「先生?」
優しい声なのに、どこか突き放したかのような言い方に戸惑った。倒れていた生徒たちが目を覚ます様子がないのに、教師モードになる必要はない。
結菜は肩を支えてくれている手にそっと触れようとしたが、相手の方が早かった。結菜をしっかり立ち上がらせるなり、何も言わずにその場を離れていった。
「先生っ」
鋭く声をかけても、三善先生は振り返らなかった。離れていく背中を追いかけて良いかどうか悩んでいると、誰かが軽く肩を叩いた。
「いこか、結菜ちゃん」
「え、でも、ここは」
「これだけ妖が発生したら、嫌でも術者が来る。そこは心配せんでええよ」
球技大会での一件を思い出した。確かにあの時、妖に巻き込まれた生徒たちはことごとく妖のことを忘れていた。今回も同じ処置をされるに違いない。
「でも、行くって、どこにですか?」
外を見れば、日はすっかり落ちていた。大量発生した妖たちが出た後に、黄昏時の時間帯に外を出るのは怖い。
結菜の心の内を読んだのか、宮道先生は結菜の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「大丈夫やって。あんな感じやけど、三善も連れていくのには反対せぇへん」
差し出された宮道先生の手を取り、結菜はホテルから出た。湿気を孕んだ空気が頬を撫でる。導かれるまま小走りで京都の街中を走り出した。夜になったからか、繁華街以外は人が少ない。
駅前のホテルから大通りを抜け、小道に入って行く。町屋が続く道を抜けていくと、いくつかの神社の前を通り過ぎた。行灯が揺らめく道は、薄暗く足元が見えにくい。
手を引かれて懸命に走り続けると、立派な数寄屋門の前に辿り着いた。きれいに手入れがされているのが、暗がりでもわかる。
「ここは」
「術者協会本部や。どうせ三善もここに来とるやろうし」
宮道先生が扉に手を掛けようとしたところで、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこに三善先生が立っていた。
「何故連れてきた、宮道」
「お前こそ、なに一人で行動しとんねん」
「言う必要はないだろ」
ポケットに手を入れ、舌打ちをした三善先生は、鋭い目つきで結菜たちを見た。その目には感情が何一つ籠っていない。冷たい目に射抜かれ、結菜は宮道先生の後ろに思わず隠れた。
「術者でもない奴が来るべきところではないだろ」
「何を言うてるん?」
「事実を言ったまでだ」
「ほんまに言うとんのか、そんなことっ」
宮道先生は三善先生の胸倉を掴み、引き寄せた。
「……事実だろ」
苦しそうに絞り出した言葉を聞いて宮道先生は乱暴に胸倉から手を離した。数歩後ろに下がった三善先生は結菜たちの脇を抜けて数寄屋門の中に入って行った。
ぐしゃぐしゃと髪を搔き乱して、宮道先生は大きなため息を吐いた。
「せ、先生?」
「……とりあえず、中に俺らも入ろか」
「でも、私、術者じゃないですし」
「あんな阿呆の言うたことを信じとるん?」
困ったように笑いながら、宮道先生は再び結菜に手を伸ばした。この手を取っても良いのか。結菜は自分の両手をギュッと握りしめて、首を横に振った。
「止めておきます。私は」
「ほな、俺が勝手に連れてきたことにしたるわ」
「はい?」
間抜けな声で返事をしてしまった。結菜は宮道先生に無理やり手を取られ、数寄屋門を潜り抜けた。表からは想像ができないほどの広い敷地に、自分の目を疑った。長い石畳の道の先には、門の前からでもわかるほどの大きな日本家屋が立っていた。灯篭が等間隔で並び、明かりが灯されている。
「ここが、本部……」
「まずは今日の報告をして、そこからやな」
敷地内は静かで、結菜と宮道先生の足音しか聞こえない。先に入ったはずの三善先生の足音は聞こえてこない。もう本部の建物に入ったのだろうか。
いくつかの灯篭を過ぎたところで、狛犬が二体脇に置かれていた。その先には赤い鳥居が隙間なく並んでいた。狛犬は凛々しい姿勢で、鳥居を潜る者たちを見下ろしている。
心の底を見透かされるような狛犬の目に足が竦んだ。だが、宮道先生は結菜の手を引くことを止めない。一歩、鳥居に入ろうとしたところで、急に狛犬が吠えだした。
「な、なんや」
吠え続ける狛犬が今にも結菜たちに噛みつかんばかりに、ゆっくりと動き出した。台座の上からけん制するような動きに、結菜は足を止めた。一歩でも進もうものなら、間違いなく狛犬に牙を向けられるに違いない。
「こいつらが吠えるとか、何があったんや」
「……迂闊すぎるだろ」
呆れた声と、苛立ちの表情を隠さないまま三善先生が鳥居の向こう側からやってきた。機嫌の悪さは変わらないようだ。
「宮道、お前わからねぇのか」
「なにをや?」
「修学旅行の同行ごときに浮かれているから、気づかねえんじゃねえの?」
結菜の背後に周り、三善先生はリュックを指した。
「日下部、何を隠してる?」
「え?」
「妙なものが入ってんだよ。だから、狛犬がうるせぇ」
奇妙なモノなんて持っているわけない。修学旅行といえども、学校行事だ。変なものを持ってきたら没収されるし、成績にも響くかもしれない。
結菜は必死に首を横に振ったが、三善先生は何も言わずにリュックを取り上げた。
「……まさか」
「おせぇんだよ、気づくのが」
外側のポケットを探った三善先生が取り出したのは、学業守りだった。
「なんや、コレ、全然学業守ってくれへんやん」
「え? でも学業守りって」
「ちげぇよ。これは、いうなれば妖をおびき寄せ、術者の能力を限りなく制限するように仕組まれた奴だ。こんなもの、誰に貰ったんだ?」
「それは」
誰に貰ったんだっけ?
