる。冬に絞られて固くなった空気が、ふっ、とほどける音がした。ドアに吊った小さなベルが、軽く鳴ったようにも思えたが、それは俺の胸の内側の金物が鳴っただけかもしれない。

 最終焼成の日。卒業制作の「灯(しるし)」は、最後の温度に向かっている。炉の中には、潮の波紋を模したカットを散りばめたガラスの蓋――あの潮時計のための“蓋”の、たったひとつの完成形。そして、その周囲を受け止める“光の座”が、赤く息をしている。店長の新しい店の窓の“顔”になるピースも、今日いっしょに焚く。春一番に負けないよう、工房の仲間は全員、髪を後ろで束ね、目の奥を結んでいた。

 温度管理卓で、樹が指を二度、胸に打つ。こん、こん。彼が俺の側線になる儀式だ。俺も返す。こん、こん。二拍。春一番も、二拍で吹く。ふっ、ふっ。風は、熱の味を運ぶ。

「今、息を吸って。三、二、一」

 樹の声は時間を刻む刃だ。刃が空気に切り目を入れる。そこから、俺は吸う。肺に入った空気は、炉の熱で一瞬にして春先の水温になる。冷たくない。温かすぎない。ちょうどいい。ちょうどいい、は、人生で一番手強い温度だ。

「八九〇、八九五、九〇〇。――いい」

 樹の数字は、音階のように耳に乗る。九百度の音は、低いラの裏側に近い。俺の指の第二関節が、わずかに柔らかくなる。炉口に一歩。工具台から吹き竿へもう一歩。視界の端に、冬の事故の“音”が近づく気配がした。あの、突発的に溢れた火の、鉄の落ちる音、誰かの吸い込む声。それでも、耳を塞がない。塞がない、を選ぶ。俺は耳で立つ。

「今はまだ近寄らない。――呼吸を一回、捨てて」

 俺は一回、息を捨てた。捨てると、熱が身体の裏側に回り込む。怖さと熱が重なる場所まで、あと半歩。半歩をためらうと、膝の裏が先に折れる。膝の裏は、中学の体育館の床の匂いを覚えている。滑り止めの白い粉の手触り。粉は、今、俺の掌にはない。あるのは、滑りのない合図だ。

 こん、こん。

 樹が、卓の向こうから俺の合図に重ねて打つ。二拍子の橋は、炉と俺の間に架かっていた。橋を渡るのではなく、橋の上に立つ。そこで呼吸を整える。

「三、二、一。――今」

 樹の「今」は、手の中の震えをゼロにする呪文だ。俺は竿の先、蜂蜜色のガラスが重力にわずかに抗っているのを確かめ、膨らみの呼吸を入れる。薄く、深く、縁にだけ厚みを寄せる。蓋の縁は、針を守る“城壁”だ。厚いほどいいわけではない。座金と刃の間に、髪の毛一本の余白を残す。その余白に、秒針の空気が通う。

「いい。回転、今より八分の七」

「八分の七」

 非科学的な指示は、現場に正確だ。竿を回す樹の肩の影が、温度の波に合わせてほんの少しだけ傾く。工房の後輩が、火箸を構えて待つ。店長が作業台の端に腰を掛け、手の中の紙コップを握り潰す勢いで見ている。佐伯もいる。盗用騒ぎの後、彼は工房に足を運び、力を出すべき場所を間違えないことを覚えたらしい。怒りの矢印を、自分に向ける方法と、器用に外へ向ける方法、その違いにやっと気づいたのだろう。誰も彼もが、今日は火の“味方”だ。

 炉口の縁に一瞬だけ過去の事故の影が重なった。高温で薄くなったガラスが、意図しない角度で剥がれ、鉄が音を立て、助けに伸びた手が遅れた晩。耳の中に、硬いものが崩れる音がした。俺の身体は、それでも退かなかった。退かない、を選ぶ。退くほうが楽なときほど、合図の二拍子は、前のほうにある。

「九一五、九二〇。――ラストの息。厚み、縁に一ミリ」

「一ミリ」

 呼吸を細くして、縁に押す。蜂蜜色は、透明の前段階の色だ。色は目に見えるが、温度は耳で聞く。耳は、一度だけ俺を裏切ったことがある。事故の夜、耳は音を全部拾ってしまい、意味をつける余裕がなくなった。今日は違う。拾う音は、意味を持って俺の手に返ってくる。

「――切る」

 俺は竿をゆっくり外し、樹が受け皿へ滑らかに移す。重さが台の上へ落ちた瞬間、薄い“座る音”がした。金属ではない、ガラスの音。硬質な透明が、ほんの一拍だけ響く。それは、時計職人が最初に言った「座る音」だった。春一番が、工房の天井でその音を撫で、外へ連れ出していった。

