三善先生のヒミツにご注意を【3】

「三善先生?」
「あんだけ練習しただろ。行くぞ」
「えー、結菜ちゃん、そっちなん?」
「お前の呪力量じゃ守り切れないだろ」
「なんやそれ」

 苦笑をしながら宮道先生は数寄屋門を潜るなり、左の道を小走りで行った。結菜は三善先生と共に右方向に向かう。もと来た道を歩くようにしながら、京都の町の中を小走りで駆け抜ける。本格的な術者修行を始めてから欠かさずするようになったランニングのおかげで息が切れない。
 観光地の夜なのに、人がいない。
 その光景が異常に見えた。

「なんで」
「結界のせいだな」

 三十分くらい走っただろうか。五条大橋の上に辿り着くと、三善先生は立ち止った。先生の視線の先には、目に見えるほどのどす黒い空気が漂っていた。

「……なんですか、あれ」

 息を整えながら、結菜は目を疑った。

「遅かったか」
「先生……」

 この先に行ってはいけないのは、見てすぐ分かった。この先に行けばどんな危険に巻き込まれるかも。進まなくてはいけないのに、足が固まって動けない。

「……正直、ここまでとは」
「どういう意味ですか?」
「見ればわかるだろうが。この先は地獄だ。なんてことしてくれてんだろうな」
「地獄……」
「相当な術者じゃないとこの先は生き延びることができない。とんでもねぇものを仕込んだのは」
「彼女だよ」

 重苦しい空気を切り裂くような軽い口調。聞いたことがある、この声。
 振り返るとそこにいたのは、夜叉丸だった。余裕たっぷりの笑みを浮かべて、橋の欄干に腰かけている。さっきまで誰もいなかったはずだ。

 見落とした? 
 三善先生に限ってそんなことは無い。走りながらも何か気配を探るような目線を配らせていたはずだ。

「……お前のせいか、夜叉丸」

 鋭い目で三善先生が夜叉丸を睨むと、そっと結菜を自分の背中に隠した。

「ボクのせいじゃないよ。ボクはちょーっとばかり助けただけだよ」
「助けただ?」
「……まさか、君ほどの術者が全く気付かないと?」

 欄干から降りた夜叉丸は、薄ら笑いをしたまま、コツコツと結菜たちに近づいてきた。球技大会の時には、あれだけ恐怖心を煽られていたのに、今は何も感じない。でも、それは自分が強くなったからじゃない。
 こいつは、何も感じさせていない。
 力の強さも、妖としての気配も、存在すらも。
 視えているはずなのに、そこにいないかのような雰囲気に結菜は飲まれそうになる。奥歯を噛みしめた。悔しからだけじゃない。こうでもしないと、夜叉丸に喰われてもおかしくはない。

「まぁ、それだけボクの助けがここまでのことをしてくれたなんて、嬉しい限りだよ」
「……お前」
「残念だけど、ボクは今回手伝いだけだから、これ以上は興味が無いんだ。それじゃあ、またね、三善先生」

 それだけ言い残すと夜叉丸は影に紛れて姿を消した。

「日下部、お前はここにいろ」
「え?」

 見上げて三善先生の顔を見ると、それは大層極悪面になっていた。この人に今襲い掛かろうとする妖がいろうものなら、瞬殺されるに違いない。

「でも、先生」
「ダメだよ、柊くん」

 振り返ると、結界の外から一人の女性が歩いてきた。真っ黒なスーツを着こなし、髪をひとくくりにしているが、大友に違いなかった。

「……七海」

 こんな状況なのに、三善先生の口から彼女の名前が出てきたことに結菜はなんとも言えぬ違和感を覚えた。
 彼女の名前を読んだからか、それとも術者としての雰囲気がそれと似合わなかったからか。
 あれだけ瘴気が濃いところからやってきたのに、大友には疲れた様子は一切見られなかった。ふと、三善先生に結菜が肩をそっと引き寄せられた。触れられた肩も、密着した身体の側面も熱く感じた。ちらりと見上げて、三善先生の顔を見ると、険しい顔つきになっていた。

「お前……無事だったんだな」
「そうよ。このくらい、何でもないしね」
「……強くなったんだな」
「天才のあなたとは違って、相当苦労したんだけどね」

 耳を掻き上げる仕草から大人の女性らしい色気が漂ってきた。余裕たっぷりの口元は、少しだけ口角が上がった。
 妖艶とも見える美しい大友の笑顔に、結菜はどことなく違和感を覚えた。
 何かが、違う。
 思わずギュッと三善先生のシャツを掴んだ。結菜の不安を感じたのか、三善先生がさらに強く結菜の肩を抱きしめた。

