蝉が鳴いているのに、音だけが秋のほうへ傾きはじめていた。昼の温度は一向に下がらない。柱に触れると汗の塩がにじむのに、音の縁だけが冷え、鳴き終わりの尻尾が薄く長く伸びる。祖父は朝一番に道場の窓の黒紙を確かめ、「紙一枚」と言って指腹で縁を押さえた。糊のざらりが皮膚へ移る。指が覚えるざらりは、夜の呼吸の幅と同じだ。押しつけすぎれば破れ、触れなければ剥がれる。半寸触れて、半寸離す。家の礼は、いつだってその程度の力で成立していた。

 静は瓶を三つ、窓辺に出した。風、無風、火の手前。きのうまでは風がいちばん窓に近かった。今朝は順番を逆にし、火の手前を前に置く。順番の逆は、胸の奥の微かな不安の現れだ。それを自分で知っているだけで、少しだけ落ち着く。瓶の口を半指ぶん傾ける。灰が入らず、匂いだけが喉をかすめる角度で。

 蝉の響きの天辺がほんの少し欠けたように思えたとき、路地の向こうで鈴が一本、鳴った。折れない一本鳴り。祖父の指が黒紙の縁で止まり、祖母は湯気を一度だけ回した。静の体は外より先に動き、門のかんぬきをそっと外す。喉の薄皮が起き上がり、指の腹の糊が記憶から戻ってくる。一本鳴りは、体の中の骨へ真っ直ぐ通る。

 矢野の家の門には、伏せられた桶と、新しく詰めた砂袋が立てかけてあった。郵便の男は白い封筒の角を撫でて整え、蓮の父へ差し出す。封筒の角は丸く、紙はざらりとして、触れるそばから掌の汗を吸う。赤い押印は、光らない赤だ。光らない赤は、目の裏に刺さる。

 静は一寸だけ後ろへ引いた。竹刀の先を引くのと同じように、喉の前に見えない線を置く。線の手前で息を止める。怪我をさせない距離。家で教わった礼の最小単位が、外の紙の赤に対する唯一の抵抗になった。

 矢野の家の土間には、燻された木の匂いが沈んでいた。畳の端の黄色い糸が一ヶ所だけほつれ、そのほつれが朝の光を細長く吸っていた。蓮の父は封筒を受け取り、短く「本懐じゃ」と言った。言葉の表面は石の筋で支えられている。長年の石の重みが掌で角を支え、言い切る声へ硬さを与える。けれど芯のどこかが柔らかく震えるのを静は見た。母は台所で盆を持ち、湯飲みを並べる。指がわずかに震え、その震えを皿の薄い音で偽装した。音をたてていれば、震えの場所が少しわからなくなる。わからないあいだだけ、呼吸が持つ。

 近所の人の声は早い。「おめでたい」と細く重なり、神社の鈴の音が混じり、拍手がばらけ、笑い声の表面が裏返る。万歳は、誰が最初に言い出したのか分からないまま、空のほうから発生する。静は土間の端に立ち、畳の黄色い糸だけを見ていた。礼は崩さない。礼は角度ではない。距離だ。距離を間違えると、誰かに怪我をさせる。

 「万——」
 空へ向けて声が起きる。静は、声の角を立てないために、一寸だけ短く言おうとした。喉の奥に、固い布切れのようなものが詰まった。声帯は働くのに、音は上がらない。上げれば、誰かの鼓膜に刺さる。刺さるなら、出さない。出さずに、やめる位置だけを置く。

 「歳——」
 蓮の声が、静の半拍あとに乗りかけて、やめた。やめたその短さが、静の胸で鈴の二度鳴りのように小さく反響する。蓮の視線が、一度だけ静の喉をかすめる。言わない。いつもそうしてきた。言わないことが、ふたりの言葉の半分以上を占めている。沈黙の折り目で、呼吸だけをやり取りしてきた。

