その瞬間、けたたましい音が窓側から聞こえてきた。降り注ぐ窓ガラスの破片と共に現れたのは、窓ガラスを突き破って入ってきた三善先生だった。
窓際にいた大友も三善先生の登場を予期していなかったようで、驚いたまま固まっていた。その隙に転がり込んできた三善先生はすぐさま起き上がり、大友の手に握られていた巻物を奪った。一応、展望台の窓ガラスってかなりの厚さがあるし、人間がジャンプしたくらいじゃ届くはずのない高さなんだけど。
ガラス破片であちこちを切った三善先生は痛みを表情に出すことなく、スラックスのポケットに巻物を押し込んだ。
「……なに、ヒーローみたいなことしてんのよ、柊」
溢れ出ている涙をこらえる素振りもなく、苦笑した大友が頬に傷を負った三善先生の顔を撫でた。目を眇めて彼女の肩を掴み、三善先生は真正面から大友に言った。
「止めるにはどうしたら良かった?」
さっきまでの話を知らなかったはずなのに、三善先生は悔しさと後悔を混ぜたような表情で彼女に震える声で訊いていた。もしかしたら、清水寺近くで会った時に三善先生は何か気づいていたのかもしれない。だから、生徒たちが帰ってきた後の夜に一人隠れて街を歩いて情報を集めていたのかもしれない。
目の前の同期をどうにかして助けたくて。
「……バカね。そんなことを聞いて今更どうするの?」
大友も気づいているようで、呆れた声で言った。大友の言葉に三善先生がぐっと言葉を詰まらせた。
「別に、巻物を開かなくても、私の命令一つで百鬼夜行は決行される」
「は?」
「ふふっ、間抜けな顔」
「……できるはず、ないだろ」
絞り出すような三善先生の声は、少し擦れていた。
「バカにしないでくれる? 天才と呼び高いあなたがそう言っても、今の私には可能なの。そこで、ちゃんと見ておいてよ」
ゆるりと両手を挙げた大友が柏手を大きく一つ打ち鳴らした。静かな空間に響いたその音が外にあった結界に軽くヒビを入れた。
「ほら、ね?」
小首を傾げていたずらっ子のように大友が微笑んだ。ゆっくりと両手を挙げ直して、先ほどと同じ構えを取る。
そのモーションを見た三善先生がすぐさま右手の人差し指と中指だけ伸ばし、彼女に指先を突きつける。
「……術式を解除しろ」
「やる気になったのかな、柊は」
「今ならまだ一線を越えていない。止めろ」
一歩一歩大友との距離を詰めていく三善先生を見ても、大友は動揺すらしていない。この状況を何とも思っていないのか、冷たく微笑んだままだ。
「甘いところがあるのは、変わらないのね」
「警告はしたぞ」
次は実力行使だと言外に言ってのける三善先生を見たくなくて、結菜は俯いて、目を瞑った。先生の手が血に塗れるところを見たくない。
「……今まで、ありがとう、柊」
「バカやろうが」
三善先生の言葉が湿っている気がした。
次の音を聞きたくなくて、耳を塞ごうとしたが、大友の小さな悲鳴だけしか聞こえなかった。
「お前ばかりに、カッコ良い姿はさせられへんよな」
緊迫した空気の中で、緩い関西弁が聞こえてきた。
ぱっと顔を上げて大友を見ると、宮道先生に後ろ手に拘束をされていた。大友も何があったかわからない様子で、驚いた顔で肩越しに宮道先生を見ていた。
「どうして」
宮道先生は大友の額に軽くデコピンをした。
「オレやって、大友ちゃんのこと大事やし。同期が目の前でヤバいことしようと思ってんの止めたいのは、三善と同じやで」
「……でも」
「まだ、死ぬには早いんや、まだ」
「…………そうね」
「なら、解除してや」
「ここまでのことをしたのに、できるって思ってるの?」
「できるやろ。そのくらいの安全装置は作ってるんと違う?」
宮道先生の問いに、大友は力が抜けたのか膝から崩れ落ちた。拘束から逃れられないように宮道先生はまだ彼女の腕を掴んだままだ。
「……解式、お帰りになってください」
小さく呟かれた言葉が、清らかな風になり、大友を中心として巻き起こった。さっきまで感じていた重苦しい空気がどこかに消え去り、暗雲立ち込めていた京都の街に天から光が差してきた。いつの間にか朝が近づいていたみたいだった。
五条大橋の方を見ると、立ち込めていた濃い瘴気もきれいになくなり、五条大橋の向こう側の景色が澄んできれいに見えた。
