知らせは、湯気の立たないコーヒーみたいに、静かに置かれた。

「推薦、来た。海外のラボ。海岸線じゃなくて、環礁。発光クラゲの夜の行動を、現場で解析する枠。……行きたい」

 工学部棟の窓は海と反対側を向いている。午後の光がアスファルトの粒で散って、校舎の白い壁に鏡のような斑点を並べていた。樹はそこに背を預けて、胸ポケットを“こん、こん”と二度叩いた。報せの拍だ、とわかったのは、俺の指が同じ数だけ疼いたからだ。

 喉の紙は、何枚目から折れるのだろう。最初の一枚は、彼の「行きたい」の後半で折れた。二枚目は、「現場」という具体に当たって折れ、三枚目は「推薦」の硬い音で勝手に折れた。折れ目を伸ばすには、熱がいる。俺は胸の内側の真鍮タグに指先を滑らせ、二つの穴に触れた。指が迷わない。迷わないから、打てる。

 こん、こん。

「……おめでとう」

 声は自分で思っているより低く出た。低い声は、温度がある。温度のある言葉は、遅れて届く。

「ありがとう」

 樹が笑う。彼の笑いは目の端より先に喉で鳴る。鳴るというより、温まると言ったほうが近い。羨ましい温度の出し方だ、といつも思う。

「遠い。季節、逆。時差、たっぷり。……でも、海は連続してる」

 彼は自分で自分を説得するみたいに、海の話を続けた。クラゲの発光は塩分濃度と水温、潮の満ち引きと月齢に呼応する。光は秒単位で現れて消え、魚の群れのように時間差で連鎖する。紙の上で組んできた仮説を、潮の中で確かめたい――。

「試したい」

 そう言ってから、彼は一拍置いた。置いて、こちらを見た。相貌失認ぎみの彼が“見た”と分かる角度で。いつもより慎重に俺の輪郭をなぞって、それから真っ直ぐに言い換えた。

「遠距離でも、俺たちを“試したい”」

 胸ポケットのタグをもう一度、指で押した。金属は冷たいのに、触ると喉の紙が一枚ずつ戻っていく。

「……試すんじゃなくて、続ける前提で準備する」

 自分で驚くほど、はっきり言えた。言ったあとで、足の裏が熱くなる。熱は逃げ場を探して、膝の裏に溜まった。

「準備」

「うん。試す、って言葉は、うまくいかなかったときの逃げ道を、言葉の影に残してる。俺は、逃げ道作るとそこへ流れる癖がある。だから――続ける前提。段取りを決める。合図を増やす。約束を具体にする」

 樹は微笑って、胸に二拍。俺も返す。二拍は簡単だ。簡単なものが、いちばん強い。

「じゃあ、段取りを。――週に一度、時間を予約する。時差をまたいで、“合図通話”。十五分でも三十分でも、一時間でも。内容は“キス未満”。」

「キス未満の、内容?」

「言葉の温度で、決める」

 彼の口角が少し上がった。言葉の温度、という響きが好きだ。音の温度は測れる、と樹は言う。笑いの手前は三十七度、ため息の手前は二十度。キスは三十九度を越える。だから、三十七度未満の言葉を積む。未満には未来がある、と樹は考えるらしい。