 礼をして静は退いた。土間の冷たさが足裏から上がる。門の外は陽が強い。だが蝉の音だけは陰っている。蓮が外へ出る。背中の中の顔は前に向いたまま、歩幅が半足だけ短い。短いことに名をつけない。名をつければ確定が来る。確定は、刃より鋭い。

 堤防の上を並んで歩いた。海風が強く、瓶の口に当たる音がいつもより高い。静は懐に入れた瓶の丸みをそっと撫でる。ラベルは白紙のまま。何も書かない。書けば中身が重くなり、重くなれば落とす。落ちれば音が出る。音の出た場所に、名が落ちてくる。だから何も書かない。

 「崩れ方を選ぶには、先に印を置く」
 欄干の石の筋を爪の背でなぞりながら、蓮が言った。石は筋を持つ。筋の向きに沿って力を抜けば、崩れても広がらない。
 「拍を先に置く」
 静が応じる。「終わらせる拍を、先に置く。そこまででやめる。延ばさない」
 蓮はうなずき、空気の竹刀の柄を握る形だけを作った。静も同じ形を作る。ふたりのあいだの見えない柄の上で、手の内の緩みだけを渡し合う。触れない。触れないで柔らかさだけを残す。固い芯は折れる。柔らかい芯は、折れない。

 遠くで鈴が二度、短く鳴った。誤導だ、と体が言った。一本鳴りではない。立ち止まらない。足音は、風に混じって消える。蝉は鳴いている。鳴きながら、音だけが秋だ。

 夕方、道場。祖父は紙の前に立ち、「礼」とだけ言った。面はつけない。竹刀も握らない。正座し、膝の間は拳一つ。前に向かって礼をする。そこに誰もいないのに、礼をする。礼は、不在に向けてこそ形になる。祖父は続けた。
 「名は、呼べるまで呼ぶな」
 叱責のない声。距離の指示だけがある。「呼ばれた名は軽うなる。軽うなったぶん、人が支えんといけん。看板のときと同じじゃ。名を外せば物は軽うなる。軽うなったものを、指で持つんは人の役目じゃ」
 礼の動作を終えた膝に、床の冷えがゆっくり降りてくる。静はうなずいた。蓮も、うなずいた。うなずく角度は、同じで少し違う。合いすぎると零れる。違いを、そのままにしておく。

 帰ると祖母は竈の前にいて、火を小さくしていた。赤飯は炊かない。米をとぐ音も、豆を拾う音もない。湯気は一度だけ回り、二度目は瓶に譲られる。譲られた白はガラスの縁で薄く消え、消えた痕が丸い輪になって残る。輪は音を持たない。持たない音が、家の中でいちばん長く残る。
 「炊かないのも、うちの礼だよ」
 祖母は言って、机の布の角を直した。角は直しすぎない。直さないのとも違う。指の腹のざらつきが角の居場所を決める。ざらつきが教えるところで止める。止めた位置が、今夜の家の拍になる。

 祖父は窓の黒紙の縁を親指で押さえ、「今夜は開けん」と言った。紙一枚の幅のまま、夜を受ける。外は熱い。内は少し涼しい。涼しいのに喉は渇く。渇いた喉に、湯気を一度だけ通す。二度目は瓶の口で受ける。白い気配が瓶の内側に淡く残る。残った白は、名を呼ばない術として家の中を巡る。

 夜、静は瓶の前で座った。火の手前、無風、風。順番を指で確かめる。火の手前の瓶の縁に、昼間の灰が薄く付いていた。指で触る。ざらり。ざらりの手前で、言葉がひとつ立ち上がりかける。瓶の口で止める。止められるうちは、延びない。延びなければ、燃えない。延焼を止めるとは、言葉の延焼も止めることだ。

 「名を呼ぶな」
 胸の内側でだけ言い、家の門を静かに閉めた。閉める音は小さいほうが深い。深い音は、梁へ行って、無音の層に抱かれる。抱かれた音は姿を失い、重さだけを残す。重さは、指の腹のざらりで支える。