 焼き上がり。炉の蓋が閉まり、冷却の時間へ入る。ガラスが言葉を失う時間。ここで焦ると、数時間の仕事がゼロに戻る。ゼロに戻る可能性を抱え込んだまま、俺たちは工具を置く。置いて、手を見た。爪の間に、粉砂糖みたいな砂はない。代わりに、微細なガラス粉のきらめきが、光で消えたり現れたりしている。

「……最高だ」

 先に声を出したのは店長だった。涙目で笑う大人の顔は、なぜこんなに子どもっぽいのだろう。年齢の皺の皺一本ずつに、言葉の温度が溜まっている。店長はコップを握り潰し、握ったまま俺の肩をがしっと掴む。二回、叩く。こん、こん。合図の真似事だが、彼は真似事をいつだって本物にする。

「君の灯を、窓に置く。誰の顔より、先に目に入る。――俺の店の“時間”が、やっと動く」

 時間、という言葉に、胸の中の真鍮タグが鳴った。こん、こん。動く、という単語は、静止しているものに対して優しい。止まっていた針も、止まっていた喉も、動き出すときは“ゆっくり”しか動けない。ゆっくりでいい、と言ってくれる声がある限り、動きは止まらない。

 そのとき、樹の携帯が震えた。彼は温度管理卓から身を離さず、スピーカーに切り替えた。軽い金属の擦れる音のあと、低い声が工房いっぱいに広がる。時計職人だ。

『いい返事だ。――適合する。座金を少し叩いて、君の蓋に合わせた。針は、動いた。音は、座る音だ』

 樹が息を吸ったのが、電話越しでも分かった。吸って、吐く。吐くときに、春一番が扉を叩いた。こん、こん。まるで、合図の真似事を風がしている。

『ただ、言い置いておく。針は時々、止まる。止まるたびに、巻け。巻けるうちは、君たちは生きている。巻く、という動詞は、諦めと反対にある』

「巻きます」

 俺は電話に向かって答えた。職人は短く笑った。笑いは、喉の奥の金属を鳴らす音になって、切れた。

 冷却の間に、工房の掃除をした。床にこぼした粉の幅は、一週間前より狭い。掃除機の吐く音が、いつもより柔らかい。春一番がすべての角を丸くしていく。角が丸い一日は、刃物の手入れがしやすい。刃をしまう。しまう場所を決める。道具は、しまわれて初めて味方になる。

 夜、蓋は工房の冷えた空気を掴んだ。この季節の夜のガラスは、音が軽い。指で弾くと、ぴん、と短い音が跳ねて消える。音は消えるけれど、指の腹に残る重みは消えない。俺は白い手袋を二枚重ねでつけ、薄い布にくるんだ蓋を防湿ケースに入れた。潮時計の本体は職人の工房にある。明日、受け取りに行く。渡すのは、その次の夜だ。樹が海を発つ前夜。時間を置く。置くことは、冷ますことでもあり、熟すことでもある。

 工房を閉め、春一番の流れる校舎を歩き、海に出た。潮の匂いは、冬から春へ渡る橋の匂いだ。橋はいつも、どこかで軋む。軋む音が、構造を信じさせる。砂浜には、誰の足跡も残っていない。樹の足跡は、別の海の砂に重ねられる準備をしているはずだ。俺は胸の中で二拍子を打つ。こん、こん。風が笑う。笑いの温度は、三十七度よりも低いのに、心臓は少し上がる。

 その夜、俺は潮時計の裏蓋に、刻印を追加するために工房の隣の彫金室にこもった。職人の了解は貰ってある。金属の背に、柔らかすぎない、硬すぎない力で、鏨(たがね)を落とす。刻むのは、言葉ではない。数字だ。

 AUG.20。祖父の命日。そこにもう一段、別の“日付”を重ねる。APR.4。俺の誕生日。俺の“名”ではない。名は書かない。名前は目印だが、彼の世界で、俺は“声”と“合図”で十分に目印になると思えたから。彼の相貌失認ぎみの世界で、顔よりも歩き方、咳払い、筆圧が人の輪郭であるように。俺の輪郭は、金属で残してしまうには薄すぎるし、厚すぎる。言葉の温度で十分だ。真鍮タグの二つの穴と同じように、数字の二段を刻む。鏨の先が、一文字ずつ、金属の呼吸を拾っていく。拾って、置く。置いた音が、彫金室の白い壁で一回、跳ねる。