「やってみよう」

 言った瞬間、まぶたの裏に灯りが点き、ふっと薄く消えた。手でつかめない種類の灯りだ。工房の火ではなく、海の反射でもない。言葉の温度が燃やす、見えない灯火。

 窓の外には海がないのに、潮の匂いがした。凍えるほど乾いた風の日ほど、海は近い。

 ***

 段取りは、メモに落とすと、実在感を持つ。

 週一の合図通話は火曜の夜。互いのスケジュールの隙間に固定で穴を空けた。穴は大切だ。灯りは暗いところでしか見えない。

 俺は卒業制作を、店長の新しい窓の“顔”にする準備を進める。樹はゼミの最終査読と渡航の書類と英語の準備。合間に、海。

 初回の合図通話は、手探りだった。

『今、何度?』

「二十五」

『低い』

「ちょっと上げる」

『やめろ、上げようとするな。勝手に上がるときを、待つ。クラゲの光と同じ』

「……うん」

 黙る。海の反復。俺の呼吸。彼の呼吸。呼吸は、別の場所にいても調律できる。お互いのマイクが拾う湿度が、少しずつ重なって、三十度に行くか行かないかのラインで揺れた。

『ゼミで、厄介な質問をされた。発光は“何のため”か、って。何のため、って、便利な言葉だよね』

「便利」

『便利すぎて、答えが薄くなる。――“あるから、使われる”。それじゃあ駄目かなって言ったら、教授が笑ってた。『いいね』って。『それ、動詞の順序が正しい』って』

「順序」

『うん。目的は“あとから来る”。発光は先に“ある”。だから、俺たちも、あることから始める。あるものを、使う。――蓮にあるもの、今、何』

「……工房の線。五メートル。真鍮タグ。二拍子」

『十分だ』

 二回、胸を叩く。こん、こん。携帯の小さなスピーカー越しでも、その破裂音は生き物の声に似ていた。

『眠くなった?』

「三十七度を越えそう」

『じゃあ切ろう。――おやすみ』

「おやすみ」

 電源が落ちる直前に、彼の息がひとつ、温度を上げた。三十七度を越える前の、縁。縁に立つと、遠距離が距離ではなくなる。

 二回目、三回目と回を重ねるにつれ、通話は儀式ではなく道具になった。日々の通話録音を聞き返すと、言葉の密度がゆっくり増えている。ひとつひとつが軽いのに、重なりが厚みになる。灯の厚みと同じだ、と気づく。

 その合間に、時計職人から電話が入った。昼の光が窓の端に立っている時間帯。職人の声は、相変わらず針金のように真っ直ぐだ。

「分解した。芯は直った。歯車の噛み合いも、調整した。……が、問題は蓋だ」

「蓋」

「潮を噛んで、内側の座金がわずかに腐食している。同じ年代の部品が手に入れば、ぴたりと合う。が、微妙だ。合わない部品を無理やり合わせると、針がまた止まる」

 胸の内側で、真鍮タグを押す。こん、こん。今は、俺が“巻く側”だ。巻く側は、焦らない。

「代わりに――これは提案だが――ガラスの蓋を作ってみないか」

 電話の向こうで、金属と木がこすれる音がした。作業台の上で何かを回したのだろう。

「ガラス」

「時計は、空気で動く。湿度や温度に敏感だ。蓋の内側で起こる微細な“天気”を、読む。金属の蓋は丈夫だが、潮の名残りに弱い。……ガラスの蓋を内側の座に差し込み、微細な膨張にだけ追随するつくりにすれば、持つ。素材の違いは調律できる」

 静かに、心が跳ねた。跳ねて、着地した。ガラス。時計。海。全部、線で繋がる。

「できますか」

「できるだろう。――君が、やるなら」

 職人の言い方はいつも、こちらを試さない。試さないのに、背中が伸びる。

「樹に、相談してもいいですか」

「もちろんだ。海の人の意見は、風の読みを正す」

 電話を切ってから、しばらく工房の扉の前に立った。五メートルの線が、床で待っている。待っている線に、もう一歩、近づきたい。近づく理由が、やっと、自分のものになった。

 言葉は、灯に変わる。灯は、理由になる。理由は、距離を移動させる。

 俺は靴底の砂を払って、扉を押した。

 ***

 炉は寝息を立てていた。自動再点火の表示は“待機”。温度計の赤い数字が、冬の室温との差を知らせる。五メートルの線は、床に忠実だ。線の手前で呼吸を揃える。呼吸は、合図になる。