 蓮の足音が、夜の改札を通った。振り返らない。振り返らず、半足だけ遅い。遅れに名を与えない。名を与えれば、形が決まる。形が決まれば、崩れ方が決まる。崩れ方を、いま決めたくない。だから、名を呼ばない。呼べるまで、呼ばない。

 翌朝は白かった。光が硬く、空気の粒が粗い。道場の砂袋の角に触れると、布の目が荒く、指の腹が微かに熱を持つ。蝉はまだ鳴く。鳴き方の端が、さらに秋のほうへずれる。祖父は柱に掌を当て、「鳴っとる」と言った。鳴らない音の層が一枚増えた気配を、骨の内側で聴くのだ。

 昼前、隣組の掲示板の紙が増えた。紙質は粗く、赤い押印がいくつか。読む前に赤だけが目に入る。赤は近ごろ、すぐ刺さる。刺さって、言葉が近づく前に指が瓶を探すようになった。瓶を持たずに出た日は、指が空中で瓶の口を探す。探して、そこに無いことを知ってから、代わりに喉の薄皮をそっと撫でる。撫でることが、瓶のかわりになった。

 午後、蓮の家の前に人が集まり、また万歳が起きた。送りの作法は、何度でも同じ形をして現れる。形は同じで、重さが違う。静は声を出さないことを選んだのではない。出さないほうが怪我が少ないと思ったのだ。喉の奥に固い布切れが入っている。これを引くと裂ける。裂ければ血が出る種類の布だ。裂かないでおくこと。裂かないために、一寸だけ短く言うか、言わないか。どちらにしても、やめる位置を先に置く。

 夕暮れ、道場へ戻ると、祖父が待っていた。正座し、前に向かって礼をする。不在に向けた礼。不在に礼をすることで、不在は不在のまま形を持つ。形を持つ不在は、家の中で暴れない。暴れないで、居る。

 その礼が終わると、蓮が静かに言った。
 「明日は……道場に来る」
 声は短い。短いのに、奥が深い。静は頷かない。頷けば、確定が来るからだ。頷かないことが、生還の道を意地で残す唯一のやり方に思えた。
 「——それと」
 蓮は続けた。「明日、万歳は言わなくていい」
 静は答えない。答えないことで、明日の自分を守る。答えれば、言葉に肩が捕まる。捕まれば、身動きが小さくなる。小さくなれば、拍がずれる。拍がずれれば、火は寄ってくる。

 帰り道、海風が瓶の口に当たり、甲高い音を出しかけて、出さずに消えた。消える音ほど、家に残る。祖母は竈の前で、湯気を一度だけ回した。二度目は瓶に譲る。譲った白は窓の黒紙の縁を一瞬かすめ、消える。消えた白の指紋が、ガラスの内側に薄くついた。薄い指紋は、栞になる。音のない栞。

 夜半、瓶のならびを変えずに、静はその前に座った。火の手前、無風、風。三つの「器」に、呼べない名を順番に通す。名を通し、通さない。通さなければ、家は鳴らない。鳴らない家は、呼吸が深い。深い呼吸の底で、静は小さくつぶやく。「呼べるまで、呼ばない」

 そのとき、窓の黒紙に張り付いていた紅葉が、音もなくはがれた。はがれる赤は薄い。薄い赤は、押印の赤と釘の赤錆と、どこかで重なる。重なったところに、名を置く日が来るだろう。今ではない。今は、置かない。置かないで、家の拍だけを数える。湯気を一度。窓は紙一枚。竹刀の先は、一寸。瓶は三つ、順番はそのまま。

 明け方、蝉の声はさらに遠のき、空が白い硬さをまとった。祖父が柱に掌を当て、「まだ鈍うはならん」と言った。梁の上の無音の層が、もう一枚、薄く増えた。増えながら軽くなる不思議。軽くなるぶん、人の指の支えが要る。

