最初のサイレンは、夜の骨に触れる音だった。長く、細く、途中で一度だけ折れる。折れ目で町の呼吸が裏返り、暗い窓の黒紙が、部屋の明るさと夜の外側をぎりぎりで仕切った。廊下の板は冷え、水の入った桶が並ぶ。柄杓の金物が互いに触れ合って、猫の爪ほどの小さな音を残す。その小ささが、かえって恐ろしい。
「静」
祖父の源蔵が呼ぶ。声は短く、床と同じ硬さで、家の芯に届く。
「はい」
「並べ。拍を崩すな」
桶の列は川から道場の手前まで伸び、影の肩が連なる。男の腕、女の腕、子どもの腕——色も年も違う骨が、ひとつの動物の背骨みたいにしなった。矢野蓮は静の二人前に入って、片手で受け、片手で渡す。剣の稽古で覚えた半足のずらし方が、そのまま水の巡りに移る。
「合えば早い。合いすぎると零れる」
蓮が低く言う。息を乱さず、空気が喉の奥で静かに行き来する。
「合わせすぎない」
静は短く返し、指の力をわずかに抜いた。握りすぎは零れ、緩めすぎは遅れる。遅れることは、燃えることだ。
遠い空で、何かが咲いた。花火に似て、花火でない。焼夷の束が空をほどき、細い火の雨が、海の向こう側に落ちていく。誰かが「訓練じゃない」と叫び、誰かが「訓練だ」と言い返す。どちらでもよかった。火は名乗らない。名乗らない火が、名のある誰かの屋根の上に落ち、名のない炎になって揺れた。
道場の戸口で、祖父が窓を半寸だけ開ける。半寸という幅は、命の開け幅だった。風が入る角度を読む。風は名乗らないが、火は風の嘘を暴く、と祖父は昔言っていた。
「東から走る。渡し手、半足ずらせ」
短い指示が列に吸い込まれ、半拍遅れて動きが揃う。零れが減る。誰も褒めず、誰も名を呼ばないまま、延焼は手前で止まった。止まっただけで、勝ちはない。広がらなかったぶんだけ、腕の骨に薄い重さが残る。
夜が明ける。空は紙の白に近く、細かな煤が窓の黒紙の縁に集まっていた。サト祖母は湯気を一度だけ回してから、静に差し出した。いつもは二度。二度目の湯気は、昨夜どこかの手で使い切られたのだろう。
「お辞儀」
礼の角度ではなく、距離に礼をする。祖母は机の布の角を直し、針箱の蓋を少しずらして、糸の端を見やすい場所に出しておいた。ほどける前に、指がそこへ届くように。
日中、静と蓮は建物疎開の奉仕に回る。防火帯を確保するため、家の一部を解いていく。釘抜きの片刃が木目を噛み、釘の頭が鳴く。畳は二人で抱え、裏の藁が崩れないように持ち上げる。梁を降ろす時は、元の家の重みに礼をするみたいに、まず音を聴く。松脂の匂いが指に残り、コールタールの黒が爪に薄く潜る。鉄はすぐに嗅ぎ分けられるようになった。鉄は血と似た匂いがする。
「道場の看板も、外せと言われたら」
蓮が額の汗を手の甲で拭いながら問う。
「外す。名は外す」
静は答え、息を整えた。
「礼は外さない」
蓮は笑わなかった。笑わなくても、胸の奥で頷く気配はわかった。看板は名だ。名を外せば物は軽くなる。軽くなれば、移せる。移せれば、守れる。守るために名を外すことがある。
学校では黒板の左半分が「奉仕予定」で埋まり、右半分に標語と行進曲の歌詞が白く並ぶ。算術は右下の狭い場所に縮こまり、先生のチョークは角を立てた。声の高さは夏より半音低い。年長の先輩が次々に呉の工場に出ていき、教室の机が余る。余った机に薄く残る名前は、すぐに消される。消す白い粉が、爪の間に入り込んで、なかなか落ちない。
「合わせて、進め」
号令の拍で足が揃う。揃いすぎないよう、静は心の内側で半拍ずらした。合わせすぎて折れてはいけない。折れないためのずれを、自分の中に小さく持っておく。蓮も同じずれを持っている顔だった。視線は正面に置きながら、呼吸の背側に半寸、別の場所を用意している。
瓶は二つから三つになった。ひとつは風、ひとつは無風、そして新しく「火の手前」。火そのものは入れない。入れたら瓶が割れる。割れないために、手前で止める。窓辺に置いた瓶の口に、微かな灰が触れ、喉のあたりでざらりと残る。指で触ると、音のない音が指腹に移った。
「違い、わかるのか」
蓮が訊く。石粉が爪の隙間に白く残っている。
「匂い。湿り気。壁の向こうの音」
「見えないものばかりだな」
「見えるときは、もう遅い」
蓮は小さく頷き、拾った小石の筋を爪でなぞった。石の筋は、崩れる方向を教える。見えるひびは遅い。見えない向きを先にわかっていれば、力を抜く位置が選べる。
夕刻、道場に白い紙が貼られた。「当面、夜間の稽古を見合わせ」。読んだ誰もが短く息を止め、息を戻す場所を探した。祖父は紙の端を一度撫で、柱の焦げを指で確かめた。
「拍は数えるためじゃない。やめる位置を示す印だ。今は“やめる”の礼をする」
静は頷き、蓮も頭を下げる。面はつけない。木刀を持ち、道場の中央に立つ。祖父が窓を半寸開ける。風の角が道場に入り、梁の上の“出ない音”の薄い層が、また一枚、貼り付いた。
「三太刀だけ」
初太刀は打たない。打たないと決めてから、互いの眉間に気配だけ置く。置いた気配を自分で回収する。二太刀目、蓮が半足詰める。静は退かず、前にも出ない。風の内側に居続ける。三太刀目、目の奥に「負けない」と「折れない」が灯り、すぐ消した。火に見られる前に消す。火は名乗らないくせに、目は持っている。
夜、更なるサイレン。今度は長い一本のまま、折れ目がない。折れない音は、逃げ道を減らす。祖父が短い指示を落とす。
「砂、前へ。水は二の手。団扇は風を走らせるな」
団扇は風を作る道具だが、火の前では、風を止める道具にもなる。木の骨の角度を変え、火の足を鈍らせる。瓶の「火の手前」を戸口に置き、匂いだけを受ける。匂いがガラスの内側に曇りを作り、曇りは一瞬、人の顔に似た。似たものを、静は見ない。名をつけない。名をつけた瞬間に、瓶が割れる気がした。
小さな火が二軒先で上がり、バケツの拍で押し返される。拍が合うと早い。合いすぎると零れる。零れた水が土を重くして、靴底が沈む。沈みながら運び、運びながら止め、止めながら次の声を待つ。待つことが、勝ちでも負けでもない場所に人を置いた。
鎮火のあと、道場の柱に薄い焦げ。看板は外され、壁に立てかけてある。翌朝、看板は消えた。誰も見ていないあいだに、どこかへ運ばれた。役場か、資材か、人の家の梁に生まれ変わったのか、わからない。
「先生、看板が」
蓮が言うと、祖父は柱に掌を当てて言った。
「名を外すと、物は軽うなる。軽くなったぶん、人が支えにゃならん」
祖父は怒らなかった。怒らないで、柱の芯の鳴りを聴いた。柱は中で鳴っていた。鳴らない音で鳴っていた。
日中の奉仕は、釘の抜ける金属音と、畳の藁の摩擦と、足の拍で進む。静は河岸に瓶を持ち出し、「火の手前」を集める。河原では煮炊きの火が小さく立ち、風が向きを変えた刹那、灰が瓶口に吸い込まれる。灰は舌の奥で鉄の味がする。瓶の喉にざらりと残り、指で撫でると、指が瓶になる。
「俺たちは勝っていない」
蓮が瓶を見ながら言う。
「延ばさなかっただけだ」
「延ばさない」
「そう。延ばさない」
蓮は拾った石の筋を指でなぞり、筋に沿って力を抜いた。
「筋があるから、崩れ方を選べる」
「選べる」
「選べるうちは、大丈夫だ」
選べるうちは、まだ礼が残っている。選べなくなる前に、やめる。やめる位置を見失わないために、拍がある。
配給はさらに細くなり、祖母は大根の葉を刻んで塩で揉み、湯気の上で香りを戻す。戻す指先の拍は、剣の最後の一息に似ていた。最後に遅らせる塩。薄いものを深くする技は、戦が始まる前から祖母の手にあった。戦はそれを必要にしただけだ。
ある夕方、香から短い葉書が届いた。「いまは椿」。墨は淡く、紙の隅に小さな色がにじんでいた。匂い袋はもうない。匂いの言葉だけが、季節の息を知らせる。祖母は葉書の角を撫で、角を立てすぎない程度に直した。角を直すとは、言葉の居場所を作ることだ。言葉はすぐに意味にならない。意味にならないものを受ける器が家にあると、家は強い。
その夜、祖父は言った。
「窓は半寸」
「半寸」
「広げすぎると、火の目が入る」
窓の開け幅は、命の開け幅。出入りは狭い。狭い改札を、風と無風と「火の手前」が通る。瓶は改札係だ。名を持たないものの通行を記録する。
翌日、蓮が言った。
「明日からしばらく、疎開準備の手伝いに回る。家の石もある」
「わかった」
「道場のこと、頼む」
「頼まれた」
名は呼ばない。呼ばないことで芯が立つ。呼んだ瞬間、芯は少し柔らかくなる。柔らかい芯は、火に弱い。火は名乗らない。名を呼ぶ声のほうを先に見つける。
夜のサイレンが近くなる。桶の列は短く速くなり、水は小さく、砂は細かく、団扇の骨は柔らかくしなる。小さな火は、その都度、小さく鎮まった。鎮火のあとの息は、すぐ凪が来る。凪は危うい。凪で油断した隙間を、次の火が見ている。
ある朝、道場の壁に立てかけたはずの看板は、やはり戻らなかった。祖父は柱に掌を当て、目を閉じた。柱の中の音はまだある。あるものは、ある。名があろうとなかろうと、梁は梁としてそこに居る。居るものに礼をする。礼は角度ではなく、距離。距離を間違えなければ、燃やさずに済む。
学び舎では、板書の字体が日に日に粗くなり、行進曲の拍が教室の空気を固くした。土嚢を積む手は、木刀の柄に似た感触を思い出そうとする。想う手は少し震える。震えは隠せない。隠せない震えは、拍で覆う。覆った拍は、やめる場所を指す。やめる場所を指さねば、延びる。延びれば、火になる。
夕暮れの河岸。静と蓮は並んで座った。小さな煮炊きの火が、風でかすかに揺れる。瓶の「火の手前」を口で塞ぎ、息を一度だけ触れさせ、すぐ閉じる。閉じるのも礼だ。開けっぱなしにしない。入れすぎない。呼ばない。呼べるまで呼ばない。