 APR.4。俺は自分の指の第三関節を見た。そこには、火に焼かれた跡がない。事故の痕は別の位置に薄く残ったままだが、名刺に刷られるものではない。俺のことを知っている人間だけが、そこに触れる。触れるときは、「触れてもいい?」の合図がある。二拍子が、世界のどこにいても同じ速さで鳴れば、触れても、触れられても、きっと大丈夫だ。

 鏨を置き、刻んだ面を研磨した。荒い番手から、細かい番手へ。四百、八百、千二百。数字を磨くのは、数字を消すためではない。光らせるためだ。光ると、そこに影が生まれる。影が生まれると、読みやすくなる。不思議だが、世界とはそういうふうにできている。名前を彫らないという選択も、光と影の配分の結果だと思った。

 作業を終えたころ、工房の裏で風の鳴き方が変わった。春一番は、夜更けに少しだけ反省する。昼間にやりすぎた興奮を、夜に畳む。畳んだ風は、壁に寄りかかって眠る。眠る風のそばを通って、俺は学生寮へ戻った。

 ベッドの上で、胸のタグを二度叩く。こん、こん。合図の音は、窓ガラスを震わせ、街灯の光を少しだけ滲ませた。携帯に、樹から短いメッセージが来ていた。

《合図、届いた。――明日、店長の窓、見に行っていい?》

 短い言葉の向こう、彼がスーツケースに靴を並べているのが想像できた。海外のラボは、靴の選び方から別物だという。潮に濡れても、泥に沈んでも、すぐ乾く布。紐が絡まないリング。歩き方が変われば、彼は俺を一瞬、誰かと取り違えるかもしれない。だから合図を増やした。声の温度を決めた。言葉を予約した。俺たちは“試す”のではなく“続ける前提で準備する”。

《来て》

 そう返す。すぐに既読がついて、返信は来ない。たぶん彼は、合図通話ではない夜の残り時間を、論文の参考文献の中に沈めている。沈み方を知っている人間は、浮上の仕方も知っている。俺は胸のタグを指で探り、穴に指先を入れてみる。二つの穴の向こうから、春一番が入ってきて、胸の裏側を撫でた。撫でられると、火傷の痕が、そこにあることを忘れる。忘れるのではなく、“意識しないでいられる”。それは、治癒と呼ぶには遠いが、前と呼ぶには十分だ。

 翌朝、店長の新しい店の紙が剥がされた。窓の前に立つと、昨日まで図面の中にあった十二センチの余白が、実体としてこちらを向いていた。そこに俺のガラスが座る。座る音を、目で聞く。通りすがりの人は、名前を知らない。知らなくていい。もうじき、潮時計がそこに並ぶ。金属とガラスと時間と、風に触れた言葉の四拍子が、一枚の窓に縫い合わされる。

 店長は、紙袋を一つ渡してきた。中には、見たことのない紺色の作業用のエプロンが入っていた。胸ポケットに、二つの小さな穴が空いている。

「特注。――君の“合図”の穴だ」

 店長の眼差しは、言葉を足さない種類のやさしさで満ちていた。穴は二つ。二拍子のために空いている。俺はそこに、真鍮タグを通した。通すと、胸の位置が決まる。位置が決まると、背筋が伸びる。伸びた背筋には、春一番がまっすぐに当たる。

「樹、来る?」

「来る」

「じゃあ、窓の前で、二回叩け。――海の人に、陸の光の“温度”を渡す儀式だ」

 店長の儀式はいつだって唐突だが、唐突だからこそ、祝祭になる。祝う、というのは、出来事に名前を与える行為だ。俺は窓に手を当て、叩いた。こん、こん。ガラスは、店の内と外で、二度鳴った。外を歩いていた子どもが振り返って、真似をして、こん、こん、と小さな手で叩いた。春一番が笑った。

 午後、樹が現れた。いつもより歩幅が少しだけ短い。スーツケースを引く癖を、身体が先取りしているのかもしれない。俺のほうへ歩いて来るとき、彼は胸ポケットに視線を落とした。二つの穴に、指が迷わず入る。

「おめでとう」

「ありがとう」

 窓の前に並ぶ。俺のガラスの座の上に空いた真ん中の円。そこに、明日、潮時計が座る。座る音が、まだないのに聞こえる。聞こえるのは、職人の工房で一度、針が動いたという報せがすでに俺の身体に刻まれているからだ。

「……ほんとに、光る」

 樹が呟いた。彼は海の光のプロで、光の言い逃れに容赦がない。そんな彼が目を細めるのを見るのは、初めてだった。ガラスの縁に刻んだ微細なカットが、春一番の浮かべる砂塵を拾って、目に見えない発光を“見えるもの”にする。クラゲの体内で起きている化学の光が、陸の風で似姿を持つ。似姿は本物ではないが、本物に触れる橋だ。

