チンッ。
ようやくエレベーターが着いたらしく、鈴のような音が鳴った。
それと同時に、明かりが消えた。まだ日がある時間だというのに、明かりが一つもない。慌ててスマホのライトをつけようとしたが、充電が切れたのか一向に動く気配がない。
慌ててはダメ。まずは、妖が関わっているかを判断しないと。
結菜は必死に自分にそう言い聞かせて、深呼吸を繰り返す。だが、眩暈はひどくなる一方で、集中力をそがれてしまい、妖の気配をきちんと探ることができない。
――ズルイ
どこかからか、まとわりつくような声がした。
――ズルイ、ズルイ、アナタハ、ズルイ
声が聞こえれば聞こえるほど、重力に体が逆らえなくなってきた。自分の両腕で体を支えるのも辛い。
でも、今、倒れてしまうとどうなるかわからない。目を瞑って、力を振り絞りながら、必死に倒れまいと我慢する。
――ズルイジャナイ、ユナ、バッカリ
自分の名前を言われて、結菜は絶望した。
妖に名前を知られることがどれほど危険であるかは、物心ついたころから聞かされてきた。
曰く、妖に知られると逃げられない、命を奪われる、と。
間近に迫った死という恐怖が、結菜の心を折ろうと力を加えてくる。どこに妖がいるかもわからない。助けを呼ぼうにも、上手く言葉を発することができない。
ぺた、ぺた、ぺた。
裸足で床を歩くような音が聞こえてきた。それに追随するようにガラガラと何かが引きずられている音もする。
振り向いてはいけない。名前を呼ばれ、振り向いたら、それが本当の最後なのだ。
必死に奥歯を噛みしめ、首に力を込めて振り返らないように結菜は耐える。恐怖に負けそうになりながら、何かに縋りつきたくて、リュックを抱え込んだ。
チャリ。
ふいに目に飛び込んできたのは、一つのキーホルダーだった。かわいらしい猫のキャラクターが描かれたそれは三善先生がくれたものだった。
結界を発動できれば、自動通知してくれる。
そう言っていたのは宮道先生だった。
だけど、肝心な発動方法を聞いていないことを結菜は今更ながら気が付いた。慌ててキーホルダーを手に取り、ボタンがないかを探した。
もちろん、ただのキーホルダーにしか見えないので、ボタンはない。
振ってみても、何も起きない。
キーホルダーなので、当たり前だ。
軽く叩いてみても、変化なし。
当たり前だ、キーホルダーだから。
どうやっても結界が発動しないことに、結菜は恐怖よりも怒りの感情が勝り、鞄からキーホルダーをちぎって、床に叩きつけた。
「発動方法くらい教えろっての、このポンコツ教師がっ」
パキッと傷が入ったような音がしたのを無視して、結菜は肩で息をした。静まり返ったエレベーターホールで叫んだのがいけないからか、微妙に木霊したのが恥ずかしい。
パキパキパキと傷が入った時のような音が小さく鳴り続けると、突然結菜の目の前に頑丈な金色の結界ができた。目を何度か瞬かせて確認したが、間違いはない。幾何学模様が刻まれた壁のような結界が結菜を覆っていた。
「結界……?」
見たことが無いような結界を結菜は茫然と見た。素人目にもわかる。これほど強力な結界であれば、妖から身を守ることはできる。
結界が発動した、ということは。
結菜が次に思い至った考えがすぐに目の前に現れた。
「誰がポンコツ教師だ?」
素丸出しの三善先生が結菜の前に立った。言葉の圧がやけに強い。しまった。叫んだから聞こえてしまったのかもしれない。
ところで先生。言い方と立ち方がとてもじゃないが堅気の人には見えないです。
「困った子やね、ほんま」
三善先生のお隣に立つ御仁は関西系のあの系の方でしたかっ。
違う意味で恐怖を再び覚えながらも、結菜は心のどこかで安堵した。この二人が来てくれれば、もう大丈夫だ。
「それにしても、ぎょーさん乗ってるな」
「定員オーバーだろ、どう見ても。重量計もぶっこわれてんのか?」
ひとつ、またひとつと妖たちがエレベーターから降りてきた。動きは緩慢なのに、いつの間にか囲まれていた。両手の指ではとても足りない。これだけの数の妖が一斉に襲い掛かってきたらと想像するだけで、ぞっとした。
「いったいどこに隠れてやがったんだ、こいつら」
「モテモテやなぁ、俺ら」
「こんな追っかけ、お断りだろ、フツー」
滅、と三善先生がシンプルな言葉を何度も妖に投げては、一体ずつ消滅していく。三善先生が消していった端から、宮道先生は浄化の術を組み上げていっている。
少しずつだが、体が軽くなってきているように感じた。
――ズルイジャナアイ
最後に残った妖だけが、まだ言っていた。
さっきまでの体の重さがなくなったので、結菜はゆっくりと声が聞こえた方を見ると、深紅の着物を身にまとった女が血まみれの鉈を持っていた。誰かを切りつけた後だろうか、刃先から血がしたたり落ちていた。
