「ご、ごめんなさい。結界が上手く張れなくて」
「謝る必要はないで。気にしなや」

 肩をすくめて、宮道がこともなげに言った。

「結界」

 反対側の手で持った札に術を掛けた宮道先生は結菜の周りに結界を張ってくれた。いつも見ていた鳥籠のような結界は、キラキラと輝いていた。

「さあて、仕舞いにしよか」

 軽くいなして、相手の態勢を崩した宮道先生は、後ろからぴたりと照準を合わせた。

「滅せよ」

 なんの感情もない言葉と共に、妖は軽い爆発音と共に消えた。鮮やかすぎる技に結菜は改めて宮道先生のすごさに圧倒された。

「いやあ、ビビったわ。近くにたまたまいたから良かったようなもんを。それにしても、まだ戻らんか」

 宮道先生につられて辺りを見回しても、景色は先ほどと変わってはいない。いつもならば妖を倒せば、景色も元通りになるはずだった。

「まだ、いるんでしょうか?」
「いーや。気配は感じひんな。何が悪さをしとるんやろか」

 妖の気配を慎重に探っていても、結菜も宮道先生も妖の姿を捕らえることができない。宮道先生の手が結菜の右手をそっと取った。汗で少し湿っているが、その手は結菜が妖に連れ去られないように気を張っているように強張っていた。

「念のため、やな」

 眉間に皺を寄せた宮道先生が懐から取り出したのは、青い札だった。

「それは?」
「まあ、見てみ」

 呪文を唱えることなく、札を一枚だけ手から落とした。ゆらゆらと舞いながら青い札が地面に落ちると、瞬く間に地面に溶けていった。

「浄化せよ」

 宮道先生の言葉に反応するように、札が解けた場所から淡い青い光がシャボン玉のように浮かんだ。辺り一面に浮かんだシャボン玉は風に吹かれたかのように、どこかに飛んで行ってしまった。

「うーん、これでもあかんか」

 景色は変わらないままだった。首を傾げて、頭を掻いた宮道先生が唸っていると、誰かの足音がした。振り返ると、三善先生がバツの悪そうな顔でポケットに手を突っ込んでいた。宮道先生と同じようにシャツが汗ばんでいた。

「遅いで、三善」
「うるせぇ。こんなのもさっさと浄化できねぇとは、宮道こそ腕が落ちたか?」
「うっさいわ」

 二人が言い争い始めたとき、どこか遠くで踏切の音が聞こえてきた。よく聞く音なのに、どこか落ち着かない。体の内側からうっすらと恐怖が湧いてきた。
 口論していた二人も、踏切の音が聞こえるなりぴたりと口を閉じた。探るような目つきで辺りを見回している。だが、どうみても、辺りには妖はいない。
 見えないから、安全と言うわけではないのは、わかっている。だけど、視えないものに対して、これほどの恐怖を掻き立てられるのは落ち着かない。
 知らず知らずのうちに、三善先生の左手の小指をそっと握っていた。ちらりと横目で結菜を見た三善先生は気まずげに視線を前に戻した。

「三善、これはどういうことや?」
「幽霊列車だろ。それ以上でもそれ以下でもない」

 踏切の音が小さくなるにつれ、列車の轟音が少しずつ聞こえてきた。

「分が悪すぎるなぁ。俺、今日はわりと丸腰なんやけど」
「それでも術者か」
「ひどい言い草やな」
「浄化は俺の領分じゃない」
「言うてる場合か、これ」
「合わせてくれるんだろうな」
「しゃーないな」

 再び青い札を手に取った宮道は肩を使って大きく深呼吸を繰り返していた。その耳には近づいてくる列車の音が聞こえていないのかもしれない。

「浄化」

 淡く光の粒に分解していった札は、先ほどとは違い粒は地面に溶けずに、宙にフワフワと漂っている。シャボン玉のように、ちょっと触れれば破裂してしまいそうだ。

「清めたまえ」

 三善先生が呪文を唱えると、光の粒が一つ一つ破裂しては宙に吞み込まれていった。一つ弾けるごとに、清らかな空気がどこからか吹き込んできた。
 風に流されるように、徐々に見えていた景色が変わってきた。行列に並んでいた茉優たちの姿が見えた。

