夕暮れが、道場の梁の節をひとつずつ濃くしていった。灯は半分だけ点けられていて、残りの半分は夜の側に預けられている。光の届く範囲では、床の木目が、筋肉のように隆起して見えた。暗がりの側では、線は沈み、面だけがやわらかく浮かぶ。祖父は窓の黒紙の縁を指腹で押さえ、「紙一枚」と低く言った。糊のざらつきが、親指の皮膚にゆっくり移る。窓はそれでよい、と祖父は言わなかった。言わないかわりに、柱に掌を当てて、鳴らない音の層を確かめる。層は薄いが、増えている。増えるたびに軽くなる、不思議な軽さ。軽くなるぶん、人の指が要る。

 静は、瓶を三つ、敷板の上に置いた。風、無風、火の手前。順番は変えない。変えないことが、守ることになる夜もある。瓶の口をどれも半指だけ窓の方へ傾け、灰を招かずに匂いだけとり、匂いの手前で止める。祖母は台所で湯気を一度だけ回し、二度目を回す前に火を絞った。湯気の白は、ガラスの縁で淡くほどけ、ほどけた輪が、音のない栞になって残る。

 戸口の影が、灯の半分に溶けた。矢野蓮だ。竹刀袋を肩から降ろし、膝に置いたまま、しばらく何も言わない。袋の布は汗を吸い、手の内の塩の結晶が白く浮かぶ。袋の口をほどくと、面、小手、胴、垂が順番に現れる。現れるたびに、道場の空気がわずかに動く。面紐は硬く、結び目に塩の粉が薄く固まって、灯に反射して白い。小手の手の内は、皮の皺が楽器の指板のように艶を持ち、触れると、遠い日の拍が返ってくる。

 蓮はそれらをひとつずつ、撫でるように触れた。触れて、撫でて、視線は動かない。面の頬の布を親指の腹で押し、布の張りを確かめる。垂の角を指の先で直し、小手の固いところと柔らかいところを、記憶と照らしてなぞる。皮は汗の塩を飲み込み、汗は皮の皺へ眠り、眠った塩が灯で目を開ける。目を開けた塩は、ひと晩だけ若い。

 「俺が帰ってこなかったら、全部捨ててくれ」

 蓮は面紐の結び目を見たまま、言葉だけを落とした。落ちる音はなかった。音のない重さが床板を通り、敷居の下の土へ入っていく。静は頷かなかった。頷けば、確定が来る。確定は刃物だ。刃物は音を持たないで、先に体の中へ入る。頷かないことが、生還の道を意地で残す唯一の所作だと、静は思った。

 「置いておくと、誰かを縛る」

 蓮は続ける。「誰か」という語のうしろに、空白が置かれた。その空白は、静の背中まで届く。名前に触れないのは、礼だ。呼べるまで呼ばない。呼ばれた名は軽くなる。軽くなったぶん、人が支える。支える指の腹のざらつきが、今夜はやけに細かい。

 静は瓶を取り出し、祖母の紺の布の上に置いた。布はきょうに限って重く見え、瓶の底の丸みと布の目が、ゆっくり噛み合う。蓮が瓶を見た。「それは、何だ」

 「空」

 静は言った。瓶のラベルは白紙だ。鉛筆の跡はない。文字を置けば、瓶が重くなる。重くなれば落ちやすい。落ちれば音が出る。だから書かない。書かないで、置く。置かれた「空」は、呼吸の置き場所になる。呼吸を置いてから言葉を置く。言葉より先に呼吸がある夜は、荒れない。

 蓮は笑いそうになって、笑わなかった。笑いの角が、喉のところで丸くなったまま、消える。「俺の空は、捨てるな」

 静は、うなずいた。うなずくと確定が来ることを知っているのに、それだけはうなずかないと、道が閉じる気がした。空は、捨てられない。捨てたふりはできる。捨てたふりで、生かすことはできる。瓶の「空」は、捨てないための嘘を教える器でもあった。