艶を失った黒く長い髪のせいで、妖の顔は見えない。その妖は、ゆらゆらと体を左右に大きく揺らしながら、エレベーターから最後に出てきた。
こいつだけ、格が違う。
他の妖たちは賑やかしだったと言わんばかりだ。
一歩距離を詰めて来るごとに、謎の圧が再び強くなった。体をようやく支えずに起こすことができるという状態になったはずなのに、すぐにひれ伏させるような圧力に結菜は顔をしかめた。
「三善、モテモテなんとちがう?」
「お前だろ、それ」
「嫌やわぁ。俺だって選びたいもん、相手くらい」
「そこそこ身長がある、ロングヘアの女が好みとか言っていただろ」
「それ言うたら、お前やってっ」
何故、教師たちの女性の好みをここで聞かされているのかわからない。だが、二人の掛け合いを聞いているだけでも不思議と落ち着いてしまう。
――ズルイ、ズルイ
「なぁ、あんたは何でずるいと思ってるん?」
反応されたのが意外だったのか、妖は足を止めた。手に何ももっていない丸腰の状態で宮道先生が妖に一歩近づいた。
「それが分からんと、俺らも対処しようがないねんけど」
――ソノ、オンナ、ズルイ
「何がずるいんや?」
――ゼンブ、モッテル。ダカラ、キライ
何を持っている、というのだ。
術者家系のくせに、術者を目指し始めたばかりの素人に毛が生えた程度で。
結界でさえ、まともに張ることもできなくなって。
先生たちに呆れられているのに。
どうして、その状態で全部を持っていると言えるのだろうか。
「随分、ご執心のようやけど、あの子はあかんよ」
真正面に立った宮道先生がいつの間にか手に用意していた白い札を妖の胸に付けた。あまりにも鮮やかな手際に、妖すらまだ気づいていない。
「滅せよ」
直接札を付けられた妖は、人とも獣とも言えないような悲鳴を上げながら、灰になっていった。どこからか流れてきた風と共にその灰は去った。
一体も残らず妖が消滅したところで、結菜はようやく呼吸を楽にできるようになった。圧力から解放されたせいで、体がやけに軽く感じる。大きく息を吐いてから、立ち上がろうとしたが、足に上手く力が入らずによろけた。
「危ないですよ?」
優しいその声に結菜は思わず耳を疑った。
支えてくれていたのは三善先生だったが、先ほどまでとは打って変わり、教師モードに戻っていた。
「体調不良ですかね。お部屋でお休みになられては」
ようやくエレベーターが着いたらしく、鈴のような音が鳴った。
それと同時に、明かりが消えた。まだ日がある時間だというのに、明かりが一つもない。慌ててスマホのライトをつけようとしたが、充電が切れたのか一向に動く気配がない。
慌ててはダメ。まずは、妖が関わっているかを判断しないと。
結菜は必死に自分にそう言い聞かせて、深呼吸を繰り返す。だが、眩暈はひどくなる一方で、集中力をそがれてしまい、妖の気配をきちんと探ることができない。
――ズルイ
どこかからか、まとわりつくような声がした。
――ズルイ、ズルイ、アナタハ、ズルイ
声が聞こえれば聞こえるほど、重力に体が逆らえなくなってきた。自分の両腕で体を支えるのも辛い。
でも、今、倒れてしまうとどうなるかわからない。目を瞑って、力を振り絞りながら、必死に倒れまいと我慢する。
――ズルイジャナイ、ユナ、バッカリ
自分の名前を言われて、結菜は絶望した。
妖に名前を知られることがどれほど危険であるかは、物心ついたころから聞かされてきた。
曰く、妖に知られると逃げられない、命を奪われる、と。
間近に迫った死という恐怖が、結菜の心を折ろうと力を加えてくる。どこに妖がいるかもわからない。助けを呼ぼうにも、上手く言葉を発することができない。
ぺた、ぺた、ぺた。
裸足で床を歩くような音が聞こえてきた。それに追随するようにガラガラと何かが引きずられている音もする。
振り向いてはいけない。名前を呼ばれ、振り向いたら、それが本当の最後なのだ。
必死に奥歯を噛みしめ、首に力を込めて振り返らないように結菜は耐える。恐怖に負けそうになりながら、何かに縋りつきたくて、リュックを抱え込んだ。
チャリ。
ふいに目に飛び込んできたのは、一つのキーホルダーだった。かわいらしい猫のキャラクターが描かれたそれは三善先生がくれたものだった。
結界を発動できれば、自動通知してくれる。
そう言っていたのは宮道先生だった。
だけど、肝心な発動方法を聞いていないことを結菜は今更ながら気が付いた。慌ててキーホルダーを手に取り、ボタンがないかを探した。
もちろん、ただのキーホルダーにしか見えないので、ボタンはない。
振ってみても、何も起きない。
キーホルダーなので、当たり前だ。
軽く叩いてみても、変化なし。
当たり前だ、キーホルダーだから。