 こん、こん。
 胸の内側を二度叩く。返事は、いらない。返事がなくても、温度は動く。

 線から一歩、前へ。四メートル。膝は震えない。事故の音は遠い。遠いまま、耳の後ろで空気の気泡みたいに弾けている。

 テーブルに道具を並べ直す。使わない道具を近くに置かない。置かないことも、準備のひとつだ。吹き竿の重みは、今日は持たない。けれど、ガラスの蓋に必要な厚みと直径、縁の強度、段差の角度――頭の中で、寸法が活性化する。

 真鍮タグの穴を指先で擦ると、頭の中で数字が落ち着く。タグが“座金”の記憶と重なる。蓋は、外の潮ではなく、内側の“天気”に対する盾だ。盾を薄く、固く、透明に。耐塩性は……それは、樹に訊く。

 四メートルのラインに足をかけたところで、工房の扉が開いた。

「――やっぱり、いた」

 樹だ。フードを脱いで、いつもの長さで息を吐く。彼の吐息を聞くと、工房の空気が軽くなる。

「時計の件、職人さんから、俺にも連絡が来た。蓋の提案、来たでしょ」

「来た。……やるなら、ガラスで」

「やろう。ガラスの方が、水の呼吸に近い」

「水の呼吸」

「温度変化への応答がなめらか。金属より遅いけど、遅いぶん、振幅が穏やか。発光クラゲの体内の塩分濃度の揺れ方に近い。――それに、蓋が透明なら、針の光が見える」

 針の光、という言い方が好きだ。見えないものに光を与えるのは、樹の得意技だ。

「強度は?」

「縁の曲率を少しだけ変える。座金とガラスの接する範囲を、点じゃなく、小さな環にする。耐塩性は……これ、海じゃなくて汗の塩。人体の塩分は3%くらい。海は3.5%。汗の中に含まれる乳酸が金属には厳しいけど、ガラスにはそれほど影響しない。――塩霧試験の代わりに、俺の手で持ち歩いてテスト」

「実験台」

「うん。俺の手、研究用」

 樹は胸ポケットを二度叩いて、真鍮タグを示した。「合図のタグ、これ、汗で曇らない。曇りにくい。金属でも、合金と処理でこう変わる。ガラスならもっと素直に変わる」

「作る」

 言い切った声の温度が、自分でも分かる。三十七度に届かない。けれど、確かに温かい。

「蓮、線、越える?」

 樹が足元のテープを指した。工房の床の五メートル線。俺は一度、胸を叩いた。こん、こん。返事はいらない。自分にしか届かない合図を、わざと外に向けて打つ。

「四メートルは、来た」

「じゃあ、三・五」

「三・五」

「俺はここにいる。――『ここでは俺が目になる、君は耳でいて』。台風の夜と同じ。君の耳の中の温度計で、引き返す距離を調整して」

 樹の言葉の温度が、緩やかに上がる。俺の耳の中で温度計が膨らむ。三・八、三・七、三・六。膝の裏で、古い恐怖が一瞬こわばって、すぐにほどける。

 線をまたぐ。三・五。世界の解像度が少し上がる。炉の中の炎は、相変わらず遠い。遠いのに、今日の距離は違う。

「いい?」

「いい」

 俺たちは試作の手順を確認した。座金に合わせるためのゲージを作る。旋盤で削るのでは間に合わない。吹きで厚みを作り、冷ましてからカットし、縁を磨く。磨きに時間をかければ、座りが良くなる。失敗は三回までは織り込み済み。三回の失敗を、最初から予定に入れると、筋肉が固まらない。

「炉、俺が点ける。近づかないで。温度、声で伝える。――怖くなったら、二回打つ」

「分かった」

 樹が操作盤に手をかける。自動点火のクリック音が三度。わずかな遅延のあと、空気が熱を持つ。熱は音で広がる。ファンが送り出す空気の音が、一瞬だけ低くなってから、一定のリズムに入る。俺にはそれが、海の満ち引きの音に聞こえた。

