【いちごつみ】
一語摘み。短歌において一首の中の一語を使って次の一首を詠んでいく遊び。先攻・後攻の二人で行うことが多い。
――まさか【いちごつみ】で恋に落ちるとは思うまい。
いつも通りの定例会議の後だった。
出席者の委員長が出ていき、他の役員もみんな用事があると帰っていた。
放課後の生徒会室に残っているのは、生徒会長であるおれと、書記の佐波《さわ》だけだった。
佐波はパソコンで議事録をまとめていた。これは毎回の習慣でおれはその後ろでいつもホワイトボードに書いた文字を消している。
佐波月哉《さわつきや》。春に入ってきたばかりの一年生だが、今やすっかり頼れる後輩だ。書き文字の形が整っているのも気に入っている。
――初めて来たときは緊張した様子だったのに、すっかり慣れたなぁ。
あの時の佐波は高身長な体をやや丸め、眉根をぎゅっと寄せていた。
『入学式の壇上で話す小竹先輩がかっこよかったので、一緒に生徒会をやりたいと思ってきました』
こう言ってきたものだから、おれも可愛がらないはずがない。慕ってくれるのがここちよく、うれしかった。
佐波も生徒会では立派な戦力だが、よく嫌がらずにおれとここまで居残りをしてくれているものだと思う。
外はすっかり薄暗くなっていた。ホワイトボードをきれいにした後、おれは佐波のパソコンをのぞきこむ。
「そろそろ帰れそうか?」
すると、佐波は慌てたようにノートパソコンを閉じた。
振り返った佐波は立っているおれを見上げて、瞳を揺らした。
「せ、先輩……」
「おう、どうした?」
最近の佐波は、よく物言いたげな顔をする。ふとした時に目が合うと、そらされることもある。
だが無理して聞きたいわけではないので、佐波が打ち明けてくれるのを待っていた。
「今の、見ましたか……?」
佐波の視線の先を見て、ああ、と声を上げる。
「パソコン画面か? いや、見えてなかったぞ。この眼鏡も度数低めにしてあるしな」
「そうですか……」
佐波は静かに何かを考えていた。視線を上げると、窓ガラスに反射したおれたちの姿が浮かんでいる。
おれが「帰るか」と呟くのと、佐波が小声で「見られてなくてももう同じか」と言うのが同時だった。
次の瞬間、おれの目に飛び込んできたのは、佐波の混じり気のない本気の顔だ。濃茶の瞳に強い意思が宿っている。
絡み取られるかのように、動けなくなった。
佐波は勢いよく席を立ち上がった。視線の位置がぐんと伸び上がる。ギッ、とパイプ椅子がけたたましい音を立てた。
まるでそれが合図のようだった。
「先輩、好きです。俺と付き合ってもらえないでしょうか」
言葉が耳から入ってそのまま出て行くような感覚になった。うまく受け取れた気がしない。
「は……? いや、突然すぎて話がついていけないんだが……なんだ、映画に付き合うということか?」
「いえ、恋愛的な意味です」
頼れる後輩は、きびきびと返した。けれど、顔は真っ赤だ。ゆでだこみたいだ。
「俺は、小竹遥《こたけはるか》先輩の恋人になりたいです」
自分の名前を呼ばれると、いよいよ冗談でないことが伝わった。そもそもそういう話を冗談でするやつではなかった。
「今、パソコン画面を見られて焦ったのも、おれが思わず打ってしまったものがあったからで……」
意を決したように後輩はノートパソコンをもう一度開く。