記憶があいまいになるほど古いものには見えない。この修学旅行中に買ったんだっけ。でも、学業の神様がいる北野天満宮は明日行く予定だ。
狛犬の泣き声がうるさくて思い出せないだけなのだろうか。自分のことなのに結菜は不安になる。
「焼」
宙に投げたお守りを三善先生がいとも簡単に燃やした。何かの小さい声が聞こえた気がしたが、それが何かはわからなかった。
「面倒掛けやがって」
「すまんな、三善。気ぃ付けんくて」
「……とりあえず、本部への報告は済ませた。ホテルに戻るぞ」
記憶の中で聞いたことが無いほどの特大のため息を吐いた三善先生と共に三人並んでホテルに戻って歩き始めた。
「本部の中は混乱していた」
ぽつりと話し始めた三善先生の横顔を見上げると何かに納得をしていないようだった。
「どういうことや?」
「……見たまんまだ。こっちにきてから直近一か月妖が一つたりとも出ていなかったが、この数日は局所的に大勢の妖が一気に現れることが頻発しているらしい」
「偶然とかやないん?」
「どうだろうな。ただ、あちこちで幽霊列車の痕跡が残っているのは、情報レベルで共有されていたらしい」
「阿呆か。幽霊列車の痕跡が情報レベルとか、おかしいやろ」
「ここに来るまで正直確信が持てなかったが、あちこちに妙な術が施されていた」
「……なんのためや」
「全部、今日のためだろ」
またも大きなため息を吐きながら、三善先生は数寄屋門の向こう側を見た。つられて結菜も目線を移すと、空は暗雲が立ち込めていた。一体いつの間に。雨雲とも、雷雲とも違う。ごく普通の、天気が悪い時のそれではない。何が起こっているのかわからない。
「京都市内で五か所、強固な術が組まれていた。それが起点になり、京都市内を覆うような巨大な結界ができている」
「それが混乱させるようなもんやった、と」
「だろうな」
「それでも術者が少なすぎるやろ。いくら少子高齢化が進んだとしても、ここは京都やで」
「なぜかこの数か月もの間、立て続けに応援要請が入ったらしいぞ。しかも全部京都の外からだ」
「……用意周到すぎひん?」
「まともに戦闘員としてカウントできるのは、お前と俺だけだ」
「いやいや、大友ちゃんとかもおったやろ」
大友の名を聞いて、三善先生は首を振った。
「あいつはこの状況になった途端に行方不明になったらしい。幽霊列車に巻き込まれたか、あるいは」
「……一体ここで何が起ころうとしてんやろな」
軽く片頬をあげた宮道先生は、体を伸ばし始めた。
「考えたくもないな」
こちらは準備万端なようで、三善先生はストレッチを終えていた。
「あ、あの、私はどうしたら」
「決まっとるやろ。ここまで来たらついてきてもらわな」
「え、でも、足手まといにしかならないじゃないですか。結界も張れないし」
大きな舌打ちが目の前から聞こえてきた。恐る恐る三善先生を見ると、ひどく機嫌が悪そうだった。
「術者が少なすぎるこの状況で、使えるものは使う」
ウソでしょ。この人、本当に教師ですか。あ、いや、かりそめでしたね、教師は。
「いやいや、先生無理ですって。結界を張れるようになっても、それ以上は何も」
「結界を張ることができれば十分だ。とりあえず囲っておけば、俺たちが滅せることができる」
「そやで。結界は身を守るもんだけやない。妖をその場に留めることもできる。それだけでもやってもらえると、正直助かるんや」
「でも、上手くいくかわかんないし」
三善先生の手が頭の上に乗った。顔は気難しそうなままだった。
優しい声なのに、どこか突き放したかのような言い方に戸惑った。倒れていた生徒たちが目を覚ます様子がないのに、教師モードになる必要はない。
結菜は肩を支えてくれている手にそっと触れようとしたが、相手の方が早かった。結菜をしっかり立ち上がらせるなり、何も言わずにその場を離れていった。
「先生っ」
鋭く声をかけても、三善先生は振り返らなかった。離れていく背中を追いかけて良いかどうか悩んでいると、誰かが軽く肩を叩いた。
「いこか、結菜ちゃん」
「え、でも、ここは」
「これだけ妖が発生したら、嫌でも術者が来る。そこは心配せんでええよ」
球技大会での一件を思い出した。確かにあの時、妖に巻き込まれた生徒たちはことごとく妖のことを忘れていた。今回も同じ処置をされるに違いない。
「でも、行くって、どこにですか?」
外を見れば、日はすっかり落ちていた。大量発生した妖たちが出た後に、黄昏時の時間帯に外を出るのは怖い。
