海の近くにある大学は、たいてい風がうるさい。
けれどその日は、風の音よりも潮の匂いのほうが強かった。
夏の終わり、蝉が声をすり減らすみたいに鳴いていて、俺は工房の裏手で、磨きかけのガラスの破片を拾っていた。
ガラス工芸科の棟は、港を背にして建っている。窓を開けると、潮風とともに白い粉が舞い込む。炉の熱気と混じって、いつも空気が重たい。
けれど、その日は少し違った。
風がどこか、柔らかかった。
ふと視線を落とすと、足もとで光るものがあった。
銀色の懐中時計。錆びかけているけれど、蓋に「Aug.20」と小さく刻まれていた。
潮をかぶったのか、表面はうっすら曇っていて、それがかえって、どこか懐かしい光り方をしていた。
俺は手に取って、布の端で軽く拭いた。
文字盤の針は止まっている。けれど、壊れた感じではなかった。たぶん、潮が入りこんでいるだけだ。
「……あ、それ」
背後から声がした。
静かで、でもよく通る声。
その声を聞いた瞬間、潮の匂いが少しだけ濃くなった気がした。
振り返ると、白いシャツの青年が立っていた。
陽に透ける布地の向こう、鎖骨のあたりに汗が一筋流れている。
彼の黒髪は風で乱れて、額に少し貼りついていた。
「それ、俺のです。たぶん」
青年は少し息を切らしながら、笑った。
けれどその笑い方が、どこか探るようで――まるで本当に俺の顔を見ているのか、確認しているような目をしていた。
「これ、落としたんですか?」
「はい。たぶん、ポケットの縁が浅かったみたいで」
「……たぶん?」
俺が首を傾げると、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。
笑うと、印象が変わる。
端正というより、どこか人懐っこい。けれど、その奥に薄い影があるような。
「すみません。俺、顔を覚えるのがあんまり得意じゃなくて」
「顔を、覚えるのが?」
「ええ。相貌失認って言うんですけど。目とか鼻とかで人を判別できなくて。声とか、仕草でなんとなく覚える感じです」
そう言って彼は、時計を受け取ると、両手で包み込むように持った。
手の甲が少し日焼けしている。夏の海辺で過ごす人の肌の色。
「俺、海洋生物学科の朝比奈 樹(あさひな・いつき)って言います。あなた、ガラス工房の人ですよね?」
「……え、ああ。はい。水城 蓮(みずき・れん)です」
彼は俺の名前を復唱してから、指先を見た。
その視線に気づいたとき、少し恥ずかしくなった。
俺の手は、火傷の跡が残っている。去年の冬、再加熱炉の前で滑って倒れたときについた跡だ。
誰も責めなかった。けれど俺は、それ以来、炉に近づけなくなった。
ガラスを愛していたはずなのに、炎の赤を見るだけで、息が詰まる。
「……あの、これ、ありがとうございました」
「いえ。ここによく落ちてましたし」
「助かりました。潮に流されてたら、きっともう駄目だった」
そう言って、彼は手の中の時計を見つめた。
その目は、まるで何かを思い出しているようで、遠くを見ているようだった。
「これ、祖父の形見なんです。海の研究をしてた人で」
「そうなんですか」
「ええ。俺が研究を始めるきっかけになった人です」
風が強くなり、樹の髪がさらりと揺れた。
潮の匂いの中に、ほんの少しだけ柑橘系の香りが混じる。
その匂いを覚えておこうと思った。声と一緒に。
「水城さんって、工芸科ですよね? 今度、ガラスの搬入あるでしょう。俺たちの研究棟のほうでも海洋サンプルを運ぶ予定があって」
「……ああ。ありますね。たしか来週」
「もしよかったら、手伝いませんか。こっちも人手が足りなくて。代わりに俺が、搬入手伝いますから」
「え、交換条件みたいな?」
「うん。海と火の交換。どうです?」
冗談みたいに笑った顔が、ふっと潮風ににじんだ。
そのとき思った。
この人、やたらバランスがいい。
遠慮と率直の間を、うまく歩く。
「考えてみます」
「考える前に、週一でって決めちゃいましょうよ。予定、空けときますね」
そう言って、彼は潮時計をポケットにしまった。
去り際、ふと振り向いて、指先で自分の手の甲を二回、軽く叩いた。
