「今日出たところは入試でも出題されやすいから、よく気を付けておくように」
学校終わりの予備校通いも一年が過ぎた。
教科書とノート以外に予備校のテキストとノートも入ったスクールバッグが、肩に食い込むほど重い。日下部結菜はリュックを背負い、予備校を後にした。
大学受験までのカウントダウンが始まった。残り九カ月。一日たりとも無駄にはできないという予備校ならではの雰囲気にはまだ慣れない。
周りは志望校に向かって勉強に集中しているのに対し、結菜は志望大学も学部も決められないでいた。
大学は、関東に絞った。だけど、それ以上絞り込むための決め手に欠けたままだった。
三年生に進級してから急遽進学先を変更したため、一から進学先を検討しなければならなくなった。
理由は、シンプル。術者になりたいから。
将来なりたいものは決まった。だけど、術者に繋がるような学部は何かが分からない。
予備校でも学校でも進学希望先を明記することができずにいた。
「おせーぞ」
予備校の前に止まった白色のセダンの窓から、三善先生が顔を出していた。学校で見る姿とは違い、トレードマークの丸眼鏡を外し、黒色のジャージ姿だった。
助手席には、いつもと変わらない、人の良さそうな顔をしている宮道先生もいた。こちらも同じくジャージ姿。但し、真っ黒不審者感漂う三善先生と違い、適度なおしゃれ感がにじみ出ている。
二人に謝りながら、結菜は周りに知り合いがいないのを確認してから、車に乗り込んだ。
「受験生も大変やなぁ」
おつかれ、と言って宮道先生が差し出してくれたお茶のペットボトルを受け取り、パキッと開ける。講義中は飲み物を飲む余裕はないので、ありがたく飲んだ。
「いつもの公園で良いな」
独り言のように言ってから三善先生が車を動かした。
三年生になってから生活は、受験勉強一色じゃない。
術者修行の時間も増やした。
結菜の家は陰陽師の血筋家系の一つであり、結菜自身も妖を見ることはできる。ただ、これまで術者としての修業をしてきたことが無い。
理由は、兄・勇人が既に後継者として指名されていること、そして、結菜自身に術者としてのセンスがないことが挙げられていた。
結菜も術者になることを考えたことがほとんど無かったが、三善先生と出会ってから術者というものを意識することが増えた。
覚悟をもって術者になることを決めたのは、三年生になる間際だった。遅すぎる術者修行スタートに不安がない訳ではないが、今は三善先生と宮道先生に稽古をつけてもらいながら受験生との生活を両立している。
「おせーぞ、走れっ」
走りながらの結界を作り出す。
体力錬成と合わせて、実践に近い技術を訓練していかなければ術者になるのは夢のまた夢だ。ターゲットは三善先生が作り出した結界。息が上がる中、それを囲うように作り出す。
やることはシンプル。
だが、一向に結界を張ることができないでいた。
「うーん、今日もあかんねぇ。どっか体調悪いん?」
肩で息をしながら結菜は首を横に振った。
体調は悪くはない。受験勉強で少しばかり睡眠時間を削ったくらい。
それでも、自分の中の何かが引っ掛かったようにできなくなった。
「もう一週間以上やろ? スランプか、何か他に原因があるんやろうか」
「……」
大きなため息を吐いて、三善先生が眉間に皺をよせ、何かを思案している。俯いた横顔には困惑と心配が混ざっているように見えた。
「あと十回お願いします」
数を重ねればもしかしたらできるようになるかもしれない。何事も練習。やればできるはず。結菜が呼吸を賭と乗せて、姿勢を正した。
「今日は終わりだ」
結菜のお願いをあっさりと、迷いのない言葉で三善先生が却下した。
唐突な言葉に結菜は何も言い返せなかった。
「無駄打ちしても意味がない」
冷たい言葉が結菜を俯かせた。ぽんと結菜の肩に宮道先生の手が肩に乗った。
「そないなふうに言うことないやん。結菜ちゃんも頑張ってるんやし、もうちょっと粘っても」
「お前、それ本音か?」
「は?」
ピシッと二人の間に絶対零度の空気が流れた。宮道先生が微笑んだまま顔が固まっている。一方の三善先生を見ると、右手で頭を抱えて鬱陶しそうな目で宮道先生を見ていた。
「こっちは仕事の合間を縫ってやっているんだ。結果が結びつかない練習に付き合うほど暇じゃない」
「できるように導くんが師匠のすることやろっ」
「やったことがない奴に対してなら、そうだろうな。だが、こいつは仮にも結界を張ったことがある以上、やったことが無い奴じゃない」
「それはっ」
「こっちも疲れてんだ。帰るぞ」
「三善っ」