「八百二十、八百四十、八百六十」

 温度の数字が、樹の口から出る。数字は温度計の表示を読み上げているだけなのに、樹が言うと、音階になる。八百六十度の音階。愚かしい、と自分で笑いそうになるのを、笑わなかった。

 吹き竿は樹が持つ。俺は竿の先に溜まる蜂蜜のようなガラスを、遠くから“耳で”見る。息の量を指示する。回転の速度を、言葉で整える。

「呼吸、今の半分。回転、いまより八分の七」

「八分の七」

 彼は笑って、言葉のとおりに動かす。八分の七、という言い方は非科学的だ。非科学的なものは、時々、正確だ。現場の数学は、身体の内側にある。

 厚みは、縁に集めた。中心は薄く、淵は密に。座金に吸い付くように、縁にだけ重さを寄せる。蜂蜜の輪郭が少しずつ固まる。固まる前に、言葉で押さえる。

「待って」

 樹の手が止まる。止まるのに、火は動き続ける。動き続けるものに、待機の合図を送るのは、難しい。難しい時間は、短く切る。

「今」

 彼が息を入れる。ガラスが膨らみ、縁の厚みが、わずかに増える。満足の音は出さない。出すと、気が緩む。気が緩むのと、筋肉が緩むのは違う。

 一次成形を終えたところで、俺は工具を持った。冷間加工用のマイクロソー。刃の厚みは0.3ミリ。刃は火を知らない。火を知らない道具は、俺の友達だ。

「ここからは俺」

「任せる」

 樹が竿を置き、俺の背後に立つ。背に近い距離ではない。五メートルの半分の距離。三・五。そこから彼は、俺の耳の側線になる。温度の波を、声で知らせる。

「冷める速度、今が一番危ない。早くも遅くもない。――蓮、手の震え、ゼロ」

「ゼロ」

 震えの確認は、声でやる。声に乗る震えの質は、必要なら自分でも聞ける。刃がガラスの縁に入る。入るときの音は、子どもの歯がグラスに触れる音に似ている。ぞわ、と背中が縮む。縮むけれど、退かない。

「今」

 刃を引く。引いて、止める。止めるときに、息を止める。止めた息を、刃の抜ける音と一緒に吐く。吐いた音に、樹の呼吸がぶつかって、静かになる。

 切断面は粗い。粗いままでは、座らない。座らない蓋は、針を止める。止めてはいけない。磨く。紙やすりの番手を変えながら、ひとつひとつ、音を落としていく。二百四十、四百、八百、千二百。数字が増えるたび、刃の音が細くなる。細くなる音に、夜の海の底が見える。

