「修学旅行の行き先についてですが、それぞれの行き先が決まったので、プリントで確認してください」

 ホームルームで配られたプリントを結菜は見た。
 高校三年間のイベントの中でも、目玉イベント。二年生の三学期に行き先を沖縄・広島・京都から選んでいた。行き先は三年生の四月の半ばに決定され、同じ行先になった者でグループを組む。

「ねぇねぇ、結菜はどこ?」

 三年生になっても相変わらず結菜の前の席を陣取っているのは、今年もクラスメイトになった望月茉優だった。振り返って、興味津々といった様子で結菜の手元を覗き込んできた。同じプリントが配られたから、わからないはずないが、プリントを見るより先に訊いてきた。

「ええっと……京都、だよ」
「やった。同じじゃん。京都と言えば抹茶スイーツだよねぇ。あ、いや、縁結び神社も捨てがたい?」
「そうだね」
「なんか、めちゃクールだけど?」
「そ、そうかな」

 誤魔化すように笑顔で取り繕った。

 京都には、術者協会本部がある。
 二年のギリギリまで関西方面の国立大学を志望していたから、進学した時の下見になるかもと思って選んだだけ。縛りがなければ、沖縄や広島を選んでいたかもしれない。
 術者協会本部があるからか、術者修行も上手くいっていないからか、あまり観光気分にもなれない。

「一緒に修学旅行を楽しもうねっ」

 茉優の誘いに、結菜は自然と気持ちが前向きになった。クラスの中で京都行は三分の一。その中でもひとグループに四、五人にまとまり、班行動計画を後日立てて、担任に提出する。

 担任、ね。

 教壇に立つ白衣姿の三善先生を結菜はちらりと見た。班行動計画用紙を配り始めているその姿は、教師そのもの。
 丸眼鏡の奥で目を優しく垂らして、穏やかな表情を浮かべていた。昨晩の様子と全く違うことに、結菜は少しだけ口をへの字にした。

「先生は、どこいくんですかー?」

 クラスメイトが三善先生に訊いた。少しだけ戸惑った表情をしたが、一瞬で元の穏やかな表情に戻した。

「僕は京都ですよ。副担任の宮道先生も同じです」
「えー、沖縄が良かったー」
「ずるいっ。広島にも来てくださいよっ」

 先生が騒がしいクラスを宥めながら、ホームルームを終えた。教科書とノートをスクールバッグに仕舞い、結菜は窓の外を見た。手元には修学旅行の行き先以外に、志望大学調査書もあった。
 大学は関東に決めた。けど、大学も学部も決まっていない。駆けない事実を突きつけられている気がして、真っ白なプリントから目を反らした。
 クラスメイトが次々に予備校や部活に行く中、結菜は頬杖をついて、ぼんやりと空を見ていた。
 術者って、何学部が良いんだろう。
 春の日差しは緩く室内を温めながらも、夕方は冷えていく。三寒四温の名の通り、寒暖差がまだまだ激しい。小さくため息を吐いてから、ジャケットに袖を通して、鞄を持った。志望大学調査書を鞄の中にしまい込むと、ゆっくりと教室を出た。

 化学準備室前では、別のクラスの人が三善先生に化学の質問をしていた。丁寧に、やさしく、穏やかに寄り添うように答えている姿に、結菜の胸が何故だか少しだけ苦しくなった。

 階段の方向に視線を反らして、結菜は少しだけ足早にその場を立ち去った。

 別に、なんとも思わない。
 相手は教師だ。当たり前のことをしているだけ。

 術者として稽古をつけてくれていたり、術者としての仕事をしている時の姿は、学校では決して見せない、非日常の姿だ。ごく普通の生徒が知ってはいけないものだ。

 モヤモヤした気持ちをごまかすように、下駄箱に少しだけ乱暴に上履きを突っ込んだ。唇を噛みながら、ローファーを取り出し、足を入れる。

 別に、何とも思っていない。

 自分に言い聞かせるように、心の中で何度も言い聞かせて学校を後にした。
 今日も予備校だ。テキストもノートも入れてきているから、このまま自習室に向かえば良い。なんとなく重い足取りを無理やり動かした。

