秋が深まっていた。生徒総会が近いため、生徒会は少し忙しくなりつつある。
 その日の活動後も生徒会室が散らかっていたため、おれは片付けのために居残った。ほかの役員たちも手伝ってくれたが、ひとりふたりと帰っていき、佐波だけが残っていた。
 生徒の下校時刻は過ぎつつある。生徒たちの話し声も聞こえない。変に静まり返っていた。
 ひととおり片付けが終わったところで、佐波がとうとう口火を切った。

「先輩、ふたりきりになれたのでいいますが、例のお返事、いつもらえますか」

 実は、佐波からの物言いたげな視線をずっと感じていたのだ。言いたいことは察していた。いちごつみの短歌のことだろう。

「焦るなよ。まだもらってから一週間も経ってない。ちゃんと考えてる。ちょっとまだうまくまとまらなくてなぁ」

 佐波に言ったのは嘘ではない。前回もらった佐波の短歌がある意味大胆すぎて、返し方に迷いがあるのだ。
 ふつうの「いちごつみ」と違い、佐波が短歌に込めているのは、恋心だ。それを無視してまったく関係ない短歌をつくるのは、誠実ではないだろう。
 佐波は、なおも不安そうに「……そうですか」と呟く。
 おれの一挙手一投足に佐波が振り回される必要はないのだが。おれは尋ねていた。

「そういえば聞いていなかったが。おれのどこがよかったんだ? 姉からは真面目しかとりえがないと散々言われてきたからな、よくわからないんだが」

 話を変えれば、佐波はぱっと顔をあげた後、初々しく目を伏せた。

「一番当てはまるのは、ひとめぼれ、ですよ。入学式で挨拶をしている先輩が眩しくて。側でみてみたくなって……」

 恥ずかしそうにする佐波。初対面の時を思い出した。
 入学初日の放課後で、おれのいる生徒会室にやってきた彼はまくしたてたのだ。

『生徒会に入りたいです。書記の席なら空いていると先生から聞いてきました!』

 本当に、勢いだけで突撃してきた、佐波と名乗る後輩。おれにとっての佐波との出会いだ。
 だが、そこから佐波が片思いをしていたのなら。

「……最初から行動力えぐすぎるだろ」
「若気の至りで恐縮です……あの時は夢中で」

 頬をじわりと染めた佐波がもごもごと言い訳をした。

――「眩しい」というなら、それはおまえのほうだよ。

 自分では気づかないのだから始末が悪い。

「そうか。もうあの時からというと……おい、おれと関わってからずっとおまえはそんなふうにおれを見ていたということか」

 佐波は背筋を伸ばした。

「おっしゃるとおりです。俺は逃げも隠れもしません、最初から邪な気持ちを抱きつつも、しっかり良い後輩でいようと努力し、機を見計らっていました。もちろん、生徒会の仕事も真剣にやっていました」
「それは見ていたからわかってる……ちゃんと信頼してるよ」

 はじめからずっとまじめで本気だった後輩に、おれも言葉を尽くさなければならない。そう思うと、自然と口を開いていた。

「おれはな、一度生徒会で失敗している人間なんだよ」
「え?」

 きょとんとする佐波に自嘲の笑みを向ける。そう、これはおれの情けない話なのだ。こんな時でもなければ、佐波相手でも話そうとは思わなかっただろう。

「おれは中学時代も生徒会長をしていたんだが、人間関係のトラブルがあってな……」

 当時の構成メンバーは会長、副会長、書記、会計の四人。副会長はおれの同級生で友人、書記と会計は後輩だった。
 書記は、おとなしい感じの女子だった。

「副会長はな、ひょうきんな感じのやつだったんだが……当時の書記にちょっかいをかけたんだよ、恋愛的に。本人が困惑しているのにも関わらずぐいぐいとな」

 彼女からこっそりと相談を受けた。副会長と近しいおれであれば、仲裁に入れると思ったのだろう。

「本人の意向もあったから、おれからやんわりやめるように副会長に切り出したんだよ。そうしたら、副会長の中で勝手に、おれも彼女のことが好きだと勘違いされてなぁ……。で、壊れた」

 佐波はおれの話に聞き入っている。

「壊れたって……。最後はどうなったんですか?」
「当時の書記は生徒会をやめた。副会長ともほとんど話さなくなった。書記と仲良かった会計も居づらくなって顔をあまり出さなくなった。おれは先生たちの助けを借りつつ実質、ひとりで生徒会を運営をした。……ひどいだろ?」

