「嫌です」
「あ?」
すみません。険しい顔で見上げないでください。三善先生、ご自分の顔の凶器具合をご自覚なさってください。
「わ、私にもできることあるなら、と、考えてですね」
「……」
逡巡していた三善先生が立ち上がった。呆れた感じでため息を小さく吐いてから、結菜をじっと見た。
「遅れるなよ」
「……はいっ」
結菜の覚悟を決めた返事に満足そうに頷いた三善先生は、ポケットから小さなコンパスのようなものを取り出した。
「本当は、宮道の方がこういうのは得意だが」
コンパスの上に左手をかざして、小さな呪文を三善先生が唱えるとコンパスが仄かに光を帯びた。一瞬の間を置いてから、まっすぐな光の線が伸びた。方向を見ると、京都タワーにまっすぐ伸びていた。
「行くぞ」
もと来た道を戻ることになるが、結菜も三善先生も共に駆け出していた。人がいないからか走りやすい。
不思議なことに、さっき倒した土人形以外に妖は一つたりともで無かった。おかげで、走る体力だけを考えれば良いので、結菜は助かるが、奇妙なのは変わりなかった。
いつだか修行の時に宮道先生が教えてくれたことを思い出した。
妖とは瘴気が濃い中が一番強く存在するのだと。
瘴気に吸い寄せられるようにして、あいつらは集まるのだと。
確かに、誰かが張った結界の外は瘴気が濃く見えた。だからそちらに妖が集まるのはわかる。だけど、結界の中も、瘴気の濃度は少し薄い程度で、妖がいない理由にはならない。
誰かが、意図的に結界の外に妖を集めている。
でも、なんで。百鬼夜行と関係があるのだろうか。
京都タワーに近づけば近づくほど、結界の外とは違った瘴気の濃さに結菜は軽く眩暈を覚えた。思わず立ち止まり、何度かはっきりと瞬きをする。
立ち止った結菜に気づいたのか、少し前を走っていた三善先生が足を止めて、振り返った。
「どうした?」
「大丈夫です。ちょっと、眩暈がしただけで」
「……ここから先に進むのは危険だから」
「私も行きます」
「だが……」
「そこは絶対に譲れません」
少しだけ目を細めて、結菜を上から下まで何往復かしてみると、三善先生はまた前を向いて走り出した。結菜も置いて行かれないように駆け出す。
徐々に空気が重くなってきた。一体誰がこんなことを。
京都タワーの入り口前が見えてくると、そこには大友一人だけがいた。橋の上で会った時とは様子が違う。大友を中心として、あらゆる動物の式神が大友を守るようにして控えていた。式神たちのどれもが、目を虚ろにし、牙をむき出しにし、全方位を威嚇している。近づけば噛みつかれるかもしれない。
「……遅かったね、柊」
振り返ることもせず、大友は静かに声をかけてきた。距離を保ちながら三善先生が立ち止った。結菜も三善先生の傍に立つが、式神たちに睨みつけられると、腰が引けた。向けられたことが無いほどの敵意に足が震える。
「……式神、出し過ぎだ」
「あなたが、気にするほどのことじゃないよ」
「いったい何が目的なんだ」
「随分安っぽいセリフね。どうしたの、あなたらしくない」
大友は三善先生を見ることなく、じっと京都タワーを見上げた。真っ白に塗られた外観は、空に向かって伸びている。ライトアップしているはずの時間なのに、点灯されていないのは今の状況が原因なのかもしれない。
「……七海」
三善先生が、躊躇いがちに大友に声をかける。
「何があったんだ」
まっすぐな三善先生の言葉に、大友は肩を竦めるだけだった。
「天才のあなたにはわからないことよ」
「そんな言い方をするな。……同期だろうが」
悔しさを滲ませた三善先生の声を結菜は初めて聞いた。並び立つ三善先生の表情を知りたくて、そっと見上げると、何かを堪えているように見えた。
「……そうね、確かに同期だったね」
「何があったんだ」
「答える必要はない。……ごめんね、柊。これから、私にはやらなきゃいけないことがあるの」
