翌日の朝。校門前の一本道に差し掛かったところで佐波が佇んでいた。スマホに集中していた横顔がおれの気配に気づく。ぱっとこちらを見た。

「先輩、おはようございます」
「おはよう。今日は誰かと待ち合わせか?」
「いえ。ここで待っていたら先輩に会えるかなと思って、待っていました」

 佐波はにこにこしながらおれの隣までやってきた。
 まだ朝礼まで時間があるが、ぽつぽつと生徒が通りかかっている。生徒会のおれたちは目立つほうだと思うが、佐波にその自覚はなさそうだ。
 おれの横でさっそくとばかりに自分のポケットに手を突っ込んだ佐波。……まさか。
 案の定、道のど真ん中で、佐波は小さな紙片をおれに渡そうとしてくる。

「また書いてきました。どうぞ」
「なんだ、もう持ってきたのか」
「はい。気合を入れました。先輩が読んでくれると思ったらうれしくて」

 おれが渡してから一日も経っていないのに、佐波はもうおれに返す短歌をつくってきたらしい。
 「好きなひと」のためだと考えたらとても一途で微笑ましい。その「好きなひと」がおれでなかったらよかったのに。

「……そうか。あとで読んでおくよ」

 差し出された紙片を慎重に受け取る。今回は佐波の手に触れないようにした。
 おれは校門に向かって歩きだそうとしていたが、佐波が呼び止めるように声を上げた。

「あの、先輩。ここで読んでもらってもいいですか」
「え? ああ、いいが、どうした?」
「先輩がどんなリアクションするのか、見たいんです」
「……わかったよ」

 おれはあまり深く考えずに請け負ったが、佐波の視線がおれの手元や顔に集中しているのを感じると、動きが鈍る。
 たかだか短歌ひとつ読むだけなのに。紙片におれの手から滲む汗が染み込んでいくような気がした。
 かさりと折り畳まれた紙を開きかけたところで、ふと気になることを尋ねた。

「そういえば、どうして前回も今回も紙なんだ? スマホではだめなのか。そのほうが手軽だろ」

 生徒会役員は互いの連絡先を交換している。もちろん、佐波とおれも普段の業務連絡はスマホでやっている。
 あー、と佐波は少しのためらいを見せたあと、もそもそと告げる。

「そっちのほうが簡単ですけど。……それだと、渡す口実で先輩とお話しできないでしょ」
「生徒会で話すだろ」
「仕事の話とはちがいますよ。俺は先輩とどうでもいい話もできるようになりたいですよ」
「おれはもうそのつもりだがな」
「それはうれしいですけど。うーん、なんていうんだろ、もう一歩だけ先輩の内側に踏み込みたいんです」

 おれの内側。それが、恋人、ということなのだろう。

「……そういうものかな」
「先輩は、恋をしたことありますか」
「……ストレートだな」
「どうなんです?」

 佐波はなおも追及してくる。返し方に迷う。

「ちなみに、ある、と言ったら?」
「嫉妬でおかしくなります」

 佐波の断言におれは思わず笑ってしまう。

――そうか、おまえは過去の恋愛に対しても嫉妬するのか。

 それだけ相手をひとりじめしたいということだ。眩しいぐらいの独占欲。それほどの思いを抱ける佐波という人間が少し羨ましくなる。

「いちいち嫉妬してたら大変だろ。わかった、俺はイエスもノーも答えないことにするよ」
「先輩、ノーは言ってもいいです」
「それだとおまえ、調子に乗るだろ。自分が先輩の初恋になります、って」

 おれが思いつきで言えば、佐波もそこまで考えていなかったようで、はしゃぐ子犬のように食いついた。

「……ありですね!」
「俺が困るんだよ。はい、この話は終わりな」

 しっかり釘をさしてから、おれは一呼吸入れ、今度こそ佐波からの短歌に目を通す。
 
 【噛んで】知る首筋の汗 ドラキュラは我を忘れて色を貪る

 ……おれの脳内で、ドラキュラになった佐波がおれの首筋に噛みつこうとする光景が浮かんでいた。
 かわいい後輩が、「男」の目をして、この首筋を……。
 うなじのあたりがちりちりと疼く。
 血ではなく、色香に惑わされるドラキュラ。
 あまりにも官能的ではないか。

「……先輩、どうですか」

 我に返れば、佐波の視線がおれに注がれていることを思い出す。

――変に反応するなよ、おれ。

 おれは妄想の光景を振り払う。だが、佐波とは目を合わせられる気がしなかった。

「なぁ、佐波。おまえさぁ……」
「はい」
「やたらいかがわしい短歌にするのはやめろ。セクハラか」
「先輩、これも文学です」

 驚くことに、佐波は大真面目に言っていた。

「おれに読ませる前提でつくって見せているんだよな? あーあ、もう……おれの反応を見たがるわけだな、わかったよ!」

 おれのリアクションを見たいと言った佐波の目論見がようやく理解できた。以前からもそうだったが、本当にイイ性格をしている。

「先輩は潔癖すぎるとおもいます……これぐらい日頃俺が先輩へ思っていることからしたらぜんぜん大したことないのに」
「おれはおまえがこわいよ」

 それは腹の底から出た本音だった。生徒会でおれの隣が定位置になっている男が普段なにを想像しているのか、知りたくない。
 いじわるな後輩は余裕ある顔で返してくる。

「大丈夫です。先輩がこわがることはしません。ちゃんと許可がでてからやります」
「おれは不許可だ。以上!」

 ぴしゃりと言って校門に向かって大股で歩き出す。佐波が早足になりながらおれの顔をのぞきこんでくる。佐波の顔は焦っていた。

「そんな、先輩…! もう、いちごつみやめた、とか言わないですよね?」
「どうかな」
「それは嫌です。最近は先輩からの短歌を楽しみにしてるからこそ、失恋の傷もどうにかなっているのに……!」

 佐波はわかりやすく駄々を捏ねてきた。

――こいつ、おれの弱いところをついてきて……!

 自分の短歌を楽しみだと言ってくれることも、佐波の「失恋」のことも。おれがうれしく思っていることや、罪悪感をくすぐるのがうまい。
 佐波はこれまでおれと過ごしてきた中で、どうすればおれに響くか学習しているのだ。そんなふうに育てたのはおれとも言えるかもしれないが。
 おれは心の中で振り上げた拳を下ろして観念した。

「わかったよ。またいちごつみの続きをやるから。みえすいた感じはやめろ」

 案の定、佐波はけろっとした顔で一礼した。

「先輩、ありがとうございます!」

――あーあ。うまく佐波に操縦されているなぁ。

 だが不思議と嫌な気持ちにはなっていない。
 佐波への好感はあるのだ。間違いなく。佐波の横顔を盗み見る。

――かわいい「後輩」、なんだよ。おまえは。

 短歌の紙片を仕舞い込み、校門を一緒にくぐりながら独白する。
 頭をよぎるのは、中学時代の出来事。
 今とはちがう、生徒会メンバー。

『小竹会長……すみません、もう、無理なんです……』

 後輩の女子の泣き顔が今もおれを苛んでいる。
 おれが犯してしまった「失敗」。もう二度とあんな思いをするのはごめんだ。

――おれはさ、いい「先輩」でいたいんだ。最後まで。

 それがおれの混じり気のない本音だった。