最後まで書き終わっていた議事録。その端に、あった。
『先輩にいつ告白する?』
おれはわずかな間に跳ね上がった鼓動を落ち着けるように一呼吸置いてから、佐波に告げる。
「……付き合うのはむずかしいだろ。おれは佐波のことをそういうふうに見たことがない。悪いな、気持ちに応えられなくて」
見るからに佐波が落胆していくのがわかる。おれの罪悪感が膨らむ。
――おまえを悲しませたいわけではないんだがな……。
「いえ……小竹先輩にはいま恋人がいらっしゃらないかと存じますが」
佐波は肩を落としながら言う。
「まあ、そうだな……」
佐波に同調したおれだが、次の佐波の発言に耳を疑った。
「では、俺といちごつみをしましょう」
「……は? 今なんていった? 苺つみ体験にいきたいのか? 今秋だぞ?」
佐波は「短歌のほうです」と続けた。
「……あぁ、そっちか」
おれは納得し、いつのまにか握りしめていたホワイトボード消しを元の場所に戻す。かすかな物音がおれを少しだけ冷静にさせてくれた。
いちごつみ。……一語摘み。ひとつの短歌から一語を摘んでは別の一首に使うという短歌の遊びだ。
別に古い遊びというわけでもなく、元はネットでの歌人同士の交流から生まれたものらしいと聞く。相手の短歌から一語を取るのがルールなので、普段なら詠まないような短歌が詠めるのだ。短歌を詠む訓練にもなるらしい。
おれが「いちごつみ」を知っているのは、文芸部員でもあるからだ。短歌を部誌に寄稿するし、周囲に短歌を勧めることもある。
おれにとって佐波も例外ではない。佐波はおれが勧めるがままに短歌の本を読み、自分でも作るようになった唯一の布教成功例だった。
だから佐波が「いちごつみ」を言い出したのは不思議なことではない。いちごつみはふたりでやるパターンが多いからだ。
佐波は言い張った。
「俺の一世一代の告白をあっけなく却下した先輩には、おれとのいちごつみに付き合う義務があると思われます」
「おう、大きく出たな。無茶苦茶だな」
論理の飛躍も甚だしい。だが、佐波もまたおれを説得しようと言葉を重ねてくる。
「実は先輩といちごつみをしたくて、短歌の練習をしてきました。最初に短歌を俺に教えたのは先輩です。だから先輩も責任をとってください」
責任をとってください、ときた。
本来ならいくらおれが佐波をふったとはいえ、いちごつみに付き合わなければならないわけではないが。
「えぇ……? いちごつみ、かあ……。そういや、おれもやったことがなかったな……」
文芸部にはそんなに顔を出せるわけもなく。生徒会中心の生活でいちごつみをやってみる発想がなかった。だが佐波から誘われれば心が揺らぐ。
「じゃあ!」
ぱあっと表情を明るくする佐波。わかりやすいやつだ。
――本当に、うれしいんだろうな。
じわ、と心の奥底に熱が生まれる。
失恋して、せめていちごつみだけでもしたいのだと訴えてくる後輩に、抗うことができるだろうか?
仕方ないな。そんな気持ちで佐波に告げる。
「わかったよ。一度だけな」
「はい!」
「ま、付き合ってやれないから、これくらいはな」
すると佐波は拗ねたガキのように唇を尖らせた。
「……でも先輩は」
「ん?」
「たぶん俺のことがそれなりに好きだと思いますよ」
おれは言葉を失った。
――なんで、そう思うんだ?