「これ、合図にしませんか?」
「合図?」
「“触れてもいい?”の意味。もし俺が、あなたの手を取るときとか、肩を叩くときとか、勝手に触るのは嫌でしょう?」
「……まあ、たしかに」
「だから、この合図があったときだけ触れる。お互いに」
彼の指がもう一度、空気を叩いた。
俺は小さく笑って頷いた。
その仕草が、やけに丁寧で、まるで祈りみたいだった。
「了解です」
「よかった。これで安心して触れられる」
そう言って笑った樹の目尻に、夏の光が反射して、細く白く光った。
たぶんそれが、彼の笑顔の形なんだろう。
その夜、帰宅してからも、手の甲に残る感覚が消えなかった。
二度、軽く叩かれたような気がして、何度もそこを撫でた。
――潮時計の蓋には、「Aug.20」と刻まれていた。
たぶん、誕生日か、何かの記念日だ。
でもそれよりも、俺はあの瞬間に刻まれた“合図”の感触を、いつまでも反芻していた。
火の匂いに慣れきった自分の手が、潮の匂いで少しだけ柔らかくなる。
そんな感覚を、初めて覚えた日だった。
※
翌週の火曜日。
潮風がいつもより塩辛かった。
天気予報では快晴と言っていたが、空の端に薄く雲が残っていて、光がどこかぼんやりしている。
工房前の坂道に、見慣れない人影があった。
白衣姿のまま、自転車を押している。
朝比奈樹だ。どうやら、本当に約束を覚えていたらしい。
「おはようございます、水城さん」
「……ほんとに来たんですね」
「来ますよ。俺、人の顔は覚えられないけど、約束は覚えます」
そう言って笑う彼の目尻に、また細い光が走った。
顔を覚えられないというのに、表情は驚くほど豊かだ。
そのアンバランスさが、妙に印象に残る。
「こっちは、港の突堤のあたりまで運搬です。重いけど、カートごといけます」
「海洋サンプルって、何入ってるんですか」
「今日のは、クラゲです」
「クラゲ?」
思わず聞き返すと、樹は軽く頷いた。
白衣のポケットの中から、小瓶を取り出す。
瓶の中で、透明な生き物がふわりと揺れていた。
光の具合で見えるか見えないかぎりぎりの、儚い存在。
「クラゲって、見た目はやわらかいけど、実は構造が繊細でね。光の屈折とか、水流で動きが全部変わる。俺、これを研究してるんです」
「へぇ……」
「で、水城さんのガラスも、光を閉じ込める仕事でしょ?」
「まあ、そう……ですね」
俺が言葉を濁すと、彼は穏やかに目を細めた。
「似てるんですよ、俺たち。光の扱い方が」
そんなことを真顔で言う人、なかなかいない。
そのまっすぐさに戸惑って、俺はつい顔を背けた。
「……俺、そんな大層なもんじゃないですよ」
「じゃあ、俺が勝手にそう思っときます」
樹は軽く笑って、荷台を押し始めた。
俺も慌てて反対側に回る。
潮風が頬を撫で、錆びたレールが海へ延びている。
波打ち際でクラゲの群れが光を反射して、まるで海そのものが息をしているように見えた。
港の倉庫群を抜ける途中、樹がふと口を開いた。
「水城さん、ガラスって、温度でどう変わるんですか?」
「え?」
「海水温が一度違うと、クラゲの発光周期が変わるんです。それと同じで、ガラスも温度で性質が変わるのかなって」
「……うん。変わりますね。温度が高すぎると脆くなるし、低すぎると流動性が失われる」
「じゃあ、最適な温度を保つのって難しそう」
「そうですね。けど、温度って“信じるしかない”感じなんです。
見えないから、数字と色でしか確かめられない」
「なるほど。目じゃなく、感覚の世界か」
「そう。……俺は、それを一度、見失ったんですけど」
言ったあとで、少し後悔した。
あまり人に話すようなことじゃない。
けれど樹は、俺の表情を見ようとせず、ただ声を聞いていた。
「見失ったって?」
「半年前、再加熱炉の前で事故があって。それ以来、火を見ると身体が動かなくなるんです」
「それは、怖かったですね」
その言い方に、慰めの色がなかった。
ただ、事実を受け止めるように言った。
そのやわらかさが、少しだけ救いになった。
「誰も責めてないけど、俺は自分を責めてるんですよ。