「あれ、宮道先生も三善先生もいるっ」

 さっきまで結菜たちの姿が見えていなかったらしく、茉優が驚いた顔をして、手招きしていた。同じグループのクラスメイト達も同じように呼んでいる。

「えー、どないしよっかな。なぁ、三善?」
「……断る」
「え、何? 行くって言うた?」
「……言ってない」

 教師モードの三善先生は微笑みを崩していないが、話す口調は素のままだ。列に並んでいる結菜たちに聞こえないから、そこだけ取り繕わないのかもしれない。

「待っててやー。すぐ行くで」

 半ば引きずるように三善先生の腕を取った宮道先生は、大股で列に向かって歩いて行った。結菜もそのまま後に続こうとしたが、誰かに呼ばれたような気がして振り向いた。

 振り向いた先には誰もいなかった。
 おかしいな、誰かと話していたはずなのに。

 京都らしい町屋が並び、その前を観光客がただ歩いているだけだった。歩いている人たちは暑ささえも京都らしいと感じているのか、足取りは軽そうに見えた。

「結菜?」
「ごめん、今行く」

 通りを挟んだ向こう側では、三善先生と宮道先生は既に茉優たちに囲まれており、楽しげに話していた。結菜もその輪に加わるように小走りで列に戻った。

 しばらく並んでいると、入店の順番が回ってきた。店の中は梁がむき出しのままで、壁も梁と同じような、栗の皮のような色で染められていた。木のぬくもりが感じられるような店内は、冷房も適度に効いていた。
 店員は全員が一緒のテーブルに座れるようにと、窓際の一角を用意してくれた。中庭が見える席で、窓越しに見ると小さな日本庭園がそこにあった。

「結菜はどれ食べる?」

 茉優に差し出されたメニューを見ると、色鮮やかな写真がすぐに目に入った。

「かわいいっ。このパフェも良いよね」
「抹茶パフェもおいしそうだよ」
「出来立てわらび餅も良さげ」

 どれもおいしそう。暑い中歩いてきたから、アイスとか冷たいものも良いけど、こういう京都らしいものも外せない。メニューを見て、自分の財布の中身と比べながら悩んでいると、隣に座った宮道先生がぱたんとメニューを閉じた。

「俺はこの抹茶パフェかな」
「何それっ。宮道先生、ずるいっ」

 茉優がそう言ったのも頷けた。細長い器にコーヒーゼリー、生クリーム、抹茶アイスが順番に入っていた。上部には、白玉と栗が交互に淵に置かれ、中央には抹茶ソフトが盛られている。だが、大層京都らしいそのパフェは、大人しか手を伸ばせないようなお値段だった。

「俺らもぐるぐる歩き回って君たちを見ていたんや。疲れてるときはやっぱり甘いものやろ」
「これが大人と子どもの財布力の違いかっ」

 頭を抱えるクラスメイトの脇で三善先生も真剣な目で品定めしている。

「三善先生は、何にするんですか?」

 とても甘いものが好きなようには見えない。どちらかというと、アイスコーヒーで済ませそうなタイプだ。
 茉優に問われた三善先生の眉間が、少しだけきゅっと縮まった。相当悩んでいるのか、それとも質問に対してめんどくさかったのか。
 しばし黙っていた三善先生だったが、ゆるりと細長い指先を一つのメニューの上に置いた。

 季節限定、まるっと桃パフェ。

 その名前の通り、パフェの器の入り口を隠すように桃が丸ごと置かれていた。桃の下にはソルベやクリームの他に、スポンジ生地とこれでもかと黄桃が詰め込まれている。桃の上にはちょんと王冠のように真っ白なクリームが乗せられていた。
 こちらも大人の財力がモノ言うお値段だった。