聞きたくても、知りたくない気持ちが出てくるような気がして、それ以上は踏み込めない。
佐波も説明せず、いちごつみのルールを決めていった。
「俺が先攻をもらってもいいですか」
「お、おう。おれが後攻か」
佐波は頷く。
「最初の一首、テーマは何にしましょうか? お題、あったほうがいいですよね」
そう問われたおれは答えていた。
「おれもおまえも初めてのいちごつみなんだ。だからそのまま『いちご』にでもするか。果物のほうの」
「いちご……いいですね」
佐波はかすかに笑ってから、筆記用具を片付け始めた。
「楽しいいちごつみにしましょう……先輩を、落とします」
後半でちいさく聞こえた言葉にどきりとするが、耳に入らなかったふりをする。
そう、ここからは「いちごつみ」。言葉で戯れるだけの遊び……そのはずだった。
一語摘み。短歌において一首の中の一語を使って次の一首を詠んでいく遊び。先攻・後攻の二人で行うことが多い。
――まさか【いちごつみ】で恋に落ちるとは思うまい。
いつも通りの定例会議の後だった。
出席者の委員長が出ていき、他の役員もみんな用事があると帰っていた。
放課後の生徒会室に残っているのは、生徒会長であるおれと、書記の佐波《さわ》だけだった。
佐波はパソコンで議事録をまとめていた。これは毎回の習慣でおれはその後ろでいつもホワイトボードに書いた文字を消している。
佐波月哉《さわつきや》。春に入ってきたばかりの一年生だが、今やすっかり頼れる後輩だ。書き文字の形が整っているのも気に入っている。
――初めて来たときは緊張した様子だったのに、すっかり慣れたなぁ。
あの時の佐波は高身長な体をやや丸め、眉根をぎゅっと寄せていた。
『入学式の壇上で話す小竹先輩がかっこよかったので、一緒に生徒会をやりたいと思ってきました』
こう言ってきたものだから、おれも可愛がらないはずがない。慕ってくれるのがここちよく、うれしかった。
佐波も生徒会では立派な戦力だが、よく嫌がらずにおれとここまで居残りをしてくれているものだと思う。
外はすっかり薄暗くなっていた。ホワイトボードをきれいにした後、おれは佐波のパソコンをのぞきこむ。
「そろそろ帰れそうか?」
すると、佐波は慌てたようにノートパソコンを閉じた。
振り返った佐波は立っているおれを見上げて、瞳を揺らした。
「せ、先輩……」
「おう、どうした?」
最近の佐波は、よく物言いたげな顔をする。ふとした時に目が合うと、そらされることもある。
だが無理して聞きたいわけではないので、佐波が打ち明けてくれるのを待っていた。
「今の、見ましたか……?」
佐波の視線の先を見て、ああ、と声を上げる。
「パソコン画面か? いや、見えてなかったぞ。この眼鏡も度数低めにしてあるしな」
「そうですか……」
佐波は静かに何かを考えていた。視線を上げると、窓ガラスに反射したおれたちの姿が浮かんでいる。
おれが「帰るか」と呟くのと、佐波が小声で「見られてなくてももう同じか」と言うのが同時だった。
次の瞬間、おれの目に飛び込んできたのは、佐波の混じり気のない本気の顔だ。濃茶の瞳に強い意思が宿っている。
絡み取られるかのように、動けなくなった。
佐波は勢いよく席を立ち上がった。視線の位置がぐんと伸び上がる。ギッ、とパイプ椅子がけたたましい音を立てた。
まるでそれが合図のようだった。
「先輩、好きです。俺と付き合ってもらえないでしょうか」
言葉が耳から入ってそのまま出て行くような感覚になった。うまく受け取れた気がしない。
「は……? いや、突然すぎて話がついていけないんだが……なんだ、映画に付き合うということか?」
「いえ、恋愛的な意味です」
頼れる後輩は、きびきびと返した。けれど、顔は真っ赤だ。ゆでだこみたいだ。
「俺は、小竹遥《こたけはるか》先輩の恋人になりたいです」
自分の名前を呼ばれると、いよいよ冗談でないことが伝わった。そもそもそういう話を冗談でするやつではなかった。
「今、パソコン画面を見られて焦ったのも、おれが思わず打ってしまったものがあったからで……」
意を決したように後輩はノートパソコンをもう一度開く。