「ありがとうな、ほんま」
宮道先生がそう言うと、ゆっくりと大友を立ち上がらせた。彼女が立ち上がった瞬間、三善先生が結菜の前から離れて、彼女の肩を抱いていた。
「柊らしくない。彼女のせいかしら?」
結菜はどんな顔をしたら良いかわからず困惑していると、三善先生が大友の肩をさらにぎゅっと抱いた。一瞬だけ大友の目が大きくなった。
「……ただ、俺はお前を助けたかったんだ。どうしたら、助けられた?」
「……それこそ、無意味な問いよ」
三善先生の腕をそっと下ろした大友は、呆然と立ち尽くす三善先生の傍を離れ、宮道先生と共にエレベーターに向かって行った。
「行きましょうか。お願ね、宮道くん」
「……わかってるて」
「優しくないのね、あなたは」
涙を拭った大友に宮道先生が付き添う形でエレベーターに乗り込んだ。結菜は三善先生を見ると、彼が何かを耐えるように何度も握りしめた拳を額にぶつけていた。痛みを忘れることが無いようになのか、それもと何かの戒めなのかわからない。
「……っ」
何か声をかけたいのに、結菜は口を閉じてしまった。
痛みに耐える三善先生を見て、今は声をかけるべきじゃないと思った。
寄り添えるほどの何かもなく、かといってこの場に留まって先生を見ているのも辛くて、結菜は踵を返した。
それに、大友に訊きたいことがあった。
三善先生が彼女に質問をしていた。
いつなら、どうやったら、助けられたか。
今の結菜にできることは、その問いの答えを三善先生のために聞くことだという考えに至った。聞いたところで、聞く意味があるのか、先生に伝えるべき内容なのかはわからないが、それでも結菜の中ですっきりしない。だから、訊きに行く。
扉が開いたままのエレベーターの乗り込み、二人を追いかける。ゆっくりと降りていくエレベーターにもどかしさを感じながら、階数が変わっていくのを見上げ続けた。ようやく一階に辿り着いたところで、まだ目を覚ましていない観光客たちを踏まないように注意しながら入り口に向かって走った。
入り口の前では、まだ大友と宮道先生が何かを話していた。事情聴取をしているのかもしれない。良かった、間に合った。
「あのっ」
だけど、次の瞬間、結菜の問いは彼女には届かなかった。
大友の体はくの字に曲がり、宮道先生に寄りかかっていた。胸のあたりから何かが突き抜けているようで、ドバドバと血が出ていた。
目の前で何が起きているのかわからない時は、本当に頭が真っ白になることをこのとき結菜は初めて知った。
いつも穏やかな表情しか見たことがない宮道先生の横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただひどく冷たい目で、寄りかかっている大友を見ていた。
スローモーションのように大友から何かを抜くように宮道先生が腕を動かすと、更に血が溢れ出てきていた。既に意識がないのか、大友は人形のように床に打ち捨てられた。目は固く閉じられているし、口元は何故か綻んだままのようで、苦しさも痛さも見て感じられなかった。
なんで。
そう言葉が結菜の口から出なかった。喉の奥に何かが押し込まれているようだった。一歩後ずさり、柱に背中がぶつかった。その音を聞き、ようやく宮道先生が結菜を鋭い目で捉えた。見たことが無いほどの怖さに結菜の体が固まった。
「なんや、見られてもうたか」
困ったように笑う宮道先生は、いつもと変わらない言い方だった。だけど、右手は大友の血で濡れているし、左手はポケットに突っ込んだままだ。
ひっと喉の奥で小さく悲鳴が上がったのを、結菜は感じた。
逃げないと。でも、宮道先生があんなことするわけじゃない。もしかして、夜叉丸が宮道先生に化けているのかも。
「やっぱり、あの時、パンフを渡しておいて良かったんやな」
悲しげに口元に微笑を浮かべた宮道先生は言った。
ゆっくりと血に塗れた手で結菜のリュックを指した。
「それ、忘却用のキーなんや」
「え?」
目の前の事実に頭が追いつかない。固まったまま宮道先生を見ていると、彼は結菜の前で立ち止った。口を手で塞ぎ必死に悲鳴を上げるのを堪えながら先生を見た。
「ごめんやで、結菜ちゃん」