結菜の心の内を読んだのか、宮道先生は結菜の顔を覗き込んで、微笑んだ。
「大丈夫やって。あんな感じやけど、三善も連れていくのには反対せぇへん」
差し出された宮道先生の手を取り、結菜はホテルから出た。湿気を孕んだ空気が頬を撫でる。導かれるまま小走りで京都の街中を走り出した。夜になったからか、繁華街以外は人が少ない。
駅前のホテルから大通りを抜け、小道に入って行く。町屋が続く道を抜けていくと、いくつかの神社の前を通り過ぎた。行灯が揺らめく道は、薄暗く足元が見えにくい。
手を引かれて懸命に走り続けると、立派な数寄屋門の前に辿り着いた。きれいに手入れがされているのが、暗がりでもわかる。
「ここは」
「術者協会本部や。どうせ三善もここに来とるやろうし」
宮道先生が扉に手を掛けようとしたところで、後ろから声をかけられた。振り向くと、そこに三善先生が立っていた。
「何故連れてきた、宮道」
「お前こそ、なに一人で行動しとんねん」
「言う必要はないだろ」
ポケットに手を入れ、舌打ちをした三善先生は、鋭い目つきで結菜たちを見た。その目には感情が何一つ籠っていない。冷たい目に射抜かれ、結菜は宮道先生の後ろに思わず隠れた。
「術者でもない奴が来るべきところではないだろ」
「何を言うてるん?」
「事実を言ったまでだ」
「ほんまに言うとんのか、そんなことっ」
宮道先生は三善先生の胸倉を掴み、引き寄せた。
「……事実だろ」
苦しそうに絞り出した言葉を聞いて宮道先生は乱暴に胸倉から手を離した。数歩後ろに下がった三善先生は結菜たちの脇を抜けて数寄屋門の中に入って行った。
ぐしゃぐしゃと髪を搔き乱して、宮道先生は大きなため息を吐いた。
「せ、先生?」
「……とりあえず、中に俺らも入ろか」
「でも、私、術者じゃないですし」
「あんな阿呆の言うたことを信じとるん?」
困ったように笑いながら、宮道先生は再び結菜に手を伸ばした。この手を取っても良いのか。結菜は自分の両手をギュッと握りしめて、首を横に振った。
「止めておきます。私は」
「ほな、俺が勝手に連れてきたことにしたるわ」
「はい?」
間抜けな声で返事をしてしまった。結菜は宮道先生に無理やり手を取られ、数寄屋門を潜り抜けた。表からは想像ができないほどの広い敷地に、自分の目を疑った。長い石畳の道の先には、門の前からでもわかるほどの大きな日本家屋が立っていた。灯篭が等間隔で並び、明かりが灯されている。
「ここが、本部……」
「まずは今日の報告をして、そこからやな」
敷地内は静かで、結菜と宮道先生の足音しか聞こえない。先に入ったはずの三善先生の足音は聞こえてこない。もう本部の建物に入ったのだろうか。
いくつかの灯篭を過ぎたところで、狛犬が二体脇に置かれていた。その先には赤い鳥居が隙間なく並んでいた。狛犬は凛々しい姿勢で、鳥居を潜る者たちを見下ろしている。
心の底を見透かされるような狛犬の目に足が竦んだ。だが、宮道先生は結菜の手を引くことを止めない。一歩、鳥居に入ろうとしたところで、急に狛犬が吠えだした。
「な、なんや」
吠え続ける狛犬が今にも結菜たちに噛みつかんばかりに、ゆっくりと動き出した。台座の上からけん制するような動きに、結菜は足を止めた。一歩でも進もうものなら、間違いなく狛犬に牙を向けられるに違いない。
「こいつらが吠えるとか、何があったんや」
「……迂闊すぎるだろ」
呆れた声と、苛立ちの表情を隠さないまま三善先生が鳥居の向こう側からやってきた。機嫌の悪さは変わらないようだ。
「宮道、お前わからねぇのか」
「なにをや?」
「修学旅行の同行ごときに浮かれているから、気づかねえんじゃねえの?」
結菜の背後に周り、三善先生はリュックを指した。
「日下部、何を隠してる?」
「え?」
「妙なものが入ってんだよ。だから、狛犬がうるせぇ」
奇妙なモノなんて持っているわけない。修学旅行といえども、学校行事だ。変なものを持ってきたら没収されるし、成績にも響くかもしれない。
結菜は必死に首を横に振ったが、三善先生は何も言わずにリュックを取り上げた。
「……まさか」
「おせぇんだよ、気づくのが」
外側のポケットを探った三善先生が取り出したのは、学業守りだった。
「なんや、コレ、全然学業守ってくれへんやん」
「え? でも学業守りって」
「ちげぇよ。これは、いうなれば妖をおびき寄せ、術者の能力を限りなく制限するように仕組まれた奴だ。こんなもの、誰に貰ったんだ?」
「それは」
誰に貰ったんだっけ?