最後まで書き終わっていた議事録。その端に、あった。
『先輩にいつ告白する?』
おれはわずかな間に跳ね上がった鼓動を落ち着けるように一呼吸置いてから、佐波に告げる。
「……付き合うのはむずかしいだろ。おれは佐波のことをそういうふうに見たことがない。悪いな、気持ちに応えられなくて」
見るからに佐波が落胆していくのがわかる。おれの罪悪感が膨らむ。
――おまえを悲しませたいわけではないんだがな……。
「いえ……小竹先輩にはいま恋人がいらっしゃらないかと存じますが」
佐波は肩を落としながら言う。
「まあ、そうだな……」
佐波に同調したおれだが、次の佐波の発言に耳を疑った。
「では、俺といちごつみをしましょう」
「……は? 今なんていった? 苺つみ体験にいきたいのか? 今秋だぞ?」
佐波は「短歌のほうです」と続けた。
「……あぁ、そっちか」
おれは納得し、いつのまにか握りしめていたホワイトボード消しを元の場所に戻す。かすかな物音がおれを少しだけ冷静にさせてくれた。
いちごつみ。……一語摘み。ひとつの短歌から一語を摘んでは別の一首に使うという短歌の遊びだ。
別に古い遊びというわけでもなく、元はネットでの歌人同士の交流から生まれたものらしいと聞く。相手の短歌から一語を取るのがルールなので、普段なら詠まないような短歌が詠めるのだ。短歌を詠む訓練にもなるらしい。
おれが「いちごつみ」を知っているのは、文芸部員でもあるからだ。短歌を部誌に寄稿するし、周囲に短歌を勧めることもある。
おれにとって佐波も例外ではない。佐波はおれが勧めるがままに短歌の本を読み、自分でも作るようになった唯一の布教成功例だった。
だから佐波が「いちごつみ」を言い出したのは不思議なことではない。いちごつみはふたりでやるパターンが多いからだ。
佐波は言い張った。
「俺の一世一代の告白をあっけなく却下した先輩には、おれとのいちごつみに付き合う義務があると思われます」
「おう、大きく出たな。無茶苦茶だな」
論理の飛躍も甚だしい。だが、佐波もまたおれを説得しようと言葉を重ねてくる。
「実は先輩といちごつみをしたくて、短歌の練習をしてきました。最初に短歌を俺に教えたのは先輩です。だから先輩も責任をとってください」
責任をとってください、ときた。
本来ならいくらおれが佐波をふったとはいえ、いちごつみに付き合わなければならないわけではないが。
「えぇ……? いちごつみ、かあ……。そういや、おれもやったことがなかったな……」
文芸部にはそんなに顔を出せるわけもなく。生徒会中心の生活でいちごつみをやってみる発想がなかった。だが佐波から誘われれば心が揺らぐ。
「じゃあ!」
ぱあっと表情を明るくする佐波。わかりやすいやつだ。
――本当に、うれしいんだろうな。
じわ、と心の奥底に熱が生まれる。
失恋して、せめていちごつみだけでもしたいのだと訴えてくる後輩に、抗うことができるだろうか?
仕方ないな。そんな気持ちで佐波に告げる。
「わかったよ。一度だけな」
「はい!」
「ま、付き合ってやれないから、これくらいはな」
すると佐波は拗ねたガキのように唇を尖らせた。
「……でも先輩は」
「ん?」
「たぶん俺のことがそれなりに好きだと思いますよ」
おれは言葉を失った。
――なんで、そう思うんだ?
聞きたくても、知りたくない気持ちが出てくるような気がして、それ以上は踏み込めない。
佐波も説明せず、いちごつみのルールを決めていった。
「俺が先攻をもらってもいいですか」
「お、おう。おれが後攻か」
佐波は頷く。
「最初の一首、テーマは何にしましょうか? お題、あったほうがいいですよね」
そう問われたおれは答えていた。
「おれもおまえも初めてのいちごつみなんだ。だからそのまま『いちご』にでもするか。果物のほうの」
「いちご……いいですね」
佐波はかすかに笑ってから、筆記用具を片付け始めた。
「楽しいいちごつみにしましょう……先輩を、落とします」
後半でちいさく聞こえた言葉にどきりとするが、耳に入らなかったふりをする。
そう、ここからは「いちごつみ」。言葉で戯れるだけの遊び……そのはずだった。