ふっと微笑んだ大友の右手が高く上げられ、そこから指音が軽く鳴ると一斉に式神たちが結菜たちに向かって襲い掛かってきた。
「ばかやろうが」
素早く手の形を整えた三善先生はぎりっと歯ぎしりを立てた。伸ばされた人差し指と中指は式神たちを指した。
「滅」
的確に一体ずつ確実祓っていく三善先生の後ろに隠れた結菜は、大友が京都タワーの中に入って行くのが見えた。三善先生が式神たちを引き付けているうちに、姿をまたくらますのかもしれない。
結菜は慌てて大友を追うように駆け出した。
「おいっ、日下部っ」
三善先生が慌てた声で名前を呼んでくれたが、結菜は無視して京都タワーに入った。展望エリアに続くエレベーターに乗り込む大友を見て、結菜も無理やり入った。
しまった。考えなしに、二人きりになるんじゃなかった。
その考えに至り後悔したが、三善先生の顔を思い出して結菜はぎゅっとこぶしを握って大友を見た。くすっと小さく笑った彼女は顔を傾げた。
「ええと、日下部さん、だったかしら?」
「……はい」
「どうして来たの。柊にでも言われた?」
「違います。私の意思です」
「あなたのような無能な術者モドキが傍にいたから、柊も変わったのかしら」
「私のことを知らないで随分な言い方をするんですね」
さすがにイラっとした。確かに足手まといにしかならないかもしれないけど。それでも、今は少しでも三善先生のためにできることはやりたい。
「……若いって良いね。無謀でも、無茶でも、なんでもできて」
静かに上り続けるエレベーターの中で、小さな声で大友は言った。
「天才の傍にいると疲れない?」
「天才……?」
結菜が首を傾げたのを見ると、大友はキョトンとした。
「なんで、そこで疑問符をつけるの」
「いや、だって、三善先生は顔怖いですし、口調も悪いし、なんなら黙っていたら、あの人、ヤがつくお仕事の人に見えませんか?」
結菜の返答がよほど想定外だったのか、ますます目を丸くして大友は結菜を見た。
「あれ……違いますか?」
「……初めて見た、柊をそういうふうに言う人」
「そうなんですか?」
「だって、呪力量はずば抜けているし、それを使いこなせるセンスと技術力。あれほどのモノを見て、天才だって思わないの?」
「……すごいなって思ったことはありますけど、天才とは思ったことはないです」
「羨ましい限りね。それが、柊にとって傍にいても良いかどうか、なのかも」
チンッと到着を告げる音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。床には観光客が倒れて、意識を失ったままだ。その人たちの間をステップを踏むように大友は進み、窓の前に立つ。
窓の向こうに見えたのは、暗雲立ち込めた真っ暗闇そのものだった。
「……何をするんですか?」
問を投げると、大友は小首を傾げて笑って見せてきた。痛々しいような微笑みを見て、結菜は聞くことを憚られたように感じた。
「百鬼夜行って、わかる?」
返ってきた言葉に、結菜は自分の耳を疑った。
百鬼夜行。
いろいろな姿をした鬼たちが練り歩く姿を誰かがそう表現した、と記憶している。だけど、国語の意味的なことを問われているのではないと、流石に分かった。
術者として、百鬼夜行を答えるならば、未曾有のテロ。
人間と妖の狭間を超えさせて、幽世から現世にあらゆる妖たちを召喚し、暴れさせる。暴れさせるって言うのは、被害が小さいような言葉だが、実際は違う。
何百年もの昔、まだ陰陽師たちが第一線で戦っていた時に発生したことがあると文献で読んだことがある。その時の被害は、地方一つが簡単に更地になり、人というモノが欠片も残らなかったそうだ。
それを、今目の前の人はこともなげに言ったのだ。
「……やめてください、そんなことしたら」
「普通は、そう言うよね」
肩を軽く竦めた大友からは何の感情も感じなかった。同意しているのではない、ただ事実を言っているだけのように聞こえる。