はっきりと耳に宮道先生の言葉が届いた瞬間、結菜の意識が反転した。
窓際にいた大友も三善先生の登場を予期していなかったようで、驚いたまま固まっていた。その隙に転がり込んできた三善先生はすぐさま起き上がり、大友の手に握られていた巻物を奪った。一応、展望台の窓ガラスってかなりの厚さがあるし、人間がジャンプしたくらいじゃ届くはずのない高さなんだけど。
ガラス破片であちこちを切った三善先生は痛みを表情に出すことなく、スラックスのポケットに巻物を押し込んだ。
「……なに、ヒーローみたいなことしてんのよ、柊」
溢れ出ている涙をこらえる素振りもなく、苦笑した大友が頬に傷を負った三善先生の顔を撫でた。目を眇めて彼女の肩を掴み、三善先生は真正面から大友に言った。
「止めるにはどうしたら良かった?」
さっきまでの話を知らなかったはずなのに、三善先生は悔しさと後悔を混ぜたような表情で彼女に震える声で訊いていた。もしかしたら、清水寺近くで会った時に三善先生は何か気づいていたのかもしれない。だから、生徒たちが帰ってきた後の夜に一人隠れて街を歩いて情報を集めていたのかもしれない。
目の前の同期をどうにかして助けたくて。
「……バカね。そんなことを聞いて今更どうするの?」
大友も気づいているようで、呆れた声で言った。大友の言葉に三善先生がぐっと言葉を詰まらせた。
「別に、巻物を開かなくても、私の命令一つで百鬼夜行は決行される」
「は?」
「ふふっ、間抜けな顔」
「……できるはず、ないだろ」
絞り出すような三善先生の声は、少し擦れていた。
「バカにしないでくれる? 天才と呼び高いあなたがそう言っても、今の私には可能なの。そこで、ちゃんと見ておいてよ」
ゆるりと両手を挙げた大友が柏手を大きく一つ打ち鳴らした。静かな空間に響いたその音が外にあった結界に軽くヒビを入れた。
「ほら、ね?」
小首を傾げていたずらっ子のように大友が微笑んだ。ゆっくりと両手を挙げ直して、先ほどと同じ構えを取る。
そのモーションを見た三善先生がすぐさま右手の人差し指と中指だけ伸ばし、彼女に指先を突きつける。
「……術式を解除しろ」
「やる気になったのかな、柊は」
「今ならまだ一線を越えていない。止めろ」
一歩一歩大友との距離を詰めていく三善先生を見ても、大友は動揺すらしていない。この状況を何とも思っていないのか、冷たく微笑んだままだ。
「甘いところがあるのは、変わらないのね」
「警告はしたぞ」
次は実力行使だと言外に言ってのける三善先生を見たくなくて、結菜は俯いて、目を瞑った。先生の手が血に塗れるところを見たくない。
「……今まで、ありがとう、柊」
「バカやろうが」
三善先生の言葉が湿っている気がした。
次の音を聞きたくなくて、耳を塞ごうとしたが、大友の小さな悲鳴だけしか聞こえなかった。
「お前ばかりに、カッコ良い姿はさせられへんよな」
緊迫した空気の中で、緩い関西弁が聞こえてきた。
ぱっと顔を上げて大友を見ると、宮道先生に後ろ手に拘束をされていた。大友も何があったかわからない様子で、驚いた顔で肩越しに宮道先生を見ていた。
「どうして」
宮道先生は大友の額に軽くデコピンをした。
「オレやって、大友ちゃんのこと大事やし。同期が目の前でヤバいことしようと思ってんの止めたいのは、三善と同じやで」
「……でも」
「まだ、死ぬには早いんや、まだ」
「…………そうね」
「なら、解除してや」
「ここまでのことをしたのに、できるって思ってるの?」
「できるやろ。そのくらいの安全装置は作ってるんと違う?」
宮道先生の問いに、大友は力が抜けたのか膝から崩れ落ちた。拘束から逃れられないように宮道先生はまだ彼女の腕を掴んだままだ。
「……解式、お帰りになってください」
小さく呟かれた言葉が、清らかな風になり、大友を中心として巻き起こった。さっきまで感じていた重苦しい空気がどこかに消え去り、暗雲立ち込めていた京都の街に天から光が差してきた。いつの間にか朝が近づいていたみたいだった。
五条大橋の方を見ると、立ち込めていた濃い瘴気もきれいになくなり、五条大橋の向こう側の景色が澄んできれいに見えた。
「ありがとうな、ほんま」