「……なら、お前の式神たちはどうした」

 淡々とした三善先生の問いに、大友の肩が一瞬震えた。

「式神を使うほどじゃなかったのよ」
「嘘つくなよ。これだけの瘴気が濃い中で、どうして無事でいられる」
「……気づいちゃった?」

 小首を傾げて、茶目っ気たっぷりに微笑む大友は、どこか悔しさも滲ませていた。

「お前が努力したところで、この瘴気が濃い中無事でいられるはずはない。無事でいられたのは」

 そこで三善先生が言葉を切った。何かを信じたくない横顔で、疑ったままでいたい。そう願っているように結菜には見えた。

「……お前が、作り出したから、だろうが」
「そうよ」

 即答で答えた大友の顔には感情が一切排除されていた。軽く肩を竦めた彼女はポケットから一枚の深紅色の札を取り出した。紅葉のような、火のような、美しも荒々しく見えるその札に、結菜は恐怖を感じずにはいられなかった。

「先生、どういうことですか……」
「……これだけの瘴気が濃い中、まともにいられるのは、作り出した奴よりも上位の術者もしくは」

 三善先生がちらりと、やや睨むように大友を見た。大友は微笑んで札をそっと唇に当てた。無表情から一転の妖艶な笑みがやけに美しく見えた。

「その本人。やっぱり柊にはわかっちゃったか」
「どうして、こんなことをした」
「理由が必要? そんなこと話している暇はないんじゃない?」
「お前が止めれば、終わる話だろ」
「止めないよ、これは」

 一瞬伏し目がちな目をしてから、大友はまっすぐ三善先生を見た。その目には悲しみも悔しさも押し込めたようだった。

「……復讐だから」

 はらりと深紅色の札が大友の手から落ちていった。ひらひらとゆっくり落ちているはずなのに、結菜も三善先生も一歩も動けず札が行く先をただ見ることしかできなかった。

「さようなら、柊」

 はっと顔を上げた瞬間、黒煙が辺り一面を覆った。大友の姿を見つけることができず、結菜はただ三善の服をギュッと握っとくことしかできなかった。
 盛大な舌打ちをしたかと思うと、三善先生はすぐにいつも通り術を展開するように手を形作った。

「散」

 三善先生と結菜を中心として風が巻き起こると、視界が晴れた。大友がいた場所を見るが、そこに彼女の姿はすでになかった。
 代わりに目の前にいたのは、顔に深紅の札が貼られた人型のような土人形だった。それも片手では足りないほどの数だ。どれもが手をこちらに伸ばしている姿は、キョンシーにしか見えない。ホラー映画は嫌いだけど、目の前に広がる景色はそれと同じに違いない。

「あー、くそっ」

 滅、と唱えて右手を横一線に振るが、滅しても土人形は地面から湧いて出てくる。待って。お化け屋敷ですら苦手なのに、この状況は勘弁してほしい。

「せ、先生っ」
「日下部、結界を張れ」
「え、でも」

 結界と聞いて、結菜はここ最近の失敗を思い出さずにはいられない。それに、失敗したら、三善先生も巻き込むことが何より怖かった。

「目の前に集中しろ」

 低い声で三善先生に言われ、結菜は慌てて姿勢を正した。
 ちらりと三善先生を見ると、前だけを見ていた。余裕が少しなさそうにも見える。祓っても祓っても減らない土人形に苦戦しているようにも見える。

 今、三善先生の助けになることができるのは、結菜しかいない。

 目の前にはホラーな光景が変わらず広がっているし、怖いのはちっとも減ることは無い。
 
 もう、どうとでもなれっ。
 
 グダグダ考えても仕方がない。結菜は覚悟を決めて、三善先生の手と同じように手を形作った。
 とりあえず、少しでも土人形たちが近寄って来ないようにしたい。
 深呼吸をしてから、目の前の土人形たちを見る。

「結っ」

 土人形たちを囲うように半球型の大きな結界ができた。薄くて、少しでも叩いたら割れそうなガラスのようだった。
 結界が無事できたことに対する安堵がある一方で、今にも壊れそうな脆い結界を見て不安が湧いてきた。
 壊れたら、どうしよう。
 震える右手を左腕で支えながら、結界が壊れないように必死で集中していると、頭に温かな手が乗った。ゆっくりと顔を上げると、三善先生が不敵に笑っていた。片頬をあげて、殺気みたいな余裕のなさが消えていて、それでいて戦うことに迷いもなくなっていた。

「よくやった」

 結菜を庇うように三善先生が前に立つと、結菜は心底安心した。

「滅」

 凛と涼やかな声で三善先生が言うと、結菜が囲った結界の中にいた土人形が一瞬で消滅した。まとめて全部倒すことができたからか、土人形が復活することは無かった。

 相変わらず、空は晴れないし、周りの重苦しい空気は変わらない。だけど、少しだけ呼吸を軽くできるような気がした。

「追うか」

 誰を、と言わなくてもわかった。大友は三善先生と宮道先生の同期。気にしないでいるのは、きっと難しい。この先生は目の前で起きたことは絶対に気にしている。だから、この後は大友を追うに決まっている。
 それはわかっているのに、追わないで欲しいと思っている自分がいることに結菜は驚いていた。

「……日下部はここで待ってろ」

 結菜の足元に何かを書こうと屈んでいる三善先生を見て、結菜は言った。