「静」
「うん」
「この頃、勝った気がしない」
「わかる」
「延ばさなかっただけだ」
「うん。延ばさないで済んだ」
蓮は石の筋を撫で、筋の先で指を止めた。止める。やめる。やめた場所で立つ。それが今の強さだ。強さは声ではなく、呼吸の奥にある。呼吸の奥は、瓶が知っている。
その夜のサイレンは短く二度。近い場所で、小さな炎。団扇、砂、水——拍のリレーで押し返す。押し返すたびに、瓶の内側の曇りが少し厚くなる。厚い曇りは、指紋を飲み込んで、曖昧にする。曖昧なものほど、長く残る。
鎮火のあと、人々は口数が減った。減った口数の隙間で、道場の梁が薄く鳴る。鳴らない音で鳴る。祖父は柱に手を置き、「まだ鈍うはない」と小さく言った。祖母は茶碗の湯気を一度だけ回し、静に渡す。二度目の湯気は瓶に譲る。湯気の白がガラスの縁をかすめ、消えた。消えるものは、残る。残るものは、名を欲しがらない。
翌朝、掲示板の紙は増え、配給の列は長く、空は低かった。呉のほうから重い汽笛が遅れて届き、町の背骨がふっと撓んだ。道場は物資置き場になり、縄や砂袋や団扇が整然と積まれた。その整然さは、剣の道場だった頃の姿勢をかすかに真似ている。名は外れても、ものの居住まいは残る。居住まいが残れば、礼は続けられる。
祖父は静を呼んだ。
「静」
「はい」
「窓は、今夜も半寸」
「半寸」
「竹刀の先は、一寸」
「一寸」
静は頷き、竹刀の先を引いた。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。それが今の稽古だった。稽古のない夜にする稽古。やめるための拍。やめるための距離。
その晩、静は瓶を三つ、窓辺に並べ直した。風、無風、火の手前。順番を変えると、夜の音の入り方が変わる。窓の黒紙を縁取る糊のざらつきが、指に移り、指が小さな改札になった。改札を通るのは、名のないものたち。呼ばない名が増えていく。呼べば傷つく名が増えていく。だから呼ばない。呼ばないことで守れる拍がある。
廊下の先で、蓮の足音が一度だけ止まり、また動いた。振り返らない足音。背中の中に顔を持っている背中。夜の改札を通って、影に沈む。瓶の口に残る煤の指紋は、やはり曖昧だった。曖昧は栞になる。はっきりとした字よりも、長く挟まっている栞になる。
静は目を閉じ、骨の奥でサイレンの折れ目をもう一度聴いた。折れ目で、人の息が入れ替わる。入れ替わるたびに、礼の形は微かに変わり、変わるだけ柔らかくなる。柔らかい礼は、火の前で強い。強さは、声よりも、拍のやめどころに宿る。
朝は来た。配給の列は長く、棚は軽く、空は白く、道場の柱は中で鳴っていた。鳴らない音で、鳴っていた。祖母は湯気を二度回し、静は息に礼をした。祖父は柱に掌を当て、窓を半寸、開けた。半寸の風が道場に入って、瓶の口を一度だけ鳴らした。鳴らない音で鳴らした。
少年期の最後の季節は、火の手前で形を持ち始める。勝っていない。負けてもいない。延びていない。延ばさなかっただけの夜に、朝の湯気が一度、回る。二度目は——どこかで、人の手に使われるだろう。
名は呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
窓は半寸。竹刀の先は一寸。
怪我をさせない距離を、今夜も守る。
風は名乗らない。火は名を欲しがる。
どちらにも、礼を。
火の手前で、在る。
※
サイレンは、折れ目のない一本だった。夜の骨をまっすぐ撫で上げ、どこにも段差を残さない。折れ目があれば、呼吸の入り口を探せるのに、今夜は探す前に音が先をふさぐ。窓の黒紙は昼のうちに貼り直してあり、糊のざらつきが指にまだ残っている。祖父はその糊の感触を確かめるように、窓へ近づいた。
「静」
短い呼び声。床板の硬さに似た声。
「はい」
「桶を出す。拍は崩すな。窓は……半寸……いや、今夜は四分の一寸じゃ」
四分の一寸。半寸よりさらに狭い。窓の開け幅は命の開け幅だ。入る風の厚みが薄くなるかわりに、火の目が入りにくくなる。
桶は川から道場の手前まで一列に並ぶ。柄杓の金物が互いに触れて、小さな鈴の音をつくる。静は列の三番目、矢野蓮は二番目。前の男の肘の角度が一度だけ乱れ、受け損ねた水が畳の裏藁に当たって、乾いた草の匂いが立った。匂いは火より先に来る。静は半足、左右の肩をずらし、蓮と自分のあいだの隙間をひと呼吸ぶんだけ広げた。零れは止まり、拍が戻る。
「合えば早い。合いすぎると零れる」
蓮が低く言う。夜の声は高くならない。「合わせすぎない」
静は同じ低さで返し、腕の力をわずかに抜いた。強く握れば、零れる。緩めすぎれば、遅れる。遅れは火の足を喜ばせる。
遠く、海の上で音が咲いた。花火に似て、花火ではない。束ねられた火がほどけ、細い火の雨が、こちらを見もしないでどこかへ落ちた。町のどこかにいる誰かの家の屋根が、名を失って赤くなったかもしれない。火は名乗らない。名乗らないまま、名のある者へ落ちる。
祖父が窓を指で示す。四分の一寸の隙間から、風の角が一枚、部屋に滑り込む。
「東から走る。渡し手、半足ずらせ」
短い言葉が列へ吸い込まれ、少し遅れて動作が揃う。延焼は手前で止まった。止まっただけ。勝ち負けの形はここには立たない。腕の骨に残った薄い重さが、それでも確かだった。
夜明け。空は紙の白に近く、煤の粉が窓の黒紙の縁に集まっていた。祖母サトは湯気を一度だけ回してから静に渡し、机の布の角を直した。角は直しすぎるとまた丸くなる。丸くなりすぎないところで指先を止め、糊のざらつきを指の腹に残す。そのざらつきは、窓の隙間で夜を止めた痕にも似ている。
日中は建物疎開の奉仕だ。釘抜きの片刃が木目を噛み、釘の頭が呻いた。畳の裏藁が崩れないように抱え、梁を降ろす。梁は重い。重いものは音を隠す。松脂の匂いが指に残り、コールタールの黒が爪に薄く潜る。鉄は血と似た匂いがするのだと、鼻の奥が覚え込んだ。
「筋が多いほど、崩れ方は選べる」
蓮が言う。石工の家の子の、骨に染みた言葉。
「選べなくなる前に、やめる場所を決めとく」
静は釘の頭を見つめながら答えた。祖父の言葉が、木と鉄の間で別の意味に育つ。看板の話にも、似ている。名を外せば、物は軽くなる。軽くなれば動かせる。動かせれば守れる。守るために名を外すことがある。
掲示板の紙は、昨日より増えていた。紙質は粗く、角が毛羽立ち、赤い押印が二つ、三つと押されている。字は読まない。読む前に、赤の点だけが目に飛び込んだ。風が起き、掲示板の紙の角がめくれて、通り過ぎた紙の縁が、偶然静の手に持っていた瓶の口をかすめた。瓶は「火の手前」を集めるための瓶だ。赤い点と、瓶の縁に残った糊のざらつきが、小さな、しかし忘れにくい触覚の地図を作る。
学校では、黒板の左半分が奉仕予定で埋まり、右半分に標語と行進曲の歌詞が白く並ぶ。算術は右下の狭い場所で肩をすぼめ、先生のチョークは角を立てた。竹槍訓練、土嚢積み、匍匐前進——足の裏と膝の皮膚が別の季節を覚えていく。合唱は低く、平板。先生の息継ぎがいつもより一拍、遅れた。その一拍の遅れが、教室の空気をたちまち硬くする。
教室の後ろには空席が増えた。名前が消された机は、表面がひときわ艶やかだった。消された名前の粉が、布巾の中でまだ白く息をしている。郵便配達の鈴が、遠くで一度だけ鳴り、先生は説明を一拍止めた。それだけで、教室の空気の温度が変わる。鈴の音は、火より先に心臓に届く。
瓶の実験は続く。窓辺で、風の瓶と無風の瓶と「火の手前」の瓶を、わずかずつ位置を変えて並べる。無風は、音のない音で満ちる。火の手前は、匂いの手前で止まる。止め方は思ったより難しい。止めることを考えると、呼吸はすぐに走ってしまうからだ。走らないように、やめる位置を先に体に置く。祖母の湯気も同じ。二度のうち、一度を先に使い切ってしまえば、二度目は使わない手で取っておける。
夜、道場に紙が貼られた。「夜間稽古、当面見合わせ」。短い文字列のなかに、長い夜が詰まっていた。祖父は紙の端を指で押さえ、梁の焦げを撫でてから言った。
「拍は数えるためじゃない。やめる位置の印じゃ。今夜は、最後の“打たない三太刀”にする」
静と蓮は面をつけず、木刀を持ち、中央に立つ。祖父が窓を四分の一寸まで絞る。風の角は薄い紙のように道場を撫で、梁の上の“出ない音”の薄い層が、さらに一枚、貼り付いた。
初太刀は降ろさない。降ろさずに、眉間へ気配を置く。置いたものを、置いた者が自分で回収する。二太刀目、蓮が半足詰める。静は退かず、前にも出ない。風の内側に居続ける。その居続ける感覚が、今までの稽古よりずっとはっきりした。三太刀目——梁は鳴らなかった。完全な無音。鳴らない音が、逆に耳の奥をつよく撫でた。
「よし」
祖父の声が、無音の上を足音のように通り過ぎる。木刀を納める音も、小さかった。道場は、その小ささを覚える。
夜のサイレンは、一本鳴りのまま短く終わった。次に来るのが長いのか短いのか、誰にもわからない。桶の列は今夜は出ない。砂袋の位置と団扇の束を確かめ、水場の柄杓を点検する。団扇の骨に、わずかなひび。ひびは、筋にも似ている。筋を知っていれば、崩れ方を選べる。選べるうちは、大丈夫だ。
翌日の河岸で、静と蓮は小さな火を見つめた。鍋の底に貼りついた煤が、いっとき白く見える瞬間がある。風が向きを変えた刹那、灰が瓶の口に吸い込まれた。灰は舌の奥で鉄の味がする。
「勝っていない」
蓮が言う。肩の線が硬い。
「延ばさなかっただけだ」
静は瓶の口を指で撫でた。瓶は改札みたいだ。通るものと通らないものを、音もなく仕分ける。