火を怖がるガラス職人なんて、矛盾してるでしょ」
「矛盾、ですか? 俺は、むしろ人間っぽいと思うけどな」
樹は立ち止まり、手の甲を二回、軽く叩いた。
潮風に混じる音。
それが彼の言葉よりも先に、俺の胸に届いた。
「触れてもいい?」
俺はうなずく。
その瞬間、彼の手が俺の手の甲にそっと触れた。
熱くも冷たくもない、ちょうどいい温度。
その一瞬で、火の記憶が少しだけ遠ざかった。
「……俺、こういう合図が好きなんですよ。言葉より嘘がつけないから」
「嘘、ですか」
「ええ。顔も覚えられないし、言葉も間違えるけど、触れることだけは誤魔化せない」
そのとき、海の向こうから汽笛が響いた。
音の波が、潮の香りを震わせていく。
「樹さん、どうして海の研究を?」
「うーん……祖父の影響です。小さいころ、よく港に連れて行ってもらって。
あの人、潮の流れを“時間”って呼んでたんです。
流れが変われば、時間が変わるって」
「潮時計の“Aug.20”って、もしかして」
「祖父の命日です。八月二十日。
だから、止まっててもこの針は俺の中で動いてる」
そう言って彼は、ポケットの中で時計をなでた。
その横顔に、少しだけ哀しさが滲む。
「ねえ、水城さん。俺の代わりに、この時計、磨いてくれませんか」
「え?」
「潮で曇ってるから。あなたなら、きっときれいにできる気がして」
唐突な頼みに、少し戸惑った。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
誰かに“お願い”されるのが、こんなにあたたかいことだとは思わなかった。
「……いいですよ。ただし」
「ただし?」
「磨いたあと、火を怖がらないようになる保証はないです」
「それでいいです。俺も顔を覚えられないままだし、対等ですね」
笑い合った瞬間、風が二人の間を抜けた。
潮の匂いがまた一段濃くなり、空の青が薄く滲んでいく。
――きっと、誰かを信じるって、こういうことなんだろう。
目で確かめる前に、手の温度で感じる。
その日、初めて火のない光を見た気がした。
◆
その夜。
工房の窓を開けると、潮風が入ってきた。
机の上には、樹から預かった潮時計。
濡れた布で丁寧に拭くと、曇りが少しずつ取れて、銀色の地肌が顔を出した。
針は相変わらず止まったまま。
でも、蓋の内側に映る俺の顔が、少し柔らかく見えた。
ふと、指の甲を二回叩いた。
自分でやってみると、思いのほか小さな音だ。
けれど、あの港の風景がすぐに蘇った。
「……合図、ね」
呟いて、もう一度叩く。
二拍の間に、潮の匂いが満ちていく。
携帯の画面が光った。
「データありがとう。明日、クラゲ見せます」
差出人は、朝比奈樹。
短いメッセージなのに、潮の音が聞こえる気がした。
“また明日”――その一言が、こんなにまぶしいなんて。
机の上の潮時計を見つめながら、俺は思った。
時間は止まっているのに、確かに前に進んでいる。
針の代わりに、俺の胸の奥で音がしている。
潮が、満ちている音。
その夜、火の夢は見なかった。
翌朝、早く目が覚めた。
空気が澄んでいて、蝉の声が昨日より遠くに聞こえる。
登校途中、港の坂を下ると、樹がすでに待っていた。
白衣の裾が風で揺れている。
「おはようございます、水城さん。昨日のクラゲ、見ます?」
「はい」
小瓶の中で、光が揺れていた。
それはたしかに、火に似ていた。けれど、まったく違う温度だった。
燃えるんじゃなく、ただ光っていた。
「すごい……」
「ね。生き物なのに、こんなに静かに光るんです。
俺、これ見るたびに、人間もこうなれたらいいのになって思う。
誰かを照らすために、焦がれなくてもいいっていうか」
「焦がれなくても、光れる……か」
その言葉が、胸に落ちた。
焦がれてばかりの自分を、少しだけ許せる気がした。
「水城さん、来週も来ます?」
「……来ると思います」
「思います、じゃなくて」
「来ます。ちゃんと」
樹は微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりも近く感じた。