 「見せてくれ」

 蓮が言った。静は面を受け取り、膝の上に置く。面の内側の布に、誰かの昔の汗の塩が層になっている。昔の塩は、古い地図に似ている。道場の梁の上の“出ない音”の層と同じで、見えないのに動きを導く。静は面紐の先をつまみ、結んだ。固く、すこしだけ緩く。緩めた分だけ命が残る。固く結べば、折れるときに早い。緩くすれば、折れない。折れない代わりに、長く響く。

 結び目を、指で引く。結びは、短い音を持つ。ほどく。ほどくとき、音はさらに短い。結ぶ。ほどく。結ぶ。ほどく。短い音が、道場の空気を震わせた。震えは梁へ行き、梁の上の層にさらに薄い層を重ねる。祖父が戸口の影で、眼を閉じたまま、目を開けるような気配を静は見た。

 「静」

 蓮が、小さな声で言う。静は「うん」と答えた。うんは、瓶の外側に置いておける言葉だ。置きっぱなしにできる。置きっぱなしにしても、腐らない。

 「最初にここに来たとき、俺は三百本、素振りをしただろう」

 「ああ」

 「あのとき、お前が、拍を見つけたって言った」

 「ああ」

 「今は、拍の終わりが先にある」

 静は竹刀の柄を握る形だけを作り、掌の真ん中で空気をつかんだ。空気は、適切な場所でつかめば、重い。重いものは、やさしく扱えば、崩れない。崩れない重さは、体にとって救いだ。救いは、声ではなく、触覚の側にある。

 「終わらせる拍を、先に置く」

 蓮はゆっくりと繰り返す。繰り返すと、言葉は少しずつ軽くなる。軽くなったぶん、体に入る。体に入った言葉は、夜を荒らさない。荒らさないで、底に沈む。

 祖父が、暗がりの中から出てきた。灯の半分に顎の皺が現れては消える。祖父は二人の前に立ち、静かに礼をした。短い礼。祈りと命令の中間にある角度。命じすぎれば折れ、祈りすぎれば流れる。中間の礼は、やめる位置へ人を連れていく。

 「今夜は打たん」

 祖父が言った。「礼だけじゃ」

 正座。膝の間は拳一つ。前に向かって、誰もいないところに礼をする。礼は、不在に向けてこそ形になる。形のある不在は、家を壊さない。不在が形を持つと、残る者の手が、どこに置かれればよいか決まる。置かれた手は、力を入れすぎない。入れすぎない指の腹のざらつきが、今夜はよく働く。

 礼のあと、祖父は視線を窓に向け、黒紙の縁を親指で押さえた。押さえて、離し、また押さえる。紙一枚。窓は息を吐かない。吐かない窓が、一番、息を保つ。保たれた息のなかで、蓮が面紐の結び目をもう一度結んだ。結んで、指で引く。ほどく。結んで、ほどく。短い音が、今度は音にならない音で道場を震わせた。震えは、瓶の口へ行き、瓶のガラスが薄く鳴らないで鳴る。

 静は瓶の前へ膝を進め、指で「火の手前」の瓶の縁を撫でた。昼間の灰の粉がまだ口のところに薄く残っている。ざらり。ざらりの手前に、言葉がひとつ起きる。瓶で止める。止めるのは、延びないため。延びなければ、燃えない。延焼は、火だけでなく、言葉にもある。

 「静」

 蓮が、瓶と静のあいだに小さく呼びかける。その呼び方は、名を呼ばない呼び方だ。名を呼ばないのに、届く。届く声は、角がない。角がない声は、怪我をさせない。怪我をさせない声だけが、夜に残る。

 「俺は——」

 蓮は言いかけて、言わなかった。言わないことが、言葉より早く届く夜がある。静は瓶の順番を確かめ、窓の黒紙を見て、祖父の親指の腹を見て、祖母が回した湯気の残像を見た。見えないものばかりを見た。見えるものは、面と小手と胴と垂だけだ。どれも、今は音を持たないで居る。

 「静。俺が帰ってこなかったら、捨ててくれ」

 蓮はもう一度、同じ言葉を落とした。落とされた言葉は、さっきより軽い。軽くなったのは、言い慣れたからではない。言わないで沈んでいた重さが、道場に吸われたからだ。道場は、重さを吸う。吸ったぶん、梁の上の層が増える。祖父はそれを知っていて、灯を半分しか点けない。光が多いと、音が薄い。音が薄いと、層が増えない。増えない層の上では、名が落ちる。