「延びないように、終わらせる拍を先に置く」
「拍を先に」
「うん。剣と同じ」
蓮は石の筋を指でなぞり、筋の先で指を止めた。
「筋があれば、崩れ方は選べる。選べるうちは、まだ大丈夫だ」
「大丈夫だ」
言いながら、二人とも、言葉の端を少し手前で切った。切らないために、切る。火を延ばさないために、言葉を延ばさない。延焼は火だけでなく、言葉にもあるからだ。
夜、短いサイレンが鳴り、すぐに長いのが続いた。小さな出火。団扇、砂、水——拍のリレーで押し返す。団扇の骨がしなる音、砂の擦過、土に落ちる水の着地音。それぞれの音を別々に数え、合わせてやめる位置を探る。やめどころはいつも、音の直前か直後にある。そこを逃すと、延びる。
鎮火のあと、道場の柱に薄い焦げ。看板は壁に立てかけている。翌朝、看板は消えていた。誰かが資材に回したのか、役場へ持っていかれたのか、別の家の梁になったのか、わからない。祖父は柱に掌を当て、目を閉じた。
「名が外れたぶん、わしらが支えんといけん」
怒らない声だった。怒らないのに、芯が硬い。柱は中で鳴っていた。鳴らない音で鳴っていた。
その昼、配達の鈴が一度だけ長く鳴った。折れ目のない一本。静の体が先に反応し、目の角度がわずかに変わった。祖母は湯気を一度だけ回し、台所の影から顔を出す。配達の男は小さく会釈し、封書を差し出した。封書の隅に、赤い押印。赤の点は見える。字はまだ見ない。祖母が封を切り、静は瓶の口から指を離した。封書は赤紙ではなかった。隣組への供出の督促。誰かのため息が、廊下の途中で一度だけ折れた。
安堵と恥が同時に胸に落ちる。自分の家が呼ばれたのではない、という安堵。次に呼ばれるのは誰か、あるいは自分か、という恥じるほどの予感。その予感が、指先のざらつきをさらに細かくした。
夜、祖父は窓の黒紙の縁を親指でなぞり、「半寸を、紙一枚ぶん狭める」と言った。
「閉めるのは逃げるためじゃない。守るための在り方じゃ」
紙一枚。分かる者だけが分かる差。窓の開け幅の差は、呼吸の深さの差になり、夜の音の厚みの差になる。瓶の配置も変えた。風、無風、火の手前——「火の手前」をいちばん窓に近い位置へ。改札の順番が変わると、通るものの顔つきが変わる。
祖母は机の布の角を直し、葉書をそっと取り出した。香から、短い字。「いまは山茶花」。季節の名は呼んでいい。呼べば香りが寄ってくる。呼べば傷つく名は呼ばない。呼べるまで、呼ばない。それが、家の礼だと祖母は言う。言わないで、所作で見せる。
日々は、鈴と紙と靴音で進む。掲示板の紙はさらに増え、赤い押印は増え、標語の文字は太く、筆圧が強く、紙質は粗くなった。先生は行進曲を教えながら、一拍だけ息継ぎを間違えた。間違えた息は、すぐに教室の隅に隠れ、誰も拾わない。拾わないものは、瓶が拾う。瓶は拾って、鳴らない音で記録する。夜の窓辺は、記録でいっぱいだ。
蓮の背中は、相変わらず振り返らないで歩いた。だがある晩、半足だけ遅れた。裸足の裏の皮膚が、砂の一粒を探したかのように。静は声をかけない。呼ばない。呼べるほどに、自分の中に置き場所ができるまで、呼ばない。
配達の鈴は、日ごとに身体の中で大きくなる。鈴が一本鳴るだけで、喉が少し縮む。縮んだ喉に、祖母の湯気が一度だけ入る。二度目は、瓶に譲る。譲られた湯気は、ガラスの縁で白く消え、消えた痕が小さな輪を作る。その輪が、指紋を飲み込んで曖昧にする。曖昧は、栞になる。はっきりした字より長く挟まっている栞になる。
ある午後、道場に砂袋を運び込み、縄を積み、団扇を縛り直す作業をした。道場は物資置き場になってからも、ものの居住まいはきちんとしている。名が外れても、居住まいが残る。居住まいが残れば、礼は続けられる。祖父は砂袋の重みを足で受け、柱の芯の鳴りを確かめ、窓を紙一枚分、また狭めた。
「静」
「はい」
「竹刀の先を、一寸」
竹刀は今は使わない。それでも、先を引く所作は体から抜けない。一寸引く。怪我をさせない距離。火の前でも、人の前でも、紙の前でも。引いた一寸の手前に、火は来られない。来させない。それが、今の稽古だった。
夕暮れ、紅葉が一枚、風に転がされて道場の窓の黒紙に貼りついた。赤の薄い紙片が黒の上に乗る。赤は押印にも似て、火の芯にも似た。祖母はそれを剥がさず、そのままにしておいた。窓の縁で、季節はおとなしく名乗る。名乗っていい方の赤だ。名乗ってはいけない赤は、まだ外を巡っている。
その夜、配達の男が試しに鈴を短く鳴らした。一本ではない。短く切れた二音。静の体は、一本を待っていたせいで、拍を間違えた。間違えた拍を、瓶の口に触れさせて戻す。戻すことができるうちは、まだ大丈夫だ。祖母が湯気を二度回す。二度目の湯気は、静の手前で薄く消える。消えるものは残る。残るものは、名を欲しがらない。
翌日、川べりの防火帯を整える作業で、静は釘抜きの刃に赤錆を見つけた。赤は小さいほど、目に刺さる。刃の赤を指で拭い、その赤を布で拭かず、瓶の口に触れさせた。赤は音を持たず、触覚だけを瓶に渡した。瓶の内側に、音のない音が一つ増える。増えた音は、夜に鳴らないで鳴る。
夜の改札。風の通り道で、蓮が振り返らずに通る。背中の中の顔は、いつもと同じように前を見ている。が、半足だけ遅い。遅れは病いか疲れか、あるいは別の名か。名は呼ばない。呼べば傷つく名が、増えていく。呼べるまで、呼ばない。
瓶は三つ。風、無風、火の手前。順番は、火の手前が窓に近い。瓶の間に置いた釘抜きの欠片に、赤錆が薄く残る。紅葉はまだ黒紙に貼りついたまま。祖父は窓を紙一枚ぶん狭め、祖母は机の布の角を直した。角は直しすぎない。直しすぎないで、止める。止める位置を間違えないで、やめる。
静は目を閉じ、骨の内側でサイレンの形をなぞった。折れる音、折れない音。折れ目は、呼吸の入口。折れない一本は、呼吸の出口をふさぐ。窓の開け幅と、湯気の回数と、瓶の順番で、家は呼吸を確保する。呼吸が確保できるうちは、言葉を増やさない。言葉は増えやすい。増えれば、延びる。延びれば、燃える。延焼を止めるとは、言葉の延焼を先に止めることだ——静はそう思った。
鈴の音が、遠くで一本、鳴った。試し鳴らしではない、一本鳴り。身体が先に反応する。祖母は湯気を一度だけ回し、祖父は窓の紙を人差し指の腹で押さえた。誰かの靴音が、門の外で止まり、また動いた。止まった場所に、名はまだ降りていない。降りていないけれど、降りられる準備だけが骨の中で整う。瓶の口で、鳴らない音がいちどだけ深くなり、また平らに戻った。
夜の終わりと朝の始まりのあいだに、道場の梁の上で“出ない音”の薄い層が、さらに一枚、そっと増えた。層は増えるたびに軽くなり、軽くなるたびに、支える人の指が必要になる。名が外れたぶん、人が支える。名が外れる前に、名が呼ばれる前に、支える指のことを考えておく。考えることは、礼だ。
朝は来る。配給の列は長く、棚は軽く、空は白く、郵便配達の鈴の音は昼へ向けて磨かれていく。蓮の歩幅は、半足。半足の遅れと、半足の先。静は竹刀の先を一寸引いた。引く所作は、剣がなくても、身体から離れない。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。呼べるまで、呼ばない。
窓は紙一枚ぶん狭いまま、瓶は三つ、順番は変えずに置かれている。紅葉は黒紙に貼りついたまま、赤錆は釘抜きの欠片に薄く残る。
鈴は、今日もどこかで一本、鳴るかもしれない。鳴らないかもしれない。どちらでも、拍を用意しておく。やめるための拍。やめられた場所を記録する瓶。
少年期の終わりは、いつも火の手前にある。勝っていない。負けてもいない。延びていない。延ばさなかっただけの夜と朝の継ぎ目に、静かな喉の渇きが一つ、置かれる。
その渇きが、次の音を待つ。一本鳴りの鈴を——。
※
放課後の道場は、道具の匂いだけが残っていた。皮の汗、松脂、磨かれすぎて角が消えた床板の甘い木の匂い。稽古停止の紙は柱の目の高さに貼られ、糊が乾くまでの浅い湿りを祖父が親指で押さえている。窓の黒紙は、紙一枚ぶんまで狭められていて、縁の目貼りに使われた少し古い糊が、指の腹にざらつきの薄い線を残した。
「静」
祖父が呼ぶ。短い、硬い、いつもの声だ。
「はい」
「今日はここまで——いや、三太刀だけ、打たずに交わして終いにしよう」
「……うん」
面はない。蓮は木刀を持って、静の正面に立った。二人の影が床に落ち、その境界が薄い。吸う。吐く。今までぴたりと合っていた呼吸に、ごく小さなずれが生まれていた。吸気のはじめは同じなのに、静の吐くが半拍だけ早い。蓮の吐くはそのあとを追いかけてくる。追いかけられるほうの胸に、短い石が入ったような感触がある。石は音を持たない。けれど、その無音が、指の内側までひびく。
初太刀、降ろさない。眉間に気配だけ置き、置いたものを引き取る。二太刀目、半足。床板の返りが膝に上がるのを受け止め、さらに半足。三太刀目、目の奥に灯る「負けない」と「折れない」が互いをかすめ、消える。消したあとに残るのは、やわらかい空洞だ。空洞は怖い。怖いものの前で、祖父は窓の縁を人差し指で押さえた。
「ここまで」
祖父が言う。木刀を納めると、梁の上で“出ない音”の薄い層が、一枚ふわりと増えた。見えないのに、確かに増える。増えるたびに、少し軽くなる。軽くなるぶん、支える指の腹が必要になる。
道場を出ると、空は低く、呉のほうから遅れて届く低い音が、骨の中の太い弦をふるわせた。蓮が竹刀袋ではなく、縄で束ねた細い竹の束を肩にかけ直す。勤労奉仕の帰りだ。石工の家の筋は、肩の上で、骨のかたちのまま立っている。