どうやっても結界が発動しないことに、結菜は恐怖よりも怒りの感情が勝り、鞄からキーホルダーをちぎって、床に叩きつけた。
「発動方法くらい教えろっての、このポンコツ教師がっ」
パキッと傷が入ったような音がしたのを無視して、結菜は肩で息をした。静まり返ったエレベーターホールで叫んだのがいけないからか、微妙に木霊したのが恥ずかしい。
パキパキパキと傷が入った時のような音が小さく鳴り続けると、突然結菜の目の前に頑丈な金色の結界ができた。目を何度か瞬かせて確認したが、間違いはない。幾何学模様が刻まれた壁のような結界が結菜を覆っていた。
「結界……?」
見たことが無いような結界を結菜は茫然と見た。素人目にもわかる。これほど強力な結界であれば、妖から身を守ることはできる。
結界が発動した、ということは。
結菜が次に思い至った考えがすぐに目の前に現れた。
「誰がポンコツ教師だ?」
素丸出しの三善先生が結菜の前に立った。言葉の圧がやけに強い。しまった。叫んだから聞こえてしまったのかもしれない。
ところで先生。言い方と立ち方がとてもじゃないが堅気の人には見えないです。
「困った子やね、ほんま」
三善先生のお隣に立つ御仁は関西系のあの系の方でしたかっ。
違う意味で恐怖を再び覚えながらも、結菜は心のどこかで安堵した。この二人が来てくれれば、もう大丈夫だ。
「それにしても、ぎょーさん乗ってるな」
「定員オーバーだろ、どう見ても。重量計もぶっこわれてんのか?」
ひとつ、またひとつと妖たちがエレベーターから降りてきた。動きは緩慢なのに、いつの間にか囲まれていた。両手の指ではとても足りない。これだけの数の妖が一斉に襲い掛かってきたらと想像するだけで、ぞっとした。
「いったいどこに隠れてやがったんだ、こいつら」
「モテモテやなぁ、俺ら」
「こんな追っかけ、お断りだろ、フツー」
滅、と三善先生がシンプルな言葉を何度も妖に投げては、一体ずつ消滅していく。三善先生が消していった端から、宮道先生は浄化の術を組み上げていっている。
少しずつだが、体が軽くなってきているように感じた。
――ズルイジャナアイ
最後に残った妖だけが、まだ言っていた。
さっきまでの体の重さがなくなったので、結菜はゆっくりと声が聞こえた方を見ると、深紅の着物を身にまとった女が血まみれの鉈を持っていた。誰かを切りつけた後だろうか、刃先から血がしたたり落ちていた。
艶を失った黒く長い髪のせいで、妖の顔は見えない。その妖は、ゆらゆらと体を左右に大きく揺らしながら、エレベーターから最後に出てきた。
こいつだけ、格が違う。
他の妖たちは賑やかしだったと言わんばかりだ。
一歩距離を詰めて来るごとに、謎の圧が再び強くなった。体をようやく支えずに起こすことができるという状態になったはずなのに、すぐにひれ伏させるような圧力に結菜は顔をしかめた。
「三善、モテモテなんとちがう?」
「お前だろ、それ」
「嫌やわぁ。俺だって選びたいもん、相手くらい」
「そこそこ身長がある、ロングヘアの女が好みとか言っていただろ」
「それ言うたら、お前やってっ」
何故、教師たちの女性の好みをここで聞かされているのかわからない。だが、二人の掛け合いを聞いているだけでも不思議と落ち着いてしまう。
――ズルイ、ズルイ
「なぁ、あんたは何でずるいと思ってるん?」
反応されたのが意外だったのか、妖は足を止めた。手に何ももっていない丸腰の状態で宮道先生が妖に一歩近づいた。
「それが分からんと、俺らも対処しようがないねんけど」
――ソノ、オンナ、ズルイ
「何がずるいんや?」
――ゼンブ、モッテル。ダカラ、キライ
何を持っている、というのだ。
術者家系のくせに、術者を目指し始めたばかりの素人に毛が生えた程度で。
結界でさえ、まともに張ることもできなくなって。
先生たちに呆れられているのに。
どうして、その状態で全部を持っていると言えるのだろうか。
「随分、ご執心のようやけど、あの子はあかんよ」
真正面に立った宮道先生がいつの間にか手に用意していた白い札を妖の胸に付けた。あまりにも鮮やかな手際に、妖すらまだ気づいていない。
「滅せよ」
直接札を付けられた妖は、人とも獣とも言えないような悲鳴を上げながら、灰になっていった。どこからか流れてきた風と共にその灰は去った。
一体も残らず妖が消滅したところで、結菜はようやく呼吸を楽にできるようになった。圧力から解放されたせいで、体がやけに軽く感じる。大きく息を吐いてから、立ち上がろうとしたが、足に上手く力が入らずによろけた。
「危ないですよ?」
優しいその声に結菜は思わず耳を疑った。
支えてくれていたのは三善先生だったが、先ほどまでとは打って変わり、教師モードに戻っていた。
「体調不良ですかね。お部屋でお休みになられては」