 夜の海には、光るクラゲが浮いている。浮いているのに、沈んでいるように見える。彼らは音のない水の中で、二拍子で呼吸する。呼吸の間に、光が立ったり消えたりする。

「蓮」

「うん」

「今の君、灯だね」

「うん」

 彼の言葉の温度が、少しだけ上がった。三十六度五分、くらい。キス未満の端。端に立って、俺は笑った。笑って、刃を置いた。

 試作一号の蓋は、指の腹に少し重かった。重さは悪い兆候ではない。蓋は守る。守るものは、軽くてはいけない。

「職人さんに、送る?」

「送る前に、テスト」

 樹は胸ポケットのタグを指で叩いた。“こん、こん”。俺も返した。二拍子が、台の上のガラスと工具の影の間を行き来する。

 テストは、夜の海でやることにした。潮風に一定時間晒し、手の汗で連続して触り、温度差で髪の毛一本分の歪みが出ないかを見る。目より先に、耳で聞く。ガラスは、鳴く。

 ***

 その夜の合図通話は、いつもより少し長かった。キス未満の縁を、慎重に歩いた。

『今日の蓋、音が良かった』

「どんな音」

『“座る音”。――金属だと、ちょっと“許してもらう”感じがある。ガラスは“座る”。勝手に座るわけじゃない。座らせるための段取りを、ちゃんと覚えてる』

「覚えるの、得意じゃないけど」

『覚え方、知ってる。喉の紙、折らないで、厚みを増やす。――蓮、海外の話、怖い?』

「うん。怖い」

『怖がってくれて、ありがとう』

「ありがとう?」

『うん。怖がらない、より、怖がっている、のほうが、温度がある。温度のある言葉は、届く。届くと、続けられる』

「続ける前提」

『準備』

「段取り」

『合図』

 二人で、小さく笑う。笑いは三十七度に届かない。届かないのに、温かい。

『時差、九時間。君の朝が、俺の夜。俺の研究は夜。だから、重なる。――君の灯は夜。だから、重なる』

「重なる」

『重なる、って言葉、好き』

「重ならないほうが好きなこともある」

『うん。だけど今は、重なる』

 沈黙。沈黙の底で、彼の呼吸が一回、深くなる。体温が上がる寸前に、彼は自分で温度を下げる。下げる技術を持っている人は、長く続けられる。

『俺、行く前に、Aug.20の意味、もう一回、刻みたい。――祖父の命日。命日って、時間が止まる日、じゃないんだ。動き始めた日でもある。蓮の蓋で、針、動く。動く音、録る。海に重ねる』

「店長の窓にも重ねる」

『うん。――キス未満』

「未満」

『おやすみ』

「おやすみ」

 通話が切れる。胸の中のタグを二度叩く。こん、こん。返事はない。返事は、もう要らなかった。

 ***

 翌日、店長の新しい店の現場に行った。窓の枠が入って、薄い紙で覆われている。紙越しの光は、雪みたいに白い。図面の上で見た十二センチの余白は、現場で見ると、想像より広い。広い窓は、距離を短く見せる。距離が短く見えると、遠距離が遠くない。

「どうだ」

 店長が肩を組むみたいな声で訊いた。

「ここに、俺の灯」

「“君の”。――それでいい」

 店長はいつも、“俺の”の前に“君の”を置いてくれる。置いてから、肩を叩く。二回。こん、こん。

「卒制のタイトル、決めたか」

「まだ」

「決めると、灯の色が決まる。決めないほうがいい場合も、ある。だが、客は、名前を欲しがる」

 名前。タグ。合図。俺は窓の前に立って、五メートルの線を心の中で床に引いた。窓から五メートル。火から五メートル。人から五メートル。信じる距離は、いつだって中間だ。

「店長」

「ん」

「遠距離、やります」

「知ってる」

「なんで」

「顔」

「俺の顔?」

「君の“声の顔”。温度が上がった。――それで十分だ」

 店長の言葉はいつも少ないのに、過不足がない。過不足のない言葉は、直に筋肉に届く。

 工房に戻り、蓋の二号、三号を作った。二号は座りが甘く、三号はわずかに厚すぎた。失敗の角度は最初から想定に入っている。失敗を“予定”として迎え入れると、体内の警報が鳴らない。鳴らないと、呼吸が乱れない。乱れない呼吸は、灯の味方だ。

 夜、樹と浜で合流した。テストだ。風は昨日より強く、塩の粒が頬に当たってはじける。蓋を白い布で包み、砂浜に立てた二本の杭に吊るす。吊るされたガラスは、ほとんど音を立てない。音を立てないものは、耳を研がせる。

「三時間」

「三時間」

 砂の上に並んで座る。通行人はいない。犬の気配はあった。犬は塩の匂いが好きだ。人より正直だ。

「蓮」

「うん」

「遠距離のこと、親に言った?」

「言ってない」

「言わないでいいことも、ある」

「うん」

 俺はポケットから真鍮のタグを取り出し、彼に見せた。内側に縫い付ける前の予備。彼が両手で受け取り、指先で穴を探し当てる。迷わない。

「二拍子。――君の二拍子が、俺の海の三拍子に、重なる」

「重なる」

 小さな沈黙。キス未満の姿勢。砂の上で、言葉の温度が少しずつ上がっていく。三十五度、三十六度、三十六度五分。越えない。越えたくない夜もある。

 三時間が過ぎ、蓋に触れた。濡れていない。砂の湿りの分だけ冷たい。手の温度で曇るかどうかを見た。曇らない。息を吹きかけると、わずかに白い膜が出て、すぐ消える。消える速度を、耳で測る。良い速度だ。