「時間、動くね」

「動く」

「止まったら、巻く」

「巻く」

 二回、合図を打つ。こん、こん。店長がレジの奥から同じリズムで返してくる。店のガラスと、潮時計のガラスと、俺の胸のタグの真鍮と、樹の言葉の温度が、ひとつの二拍で揃う。

 夕暮れ、俺は彫金室で磨いた裏蓋を取り付けるため、職人の工房へ寄った。樹はゼミの最終確認で海洋学科へ戻った。工房の青い扉は半開きで、春一番が作業台の刃物をひとつずつ撫でてから外へ出ていく。

「来たか」

 職人はすでに潮時計を机の上に置いていた。蓋が外され、針がむき出しで止まっている。秒針の先は、ちょうど四の位置にあった。APR.4。俺は喉の奥で笑った。笑いが、金属を震わせる。

「これだ」

 俺は布に包んだ蓋を取り出した。鏨で刻んだ小さな英文字は、光の角度で浮き沈みする。職人が顎を小さく動かした。

「良い。――君は、自分の名を刻まないのだな」

「はい」

「潔い」

「臆病なんです。……でも、臆病なやり方が、いちばん長持ちすることもあるから」

 職人はうなずき、座金を微調整してから、蓋を座に“座らせた”。音は、最初の夜と同じ。ぴたり。ぴたり、と、座る音がした。わずかに指で押しても、わずかに跳ね返るだけだ。跳ね返るものは剥がれにくい。

「巻け」

 職人が、俺にゼンマイを渡した。俺は恐る恐る、金属の小さな耳をつまんで回す。回すと、内部のバネが鳴く。鳴く音は、春一番の鳴き声に似ている。巻いて、止める。針が、動く。秒針の先が、四から五へ、五から六へ、二拍子で、動く。

「動いた」

「動く」

 職人は剥き出しの歯を見せずに笑い、蓋を指で叩いた。こん、こん。合図は、金属でも通じる。

「君は、明日、これを渡すのだな」

「はい」

「言葉を準備したか」

「準備は……しすぎないようにします」

「いい。準備しすぎると、灯は消える。――だが、合図だけは忘れるな」

「忘れません」

 夜風が、工房の天井の古い蛍光灯をかすかに揺らした。春一番は、物語のクライマックスを勝手に演出する。演出される側は、演者に徹するだけだ。

 潮時計を防湿ケースに戻し、俺は工房を出た。帰り道、海の匂いは昨日より甘い。明日は渡す夜。渡す夜は、たぶん少し泣く。泣く泣かないは、どちらでもいい。泣いても、針は動く。動くことと泣くことは、両立する。両立のために、合図がある。

 部屋に戻ると、机の上のノートの端に、APR.4という文字がなんども書き写されていた。さっきの練習の癖が抜けていない。俺はその横に、AUG.20と書いた。二段の数字。祖父の命日と、俺の誕生日。二つの日付の間に、合図の記号を小さく書く。・ ・。日本語の句読点より少しだけ大きく。二拍子の点だ。

 携帯が震えた。合図通話の時間ではない。短いメッセージ。

《ゼミ、終わり。窓の前、よかった。――明日、渡す前に、海、行かない?》

《行く》

 送ると同時に、胸の中のタグを叩いた。こん、こん。春一番は、窓の外で眠りかけていたが、最後の一回だけ、目を開けて合図に頷いたようだった。

 電気を消す。暗闇の中で、潮時計の針が動く音を想像する。秒針は、二拍子で前へ進む。止まりそうな瞬間が、いちばん強い。止まりそうだ、と感じる感覚があるから、巻くタイミングを逃さない。俺たちは、試すのではなく、続ける前提で準備した。準備しすぎずに、灯を守る。守るために、合図を増やした。

 明日、渡す。金属の背に刻まれた二段の数字は、名前ではない。けれどそれは、俺の存在の“影”だ。影があるから、光は見える。俺の名前を刻まないことは、存在を消すことではない。声と合図で輪郭をつくる。樹の世界では、それがいちばん確かな“名づけ”になる。

 春一番が遠のいて、夜の温度が定まった。定まった温度は、言葉の寝床だ。言葉は、眠ると強くなる。眠る前に、胸を二度叩いた。こん、こん。返事は、いらない。返事は、明日の海で受け取る。

 秒針の音が、遠い海の底から届いた気がした。耳の奥で、砂のこすれる音が重なる。潮は、寄せて、返す。火は、熄(き)えて、灯る。俺は、止まりそうになって、巻く。樹は、遠くへ行って、つながる。春一番は、吹いて、やむ。やむ前に、一度だけ、工房のベルを鳴らした。

 ――こん、こん。