俺は心の中で、潮時計の針がひとつ動く音を聞いた。
潮の匂いが、少しだけ甘かった。
けれどその日は、風の音よりも潮の匂いのほうが強かった。
夏の終わり、蝉が声をすり減らすみたいに鳴いていて、俺は工房の裏手で、磨きかけのガラスの破片を拾っていた。
ガラス工芸科の棟は、港を背にして建っている。窓を開けると、潮風とともに白い粉が舞い込む。炉の熱気と混じって、いつも空気が重たい。
けれど、その日は少し違った。
風がどこか、柔らかかった。
ふと視線を落とすと、足もとで光るものがあった。
銀色の懐中時計。錆びかけているけれど、蓋に「Aug.20」と小さく刻まれていた。
潮をかぶったのか、表面はうっすら曇っていて、それがかえって、どこか懐かしい光り方をしていた。
俺は手に取って、布の端で軽く拭いた。
文字盤の針は止まっている。けれど、壊れた感じではなかった。たぶん、潮が入りこんでいるだけだ。
「……あ、それ」
背後から声がした。
静かで、でもよく通る声。
その声を聞いた瞬間、潮の匂いが少しだけ濃くなった気がした。
振り返ると、白いシャツの青年が立っていた。
陽に透ける布地の向こう、鎖骨のあたりに汗が一筋流れている。
彼の黒髪は風で乱れて、額に少し貼りついていた。
「それ、俺のです。たぶん」
青年は少し息を切らしながら、笑った。
けれどその笑い方が、どこか探るようで――まるで本当に俺の顔を見ているのか、確認しているような目をしていた。
「これ、落としたんですか?」
「はい。たぶん、ポケットの縁が浅かったみたいで」
「……たぶん?」
俺が首を傾げると、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。
笑うと、印象が変わる。
端正というより、どこか人懐っこい。けれど、その奥に薄い影があるような。
「すみません。俺、顔を覚えるのがあんまり得意じゃなくて」
「顔を、覚えるのが?」
「ええ。相貌失認って言うんですけど。目とか鼻とかで人を判別できなくて。声とか、仕草でなんとなく覚える感じです」
そう言って彼は、時計を受け取ると、両手で包み込むように持った。
手の甲が少し日焼けしている。夏の海辺で過ごす人の肌の色。
「俺、海洋生物学科の朝比奈 樹(あさひな・いつき)って言います。あなた、ガラス工房の人ですよね?」
「……え、ああ。はい。水城 蓮(みずき・れん)です」
彼は俺の名前を復唱してから、指先を見た。
その視線に気づいたとき、少し恥ずかしくなった。
俺の手は、火傷の跡が残っている。去年の冬、再加熱炉の前で滑って倒れたときについた跡だ。
誰も責めなかった。けれど俺は、それ以来、炉に近づけなくなった。
ガラスを愛していたはずなのに、炎の赤を見るだけで、息が詰まる。
「……あの、これ、ありがとうございました」
「いえ。ここによく落ちてましたし」
「助かりました。潮に流されてたら、きっともう駄目だった」
そう言って、彼は手の中の時計を見つめた。
その目は、まるで何かを思い出しているようで、遠くを見ているようだった。
「これ、祖父の形見なんです。海の研究をしてた人で」
「そうなんですか」
「ええ。俺が研究を始めるきっかけになった人です」
風が強くなり、樹の髪がさらりと揺れた。
潮の匂いの中に、ほんの少しだけ柑橘系の香りが混じる。
その匂いを覚えておこうと思った。声と一緒に。
「水城さんって、工芸科ですよね? 今度、ガラスの搬入あるでしょう。俺たちの研究棟のほうでも海洋サンプルを運ぶ予定があって」
「……ああ。ありますね。たしか来週」
「もしよかったら、手伝いませんか。こっちも人手が足りなくて。代わりに俺が、搬入手伝いますから」
「え、交換条件みたいな?」
「うん。海と火の交換。どうです?」
冗談みたいに笑った顔が、ふっと潮風ににじんだ。
そのとき思った。
この人、やたらバランスがいい。
遠慮と率直の間を、うまく歩く。
「考えてみます」
「考える前に、週一でって決めちゃいましょうよ。予定、空けときますね」
そう言って、彼は潮時計をポケットにしまった。
