「京都、あつーいっ」

 まだ夏を迎えていないのに、湿度と高めの気温で既に夏を感じられた。ホテルのエントランスで先生たちのチェックを受けた後に出たが、すぐにホテルに戻りたくなる気持ちになった。

「結菜、行くよー」

 茉優に誘われ、結菜もリュックを背負いなおして小走りで向かった。じゃらっと鞄につけてきたお守り替わりのキーホルダーがリュックの上で跳ねたのかもしれない。
 八坂庚申堂までは駅から清水方面のバスに乗っていったが、想像以上の混雑に目的のバスに乗れるのかが、心配になるほどだった。結局ぎゅうぎゅう詰めの状態で、目的地近くのバス停で降りると、ようやく一呼吸できた。

 午前中は、八坂庚申堂と安井金比羅宮を見て、河原町に向かってゆっくり歩きながらカフェでお昼ご飯の予定だ。学生の身分では予約もしにくいので、茉優セレクションのカフェで入れそうなところに入ることになった。
 だが、そこはやはり観光地。どこもかしこも列をなしていた。いくつかの店を見て回り、比較的列が短いカフェの前に結菜たちは待つことにした。午後に向かう予定の北野天満宮や下鴨神社へのルートを雑誌を見ながら茉優と確認していると、通りの向こうから呼ばれた。

 ぱっと顔を上げると、大友が結菜に向かって手を振っていた。

「結菜、知り合い?」
「あ、うん、まぁ」
「呼んでるみたいだし、行ってきたら? 順番来たらスマホで連絡するし」
「ありがとう」

 茉優の気遣いに感謝して、結菜は大友の元に行った。

「ごめんね、せっかくの修学旅行中に。日下部さんの姿を見たから思わず声掛けちゃった」

 両手で拝む仕草をされ、結菜は思わず首を横に振った。

「私も友達と並んでいるところでしたので」
「いやあ……女性の術者に出会うこともあんまりなくて、つい」
「そうなんですか?」
「やっぱり、こういうお仕事は男性が多いからね。女性の知り合いが増えると嬉しくて」

 無邪気に言った大友は嬉しそうな顔をしていた。

「そう言えば、あの二人の陰陽寮にいたころの話って聞いたことある?」
「いえ。あんまり聞いたことが無いです」

 パチパチと瞬きをはっきりして、大友を見た。結菜の反応を見て、大友は何かイタズラを思いついたかのようにニマッと笑った。

「そっか。あの二人、結構やんちゃも無茶もしてたから、恥ずかしがって話さないのかな」
「そうなんですか?」

 落ち着いた二人しか知らない結菜には意外だった。

「そうなんだよ。実践訓練で宮道くんは一人で倒そうとしたけど、呪力切れ起こしちゃうとか、柊は周りに溶け込まなさ過ぎて、逆にいたずらを仕掛けられるとか」

 楽しげに話す大友に結菜は二人の新人時代の姿を思い描いた。
 今よりも若くて、やんちゃな二人。見て見たかったかも。

「特に柊とか、やられたいたずらをやり返そうとして失敗してたしね」
「意外です。何でもできそうなのに」
「ああ見えて、意外と術者であること以外は抜けているところもあったんだよ。今はあんなに完璧っぽい感じになっちゃって。もう肩を並べていられないよ」

 肩をすくめて言った大友の顔が少しだけ陰ったように見えたが、それもすぐさま元の明るい表情に変わった。同僚だからこそ、三善先生のすごさをまざまざと突きつけられているのかもしれない。

 ブブブ。スマホのバイブが鳴ったので、見て見ると茉優からのメッセージが届いた。そろそろ順番が来るみたいだ。

「あ、ごめんね、本当に。話せたて、楽しかった。これ良かったら、私からのお土産」

 渡されたのは受験の必勝祈願守りだった。真っ赤な布地に金色の刺しゅうを施されたお守りは見たことが無いデザインだった。神社がこれだけある京都のどこかで買ってきてくれたのかもしれない。
 礼を大友に伝えてから、結菜は茉優たちのところに戻ろうとしたところで、ひどい寒気に襲われた。こんな寒気を感じたのは、いつぶりだろうか。腕で体を抱きこまないと寒さで震えてしまう。嫌な予感が押し寄せてきて、慌てて茉優たちを見ると、そこには人が一人もいなかった。振り返って、そこにいるはずの大友を見ようとしたが、彼女の姿も見つけられなかった。

 ぽつん。道路の真ん中で一人、世界から取り残されたかのようだった。
 まずい、そう思った瞬間に鞄のキーホルダーを握ったが、すぐに頭を横に振った。まずは自分で対処できるようにならないと。
結菜は右手の人差し指と中指をまっすぐ立てて、構えた。

「結」

 自分を囲う半球の結界を思い描いたが、結界は呪力が塵になり、風に吹かれてどこかに飛んで行ってしまった。

「ねぇ」

 後ろから、女性に声をかけられた。大友だろうか。
 振り向くとそこには真っ赤なコートを身にまとった女性がいた。この暑い中コートを着るとはよほどの寒がりだろうか。表情は長い前髪のせいか見えない。口元も大きな白いマスクで覆われているせいでもあるかもしれない。

「きれい?」

 何を訊いているのだろうか。女性の問いに結菜は首を傾げた。

「ねぇ、きれいかしら?」

 相手も首を傾げた。さらりと黒髪が傾いた方に流れた。前髪で隠れていた目が見えたが、その目は何も映し出していない真っ黒なガラスにしか見えなかった。
 女の目を見て、ようやく、この人が普通ではないと理解した。慌てて両手で自分の口を塞いだ。妖と会話してはならない。相手に取り込まれる可能性があるからだ。呪力量が多い人ほど、その傾向にあると三善先生から教わった。
 女は左右に体をゆらゆら揺らしながら、結菜に近づいてきた。その右手には鉈が握られていた。錆びているのか、刃先が黒ずんでいた。
 結界を張ろうにも、恐怖で声が喉の奥から出てこない。

 結界が張れないなら、逃げろ。
 これも三善先生に教わったことだ。結菜は一歩二歩下がってから、後方に向かって全力で走り出した。少しでも距離を取って、時間を稼がないと。

 だが、後ろからヒールの音が聞こえてきた。
 カツッ、カツッ、カツッ。
 ヒールでそんなスピードが出るのかと言うほどのリズム感に、結菜は後ろを振り返ることもできずに走るしかなかった。

 誰か、助けて。
 叫ぶこともできずに、結菜は走り続けていたが途中で何かに躓いた。勢いそのままに、結菜はアスファルトに転んでしまった。日に照らされたアスファルトは熱く、手がやけどしそうだった。

「ねぇ、わたし、きれい?」

 頭の上から声が降ってきた。振り返りたくない。

「ねえ、きれい?」

 何も答えられずにいると、鉈の影が頭上に構えられた。振り下ろされる覚悟をして、結菜は目を瞑った。
 だが、一向に痛みが来ない。不思議に思い、うっすらと目を開け、ゆっくりと振り返った。
 そこにいたのは、鉈を真正面から受け止めていた宮道先生だった。手元にはいつもの白い札があった。札が鉈を受け止められている理由はわからないが、何かの術が掛けられているのかもしれない。

「宮道先生?」
「遅なって、悪かったな。気づくのが遅れたわ」

 その言葉を裏付けるように、宮道先生の背中は汗でシャツが張り付いていた。うなじには今も汗が流れている。