 静は門口に立ち、まだ誰もいない道へ耳を澄ませた。一本鳴りは、来ていない。けれど身体が、一本鳴りのほうへ先に傾ぐ。傾いだ自分を、一寸引く。引く所作は、剣がなくてもできる。引いた一寸の手前に、火は来られない。来させない。それが今日の礼だ。

 昼、蓮は短い身づくろいを済ませ、家の前に立つ人たちに礼を返した。父は酒の匂いを飴で消し、母は湯飲みを盆に乗せ、皿の音を微かに立てた。万歳は起きるだろう。明日の朝、駅へ向かう列は、旗と声とで満たされるだろう。静は、声を出さないでいる準備を続ける。声を出さないためにも、先にやめる位置が要る。やめる位置は、瓶のならびと同じ順番で、胸の中に置く。

 陽が傾き、道場の木目が濃くなった。梁の節が黒く、床の木の線が筋肉のように浮かぶ。祖父は灯を半分だけつけ、「それで足りる」と言った。足りない明かりで足りる夜がある。足りないぶん、音が増える。音は増やさず、無音だけを重ねる。静は瓶を布の上に並べ替え、敷板の角にそろえる。祖母の紺の布は、きょうに限って重く見えた。

 戸口に影が立つ。蓮だ。竹刀袋の口は閉じられたまま。袋の布は汗を吸い、面紐の塩が白く浮く。彼は袋をまだ開けない。開けないのに、袋の中の形があたりの空気に移る。面、小手、胴、垂。どれも、今夜のところは音を持たない。音を持たないまま、そこに居る。その在り方が、礼に似ている。

 「明日、来る」
 蓮は短く言った。静は頷かなかった。頷けば、確定が来る。頷かないことで、小さな道が一本、残る。細い道。細いが、まだ残っている。

 「万歳は言わなくていい」
 蓮の声は、静の半拍のあとに来て、やわらかく止まる。静は答えない。答えないことが、明日の自分を守る。

 蓮は道場の中央に歩み出て、正座した。静も並ぶ。祖父は「礼」とだけ言い、三人の前に、不在のための場所がしつらえられた。そこに誰もいないのに、深く礼をする。礼は、不在に向けてこそ形になる。形を持った不在は、家を荒らさない。荒らさないで居る。

 礼を解くと、祖父は暗がりに退いた。足音は立てない。立てない音が、梁に吸い込まれる。静は瓶をそっと布に戻し、戸を閉める。外は熱い。内は少し涼しい。涼しいのに喉は渇く。湯気を一度だけ通し、二度目を瓶に譲る。瓶の内側で、白い輪がまたひとつ増えた。

 その夜、眠りは浅かった。耳は鈴を探した。一本鳴りは来ない。来ないが、胸のどこかでその形だけが先に立つ。形の輪郭に触れたくなったら、指で一寸、引く。引いた一寸の手前に、声は来ない。来させない。声の角を立てない。角を持たない声だけが、家に残る。

 明け方の蝉は控えめで、音の端だけが細く冷えた。祖父は柱に掌を当て、祖母は湯を小さく沸かし、静は瓶の順番を確かめた。火の手前、無風、風。窓は紙一枚。竹刀の先は、一寸。
 門口に立って、東の白さを見た。今日が、蓮を「外」が先に呼ぶ日だ。家は、呼べるまで呼ばない。呼べない名のための空白を、瓶と窓で受け止める。受け止めながら、延ばさない。延びないように、終わらせる拍を先に置く。置いた拍に、身体を合わせる。

 蝉が、低く鳴いた。
 静は胸の内側で小さく言った——呼べるまで、呼ばない。
 その言葉の手前で、喉の薄皮がわずかに撫でられ、息は深く落ちた。
 そして静は、道場の灯りを半分だけつける準備を心の中で繰り返した。
 今夜、彼が来る。
 面も竹刀も、まだ袋の中。
 礼だけが、用意されている。