「でも、考えてみて。自分の最愛の人が蘇る可能性を」
「あ?」
すみません。険しい顔で見上げないでください。三善先生、ご自分の顔の凶器具合をご自覚なさってください。
「わ、私にもできることあるなら、と、考えてですね」
「……」
逡巡していた三善先生が立ち上がった。呆れた感じでため息を小さく吐いてから、結菜をじっと見た。
「遅れるなよ」
「……はいっ」
結菜の覚悟を決めた返事に満足そうに頷いた三善先生は、ポケットから小さなコンパスのようなものを取り出した。
「本当は、宮道の方がこういうのは得意だが」
コンパスの上に左手をかざして、小さな呪文を三善先生が唱えるとコンパスが仄かに光を帯びた。一瞬の間を置いてから、まっすぐな光の線が伸びた。方向を見ると、京都タワーにまっすぐ伸びていた。
「行くぞ」
もと来た道を戻ることになるが、結菜も三善先生も共に駆け出していた。人がいないからか走りやすい。
不思議なことに、さっき倒した土人形以外に妖は一つたりともで無かった。おかげで、走る体力だけを考えれば良いので、結菜は助かるが、奇妙なのは変わりなかった。
いつだか修行の時に宮道先生が教えてくれたことを思い出した。
妖とは瘴気が濃い中が一番強く存在するのだと。
瘴気に吸い寄せられるようにして、あいつらは集まるのだと。
確かに、誰かが張った結界の外は瘴気が濃く見えた。だからそちらに妖が集まるのはわかる。だけど、結界の中も、瘴気の濃度は少し薄い程度で、妖がいない理由にはならない。
誰かが、意図的に結界の外に妖を集めている。
でも、なんで。百鬼夜行と関係があるのだろうか。
京都タワーに近づけば近づくほど、結界の外とは違った瘴気の濃さに結菜は軽く眩暈を覚えた。思わず立ち止まり、何度かはっきりと瞬きをする。
立ち止った結菜に気づいたのか、少し前を走っていた三善先生が足を止めて、振り返った。
「どうした?」
「大丈夫です。ちょっと、眩暈がしただけで」
「……ここから先に進むのは危険だから」
「私も行きます」
「だが……」
「そこは絶対に譲れません」
少しだけ目を細めて、結菜を上から下まで何往復かしてみると、三善先生はまた前を向いて走り出した。結菜も置いて行かれないように駆け出す。
徐々に空気が重くなってきた。一体誰がこんなことを。
京都タワーの入り口前が見えてくると、そこには大友一人だけがいた。橋の上で会った時とは様子が違う。大友を中心として、あらゆる動物の式神が大友を守るようにして控えていた。式神たちのどれもが、目を虚ろにし、牙をむき出しにし、全方位を威嚇している。近づけば噛みつかれるかもしれない。
「……遅かったね、柊」
振り返ることもせず、大友は静かに声をかけてきた。距離を保ちながら三善先生が立ち止った。結菜も三善先生の傍に立つが、式神たちに睨みつけられると、腰が引けた。向けられたことが無いほどの敵意に足が震える。
「……式神、出し過ぎだ」
「あなたが、気にするほどのことじゃないよ」
「いったい何が目的なんだ」
「随分安っぽいセリフね。どうしたの、あなたらしくない」
大友は三善先生を見ることなく、じっと京都タワーを見上げた。真っ白に塗られた外観は、空に向かって伸びている。ライトアップしているはずの時間なのに、点灯されていないのは今の状況が原因なのかもしれない。
「……七海」
三善先生が、躊躇いがちに大友に声をかける。
「何があったんだ」
まっすぐな三善先生の言葉に、大友は肩を竦めるだけだった。
「天才のあなたにはわからないことよ」
「そんな言い方をするな。……同期だろうが」
悔しさを滲ませた三善先生の声を結菜は初めて聞いた。並び立つ三善先生の表情を知りたくて、そっと見上げると、何かを堪えているように見えた。
「……そうね、確かに同期だったね」
「何があったんだ」
「答える必要はない。……ごめんね、柊。これから、私にはやらなきゃいけないことがあるの」