「いっがーい。三善先生も甘いもの食べる派なんですか?」
「……人並み程度には好きなんですよ」
「これ、人並み程度って言わなくないですか?」

 からかわれている自覚があるようで、三善先生は微笑んだまま、やや困った顔をしていた。それが妙にギャップを生んでいるのは、本人には自覚がなさそうだった。
 各々財布と相談をしながら京都らしいパフェやお菓子を食べて、外に出た。暑さは変わらずだったが、美味しいもので胃が満たされたおかげで次なる目的地に向かい始めた。
 先生たちは店前で別れを告げると、二人並んでどこかに行ってしまった。本当にぐるぐると京都の町中を歩いて生徒たちの様子を確認しているらしい。

「宮道先生も三善先生も甘いもの好きだったんだね」
「意外だよね。大人の男の人って甘いもの苦手だと思ってた」
「あんなにあっさり完食するとか、びっくりだよね」
「バレンタインの時、チョコ渡せばよかったあ」
「え、どっちに?」

 ワイワイと楽しそうな話の輪に入れずに、結菜はぼんやりと後ろを歩いていた。

「結菜、どーしたの?」

 顔を覗き込むようにして茉優が顔を結菜の視界に入れてきた。

「なんか、悲しい?」
「え、そんなことないけど」
「三善先生のギャップにやられたから?」
「そんなわけないじゃん」
「じゃあ、自分だけが知っていた三善先生がバレた、とか?」

 そんなことない。
 自分だけが知っている姿は、まだみんな知らない。
 だけど、三善先生が甘いものが好きだなんて知らなかった。意外と知らないことがまだあるんだと、桃のパフェを美味しそうに食べていた三善先生を思い出してから気づいた。

「なに、その顔」

 目を細めて、ニヤニヤしながら茉優が顔を覗き込んできた。余程変な顔になっているんだろうか。頬をつねりながら、結菜は首を傾げた。

「恋してるみたい」
「え?」
「乙女っぽーい」
「そ、そんなわけないじゃん。相手は先生だよ?」
「わかる、わかるよ、結菜。女子高で出会うなら圧倒的に男性教師のみ。そりゃね、出会いを求めれば男子高校生に会えるかもしれないけど、女子高ってパワーワードで引かれる時もあるからね」

 何を一人で納得しているんだろうか、茉優は。
 軽くステップを踏んで、楽しげな顔をしてこちらを振り返った茉優は、チャシャ猫のように笑っていた。

「でもさ、恋って走り出したら止まらないじゃん? そのまま、走っちゃえば?」
「だから、これは」
「なんや、楽しい話してる?」

 茉優との会話に割って入ってきたのは、先ほど別れたばかりの宮道先生だった。先生が来た先を見ると、日陰で三善先生が涼んでいた。こちらを見ているが、遠くて表情まではわからない。

「どうしたんですか?」

 宮道先生が来てくれたことを心の中で感謝しながら、結菜は話題を変えた。

「忘れ物」

 差し出されたのは大学のパンフレットだった。しかも京都にある。

「前に関西方面の大学が気になってるって言うてたやろ」
「それは」

 既に進路を変えているのは宮道先生も知っているはずだ。それなのに、どうして。

「オレの母校もこっちやし、この後の自由時間に案内したることもできるけどって話」
「そっか、大学はこっち希望してたんだ」
「せやねん。オレも聞いて驚いたわ。関西の大学見学とか旅費がシャレにならんやん。こういう時に活用しいやってこと。まぁ、急に言われても困るやろうから、パンフレットだけもろておいてん。読んでみ」

 数冊の大学案内を渡したのに満足したのか、宮道先生は三善先生がいるところに戻って行った。

「茉優、良かったの?」
「え、あ、うん」

 パンフレットを渡された時、わかった。
 この冊子には術が施されていることを。何の術かまではわからないけど。
 こんなに回りくどいことをしなくても良いのに、と思いながら、結菜はリュックの中にパンフレットをしまい込む。お土産のスペースが少しばかり減ったが、捨てていくわけにもいかない。
 同じグループのクラスメイトに呼ばれ、結菜は結菜と一緒に小走りで次なる目的地に向かった。