 静は頷かなかった。頷かないことが、約束のかたちになる。約束は、言葉の形だけでできていない。角度と距離でできている。距離を誤ると、約束は折れる。折れた約束は、刃だ。刃は、誰かの指を切る。誰か、には自分が含まれている。

 「——でも、空は捨てるな」

 蓮は瓶を見ずに言った。瓶の中に、名前はない。ないままで、音のない音だけがうっすら重なっている。空であることに使い道がある。空は、置き場所だ。置き場所があるうちは、人は沈み切らない。

 祖父が暗がりに退いた。足音は立てない。立てない音が、梁に吸い上がる。静と蓮は、面と小手と胴と垂を、ひとつずつ布の上に戻した。戻すときの所作は稽古に似ている。どれも、一寸だけ引く。引く所作は、怪我をさせない。怪我をさせないことが、今夜の勝ちだ。

 「静」

 蓮が立ち上がり、竹刀袋を肩にかける。袋は軽くない。軽くないのに、かけられる。かけられるのは、筋の向きを知っているからだ。石の筋。崩れ方を選ぶ筋。選べるうちは、大丈夫だ。選べるうちに、やめる位置を置く。置いた位置まで歩く。

 戸を閉める前に、祖父が暗がりから現れ、短く礼を返した。角度は浅すぎず、深すぎず。祈りと命令の中間。命じる気配の量がほんの少し多く、祈りの気配がすぐ後ろに控える。礼は、命を渡し過ぎないための器でもある。器に余白があれば、命は器の中で暴れない。

 道場を出ると、夜風が瓶の口を細く撫でた。鳴らない音が、薄く唇の形で残る。蓮は振り返らず、半足だけ遅れて歩く。半足の遅れが、足音の拍をずらし、静の呼吸をその半拍に合わせさせる。合わせすぎると零れる。だから、合わせるふりをやめ、半寸だけ、ずらす。ずらした拍の上で、二人は同じ方へ歩く。

 「明日、万歳は言わなくていい」

 蓮が先回りして言った。静は答えない。答えないことが、明日の自分を守る。答えると、喉の布が裂ける。裂ければ血が出る種類の布だと、静は知ってしまった。布は裂かないで、喉の奥に置いておく。置いた布が、声の角を丸くする。

 「駅のことは——」

 蓮は言いかけて、やめた。言わないで、歩幅を半足だけ増やす。増やした半足が、さっきの半足に追いつく。追いつくと、また、半足遅れる。遅れと追いつきのあいだに、約束は置かれる。置かれても、言葉にはならない。ならないまま、骨に入る。骨は、長く持つ。

 家々の黒紙の窓が、紙一枚の幅で夜を受けている。紙の目貼りの糊が、乾き切らず、指の腹のざらつきを呼ぶ。祖母の湯気の白は、道場の外では見えない。見えないのに、ある。あるものの輪郭を、静は瓶の口で確かめたくなる。確かめない。確かめると、名前が寄ってくる。

 橋の上で、風が向きを変えた。川面の黒がひと筋、薄くほどける。蓮は欄干の石の筋に指を沿わせ、筋の方向へやわらかく力を抜く。崩れ方を、先に教える。崩れるとき、人は自由を失う。崩れる前に崩れ方を決めておけば、それはまだ自由だ。

 「静」

 蓮が立ち止まった。見ないほうを見ながら、言う。

 「明日、俺が何かを言っても、お前は言わなくていい」

 静は頷かない。頷かないで、瓶の中の空を思った。空は捨てない。捨てない空は、逃げ道と似ているが、違う。逃げ道は外へ続く。空は内へ残る。残るものがあるうちは、外と内は混ざらない。混ざらない境で、約束は呼吸する。

 歩き出すと、遠くで鈴が短く二度鳴った。一本鳴りではない。体は揺れない。揺れないで、やめる位置だけが胸の中で明るくなる。明るさは、小さい。小さいから、役に立つ。大きい明かりは、影を濃くする。濃い影に名は落ちる。