去り際、ふと振り向いて、指先で自分の手の甲を二回、軽く叩いた。
「これ、合図にしませんか?」
「合図?」
「“触れてもいい?”の意味。もし俺が、あなたの手を取るときとか、肩を叩くときとか、勝手に触るのは嫌でしょう?」
「……まあ、たしかに」
「だから、この合図があったときだけ触れる。お互いに」
彼の指がもう一度、空気を叩いた。
俺は小さく笑って頷いた。
その仕草が、やけに丁寧で、まるで祈りみたいだった。
「了解です」
「よかった。これで安心して触れられる」
そう言って笑った樹の目尻に、夏の光が反射して、細く白く光った。
たぶんそれが、彼の笑顔の形なんだろう。
その夜、帰宅してからも、手の甲に残る感覚が消えなかった。
二度、軽く叩かれたような気がして、何度もそこを撫でた。
――潮時計の蓋には、「Aug.20」と刻まれていた。
たぶん、誕生日か、何かの記念日だ。
でもそれよりも、俺はあの瞬間に刻まれた“合図”の感触を、いつまでも反芻していた。
火の匂いに慣れきった自分の手が、潮の匂いで少しだけ柔らかくなる。
そんな感覚を、初めて覚えた日だった。
※
翌週の火曜日。
潮風がいつもより塩辛かった。
天気予報では快晴と言っていたが、空の端に薄く雲が残っていて、光がどこかぼんやりしている。
工房前の坂道に、見慣れない人影があった。
白衣姿のまま、自転車を押している。
朝比奈樹だ。どうやら、本当に約束を覚えていたらしい。
「おはようございます、水城さん」
「……ほんとに来たんですね」
「来ますよ。俺、人の顔は覚えられないけど、約束は覚えます」
そう言って笑う彼の目尻に、また細い光が走った。
顔を覚えられないというのに、表情は驚くほど豊かだ。
そのアンバランスさが、妙に印象に残る。
「こっちは、港の突堤のあたりまで運搬です。重いけど、カートごといけます」
「海洋サンプルって、何入ってるんですか」
「今日のは、クラゲです」
「クラゲ?」
思わず聞き返すと、樹は軽く頷いた。
白衣のポケットの中から、小瓶を取り出す。
瓶の中で、透明な生き物がふわりと揺れていた。
光の具合で見えるか見えないかぎりぎりの、儚い存在。
「クラゲって、見た目はやわらかいけど、実は構造が繊細でね。光の屈折とか、水流で動きが全部変わる。俺、これを研究してるんです」
「へぇ……」
「で、水城さんのガラスも、光を閉じ込める仕事でしょ?」
「まあ、そう……ですね」
俺が言葉を濁すと、彼は穏やかに目を細めた。
「似てるんですよ、俺たち。光の扱い方が」
そんなことを真顔で言う人、なかなかいない。
そのまっすぐさに戸惑って、俺はつい顔を背けた。
「……俺、そんな大層なもんじゃないですよ」
「じゃあ、俺が勝手にそう思っときます」
樹は軽く笑って、荷台を押し始めた。
俺も慌てて反対側に回る。
潮風が頬を撫で、錆びたレールが海へ延びている。
波打ち際でクラゲの群れが光を反射して、まるで海そのものが息をしているように見えた。
港の倉庫群を抜ける途中、樹がふと口を開いた。
「水城さん、ガラスって、温度でどう変わるんですか?」
「え?」
「海水温が一度違うと、クラゲの発光周期が変わるんです。それと同じで、ガラスも温度で性質が変わるのかなって」
「……うん。変わりますね。温度が高すぎると脆くなるし、低すぎると流動性が失われる」
「じゃあ、最適な温度を保つのって難しそう」
「そうですね。けど、温度って“信じるしかない”感じなんです。
見えないから、数字と色でしか確かめられない」
「なるほど。目じゃなく、感覚の世界か」
「そう。……俺は、それを一度、見失ったんですけど」
言ったあとで、少し後悔した。
あまり人に話すようなことじゃない。
けれど樹は、俺の表情を見ようとせず、ただ声を聞いていた。
「見失ったって?」
「半年前、再加熱炉の前で事故があって。それ以来、火を見ると身体が動かなくなるんです」
「それは、怖かったですね」
その言い方に、慰めの色がなかった。
ただ、事実を受け止めるように言った。
そのやわらかさが、少しだけ救いになった。
「誰も責めてないけど、俺は自分を責めてるんですよ。