「ここまで、だな」
蓮が言う。
「うん。ここまで」
「次は、どこだろう」
「火の手前」
「手前……」
「手前でやめる。やめる位置を先に置く」
蓮は欄干の石の筋を撫でて、「崩れ方を先に決めることだ」と付け加えた。崩れるとき、人は自由を失う。崩れる前に、崩れ方を決めれば、それはまだ自由だ。
橋の下を風が通る。瓶の口を向けたくなる衝動を、静は喉の奥で止めた。止める、というのは、ただやめるのとは違う。やめる位置まで息を運んでから、置く。置いた息は、誰の顔も濡らさない。
道の脇で、郵便配達の鈴が二度、短く鳴った。一本鳴りではない。体は大きくは動かない。けれど、喉ぼとけの後ろの薄皮が一枚、そっと立ち上がる。祖母は湯気を二度回して、台所の影で指の腹の糊をこそげ落とした。その糊のざらつきは、窓の隙間をふさぐ強さと同じで、押しつけすぎると破れ、触れないと剥がれる。
学校の後方の列に、空席が増えた。黒板の左側は奉仕予定で埋まり、右側に標語と歌詞。算術は隅に追いやられ、先生のチョークは角を立てる。点呼のとき、先生はひとつの名を呼んで、返事がなかった。呼び声が空のほうへ行き、教室の空気が少しだけ硬くなる。先生は黒板の隅に小さな丸をひとつ、描いた。丸はすぐに粉で消える。消えるけれど、その消えた粉が指の腹に残る。残ったものは、瓶に入れる。瓶は、呼べない名の重さで、少しずつ重くなる。
静の前の席の少年は、昨日までいたのに、今日はいない。机の上の艶が、ほかのどの机よりも深い。名前の跡が薄く残って、その上を手のひらで撫でると、木はあたたかい。あたたかさは、残酷だ。あたたかいのに、いない。いないのに、触れるところがある。その「ある」に、静は礼をした。角度ではなく、距離の礼だ。
放課後、勤労奉仕で建物疎開に出る。釘抜きが木目を噛み、釘の頭が鳴る。鳴った音はすぐに埃に混じって、耳の中で鈍くなる。梁を降ろす。芯の湿りを手のひらで受ける。木は、長いあいだ生きていたのだ。生きていたものを、火の前に置かないため、ここでやめる。やめるための印を、先に置く。
遠くで「万歳」の練習が聞こえた。声は太い。太い声は、薄い。薄い声は、よく飛ぶ。飛んでいく声を、静は耳の手前で止める。止めて、声の量を一寸だけ減らす。減らすことは逃げではない。怪我をさせないための手の内だ。剣で覚えたことを、声に移す。声は刃だ。刃は、置き場を間違えれば、すぐ誰かを傷つける。
「隣の家に“紙”が来たらしい」
蓮が誰にも向けずに言った。赤紙、と言わない。名を名で呼ばない。呼ばないことが、礼になる。紙は紙で、紙の重さは、瓶の口で測ればいい。紙の重さの前で、名前を呼ばなくていい。呼べるまで、呼ばない。
河岸に降りて、二人で座った。瓶を三つ——風、無風、火の手前——窓辺とは違って、並びは自由に変えられる。風の向きが変わった刹那、灰が瓶口に入る。静は瓶を半歩だけずらし、灰を喉ではなくガラスの内側に受けた。受ける位置を間違えないように、半歩。半歩は、半足でもある。半足で怪我を避ける。避けることは、逃げることではない。
「勝っていない」
蓮が言った。
「延ばさなかった」
静が答える。勝ちでも負けでもない。延焼を止めただけだ。それが今の、やっと持てる手応えだ。
「終わらせる拍を、先に置く」
「拍を先に」
「うん」
蓮は空気の竹刀を握る形に指を丸め、静も同じ形を作った。二人のあいだに、見えない柄があり、その柄の上で手の内の緩みだけを伝える。触れない。触れないで、緩みだけを渡す。緩みは、延ばさないための芯だ。芯は、固いほど折れやすい。柔らかさが芯を守る。
見送りの日は、空がやけに軽かった。旗の白がよく見え、紙の幟は角を強く持ち、太い字が二行、三行と立つ。列は整然。拍は合わせられる。合わせすぎると零れることを、みんな知っているのに、今日は合わせるように命じられる。合わせすぎないよう、静は内側で半拍ずらした。ずらしながら、声を出す。出すことが礼になる場では、出さざるを得ない。出すなら、怪我をさせないように出す。出してやめる。やめる位置で切る。
「万——」
出だしで、静は喉の薄皮を一枚だけ立ち上げ、すぐに滑らせた。声の角を立てない。角が立てば、誰かの肺の奥に刺さる。刺したまま、声は戻らない。
「歳——」
蓮の声は、静の半拍あとに乗ってきた。二人の声は、合っているようで、合っていない。合いすぎないことが、今はふたりの呼吸を守る。守ることは、勝つことではない。けれど、その守れた一拍が、夜に持ち帰る湯気の位置をひとつ増やす。
「万歳」
拍手がばらけて、白い布がひらめき、旗の角度がわずかに変わる。ばらけの音は、砂を踏む音に似ている。砂粒が靴底に噛み、取れない。取れない砂粒は、夜の床に移って、裸足にひやっとした痕を作る。痕は朝まで残り、朝の湯気でやっと消える。
祖母は湯気を一度だけ回した。二度目はない。二度目は、瓶の口で消えた。消える白は、残る。残った白は、瓶の内側にゆっくり降りて、無音の層を薄く増やす。祖父は窓の黒紙の縁を紙一枚ぶん押さえる。「半寸」も「四分の一寸」も言わない。紙一枚——今はそれが、守れる最狭の幅だ。
帰ると、道場は砂袋の列、団扇の束、縄の匂いで満ちていた。道場は道場の居住まいのまま、別のものを受け入れている。名は外れた。看板はない。ないことで、ものは軽くなり、軽くなったぶん、支える指が増える。祖父は柱に掌を当て、鳴らない音を聴くように目を閉じた。静は瓶の順番を変えずに、窓辺に置いた。風、無風、火の手前。火の手前を、窓にいちばん近づけておく。
夜の改札を、蓮は振り返らずに通った。背中の中の顔は前を向いている。けれど、その歩幅は半足だけ遅い。遅れは疲労か病いか、あるいは別の名か。静は呼ばない。呼べるまで呼ばない。呼べない名は瓶へ行き、瓶は無音で受ける。受けて置く。置かれたものは、家の中では鳴らない。鳴らないで、居る。
翌日も、誰かの名前が消えた。消える前の名を、静は呼ばなかった。呼んだ瞬間、名は怪我をする。怪我をさせないために、呼べるまで呼ばない。呼べるというのは、戻す場所が用意できたときだ。戻す場所は、窓の幅、湯気の回数、瓶の順番で決まる。家の中にしか作れない場所だ。
授業で竹槍を持つ。持ち方は木刀に似ているが、似ていない。重さの居場所が違う。「突け」と言われ、突かずに、竹の先を一寸だけ引いた。引いた一寸の手前に、誰かの喉がないことを確認する。確認してから、突かない。突かない練習は、突く練習より骨が疲れる。疲れた骨は、夜に鳴る。鳴らない音で鳴る。
昼下がり、配達の鈴が一本、長く鳴った。一本鳴りに体が先に反応する。喉の薄皮が立ち、目の角がわずかに鋭くなり、指の腹の糊が蘇る。祖母は湯気を一度回し、祖父は窓の縁を押さえた。封書の角に赤い押印。赤は小さくても刺さる。祖母は紙を開き、読み、たたんだ。赤紙ではない。供出の督促だ。安堵と恥が同時に胸に落ちる。自分の家ではなかった、という安堵。次は自分かもしれない、という恥。恥は、瓶の内側にゆっくり沈む。沈んだものは、急に浮かばない。浮かないままで、夜になる。
夜、祖父は言った。
「窓は、紙一枚」
「紙一枚」
「竹刀の先は、一寸」
「一寸」
竹刀はもう持っていない。まだ持っている。持っていないものを、体は持っている。持っているものを、外には出さない。出せば、火が寄ってくる。寄らせない。寄らせないための所作を、静は体の中でなぞった。足幅、膝の緩み、踵の沈め方、視線の置き場。面はない。胴もない。けれど、今も稽古は体の中で続いている。続いていることが、かえって苦しい。苦しいのに、手放せない。手放せないものが、ある。
「静」
蓮が言った。家のほうの石が重い、という言葉を言わないで、言った。石は名を持たない。名を持たない重さは、人の背中の皮膚の下で筋になり、筋は夜にだけ、痛む。痛みは遠くの鈴と同じ形で、骨に入る。
「うん」
静は答えた。「うん」以外の言葉は、今は全部、瓶へ行く。「うん」だけは、瓶の外側に置いておける。置きっぱなしにできる言葉だ。
その夜、瓶の前で指が止まった。風、無風、火の手前。指の止まる位置が、昨日とわずかに違う。違いを正す。正せるうちは、まだ大丈夫だ。正せなくなる前に、誰かの名を呼ばない。呼ばないで、やめる位置だけを置く。置いて、眠る。眠れれば、朝が来る。
朝は来た。配給の列は長く、籠は軽く、空は白い。祖母は湯気を二度回した。二度目の湯気は、静の手前で薄く消え、消えた白は、瓶の内側で丸くなった。丸は角を持たない。角のないものは、家の中で長く居られる。居られるものがあるうちは、声の角を立てないですむ。
蓮の歩幅は、半足。半足の遅れは、すぐには増えない。増えないのに、目には残る。残るものほど、呼びたくなる。呼べば、刺さる。刺さるものを、今は避ける。避けることは逃げではない。怪我をさせないためだ。怪我をさせないほうが、長く居られる。
学校の後方の空席に、日が落ちた。夕暮れの光は、赤い。紅葉が窓の黒紙に貼りついている。赤は三つ重なる——押印の赤、釘抜きの赤錆、紅葉の赤。三つは同じ赤ではない。同じでないから、どれかを呼んでも、どれかは傷つかない。傷つけずに呼べる赤を選ぶ。それが、今の言葉の道筋だ。
道場の梁は、今日も鳴らない音で鳴る。鳴るたびに、薄い層が増える。層の軽さは、人の指のざらつきで支える。祖父は窓の縁を紙一枚押さえ、祖母は机の布の角を直し、静は瓶の順番を変えずに置いた。変えないことが、守ることになる夜がある。変えなければ、持っていけるものがある。
——その夜、鈴が一本、鳴った。