肩をぐるぐる回しながら、三善先生は車を止めてある駐車場に向かって歩きだしてしまった。
目の前で言い争われ、無駄だと言われた。
やってきたことが全くできなくなったことに対する原因は自分でもわからない。俯いたまま上着の裾を握っていた自分の両手を見たが、特に異変はない。一体、何が原因なのかわからない。
「あいつは、勝手やなぁ。結菜ちゃんもあんまり気にせんようにな」
特大のため息を吐き、ぐしゃぐしゃと癖毛を掻いた宮道先生がひどく申し訳なさそうな顔で言った。
「……はい」
「ほな、送ってったるわ」
宮道先生に促されて、結菜はスクールバッグを手に取った。
呆れられた。
何故できなくなったかわからない。
悔しい。
何が原因なのか、わからない。
でも、やらなきゃ上手くはならない。
焦りは募る一方で、やればやるほど下手になっている気もする。
やっぱり向いてなかったんだ。
乾いた笑いが口元に浮かんできたが、すぐに唇がわなわなと震えだす。慌てて先生たちに見つからないように、ぎゅっと唇をかみしめた。
泣くな。泣いちゃいけない。
ぽつりと結菜の手の甲に何かが落ちてきた。生暖かい液体は次々と手の甲に落ちてきた。
「大丈夫や、結菜ちゃんは頑張ってる。泣きたいときはちゃんと泣いた方がええ」
宮道先生の優しい言葉と頭に乗った手でようやく自分が泣いていることに気づいた。嗚咽を喉の奥で殺しながら、次々にこぼれて来る涙を手のひらで拭った。静かな公園で自分の泣き声がこんなにも響くんだと結菜が初めて知った夜だった。
宮道先生に送り届けられた後は、極力いつも通りに振舞った。兄・勇人が心配していると言うのがありありとわかるような顔をするもんだから、結菜は黙って勇人の脛を蹴ってやった。声にならないほどの訴えを目でしてきたが、結菜は無視して自室に籠った。
教科書もテキストも開く気になれない。
ごろりと天井を仰ぎ見るようにベッドの上に転がった。眠気が一向に来ない。三善先生に言われたことが頭の中で何度も反芻してしまう。
センスも才能もないのは今に始まったことではない。
自分でも向いていないとわかっていたのに、やる気になる前と後ではこんなにもダメージがちがうとは思わなかった。
じわりと目の端で涙がこぼれてきた。手の甲で拭って結菜は布団をかぶって無理やり眠りについた。
学校終わりの予備校通いも一年が過ぎた。
教科書とノート以外に予備校のテキストとノートも入ったスクールバッグが、肩に食い込むほど重い。日下部結菜はリュックを背負い、予備校を後にした。
大学受験までのカウントダウンが始まった。残り九カ月。一日たりとも無駄にはできないという予備校ならではの雰囲気にはまだ慣れない。
周りは志望校に向かって勉強に集中しているのに対し、結菜は志望大学も学部も決められないでいた。
大学は、関東に絞った。だけど、それ以上絞り込むための決め手に欠けたままだった。
三年生に進級してから急遽進学先を変更したため、一から進学先を検討しなければならなくなった。
理由は、シンプル。術者になりたいから。
将来なりたいものは決まった。だけど、術者に繋がるような学部は何かが分からない。
予備校でも学校でも進学希望先を明記することができずにいた。
「おせーぞ」
予備校の前に止まった白色のセダンの窓から、三善先生が顔を出していた。学校で見る姿とは違い、トレードマークの丸眼鏡を外し、黒色のジャージ姿だった。
助手席には、いつもと変わらない、人の良さそうな顔をしている宮道先生もいた。こちらも同じくジャージ姿。但し、真っ黒不審者感漂う三善先生と違い、適度なおしゃれ感がにじみ出ている。
二人に謝りながら、結菜は周りに知り合いがいないのを確認してから、車に乗り込んだ。
「受験生も大変やなぁ」
おつかれ、と言って宮道先生が差し出してくれたお茶のペットボトルを受け取り、パキッと開ける。講義中は飲み物を飲む余裕はないので、ありがたく飲んだ。
「いつもの公園で良いな」
独り言のように言ってから三善先生が車を動かした。
三年生になってから生活は、受験勉強一色じゃない。
術者修行の時間も増やした。
結菜の家は陰陽師の血筋家系の一つであり、結菜自身も妖を見ることはできる。ただ、これまで術者としての修業をしてきたことが無い。
理由は、兄・勇人が既に後継者として指名されていること、そして、結菜自身に術者としてのセンスがないことが挙げられていた。
結菜も術者になることを考えたことがほとんど無かったが、三善先生と出会ってから術者というものを意識することが増えた。