記憶があいまいになるほど古いものには見えない。この修学旅行中に買ったんだっけ。でも、学業の神様がいる北野天満宮は明日行く予定だ。
狛犬の泣き声がうるさくて思い出せないだけなのだろうか。自分のことなのに結菜は不安になる。
「焼」
宙に投げたお守りを三善先生がいとも簡単に燃やした。何かの小さい声が聞こえた気がしたが、それが何かはわからなかった。
「面倒掛けやがって」
「すまんな、三善。気ぃ付けんくて」
「……とりあえず、本部への報告は済ませた。ホテルに戻るぞ」
記憶の中で聞いたことが無いほどの特大のため息を吐いた三善先生と共に三人並んでホテルに戻って歩き始めた。
「本部の中は混乱していた」
ぽつりと話し始めた三善先生の横顔を見上げると何かに納得をしていないようだった。
「どういうことや?」
「……見たまんまだ。こっちにきてから直近一か月妖が一つたりとも出ていなかったが、この数日は局所的に大勢の妖が一気に現れることが頻発しているらしい」
「偶然とかやないん?」
「どうだろうな。ただ、あちこちで幽霊列車の痕跡が残っているのは、情報レベルで共有されていたらしい」
「阿呆か。幽霊列車の痕跡が情報レベルとか、おかしいやろ」
「ここに来るまで正直確信が持てなかったが、あちこちに妙な術が施されていた」
「……なんのためや」
「全部、今日のためだろ」
またも大きなため息を吐きながら、三善先生は数寄屋門の向こう側を見た。つられて結菜も目線を移すと、空は暗雲が立ち込めていた。一体いつの間に。雨雲とも、雷雲とも違う。ごく普通の、天気が悪い時のそれではない。何が起こっているのかわからない。
「京都市内で五か所、強固な術が組まれていた。それが起点になり、京都市内を覆うような巨大な結界ができている」
「それが混乱させるようなもんやった、と」
「だろうな」
「それでも術者が少なすぎるやろ。いくら少子高齢化が進んだとしても、ここは京都やで」
「なぜかこの数か月もの間、立て続けに応援要請が入ったらしいぞ。しかも全部京都の外からだ」
「……用意周到すぎひん?」
「まともに戦闘員としてカウントできるのは、お前と俺だけだ」
「いやいや、大友ちゃんとかもおったやろ」
大友の名を聞いて、三善先生は首を振った。
「あいつはこの状況になった途端に行方不明になったらしい。幽霊列車に巻き込まれたか、あるいは」
「……一体ここで何が起ころうとしてんやろな」
軽く片頬をあげた宮道先生は、体を伸ばし始めた。
「考えたくもないな」
こちらは準備万端なようで、三善先生はストレッチを終えていた。
「あ、あの、私はどうしたら」
「決まっとるやろ。ここまで来たらついてきてもらわな」
「え、でも、足手まといにしかならないじゃないですか。結界も張れないし」
大きな舌打ちが目の前から聞こえてきた。恐る恐る三善先生を見ると、ひどく機嫌が悪そうだった。
「術者が少なすぎるこの状況で、使えるものは使う」
ウソでしょ。この人、本当に教師ですか。あ、いや、かりそめでしたね、教師は。
「いやいや、先生無理ですって。結界を張れるようになっても、それ以上は何も」
「結界を張ることができれば十分だ。とりあえず囲っておけば、俺たちが滅せることができる」
「そやで。結界は身を守るもんだけやない。妖をその場に留めることもできる。それだけでもやってもらえると、正直助かるんや」
「でも、上手くいくかわかんないし」
三善先生の手が頭の上に乗った。顔は気難しそうなままだった。