体が先に動く。目の角度が変わり、指の腹から糊のざらつきが蘇り、喉の薄皮が立つ。祖母は湯気を一度だけ回し、祖父は窓の紙の端を押さえた。足音が門の前で止まり、また動いた。封書は、赤紙ではなかった。けれど、一本鳴りの稽古だけが、家の中に残った。稽古は、まだ続く。体の中で続く。続くうちは、声の角を立てない。角のない声で、やめる位置まで出し、置く。置いて、引く。一寸。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。
翌日、石段を上がる蓮の背中を、静は見た。背中はいつもと同じ方角を向いている。半足だけ遅い。遅いことに、名をつけない。名は、外の紙が先につける。外は、名を呼ぶ準備を終えている。呼ばれる前に、呼べるように準備をする。準備は、家の中でする。窓の幅を紙一枚にし、湯気を一度にし、瓶を三つ、順番どおりに置き、竹刀の先を、一寸引く。
「静」
祖父が呼んだ。
「はい」
「いつか、窓を開ける日が来る。そのときに備えて、閉めておく」
「はい」
閉めるのは逃げるためではない。守るための在り方だ。守るものがあるうちは、世界は全部敵ではない。敵でないものを、少しだけ残す。残しておくために、呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
夜更けになって、瓶の口に指を置いた。風の瓶は軽い。無風の瓶は、音のない音でいっぱいだ。火の手前は、喉の奥で鉄の味がする。三つの間に置いた釘抜きの欠片に、赤錆が薄く残る。赤は、ちいさければちいさいほど刺さる。刺さるものを、今は瓶に預ける。
蓮の背中の影が、窓の黒紙に重なる。半足の遅れが、影の中で見える。呼ばない。呼ぶ代わりに、静は竹刀の先を、一寸、引いた。引く所作は、世界の前で、礼になる。礼は、角度ではない。距離だ。距離を間違えない者だけが、怪我をさせない。怪我をさせない者だけが、明日を持ち運べる。
夜は続く。鈴は、いつでも、どこでも、一本、鳴る準備をしている。一本鳴りを鳴らさない夜が続く間に、やめる位置を体に刻む。刻んだ位置が、次の朝の湯気の置き場になる。置き場があるうちは、呼べない名を抱えられる。抱えて、呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
翌朝、紅葉は黒紙から落ちていた。落ちた赤は、床の隅で小さく乾く。祖母は湯気を二度回し、祖父は柱に掌を当て、静は瓶を三つ、もう一度指で撫でた。瓶の内側で、無音の層が一枚、増える。増えた層は軽く、軽いものほど、長く居られる。
「蓮」
声にならない声を、静は喉の奥で呼び、呼ばなかった。その呼ばなかった声は、家の中のどこにもぶつからず、瓶の口の前で静止し、やがて、無音の層のほうへと沈んだ。沈んだものは、忘れていい。忘れていいものが増えると、呼べる名がひとつ、増えるかもしれない。まだ、そのときではない。外は、名を先に呼ぶ準備を終えている。家は、呼べるまで呼ばない準備を終えている。
風は名乗らない。無風は拍を数える。火は、延ばさない。
青春は、呼吸を合わせることだった。
戦争は、その呼吸を、半拍ずつ、外へ持っていく。
半拍ずつ外へ連れ去られながら、私たちは、内側にやめる位置を増やしていく。
増やした位置の数だけ、明日の湯気の置き場が増える。
湯気があるかぎり、声の角を立てずに、万歳を一寸、短く言える。
一寸、短く。
一寸、引いて。
火の手前に、立つ。
夜の終わりと朝のはざま、道場の梁の上で“出ない音”の層が、また一枚、そっと増えた。
その薄い層は、見えないが、指の腹に確かに触れる。
その触覚の向こうから、一本鳴りの鈴が——まだ鳴っていないのに——骨の弦を撫でた。
静は、竹刀の先を、もう一度、一寸、引いた。
呼べるまで、呼ばないために。
外で、誰かが名を呼ぶ準備を終えてしまう、その前の夜として。
「静」
祖父の源蔵が呼ぶ。声は短く、床と同じ硬さで、家の芯に届く。
「はい」
「並べ。拍を崩すな」
桶の列は川から道場の手前まで伸び、影の肩が連なる。男の腕、女の腕、子どもの腕——色も年も違う骨が、ひとつの動物の背骨みたいにしなった。矢野蓮は静の二人前に入って、片手で受け、片手で渡す。剣の稽古で覚えた半足のずらし方が、そのまま水の巡りに移る。
「合えば早い。合いすぎると零れる」
蓮が低く言う。息を乱さず、空気が喉の奥で静かに行き来する。
「合わせすぎない」
静は短く返し、指の力をわずかに抜いた。握りすぎは零れ、緩めすぎは遅れる。遅れることは、燃えることだ。
遠い空で、何かが咲いた。花火に似て、花火でない。焼夷の束が空をほどき、細い火の雨が、海の向こう側に落ちていく。誰かが「訓練じゃない」と叫び、誰かが「訓練だ」と言い返す。どちらでもよかった。火は名乗らない。名乗らない火が、名のある誰かの屋根の上に落ち、名のない炎になって揺れた。
道場の戸口で、祖父が窓を半寸だけ開ける。半寸という幅は、命の開け幅だった。風が入る角度を読む。風は名乗らないが、火は風の嘘を暴く、と祖父は昔言っていた。
「東から走る。渡し手、半足ずらせ」
短い指示が列に吸い込まれ、半拍遅れて動きが揃う。零れが減る。誰も褒めず、誰も名を呼ばないまま、延焼は手前で止まった。止まっただけで、勝ちはない。広がらなかったぶんだけ、腕の骨に薄い重さが残る。
夜が明ける。空は紙の白に近く、細かな煤が窓の黒紙の縁に集まっていた。サト祖母は湯気を一度だけ回してから、静に差し出した。いつもは二度。二度目の湯気は、昨夜どこかの手で使い切られたのだろう。
「お辞儀」
礼の角度ではなく、距離に礼をする。祖母は机の布の角を直し、針箱の蓋を少しずらして、糸の端を見やすい場所に出しておいた。ほどける前に、指がそこへ届くように。
日中、静と蓮は建物疎開の奉仕に回る。防火帯を確保するため、家の一部を解いていく。釘抜きの片刃が木目を噛み、釘の頭が鳴く。畳は二人で抱え、裏の藁が崩れないように持ち上げる。梁を降ろす時は、元の家の重みに礼をするみたいに、まず音を聴く。松脂の匂いが指に残り、コールタールの黒が爪に薄く潜る。鉄はすぐに嗅ぎ分けられるようになった。鉄は血と似た匂いがする。
「道場の看板も、外せと言われたら」
蓮が額の汗を手の甲で拭いながら問う。
「外す。名は外す」
静は答え、息を整えた。
「礼は外さない」
蓮は笑わなかった。笑わなくても、胸の奥で頷く気配はわかった。看板は名だ。名を外せば物は軽くなる。軽くなれば、移せる。移せれば、守れる。守るために名を外すことがある。
学校では黒板の左半分が「奉仕予定」で埋まり、右半分に標語と行進曲の歌詞が白く並ぶ。算術は右下の狭い場所に縮こまり、先生のチョークは角を立てた。声の高さは夏より半音低い。年長の先輩が次々に呉の工場に出ていき、教室の机が余る。余った机に薄く残る名前は、すぐに消される。消す白い粉が、爪の間に入り込んで、なかなか落ちない。
「合わせて、進め」
号令の拍で足が揃う。揃いすぎないよう、静は心の内側で半拍ずらした。合わせすぎて折れてはいけない。折れないためのずれを、自分の中に小さく持っておく。蓮も同じずれを持っている顔だった。視線は正面に置きながら、呼吸の背側に半寸、別の場所を用意している。
瓶は二つから三つになった。ひとつは風、ひとつは無風、そして新しく「火の手前」。火そのものは入れない。入れたら瓶が割れる。割れないために、手前で止める。窓辺に置いた瓶の口に、微かな灰が触れ、喉のあたりでざらりと残る。指で触ると、音のない音が指腹に移った。
「違い、わかるのか」
蓮が訊く。石粉が爪の隙間に白く残っている。
「匂い。湿り気。壁の向こうの音」
「見えないものばかりだな」
「見えるときは、もう遅い」
蓮は小さく頷き、拾った小石の筋を爪でなぞった。石の筋は、崩れる方向を教える。見えるひびは遅い。見えない向きを先にわかっていれば、力を抜く位置が選べる。
夕刻、道場に白い紙が貼られた。「当面、夜間の稽古を見合わせ」。読んだ誰もが短く息を止め、息を戻す場所を探した。祖父は紙の端を一度撫で、柱の焦げを指で確かめた。
「拍は数えるためじゃない。やめる位置を示す印だ。今は“やめる”の礼をする」
静は頷き、蓮も頭を下げる。面はつけない。木刀を持ち、道場の中央に立つ。祖父が窓を半寸開ける。風の角が道場に入り、梁の上の“出ない音”の薄い層が、また一枚、貼り付いた。
「三太刀だけ」
初太刀は打たない。打たないと決めてから、互いの眉間に気配だけ置く。置いた気配を自分で回収する。二太刀目、蓮が半足詰める。静は退かず、前にも出ない。風の内側に居続ける。三太刀目、目の奥に「負けない」と「折れない」が灯り、すぐ消した。火に見られる前に消す。火は名乗らないくせに、目は持っている。
夜、更なるサイレン。今度は長い一本のまま、折れ目がない。折れない音は、逃げ道を減らす。祖父が短い指示を落とす。
「砂、前へ。水は二の手。団扇は風を走らせるな」
団扇は風を作る道具だが、火の前では、風を止める道具にもなる。木の骨の角度を変え、火の足を鈍らせる。瓶の「火の手前」を戸口に置き、匂いだけを受ける。匂いがガラスの内側に曇りを作り、曇りは一瞬、人の顔に似た。似たものを、静は見ない。名をつけない。名をつけた瞬間に、瓶が割れる気がした。
小さな火が二軒先で上がり、バケツの拍で押し返される。拍が合うと早い。合いすぎると零れる。零れた水が土を重くして、靴底が沈む。沈みながら運び、運びながら止め、止めながら次の声を待つ。待つことが、勝ちでも負けでもない場所に人を置いた。