「いかり肩で突き進むんは、疲れるで」

 呆れた声の関西弁が後ろから聴こえてきた。車通勤のはずなのに、何故か徒歩で結菜と同じ方向に向かって歩いている。

「不思議そうな顔しとんな」
「……先生は車通勤だと思っていたので」
「今日は外部研修やったんや。帰りにちょーっと学校に寄っただや。いやー今日も大変やったわ」
「先生って、大変ですね」
「そうか?」
「だって、先生もしているし、術者もやっているじゃないですか。それに、私に稽古もつけてくれてて」

 それでも、術者としてちっとも成長していない自分にモヤモヤをため込まずにはいられない。ぎゅっと拳を握ったまま、結菜は俯いた。

「……何をそんなに焦ってるん?」
「え?」
「焦っているのも自覚ないとは、あれやなぁ。お疲れモードやん。今日は三善に言って稽古はお休みにしておらおーや」
「ダメですっ」

 悲鳴に近いような、でも、それは泣き声にもなりそうな声だった。

「……休んじゃったら、余計にできなくなるじゃないですか」
「どうしてそう思うん?」
「全然結界張れないし、先生たちに無駄な時間使わせてるし、こんな状態でよく」

 私に稽古をつけてくれるんですね、と僻みにしか聞こえない言葉が、小さくこぼれた。脇を車が通り抜けて、情けない言葉がかき消された。
 視線はローファーから離れない。今自分がどんな顔をしているのか、鏡を見なくてもわかる。こんなぐちゃぐちゃに崩れそうな顔、誰にも見せたくない。

「ほんまに、おつかれやな。やっぱり受験生は大変やんなぁ。俺らも変に気負わせたのかもしれへんな」

 宮道先生の気を使う言い方が、更に結菜を頑なにさせた。

「ち、ちが」
「スランプなんて、誰でもあるし、あんまり気にせんと」

 違うと、それ以上言うのを結菜は止めた。
 結菜自身、何が原因かがわからない。だから、宮道先生の慰めも否定できない。

「……気を付けて、予備校に行き。最近妖もおらんし、たまの休みもええやん。今日はまっすぐ帰るんやで」

 肩を軽く叩いた宮道先生に別れを告げ、結菜は予備校に向かった。

 最近、確かに妖を一つも視ない。
 いつからだっただろうか。一時視えなくなったと焦って三善先生たちに相談したが、先生たちも視えないことに疑問を持っていた。
 黄昏時から丑三つ時まで妖の活動時間。
 その時間は予備校の授業で、帰宅時間。できるだけ家から近い予備校を選んだのも、妖に絡まれないため。
 術者としての稽古をつけてもらうのも、家の近くの公園なのは同じ理由。
 ここまで妖を視ない日は、多分物心ついてから初めてだった。一体、何が原因かはわからない。
 それと同じくして、先生たちも少しばかり忙しそうにしている。かりそめの仕事である教師としても三年生クラスの担任を請け負ったからかもしれないし、本業の術者としての仕事が立て込んでいるからかもしれない。

 でも、それ以上は何もわからない。
 何もわからないことが、結菜の心に少しだけ不安を煽ってくる。その不安をなんとかしたくて、術者修行もがむしゃらにやっているが、結果が出てこない。それで更に不安を煽られてしまう。

 スマホが小さく振動した。ポケットから取り出すと三善先生からのメッセージだった。

『今日は休み』

 淡白すぎる。結菜はぐっと唇をかみしめた。心配しているのか、呆れているのかもわからない。たった五文字のメッセージに返信することなく、結菜はスマホを鞄に入れて予備校に向かった。