ふっと微笑んだ大友の右手が高く上げられ、そこから指音が軽く鳴ると一斉に式神たちが結菜たちに向かって襲い掛かってきた。
「ばかやろうが」
素早く手の形を整えた三善先生はぎりっと歯ぎしりを立てた。伸ばされた人差し指と中指は式神たちを指した。
「滅」
的確に一体ずつ確実祓っていく三善先生の後ろに隠れた結菜は、大友が京都タワーの中に入って行くのが見えた。三善先生が式神たちを引き付けているうちに、姿をまたくらますのかもしれない。
結菜は慌てて大友を追うように駆け出した。
「おいっ、日下部っ」
三善先生が慌てた声で名前を呼んでくれたが、結菜は無視して京都タワーに入った。展望エリアに続くエレベーターに乗り込む大友を見て、結菜も無理やり入った。
しまった。考えなしに、二人きりになるんじゃなかった。
その考えに至り後悔したが、三善先生の顔を思い出して結菜はぎゅっとこぶしを握って大友を見た。くすっと小さく笑った彼女は顔を傾げた。
「ええと、日下部さん、だったかしら?」
「……はい」
「どうして来たの。柊にでも言われた?」
「違います。私の意思です」
「あなたのような無能な術者モドキが傍にいたから、柊も変わったのかしら」
「私のことを知らないで随分な言い方をするんですね」
さすがにイラっとした。確かに足手まといにしかならないかもしれないけど。それでも、今は少しでも三善先生のためにできることはやりたい。
「……若いって良いね。無謀でも、無茶でも、なんでもできて」
静かに上り続けるエレベーターの中で、小さな声で大友は言った。
「天才の傍にいると疲れない?」
「天才……?」
結菜が首を傾げたのを見ると、大友はキョトンとした。
「なんで、そこで疑問符をつけるの」
「いや、だって、三善先生は顔怖いですし、口調も悪いし、なんなら黙っていたら、あの人、ヤがつくお仕事の人に見えませんか?」
結菜の返答がよほど想定外だったのか、ますます目を丸くして大友は結菜を見た。
「あれ……違いますか?」
「……初めて見た、柊をそういうふうに言う人」
「そうなんですか?」
「だって、呪力量はずば抜けているし、それを使いこなせるセンスと技術力。あれほどのモノを見て、天才だって思わないの?」
「……すごいなって思ったことはありますけど、天才とは思ったことはないです」
「羨ましい限りね。それが、柊にとって傍にいても良いかどうか、なのかも」
チンッと到着を告げる音が鳴り、ゆっくりと扉が開いた。床には観光客が倒れて、意識を失ったままだ。その人たちの間をステップを踏むように大友は進み、窓の前に立つ。
窓の向こうに見えたのは、暗雲立ち込めた真っ暗闇そのものだった。
「……何をするんですか?」
問を投げると、大友は小首を傾げて笑って見せてきた。痛々しいような微笑みを見て、結菜は聞くことを憚られたように感じた。
「百鬼夜行って、わかる?」
返ってきた言葉に、結菜は自分の耳を疑った。
百鬼夜行。
いろいろな姿をした鬼たちが練り歩く姿を誰かがそう表現した、と記憶している。だけど、国語の意味的なことを問われているのではないと、流石に分かった。
術者として、百鬼夜行を答えるならば、未曾有のテロ。
人間と妖の狭間を超えさせて、幽世から現世にあらゆる妖たちを召喚し、暴れさせる。暴れさせるって言うのは、被害が小さいような言葉だが、実際は違う。
何百年もの昔、まだ陰陽師たちが第一線で戦っていた時に発生したことがあると文献で読んだことがある。その時の被害は、地方一つが簡単に更地になり、人というモノが欠片も残らなかったそうだ。
それを、今目の前の人はこともなげに言ったのだ。
「……やめてください、そんなことしたら」
「普通は、そう言うよね」
肩を軽く竦めた大友からは何の感情も感じなかった。同意しているのではない、ただ事実を言っているだけのように聞こえる。
「でも、考えてみて。自分の最愛の人が蘇る可能性を」