鎮火のあと、道場の柱に薄い焦げ。看板は外され、壁に立てかけてある。翌朝、看板は消えた。誰も見ていないあいだに、どこかへ運ばれた。役場か、資材か、人の家の梁に生まれ変わったのか、わからない。
「先生、看板が」
蓮が言うと、祖父は柱に掌を当てて言った。
「名を外すと、物は軽うなる。軽くなったぶん、人が支えにゃならん」
祖父は怒らなかった。怒らないで、柱の芯の鳴りを聴いた。柱は中で鳴っていた。鳴らない音で鳴っていた。
日中の奉仕は、釘の抜ける金属音と、畳の藁の摩擦と、足の拍で進む。静は河岸に瓶を持ち出し、「火の手前」を集める。河原では煮炊きの火が小さく立ち、風が向きを変えた刹那、灰が瓶口に吸い込まれる。灰は舌の奥で鉄の味がする。瓶の喉にざらりと残り、指で撫でると、指が瓶になる。
「俺たちは勝っていない」
蓮が瓶を見ながら言う。
「延ばさなかっただけだ」
「延ばさない」
「そう。延ばさない」
蓮は拾った石の筋を指でなぞり、筋に沿って力を抜いた。
「筋があるから、崩れ方を選べる」
「選べる」
「選べるうちは、大丈夫だ」
選べるうちは、まだ礼が残っている。選べなくなる前に、やめる。やめる位置を見失わないために、拍がある。
配給はさらに細くなり、祖母は大根の葉を刻んで塩で揉み、湯気の上で香りを戻す。戻す指先の拍は、剣の最後の一息に似ていた。最後に遅らせる塩。薄いものを深くする技は、戦が始まる前から祖母の手にあった。戦はそれを必要にしただけだ。
ある夕方、香から短い葉書が届いた。「いまは椿」。墨は淡く、紙の隅に小さな色がにじんでいた。匂い袋はもうない。匂いの言葉だけが、季節の息を知らせる。祖母は葉書の角を撫で、角を立てすぎない程度に直した。角を直すとは、言葉の居場所を作ることだ。言葉はすぐに意味にならない。意味にならないものを受ける器が家にあると、家は強い。
その夜、祖父は言った。
「窓は半寸」
「半寸」
「広げすぎると、火の目が入る」
窓の開け幅は、命の開け幅。出入りは狭い。狭い改札を、風と無風と「火の手前」が通る。瓶は改札係だ。名を持たないものの通行を記録する。
翌日、蓮が言った。
「明日からしばらく、疎開準備の手伝いに回る。家の石もある」
「わかった」
「道場のこと、頼む」
「頼まれた」
名は呼ばない。呼ばないことで芯が立つ。呼んだ瞬間、芯は少し柔らかくなる。柔らかい芯は、火に弱い。火は名乗らない。名を呼ぶ声のほうを先に見つける。
夜のサイレンが近くなる。桶の列は短く速くなり、水は小さく、砂は細かく、団扇の骨は柔らかくしなる。小さな火は、その都度、小さく鎮まった。鎮火のあとの息は、すぐ凪が来る。凪は危うい。凪で油断した隙間を、次の火が見ている。
ある朝、道場の壁に立てかけたはずの看板は、やはり戻らなかった。祖父は柱に掌を当て、目を閉じた。柱の中の音はまだある。あるものは、ある。名があろうとなかろうと、梁は梁としてそこに居る。居るものに礼をする。礼は角度ではなく、距離。距離を間違えなければ、燃やさずに済む。
学び舎では、板書の字体が日に日に粗くなり、行進曲の拍が教室の空気を固くした。土嚢を積む手は、木刀の柄に似た感触を思い出そうとする。想う手は少し震える。震えは隠せない。隠せない震えは、拍で覆う。覆った拍は、やめる場所を指す。やめる場所を指さねば、延びる。延びれば、火になる。
夕暮れの河岸。静と蓮は並んで座った。小さな煮炊きの火が、風でかすかに揺れる。瓶の「火の手前」を口で塞ぎ、息を一度だけ触れさせ、すぐ閉じる。閉じるのも礼だ。開けっぱなしにしない。入れすぎない。呼ばない。呼べるまで呼ばない。
「静」
「うん」
「この頃、勝った気がしない」
「わかる」
「延ばさなかっただけだ」
「うん。延ばさないで済んだ」
蓮は石の筋を撫で、筋の先で指を止めた。止める。やめる。やめた場所で立つ。それが今の強さだ。強さは声ではなく、呼吸の奥にある。呼吸の奥は、瓶が知っている。
その夜のサイレンは短く二度。近い場所で、小さな炎。団扇、砂、水——拍のリレーで押し返す。押し返すたびに、瓶の内側の曇りが少し厚くなる。厚い曇りは、指紋を飲み込んで、曖昧にする。曖昧なものほど、長く残る。
鎮火のあと、人々は口数が減った。減った口数の隙間で、道場の梁が薄く鳴る。鳴らない音で鳴る。祖父は柱に手を置き、「まだ鈍うはない」と小さく言った。祖母は茶碗の湯気を一度だけ回し、静に渡す。二度目の湯気は瓶に譲る。湯気の白がガラスの縁をかすめ、消えた。消えるものは、残る。残るものは、名を欲しがらない。
翌朝、掲示板の紙は増え、配給の列は長く、空は低かった。呉のほうから重い汽笛が遅れて届き、町の背骨がふっと撓んだ。道場は物資置き場になり、縄や砂袋や団扇が整然と積まれた。その整然さは、剣の道場だった頃の姿勢をかすかに真似ている。名は外れても、ものの居住まいは残る。居住まいが残れば、礼は続けられる。
祖父は静を呼んだ。
「静」
「はい」
「窓は、今夜も半寸」
「半寸」
「竹刀の先は、一寸」
「一寸」
静は頷き、竹刀の先を引いた。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。それが今の稽古だった。稽古のない夜にする稽古。やめるための拍。やめるための距離。
その晩、静は瓶を三つ、窓辺に並べ直した。風、無風、火の手前。順番を変えると、夜の音の入り方が変わる。窓の黒紙を縁取る糊のざらつきが、指に移り、指が小さな改札になった。改札を通るのは、名のないものたち。呼ばない名が増えていく。呼べば傷つく名が増えていく。だから呼ばない。呼ばないことで守れる拍がある。
廊下の先で、蓮の足音が一度だけ止まり、また動いた。振り返らない足音。背中の中に顔を持っている背中。夜の改札を通って、影に沈む。瓶の口に残る煤の指紋は、やはり曖昧だった。曖昧は栞になる。はっきりとした字よりも、長く挟まっている栞になる。
静は目を閉じ、骨の奥でサイレンの折れ目をもう一度聴いた。折れ目で、人の息が入れ替わる。入れ替わるたびに、礼の形は微かに変わり、変わるだけ柔らかくなる。柔らかい礼は、火の前で強い。強さは、声よりも、拍のやめどころに宿る。
朝は来た。配給の列は長く、棚は軽く、空は白く、道場の柱は中で鳴っていた。鳴らない音で、鳴っていた。祖母は湯気を二度回し、静は息に礼をした。祖父は柱に掌を当て、窓を半寸、開けた。半寸の風が道場に入って、瓶の口を一度だけ鳴らした。鳴らない音で鳴らした。
少年期の最後の季節は、火の手前で形を持ち始める。勝っていない。負けてもいない。延びていない。延ばさなかっただけの夜に、朝の湯気が一度、回る。二度目は——どこかで、人の手に使われるだろう。
名は呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
窓は半寸。竹刀の先は一寸。
怪我をさせない距離を、今夜も守る。
風は名乗らない。火は名を欲しがる。
どちらにも、礼を。
火の手前で、在る。
※
サイレンは、折れ目のない一本だった。夜の骨をまっすぐ撫で上げ、どこにも段差を残さない。折れ目があれば、呼吸の入り口を探せるのに、今夜は探す前に音が先をふさぐ。窓の黒紙は昼のうちに貼り直してあり、糊のざらつきが指にまだ残っている。祖父はその糊の感触を確かめるように、窓へ近づいた。
「静」
短い呼び声。床板の硬さに似た声。
「はい」
「桶を出す。拍は崩すな。窓は……半寸……いや、今夜は四分の一寸じゃ」
四分の一寸。半寸よりさらに狭い。窓の開け幅は命の開け幅だ。入る風の厚みが薄くなるかわりに、火の目が入りにくくなる。
桶は川から道場の手前まで一列に並ぶ。柄杓の金物が互いに触れて、小さな鈴の音をつくる。静は列の三番目、矢野蓮は二番目。前の男の肘の角度が一度だけ乱れ、受け損ねた水が畳の裏藁に当たって、乾いた草の匂いが立った。匂いは火より先に来る。静は半足、左右の肩をずらし、蓮と自分のあいだの隙間をひと呼吸ぶんだけ広げた。零れは止まり、拍が戻る。
「合えば早い。合いすぎると零れる」
蓮が低く言う。夜の声は高くならない。「合わせすぎない」
静は同じ低さで返し、腕の力をわずかに抜いた。強く握れば、零れる。緩めすぎれば、遅れる。遅れは火の足を喜ばせる。
遠く、海の上で音が咲いた。花火に似て、花火ではない。束ねられた火がほどけ、細い火の雨が、こちらを見もしないでどこかへ落ちた。町のどこかにいる誰かの家の屋根が、名を失って赤くなったかもしれない。火は名乗らない。名乗らないまま、名のある者へ落ちる。
祖父が窓を指で示す。四分の一寸の隙間から、風の角が一枚、部屋に滑り込む。
「東から走る。渡し手、半足ずらせ」
短い言葉が列へ吸い込まれ、少し遅れて動作が揃う。延焼は手前で止まった。止まっただけ。勝ち負けの形はここには立たない。腕の骨に残った薄い重さが、それでも確かだった。
夜明け。空は紙の白に近く、煤の粉が窓の黒紙の縁に集まっていた。祖母サトは湯気を一度だけ回してから静に渡し、机の布の角を直した。角は直しすぎるとまた丸くなる。丸くなりすぎないところで指先を止め、糊のざらつきを指の腹に残す。そのざらつきは、窓の隙間で夜を止めた痕にも似ている。
日中は建物疎開の奉仕だ。釘抜きの片刃が木目を噛み、釘の頭が呻いた。畳の裏藁が崩れないように抱え、梁を降ろす。梁は重い。重いものは音を隠す。松脂の匂いが指に残り、コールタールの黒が爪に薄く潜る。鉄は血と似た匂いがするのだと、鼻の奥が覚え込んだ。
「筋が多いほど、崩れ方は選べる」