覚悟をもって術者になることを決めたのは、三年生になる間際だった。遅すぎる術者修行スタートに不安がない訳ではないが、今は三善先生と宮道先生に稽古をつけてもらいながら受験生との生活を両立している。
「おせーぞ、走れっ」
走りながらの結界を作り出す。
体力錬成と合わせて、実践に近い技術を訓練していかなければ術者になるのは夢のまた夢だ。ターゲットは三善先生が作り出した結界。息が上がる中、それを囲うように作り出す。
やることはシンプル。
だが、一向に結界を張ることができないでいた。
「うーん、今日もあかんねぇ。どっか体調悪いん?」
肩で息をしながら結菜は首を横に振った。
体調は悪くはない。受験勉強で少しばかり睡眠時間を削ったくらい。
それでも、自分の中の何かが引っ掛かったようにできなくなった。
「もう一週間以上やろ? スランプか、何か他に原因があるんやろうか」
「……」
大きなため息を吐いて、三善先生が眉間に皺をよせ、何かを思案している。俯いた横顔には困惑と心配が混ざっているように見えた。
「あと十回お願いします」
数を重ねればもしかしたらできるようになるかもしれない。何事も練習。やればできるはず。結菜が呼吸を賭と乗せて、姿勢を正した。
「今日は終わりだ」
結菜のお願いをあっさりと、迷いのない言葉で三善先生が却下した。
唐突な言葉に結菜は何も言い返せなかった。
「無駄打ちしても意味がない」
冷たい言葉が結菜を俯かせた。ぽんと結菜の肩に宮道先生の手が肩に乗った。
「そないなふうに言うことないやん。結菜ちゃんも頑張ってるんやし、もうちょっと粘っても」
「お前、それ本音か?」
「は?」
ピシッと二人の間に絶対零度の空気が流れた。宮道先生が微笑んだまま顔が固まっている。一方の三善先生を見ると、右手で頭を抱えて鬱陶しそうな目で宮道先生を見ていた。
「こっちは仕事の合間を縫ってやっているんだ。結果が結びつかない練習に付き合うほど暇じゃない」
「できるように導くんが師匠のすることやろっ」
「やったことがない奴に対してなら、そうだろうな。だが、こいつは仮にも結界を張ったことがある以上、やったことが無い奴じゃない」
「それはっ」
「こっちも疲れてんだ。帰るぞ」
「三善っ」
肩をぐるぐる回しながら、三善先生は車を止めてある駐車場に向かって歩きだしてしまった。
目の前で言い争われ、無駄だと言われた。
やってきたことが全くできなくなったことに対する原因は自分でもわからない。俯いたまま上着の裾を握っていた自分の両手を見たが、特に異変はない。一体、何が原因なのかわからない。
「あいつは、勝手やなぁ。結菜ちゃんもあんまり気にせんようにな」
特大のため息を吐き、ぐしゃぐしゃと癖毛を掻いた宮道先生がひどく申し訳なさそうな顔で言った。
「……はい」
「ほな、送ってったるわ」
宮道先生に促されて、結菜はスクールバッグを手に取った。
呆れられた。
何故できなくなったかわからない。
悔しい。
何が原因なのか、わからない。
でも、やらなきゃ上手くはならない。
焦りは募る一方で、やればやるほど下手になっている気もする。
やっぱり向いてなかったんだ。
乾いた笑いが口元に浮かんできたが、すぐに唇がわなわなと震えだす。慌てて先生たちに見つからないように、ぎゅっと唇をかみしめた。
泣くな。泣いちゃいけない。
ぽつりと結菜の手の甲に何かが落ちてきた。生暖かい液体は次々と手の甲に落ちてきた。
「大丈夫や、結菜ちゃんは頑張ってる。泣きたいときはちゃんと泣いた方がええ」
宮道先生の優しい言葉と頭に乗った手でようやく自分が泣いていることに気づいた。嗚咽を喉の奥で殺しながら、次々にこぼれて来る涙を手のひらで拭った。静かな公園で自分の泣き声がこんなにも響くんだと結菜が初めて知った夜だった。
宮道先生に送り届けられた後は、極力いつも通りに振舞った。兄・勇人が心配していると言うのがありありとわかるような顔をするもんだから、結菜は黙って勇人の脛を蹴ってやった。声にならないほどの訴えを目でしてきたが、結菜は無視して自室に籠った。
教科書もテキストも開く気になれない。
ごろりと天井を仰ぎ見るようにベッドの上に転がった。眠気が一向に来ない。三善先生に言われたことが頭の中で何度も反芻してしまう。
センスも才能もないのは今に始まったことではない。
自分でも向いていないとわかっていたのに、やる気になる前と後ではこんなにもダメージがちがうとは思わなかった。
じわりと目の端で涙がこぼれてきた。手の甲で拭って結菜は布団をかぶって無理やり眠りについた。