火を怖がるガラス職人なんて、矛盾してるでしょ」
「矛盾、ですか? 俺は、むしろ人間っぽいと思うけどな」
樹は立ち止まり、手の甲を二回、軽く叩いた。
潮風に混じる音。
それが彼の言葉よりも先に、俺の胸に届いた。
「触れてもいい?」
俺はうなずく。
その瞬間、彼の手が俺の手の甲にそっと触れた。
熱くも冷たくもない、ちょうどいい温度。
その一瞬で、火の記憶が少しだけ遠ざかった。
「……俺、こういう合図が好きなんですよ。言葉より嘘がつけないから」
「嘘、ですか」
「ええ。顔も覚えられないし、言葉も間違えるけど、触れることだけは誤魔化せない」
そのとき、海の向こうから汽笛が響いた。
音の波が、潮の香りを震わせていく。
「樹さん、どうして海の研究を?」
「うーん……祖父の影響です。小さいころ、よく港に連れて行ってもらって。
あの人、潮の流れを“時間”って呼んでたんです。
流れが変われば、時間が変わるって」
「潮時計の“Aug.20”って、もしかして」
「祖父の命日です。八月二十日。
だから、止まっててもこの針は俺の中で動いてる」
そう言って彼は、ポケットの中で時計をなでた。
その横顔に、少しだけ哀しさが滲む。
「ねえ、水城さん。俺の代わりに、この時計、磨いてくれませんか」
「え?」
「潮で曇ってるから。あなたなら、きっときれいにできる気がして」
唐突な頼みに、少し戸惑った。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
誰かに“お願い”されるのが、こんなにあたたかいことだとは思わなかった。
「……いいですよ。ただし」
「ただし?」
「磨いたあと、火を怖がらないようになる保証はないです」
「それでいいです。俺も顔を覚えられないままだし、対等ですね」
笑い合った瞬間、風が二人の間を抜けた。
潮の匂いがまた一段濃くなり、空の青が薄く滲んでいく。
――きっと、誰かを信じるって、こういうことなんだろう。
目で確かめる前に、手の温度で感じる。
その日、初めて火のない光を見た気がした。
◆
その夜。
工房の窓を開けると、潮風が入ってきた。
机の上には、樹から預かった潮時計。
濡れた布で丁寧に拭くと、曇りが少しずつ取れて、銀色の地肌が顔を出した。
針は相変わらず止まったまま。
でも、蓋の内側に映る俺の顔が、少し柔らかく見えた。
ふと、指の甲を二回叩いた。
自分でやってみると、思いのほか小さな音だ。
けれど、あの港の風景がすぐに蘇った。
「……合図、ね」
呟いて、もう一度叩く。
二拍の間に、潮の匂いが満ちていく。
携帯の画面が光った。
「データありがとう。明日、クラゲ見せます」
差出人は、朝比奈樹。
短いメッセージなのに、潮の音が聞こえる気がした。
“また明日”――その一言が、こんなにまぶしいなんて。
机の上の潮時計を見つめながら、俺は思った。
時間は止まっているのに、確かに前に進んでいる。
針の代わりに、俺の胸の奥で音がしている。
潮が、満ちている音。
その夜、火の夢は見なかった。
翌朝、早く目が覚めた。
空気が澄んでいて、蝉の声が昨日より遠くに聞こえる。
登校途中、港の坂を下ると、樹がすでに待っていた。
白衣の裾が風で揺れている。
「おはようございます、水城さん。昨日のクラゲ、見ます?」
「はい」
小瓶の中で、光が揺れていた。
それはたしかに、火に似ていた。けれど、まったく違う温度だった。
燃えるんじゃなく、ただ光っていた。
「すごい……」
「ね。生き物なのに、こんなに静かに光るんです。
俺、これ見るたびに、人間もこうなれたらいいのになって思う。
誰かを照らすために、焦がれなくてもいいっていうか」
「焦がれなくても、光れる……か」
その言葉が、胸に落ちた。
焦がれてばかりの自分を、少しだけ許せる気がした。
「水城さん、来週も来ます?」
「……来ると思います」
「思います、じゃなくて」
「来ます。ちゃんと」
樹は微笑んだ。
その笑顔は、昨日よりも近く感じた。
俺は心の中で、潮時計の針がひとつ動く音を聞いた。
潮の匂いが、少しだけ甘かった。