蓮が言う。石工の家の子の、骨に染みた言葉。
「選べなくなる前に、やめる場所を決めとく」
静は釘の頭を見つめながら答えた。祖父の言葉が、木と鉄の間で別の意味に育つ。看板の話にも、似ている。名を外せば、物は軽くなる。軽くなれば動かせる。動かせれば守れる。守るために名を外すことがある。
掲示板の紙は、昨日より増えていた。紙質は粗く、角が毛羽立ち、赤い押印が二つ、三つと押されている。字は読まない。読む前に、赤の点だけが目に飛び込んだ。風が起き、掲示板の紙の角がめくれて、通り過ぎた紙の縁が、偶然静の手に持っていた瓶の口をかすめた。瓶は「火の手前」を集めるための瓶だ。赤い点と、瓶の縁に残った糊のざらつきが、小さな、しかし忘れにくい触覚の地図を作る。
学校では、黒板の左半分が奉仕予定で埋まり、右半分に標語と行進曲の歌詞が白く並ぶ。算術は右下の狭い場所で肩をすぼめ、先生のチョークは角を立てた。竹槍訓練、土嚢積み、匍匐前進——足の裏と膝の皮膚が別の季節を覚えていく。合唱は低く、平板。先生の息継ぎがいつもより一拍、遅れた。その一拍の遅れが、教室の空気をたちまち硬くする。
教室の後ろには空席が増えた。名前が消された机は、表面がひときわ艶やかだった。消された名前の粉が、布巾の中でまだ白く息をしている。郵便配達の鈴が、遠くで一度だけ鳴り、先生は説明を一拍止めた。それだけで、教室の空気の温度が変わる。鈴の音は、火より先に心臓に届く。
瓶の実験は続く。窓辺で、風の瓶と無風の瓶と「火の手前」の瓶を、わずかずつ位置を変えて並べる。無風は、音のない音で満ちる。火の手前は、匂いの手前で止まる。止め方は思ったより難しい。止めることを考えると、呼吸はすぐに走ってしまうからだ。走らないように、やめる位置を先に体に置く。祖母の湯気も同じ。二度のうち、一度を先に使い切ってしまえば、二度目は使わない手で取っておける。
夜、道場に紙が貼られた。「夜間稽古、当面見合わせ」。短い文字列のなかに、長い夜が詰まっていた。祖父は紙の端を指で押さえ、梁の焦げを撫でてから言った。
「拍は数えるためじゃない。やめる位置の印じゃ。今夜は、最後の“打たない三太刀”にする」
静と蓮は面をつけず、木刀を持ち、中央に立つ。祖父が窓を四分の一寸まで絞る。風の角は薄い紙のように道場を撫で、梁の上の“出ない音”の薄い層が、さらに一枚、貼り付いた。
初太刀は降ろさない。降ろさずに、眉間へ気配を置く。置いたものを、置いた者が自分で回収する。二太刀目、蓮が半足詰める。静は退かず、前にも出ない。風の内側に居続ける。その居続ける感覚が、今までの稽古よりずっとはっきりした。三太刀目——梁は鳴らなかった。完全な無音。鳴らない音が、逆に耳の奥をつよく撫でた。
「よし」
祖父の声が、無音の上を足音のように通り過ぎる。木刀を納める音も、小さかった。道場は、その小ささを覚える。
夜のサイレンは、一本鳴りのまま短く終わった。次に来るのが長いのか短いのか、誰にもわからない。桶の列は今夜は出ない。砂袋の位置と団扇の束を確かめ、水場の柄杓を点検する。団扇の骨に、わずかなひび。ひびは、筋にも似ている。筋を知っていれば、崩れ方を選べる。選べるうちは、大丈夫だ。
翌日の河岸で、静と蓮は小さな火を見つめた。鍋の底に貼りついた煤が、いっとき白く見える瞬間がある。風が向きを変えた刹那、灰が瓶の口に吸い込まれた。灰は舌の奥で鉄の味がする。
「勝っていない」
蓮が言う。肩の線が硬い。
「延ばさなかっただけだ」
静は瓶の口を指で撫でた。瓶は改札みたいだ。通るものと通らないものを、音もなく仕分ける。
「延びないように、終わらせる拍を先に置く」
「拍を先に」
「うん。剣と同じ」
蓮は石の筋を指でなぞり、筋の先で指を止めた。
「筋があれば、崩れ方は選べる。選べるうちは、まだ大丈夫だ」
「大丈夫だ」
言いながら、二人とも、言葉の端を少し手前で切った。切らないために、切る。火を延ばさないために、言葉を延ばさない。延焼は火だけでなく、言葉にもあるからだ。
夜、短いサイレンが鳴り、すぐに長いのが続いた。小さな出火。団扇、砂、水——拍のリレーで押し返す。団扇の骨がしなる音、砂の擦過、土に落ちる水の着地音。それぞれの音を別々に数え、合わせてやめる位置を探る。やめどころはいつも、音の直前か直後にある。そこを逃すと、延びる。
鎮火のあと、道場の柱に薄い焦げ。看板は壁に立てかけている。翌朝、看板は消えていた。誰かが資材に回したのか、役場へ持っていかれたのか、別の家の梁になったのか、わからない。祖父は柱に掌を当て、目を閉じた。
「名が外れたぶん、わしらが支えんといけん」
怒らない声だった。怒らないのに、芯が硬い。柱は中で鳴っていた。鳴らない音で鳴っていた。
その昼、配達の鈴が一度だけ長く鳴った。折れ目のない一本。静の体が先に反応し、目の角度がわずかに変わった。祖母は湯気を一度だけ回し、台所の影から顔を出す。配達の男は小さく会釈し、封書を差し出した。封書の隅に、赤い押印。赤の点は見える。字はまだ見ない。祖母が封を切り、静は瓶の口から指を離した。封書は赤紙ではなかった。隣組への供出の督促。誰かのため息が、廊下の途中で一度だけ折れた。
安堵と恥が同時に胸に落ちる。自分の家が呼ばれたのではない、という安堵。次に呼ばれるのは誰か、あるいは自分か、という恥じるほどの予感。その予感が、指先のざらつきをさらに細かくした。
夜、祖父は窓の黒紙の縁を親指でなぞり、「半寸を、紙一枚ぶん狭める」と言った。
「閉めるのは逃げるためじゃない。守るための在り方じゃ」
紙一枚。分かる者だけが分かる差。窓の開け幅の差は、呼吸の深さの差になり、夜の音の厚みの差になる。瓶の配置も変えた。風、無風、火の手前——「火の手前」をいちばん窓に近い位置へ。改札の順番が変わると、通るものの顔つきが変わる。
祖母は机の布の角を直し、葉書をそっと取り出した。香から、短い字。「いまは山茶花」。季節の名は呼んでいい。呼べば香りが寄ってくる。呼べば傷つく名は呼ばない。呼べるまで、呼ばない。それが、家の礼だと祖母は言う。言わないで、所作で見せる。
日々は、鈴と紙と靴音で進む。掲示板の紙はさらに増え、赤い押印は増え、標語の文字は太く、筆圧が強く、紙質は粗くなった。先生は行進曲を教えながら、一拍だけ息継ぎを間違えた。間違えた息は、すぐに教室の隅に隠れ、誰も拾わない。拾わないものは、瓶が拾う。瓶は拾って、鳴らない音で記録する。夜の窓辺は、記録でいっぱいだ。
蓮の背中は、相変わらず振り返らないで歩いた。だがある晩、半足だけ遅れた。裸足の裏の皮膚が、砂の一粒を探したかのように。静は声をかけない。呼ばない。呼べるほどに、自分の中に置き場所ができるまで、呼ばない。
配達の鈴は、日ごとに身体の中で大きくなる。鈴が一本鳴るだけで、喉が少し縮む。縮んだ喉に、祖母の湯気が一度だけ入る。二度目は、瓶に譲る。譲られた湯気は、ガラスの縁で白く消え、消えた痕が小さな輪を作る。その輪が、指紋を飲み込んで曖昧にする。曖昧は、栞になる。はっきりした字より長く挟まっている栞になる。
ある午後、道場に砂袋を運び込み、縄を積み、団扇を縛り直す作業をした。道場は物資置き場になってからも、ものの居住まいはきちんとしている。名が外れても、居住まいが残る。居住まいが残れば、礼は続けられる。祖父は砂袋の重みを足で受け、柱の芯の鳴りを確かめ、窓を紙一枚分、また狭めた。
「静」
「はい」
「竹刀の先を、一寸」
竹刀は今は使わない。それでも、先を引く所作は体から抜けない。一寸引く。怪我をさせない距離。火の前でも、人の前でも、紙の前でも。引いた一寸の手前に、火は来られない。来させない。それが、今の稽古だった。
夕暮れ、紅葉が一枚、風に転がされて道場の窓の黒紙に貼りついた。赤の薄い紙片が黒の上に乗る。赤は押印にも似て、火の芯にも似た。祖母はそれを剥がさず、そのままにしておいた。窓の縁で、季節はおとなしく名乗る。名乗っていい方の赤だ。名乗ってはいけない赤は、まだ外を巡っている。
その夜、配達の男が試しに鈴を短く鳴らした。一本ではない。短く切れた二音。静の体は、一本を待っていたせいで、拍を間違えた。間違えた拍を、瓶の口に触れさせて戻す。戻すことができるうちは、まだ大丈夫だ。祖母が湯気を二度回す。二度目の湯気は、静の手前で薄く消える。消えるものは残る。残るものは、名を欲しがらない。
翌日、川べりの防火帯を整える作業で、静は釘抜きの刃に赤錆を見つけた。赤は小さいほど、目に刺さる。刃の赤を指で拭い、その赤を布で拭かず、瓶の口に触れさせた。赤は音を持たず、触覚だけを瓶に渡した。瓶の内側に、音のない音が一つ増える。増えた音は、夜に鳴らないで鳴る。
夜の改札。風の通り道で、蓮が振り返らずに通る。背中の中の顔は、いつもと同じように前を見ている。が、半足だけ遅い。遅れは病いか疲れか、あるいは別の名か。名は呼ばない。呼べば傷つく名が、増えていく。呼べるまで、呼ばない。
瓶は三つ。風、無風、火の手前。順番は、火の手前が窓に近い。瓶の間に置いた釘抜きの欠片に、赤錆が薄く残る。紅葉はまだ黒紙に貼りついたまま。祖父は窓を紙一枚ぶん狭め、祖母は机の布の角を直した。角は直しすぎない。直しすぎないで、止める。止める位置を間違えないで、やめる。
静は目を閉じ、骨の内側でサイレンの形をなぞった。折れる音、折れない音。折れ目は、呼吸の入口。折れない一本は、呼吸の出口をふさぐ。窓の開け幅と、湯気の回数と、瓶の順番で、家は呼吸を確保する。呼吸が確保できるうちは、言葉を増やさない。言葉は増えやすい。増えれば、延びる。延びれば、燃える。延焼を止めるとは、言葉の延焼を先に止めることだ——静はそう思った。
