その短歌を佐波に渡したのは、昼休みの生徒会室だった。おれが生徒会室にひとりでいると、佐波が顔を見せたから、ちょうどよかったのだ。
 おれから短歌の紙片を受け取った佐波がおれのつくった短歌を小さく読み上げた。

『映り込む階段の白 夜だから浮かび上がる色のさやけさ……』

 その時も廊下には生徒たちの喧騒があったが、佐波の沈黙がひたひたと海のように生徒会室を満たしていた。
 その日の佐波は、あまりにも静かすぎた。いつもはよくたわいもないおしゃべりをしてくるというのに。
 やがて佐波が紙片から顔を上げた。そこにあった佐波の微笑みにきゅっと胸を締め付けられる。まるで、もう手に入らないと諦めているかのような……。
 佐波が言った。

『きれいな「白」になりましたね。先輩らしいです。浄化されそうです、俺が』
『なんだよ、それ』

 気づけばおれは佐波に笑いかけていた。佐波に元気を出してほしかったからだった。

『すごいなぁ。こういうのさらって詠めちゃうんですから』

 佐波は紙片の表面を人差し指で撫ぜた。そのまま、また黙り込む。

『佐波、どうした?』
『いえ、なんでもないです。……また、つづきの短歌をつくってきます』

 佐波が頭を下げて出ていった。
 そんなことがあってから一週間経った。いまだに佐波から「いちごつみ」の話が出てこない。短歌も見せてこない。
 さすがにおれも気になってきた。
 もちろんおれと佐波はあれから生徒会活動で何度も顔を合わせているが……。

――なんだか、あの反応が気になるんだよなぁ。

 『浄化されそうです、俺が』。さみしそうな佐波の顔だ。
 あれから佐波も少しおれと距離を取っている気がする。そう、いつもより拳ひとつ分――隣の席が遠い。
 おれは生徒会関係の書類を整えながらためいきをつくようになっていた。
 おれという人間がほんとうにどうしようもない。

――最近は佐波のことばかり考えてる。……もう、断り切れる気がしない。

 もし、次に佐波から迫られたらきっと流されてしまう。佐波に避けられていると思うだけで、精神的に参っていた。
 これまでの佐波なら次の「いちごつみ」の短歌をすぐに持ってこようとしただろう。佐波はおれとの短歌のやりとりを楽しんでいたのだから。
 思考の堂々巡りをしていたら、昼休みの生徒会室の扉を開ける者がいる。
 佐波だった。入ってくると、おれ以外の人影がないことを視線で確認し、後ろ手に扉を閉める。

「先輩、おひとりですか?」
「あぁ、昼休みにくるのはおまえぐらいだ」
「少しお話をしても?」

 喉が急速に渇いていくのを感じた。佐波は、大事な話を切り出そうとしている。

「……いいぞ」

 頷けば、佐波はすぐに本題に入った。

「俺、あらためて考えてみたんです。先輩のことも生徒会のことも」
「そうか」

 やはり、と心の中で呟く。佐波は先日の出来事以来、自分の中で感情の整理をつけようとしていたのだ。
 それはおれにとって良いことなのか……違うのか。ここまで聞いただけでは判断はつかない。

「先輩は昔のことを繰り返したくないんですよね。人間関係で生徒会がばらばらになってしまうことが」
「あぁ、そうだな」
「俺もいまの生徒会の仕事は気に入っているんです。俺自身は先輩が困ることはしたくないですし、先輩の中学時代の二の舞になることはないと言っても……実際やってみないことにはわからないと思うんです。できれば、俺は一歩だけでも踏み出したい。先輩と付き合いたいです、それでも」
「佐波……それは」

 おれは何かを言おうとした。だが、うまく喉に言葉がつっかえて、出てこない。そもそも言いたいことが、わからない。
 とつとつと語る佐波はおれの様子に気づかない。

「ただ、そこには先輩の気持ちがないとだめなので。だから……一度自分の気持ちにけじめをつけようと思って、ここにきました」

 佐波は手の中で握っていた拳を、開く。
 少しくしゃくしゃだが小さく折り畳まれた紙。
 佐波からのいちごつみ短歌だ。
 おれの目が吸い寄せられる間に、佐波の声が静かに降りてくる。

「もう先輩を困らせたりしません。いちごつみはここまでにしましょう。……失礼します」

 佐波はおれの手を持ち上げて、紙を無理に握らせた。

「おい、佐波」

 おれの抗議は、するりと離された手ですり抜けた。

「すみません」

 佐波は生徒会室から出ていく。ガタン、と扉が閉じ、おれはひとりきりとなった。
 おれは佐波から託された紙片を開く。

あの【夜】を忘れな草にして川に流す ほとりのいちごながめて

――「あの夜」って、この間の……。

 夜の踊り場がフラッシュバックする。だれにも言えない、ふたりだけが知る「キス未遂」。
 時間が経つにつれ、「あの夜」は熟されて、糖度を増しているのに。
 佐波はそれを知らない。どうしたらいいのかわからないで、立ち尽くしている。
 そうか、とひとり呟く。紙をきれいに開ききり、机に置く。椅子に深く座り、目を閉じた。深呼吸して落ち着こうとするが。

――だめだ、できない。

 佐波のことを考えるほど、胸がぐっと詰まっていく。それでも心臓の鼓動は重厚な響きでおれの心中を訴えていた。
 過去の生徒会。いまだに悔やんでいるものはある。あの時、もっとちゃんと動けたのではないか、と。
 だがそれはあくまで過去なのであり、今、おれの目の前にいる「書記」は――佐波月哉、ただひとり。
 おれにまっすぐ好意を伝えようと必死になっている、特別な後輩。

――おれもいい加減、自分の心に素直になろう。

 おれ自身がそうしたいと思うようになっていた。