 矢野の家の前に着いた。門の木は、昼間より低く見えた。蓮は門の内へ半身を入れ、振り返らない。振り返ると、約束が別の形を取り、言葉の側へ倒れてしまう。言葉は、倒れやすい。倒れた言葉は、誰かの足を引く。誰かには、自分が含まれている。

 「じゃあな」

 蓮の声は、夜の側に吸われて短くなる。短いが、残る。残るほうの短さだ。静は答えない。答えないで、瓶の「火の手前」に指を置いた。指の腹のざらりが、何かを止める。止められたものは、今は名を持たない。名を持たないから、居られる。居られることが、今夜の救いだ。

 自分の家の門を閉めると、祖母の湯気が一度、静の喉を撫でた。祖父は窓の黒紙の縁を親指で押さえ、「紙一枚」と言った。それ以上言わなかった。言わないところに、礼がある。礼は、角度ではなく、距離だ。距離の中で、眠りは浅くやってきた。

 夜半、静は一度起き、瓶を三つ、窓辺へ寄せた。火の手前、無風、風。順番を指でなぞり、どの瓶にも触れない指を作る。触れない指を作ることができるうちは、まだ大丈夫だ。触れないで、置く。置いた指の隙間へ、鳴らない音がゆっくり降りる。

 梁の上の層が、また一枚、増えた。薄い層は、見えない。見えないのに、指の腹で確かめれば、確かにある。あるものは、いずれ名前を欲しがる。欲しがる前に、空に入れる。空に入れれば、名前は後回しにできる。後回しにしているあいだに、朝が来る。

 朝は、硬い白でやってきた。蝉は鳴く。鳴きながら、音だけが秋だ。祖母は湯気を一度だけ回し、祖父は柱に掌を当て、静は瓶の順番を変えなかった。変えないことが、今は守ることになる。

 日が高くなり、空気が重くなりはじめたころ、静は道場の灯を半分だけ点け、敷板の上を布で拭いた。布の角を、祖母に教わったとおりに直す。角は直しすぎない。直しすぎないで、止める。止めた角の手前に、矢野の面を置く。面、小手、胴、垂。順番は稽古のときと同じで、いまは音を持たないまま居る。

 戸口の影が、きのうと同じ角度で伸びた。蓮だ。竹刀袋の口をゆっくりほどき、面紐を手にとり、結んで、ほどく。結んで、ほどく。短い音楽が、道場の空気を震わせる。震えは梁へ行き、層を薄く増やす。その層の上なら、言葉は転ばない。

 「静」

 蓮が言う。静は、「うん」と答えた。「うん」は、瓶の外で生きられる。外の言葉は、今夜はそれで足りる。足りないものは、瓶の中へ置く。瓶の中の空は、捨てない。誰がいなくなっても、空は捨てない。空を捨てないと約束することが、どんな言葉よりも重い夜がある。

 道場の戸を閉める前、祖父が暗がりから現れ、短い礼を返した。祈りと命令の中間。命じるほうがわずかに多い礼。命じられる礼は、やめる位置へ人を連れていく。やめる位置にたどり着ければ、延びない。延びなければ、燃えない。

 戸を閉めると、夜はもう待っていた。蝉の音の縁はさらに冷え、風は瓶の口を撫で、鳴らない音が、鳴らないまま家に満ちた。静は胸の内側で、ひとつだけ言った——呼べるまで、呼ばない。呼ばないまま、約束は骨に入った。骨は長く持つ。持っているあいだに、朝は来る。朝が来れば、旗と声と煙のなかで、静は声を出さない。出さないで、やめる位置を先に置く。置いた位置に、矢野の視線が一秒だけ触れるだろう。触れて、呼ばれない。呼ばれない視線の重みを、静は受ける準備を、今夜のうちに終えた。

 瓶は三つ、窓は紙一枚、竹刀の先は一寸。
 灯は半分、梁の節は黒く、床の木目は濃い。
 そのすべてが、ふたりのための「約束」の形だった。
 結んで、ほどく。
 ほどいた結び目は、まだ温かい。
 温かいあいだに、静かに戸が閉じられた。