 佐波は眉根を寄せ、「そんな」とだけ反応した。

「だからさ、おれは生徒会に私的な感情を持ち込まないようにしてる。佐波、ごめんな、気持ちに応えてやれなくて」

 人間関係は、距離感が大事だ。しっかりと線を引く。それもあってか、高校に入った今は、生徒会もその他の学生生活もおおよそ円滑に回っていたのだ。――佐波が、告白してくるまでは。
 おれと佐波はそれぞれ鞄を持ち、生徒会室を出た。職員室へ鍵を返し、玄関へ向かうために階段へさしかかる。
 外はとっくに暗くなっていて、踊り場の照明がおれたちをぼんやりと照らしていた。
 先に踊り場へ下りた佐波がおれを振り返った。その表情で、先ほどしたおれの話に納得いっていないことがうかがえた。おれの足が止まる。

「……先輩のおっしゃりたかったことはわかります」

 佐波はおれを見上げていた。ふと、その顔が歪む。

「でも、生徒会に私的な感情を持ち込まないようにって……それなら俺は生徒会に入った時点で、失恋する運命だったってことじゃないですか。なんで……なんでいまさらそんなことを言うんですか……?」

 おれは、佐波が泣くんじゃないか、と思った。佐波の眼がどうしようもなく揺れている。
 普段はおれよりよほどしっかりしているというのに、どうして恋になると、子どもにかえってしまったようになるのだろう。

「すまないな。こればかりは俺のせいにしてくれ」
「しませんよ、そんなこと。子どもじゃないんですから」

 佐波は唇をかみしめた。生徒会では見ない表情《かお》。そんなふうにさせられるのは、おれだけなのかもしれない。

「生徒会に入らなければ、先輩とはなかなか話せる立場にはなれなかったでしょうし……選択は間違っていなかったと思うようにします」

 佐波は、望んでいた状況にならなくとも前向きだった。
 おれは、そんな佐波に優しくしてやりたいと思った。

「そう思ってくれると助かるよ。じゃあ、帰ろうか……うわっ」

 その瞬間は何の前触れもなかった。何の気なしに前に踏み出した足が、空気を踏んだ。体が前のめりになる。

――落ちる!

 おれは衝撃に備えたが、階段で顔から踊り場に激突することはなかった。
 体は、力強く正面から抱き留められた。
 佐波だ。すでに踊り場に降りていた佐波が一瞬の判断で鞄を放り出し、おれの体を捕まえたのだ。

「先輩、大丈夫ですか」
「おう……すまないな」

 抱きしめられるような形で、礼をいう。
 心臓が、痛かった。

「気をつけてくださいよ。夜ですし」
「わ、わかったよ」

 体勢を整えたおれは佐波から体を離そうとしたが、佐波と至近距離で目が合った。おれの両腕に触れている手に、力が入るのがわかった。
 実のところ、佐波は顔立ちが整っている。鼻筋は通り、目元は凛々しい。それでいて、体つきはおれなんかよりたくましい。
 そんな男の手つきが、離れたくないと訴えかけてくる。触れられた場所から伝わってくる。

――あ、これはだめだ。

 佐波の恋が、本気なのだとどうしようもなく自覚させられる。
 以前、佐波が言ったことを思い出す――『たぶん俺のことがそれなりに好きだと思いますよ』。
 今、佐波の眼に吸い込まれそうになっている。

「先輩……いいですか?」

――いい? いいってなにを?

 頭がかすみがかってうまく動いてくれない。佐波の顔が近づいてくる。佐波の息が口元にかかり、熱が近づいてきた。
 決定的なことをされるのではないか――。たとえば、そう、キス、みたいな……。
 そう思ったところで、佐波がいきおいよく顔を逸らした。体が離される。

「……すみません、我を忘れそうになりました」
「……は?」

 反応した途端、おれは我に返った。
 遅れて、状況を把握する。
 佐波は謝り続けていた。

「先輩と付き合っているわけでもないのに、軽率な行動でした。申し訳ありません」
「軽率な行動って」
「……キスしようと」

 おれはとっさに口元を押さえていた。人生でこれほどうろたえたことはなかったかもしれない。

「……い、いい! みなまで言うな。帰ろう」

 おれは頭を振りながら佐波の脇を通り過ぎ、ばたばたと階段を下りる。
 幸いにも、階段を通りかかった人はいないようだ。見られたとしたら恥ずかしすぎて、生徒会長をやめたくなる。

――くそ。これは顔が赤くなっているな……。

 後ろから佐波がついてくる気配がする。
 追いつかれて、回り込まれるわけにはいかなかった。この顔を見られるわけにはいかない。まだ夜だからごまかしが利くと思いたい。

――おれは、佐波のすることを受け入れようとしていた……!

 その事実が、どうしようもなくおれを焦らせる。

――気づきたくなかった。ぜんぶ、おれの体が気持ちを物語ってる……!

 佐波に抱きしめられた感触が腕や背中にいまも生々しく残っていた。

――おれにとって佐波は間違いなく、特別な存在だ。

 ただの後輩で、同じ生徒会メンバーだけでは、もう括れない。知人でも、友人でもない。もっとそれ以上に深い――。

映り込む階段の白 夜だから浮かび上がる【色】のさやけさ

 その夜、おれは短歌を一首つくった。