宮道先生がそう言うと、ゆっくりと大友を立ち上がらせた。彼女が立ち上がった瞬間、三善先生が結菜の前から離れて、彼女の肩を抱いていた。
「柊らしくない。彼女のせいかしら?」
結菜はどんな顔をしたら良いかわからず困惑していると、三善先生が大友の肩をさらにぎゅっと抱いた。一瞬だけ大友の目が大きくなった。
「……ただ、俺はお前を助けたかったんだ。どうしたら、助けられた?」
「……それこそ、無意味な問いよ」
三善先生の腕をそっと下ろした大友は、呆然と立ち尽くす三善先生の傍を離れ、宮道先生と共にエレベーターに向かって行った。
「行きましょうか。お願ね、宮道くん」
「……わかってるて」
「優しくないのね、あなたは」
涙を拭った大友に宮道先生が付き添う形でエレベーターに乗り込んだ。結菜は三善先生を見ると、彼が何かを耐えるように何度も握りしめた拳を額にぶつけていた。痛みを忘れることが無いようになのか、それもと何かの戒めなのかわからない。
「……っ」
何か声をかけたいのに、結菜は口を閉じてしまった。
痛みに耐える三善先生を見て、今は声をかけるべきじゃないと思った。
寄り添えるほどの何かもなく、かといってこの場に留まって先生を見ているのも辛くて、結菜は踵を返した。
それに、大友に訊きたいことがあった。
三善先生が彼女に質問をしていた。
いつなら、どうやったら、助けられたか。
今の結菜にできることは、その問いの答えを三善先生のために聞くことだという考えに至った。聞いたところで、聞く意味があるのか、先生に伝えるべき内容なのかはわからないが、それでも結菜の中ですっきりしない。だから、訊きに行く。
扉が開いたままのエレベーターの乗り込み、二人を追いかける。ゆっくりと降りていくエレベーターにもどかしさを感じながら、階数が変わっていくのを見上げ続けた。ようやく一階に辿り着いたところで、まだ目を覚ましていない観光客たちを踏まないように注意しながら入り口に向かって走った。
入り口の前では、まだ大友と宮道先生が何かを話していた。事情聴取をしているのかもしれない。良かった、間に合った。
「あのっ」
だけど、次の瞬間、結菜の問いは彼女には届かなかった。
大友の体はくの字に曲がり、宮道先生に寄りかかっていた。胸のあたりから何かが突き抜けているようで、ドバドバと血が出ていた。
目の前で何が起きているのかわからない時は、本当に頭が真っ白になることをこのとき結菜は初めて知った。
いつも穏やかな表情しか見たことがない宮道先生の横顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただひどく冷たい目で、寄りかかっている大友を見ていた。
スローモーションのように大友から何かを抜くように宮道先生が腕を動かすと、更に血が溢れ出てきていた。既に意識がないのか、大友は人形のように床に打ち捨てられた。目は固く閉じられているし、口元は何故か綻んだままのようで、苦しさも痛さも見て感じられなかった。
なんで。
そう言葉が結菜の口から出なかった。喉の奥に何かが押し込まれているようだった。一歩後ずさり、柱に背中がぶつかった。その音を聞き、ようやく宮道先生が結菜を鋭い目で捉えた。見たことが無いほどの怖さに結菜の体が固まった。
「なんや、見られてもうたか」
困ったように笑う宮道先生は、いつもと変わらない言い方だった。だけど、右手は大友の血で濡れているし、左手はポケットに突っ込んだままだ。
ひっと喉の奥で小さく悲鳴が上がったのを、結菜は感じた。
逃げないと。でも、宮道先生があんなことするわけじゃない。もしかして、夜叉丸が宮道先生に化けているのかも。
「やっぱり、あの時、パンフを渡しておいて良かったんやな」
悲しげに口元に微笑を浮かべた宮道先生は言った。
ゆっくりと血に塗れた手で結菜のリュックを指した。
「それ、忘却用のキーなんや」
「え?」
目の前の事実に頭が追いつかない。固まったまま宮道先生を見ていると、彼は結菜の前で立ち止った。口を手で塞ぎ必死に悲鳴を上げるのを堪えながら先生を見た。
「ごめんやで、結菜ちゃん」
はっきりと耳に宮道先生の言葉が届いた瞬間、結菜の意識が反転した。