「持っていける」

「持っていこう」

 職人の工房へ向かう坂道は、夜のほうが短い。短い気がするのは、足音のテンポが上がるからだ。テンポが上がるのに、息が乱れない。合図通話の呼吸の練習が、身体に残っている。

 工房は明かりが点いていた。青い扉の隙間から、薄い光が漏れ、金属の小さな音が続く。ノックをすると、すぐに「どうぞ」と声が返った。

「来たか」

 職人は時計の内臓を解体したままの姿で顔を上げ、蓋を見ると、まず耳を蓋に当て、それから光に透かした。光に透かす動作は、樹のそれと似ていた。似ている所作には、距離がない。

「座る音だ」

 職人が言った。俺たちは顔を見合わせて、小さく笑った。言葉が重なる瞬間は、気持ちが重なる瞬間でもある。

「座金を少しだけ手直しする。――君たちの“二拍子”に合わせる」

 作業台に置かれた歯車の影が、わずかに揺れる。揺れは誰の手にも触れられていないのに、揺れている。揺れる影は、灯の存在を教える。

「針、動く?」

「動く。――完全ではない。でも、動く。止まるかもしれない。止まったら、また“巻け”。巻ける限りは、巻け」

「巻きます」

 返事は俺がした。樹が胸ポケットを二度叩いた。こん、こん。職人は微笑んだ。口角ではなく、喉が。

「君たちは、うるさい」

「すみません」

「いい。うるさいものは、止まりにくい」

 職人の冗談はいつも、この世代特有の辛辣さを纏っているのに、最後の句読点は柔らかい。柔らかい句読点は、灯の端みたいだ。

 ***

 店長の新しい窓に、紙が剥がされる日が決まった。卒制の提出日、潮時計の“退院”の日、樹の最終発表の日――カレンダーに立てたピンが、黒い画面で小さく光る。ピンとピンの間に、合図通話の旗が立つ。色の違う旗が、画面の上で、二拍子の波を作っていた。

 俺は工房の線を、もう一度測り直した。三・五は、“いつでも”来られる場所になった。三・二も、時々、来られる。二・八には、まだ用がない。用がない距離は、勇敢さではなく、賢さで守る。火は、距離の物理を裏切らない。

 夜、最後の合図通話のあとに、樹が言った。

『蓮。俺、行く』

「うん」

『試すじゃなく、続ける前提で、準備する』

「準備、足りないくらいが、ちょうどいい」

『ちょうどいい』

「ちょうどいい、の言い方、好き」

『俺も』

 笑い合う声は、相変わらず三十七度に届かない。届かないけれど、温かい。温かさは、距離を縮める。縮めるために、俺たちは言葉を積む。積んだ言葉は、灯になる。灯は、理由になる。理由は、足を前に出す。

 通話を切ったあと、俺はタグを二度叩いた。こん、こん。合図の音は、窓の外の空気に解け、冬の星に散った。星の明滅は、遠距離の二拍子だ。地球の反対側でも、同じ速度で瞬く。クラゲの光は海の底で、人間の灯は窓辺で。どちらも、理由が“あとから来る”。

 炉の寝息を背に、俺は線の前に立った。三・五。呼吸を整え、膝を緩め、喉の紙をゆっくり伸ばす。指先でタグの穴を探し当てる。迷わない。迷わないから、打てる。

 こん、こん。

 合図のあと、俺は一歩だけ、前に出た。三・二。

 熱に近づく理由が、やっと自分のものになった。