鈴の音が、遠くで一本、鳴った。試し鳴らしではない、一本鳴り。身体が先に反応する。祖母は湯気を一度だけ回し、祖父は窓の紙を人差し指の腹で押さえた。誰かの靴音が、門の外で止まり、また動いた。止まった場所に、名はまだ降りていない。降りていないけれど、降りられる準備だけが骨の中で整う。瓶の口で、鳴らない音がいちどだけ深くなり、また平らに戻った。
夜の終わりと朝の始まりのあいだに、道場の梁の上で“出ない音”の薄い層が、さらに一枚、そっと増えた。層は増えるたびに軽くなり、軽くなるたびに、支える人の指が必要になる。名が外れたぶん、人が支える。名が外れる前に、名が呼ばれる前に、支える指のことを考えておく。考えることは、礼だ。
朝は来る。配給の列は長く、棚は軽く、空は白く、郵便配達の鈴の音は昼へ向けて磨かれていく。蓮の歩幅は、半足。半足の遅れと、半足の先。静は竹刀の先を一寸引いた。引く所作は、剣がなくても、身体から離れない。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。呼べるまで、呼ばない。
窓は紙一枚ぶん狭いまま、瓶は三つ、順番は変えずに置かれている。紅葉は黒紙に貼りついたまま、赤錆は釘抜きの欠片に薄く残る。
鈴は、今日もどこかで一本、鳴るかもしれない。鳴らないかもしれない。どちらでも、拍を用意しておく。やめるための拍。やめられた場所を記録する瓶。
少年期の終わりは、いつも火の手前にある。勝っていない。負けてもいない。延びていない。延ばさなかっただけの夜と朝の継ぎ目に、静かな喉の渇きが一つ、置かれる。
その渇きが、次の音を待つ。一本鳴りの鈴を——。
※
放課後の道場は、道具の匂いだけが残っていた。皮の汗、松脂、磨かれすぎて角が消えた床板の甘い木の匂い。稽古停止の紙は柱の目の高さに貼られ、糊が乾くまでの浅い湿りを祖父が親指で押さえている。窓の黒紙は、紙一枚ぶんまで狭められていて、縁の目貼りに使われた少し古い糊が、指の腹にざらつきの薄い線を残した。
「静」
祖父が呼ぶ。短い、硬い、いつもの声だ。
「はい」
「今日はここまで——いや、三太刀だけ、打たずに交わして終いにしよう」
「……うん」
面はない。蓮は木刀を持って、静の正面に立った。二人の影が床に落ち、その境界が薄い。吸う。吐く。今までぴたりと合っていた呼吸に、ごく小さなずれが生まれていた。吸気のはじめは同じなのに、静の吐くが半拍だけ早い。蓮の吐くはそのあとを追いかけてくる。追いかけられるほうの胸に、短い石が入ったような感触がある。石は音を持たない。けれど、その無音が、指の内側までひびく。
初太刀、降ろさない。眉間に気配だけ置き、置いたものを引き取る。二太刀目、半足。床板の返りが膝に上がるのを受け止め、さらに半足。三太刀目、目の奥に灯る「負けない」と「折れない」が互いをかすめ、消える。消したあとに残るのは、やわらかい空洞だ。空洞は怖い。怖いものの前で、祖父は窓の縁を人差し指で押さえた。
「ここまで」
祖父が言う。木刀を納めると、梁の上で“出ない音”の薄い層が、一枚ふわりと増えた。見えないのに、確かに増える。増えるたびに、少し軽くなる。軽くなるぶん、支える指の腹が必要になる。
道場を出ると、空は低く、呉のほうから遅れて届く低い音が、骨の中の太い弦をふるわせた。蓮が竹刀袋ではなく、縄で束ねた細い竹の束を肩にかけ直す。勤労奉仕の帰りだ。石工の家の筋は、肩の上で、骨のかたちのまま立っている。
「ここまで、だな」
蓮が言う。
「うん。ここまで」
「次は、どこだろう」
「火の手前」
「手前……」
「手前でやめる。やめる位置を先に置く」
蓮は欄干の石の筋を撫でて、「崩れ方を先に決めることだ」と付け加えた。崩れるとき、人は自由を失う。崩れる前に、崩れ方を決めれば、それはまだ自由だ。
橋の下を風が通る。瓶の口を向けたくなる衝動を、静は喉の奥で止めた。止める、というのは、ただやめるのとは違う。やめる位置まで息を運んでから、置く。置いた息は、誰の顔も濡らさない。
道の脇で、郵便配達の鈴が二度、短く鳴った。一本鳴りではない。体は大きくは動かない。けれど、喉ぼとけの後ろの薄皮が一枚、そっと立ち上がる。祖母は湯気を二度回して、台所の影で指の腹の糊をこそげ落とした。その糊のざらつきは、窓の隙間をふさぐ強さと同じで、押しつけすぎると破れ、触れないと剥がれる。
学校の後方の列に、空席が増えた。黒板の左側は奉仕予定で埋まり、右側に標語と歌詞。算術は隅に追いやられ、先生のチョークは角を立てる。点呼のとき、先生はひとつの名を呼んで、返事がなかった。呼び声が空のほうへ行き、教室の空気が少しだけ硬くなる。先生は黒板の隅に小さな丸をひとつ、描いた。丸はすぐに粉で消える。消えるけれど、その消えた粉が指の腹に残る。残ったものは、瓶に入れる。瓶は、呼べない名の重さで、少しずつ重くなる。
静の前の席の少年は、昨日までいたのに、今日はいない。机の上の艶が、ほかのどの机よりも深い。名前の跡が薄く残って、その上を手のひらで撫でると、木はあたたかい。あたたかさは、残酷だ。あたたかいのに、いない。いないのに、触れるところがある。その「ある」に、静は礼をした。角度ではなく、距離の礼だ。
放課後、勤労奉仕で建物疎開に出る。釘抜きが木目を噛み、釘の頭が鳴る。鳴った音はすぐに埃に混じって、耳の中で鈍くなる。梁を降ろす。芯の湿りを手のひらで受ける。木は、長いあいだ生きていたのだ。生きていたものを、火の前に置かないため、ここでやめる。やめるための印を、先に置く。
遠くで「万歳」の練習が聞こえた。声は太い。太い声は、薄い。薄い声は、よく飛ぶ。飛んでいく声を、静は耳の手前で止める。止めて、声の量を一寸だけ減らす。減らすことは逃げではない。怪我をさせないための手の内だ。剣で覚えたことを、声に移す。声は刃だ。刃は、置き場を間違えれば、すぐ誰かを傷つける。
「隣の家に“紙”が来たらしい」
蓮が誰にも向けずに言った。赤紙、と言わない。名を名で呼ばない。呼ばないことが、礼になる。紙は紙で、紙の重さは、瓶の口で測ればいい。紙の重さの前で、名前を呼ばなくていい。呼べるまで、呼ばない。
河岸に降りて、二人で座った。瓶を三つ——風、無風、火の手前——窓辺とは違って、並びは自由に変えられる。風の向きが変わった刹那、灰が瓶口に入る。静は瓶を半歩だけずらし、灰を喉ではなくガラスの内側に受けた。受ける位置を間違えないように、半歩。半歩は、半足でもある。半足で怪我を避ける。避けることは、逃げることではない。
「勝っていない」
蓮が言った。
「延ばさなかった」
静が答える。勝ちでも負けでもない。延焼を止めただけだ。それが今の、やっと持てる手応えだ。
「終わらせる拍を、先に置く」
「拍を先に」
「うん」
蓮は空気の竹刀を握る形に指を丸め、静も同じ形を作った。二人のあいだに、見えない柄があり、その柄の上で手の内の緩みだけを伝える。触れない。触れないで、緩みだけを渡す。緩みは、延ばさないための芯だ。芯は、固いほど折れやすい。柔らかさが芯を守る。
見送りの日は、空がやけに軽かった。旗の白がよく見え、紙の幟は角を強く持ち、太い字が二行、三行と立つ。列は整然。拍は合わせられる。合わせすぎると零れることを、みんな知っているのに、今日は合わせるように命じられる。合わせすぎないよう、静は内側で半拍ずらした。ずらしながら、声を出す。出すことが礼になる場では、出さざるを得ない。出すなら、怪我をさせないように出す。出してやめる。やめる位置で切る。
「万——」
出だしで、静は喉の薄皮を一枚だけ立ち上げ、すぐに滑らせた。声の角を立てない。角が立てば、誰かの肺の奥に刺さる。刺したまま、声は戻らない。
「歳——」
蓮の声は、静の半拍あとに乗ってきた。二人の声は、合っているようで、合っていない。合いすぎないことが、今はふたりの呼吸を守る。守ることは、勝つことではない。けれど、その守れた一拍が、夜に持ち帰る湯気の位置をひとつ増やす。
「万歳」
拍手がばらけて、白い布がひらめき、旗の角度がわずかに変わる。ばらけの音は、砂を踏む音に似ている。砂粒が靴底に噛み、取れない。取れない砂粒は、夜の床に移って、裸足にひやっとした痕を作る。痕は朝まで残り、朝の湯気でやっと消える。
祖母は湯気を一度だけ回した。二度目はない。二度目は、瓶の口で消えた。消える白は、残る。残った白は、瓶の内側にゆっくり降りて、無音の層を薄く増やす。祖父は窓の黒紙の縁を紙一枚ぶん押さえる。「半寸」も「四分の一寸」も言わない。紙一枚——今はそれが、守れる最狭の幅だ。
帰ると、道場は砂袋の列、団扇の束、縄の匂いで満ちていた。道場は道場の居住まいのまま、別のものを受け入れている。名は外れた。看板はない。ないことで、ものは軽くなり、軽くなったぶん、支える指が増える。祖父は柱に掌を当て、鳴らない音を聴くように目を閉じた。静は瓶の順番を変えずに、窓辺に置いた。風、無風、火の手前。火の手前を、窓にいちばん近づけておく。
夜の改札を、蓮は振り返らずに通った。背中の中の顔は前を向いている。けれど、その歩幅は半足だけ遅い。遅れは疲労か病いか、あるいは別の名か。静は呼ばない。呼べるまで呼ばない。呼べない名は瓶へ行き、瓶は無音で受ける。受けて置く。置かれたものは、家の中では鳴らない。鳴らないで、居る。
翌日も、誰かの名前が消えた。消える前の名を、静は呼ばなかった。呼んだ瞬間、名は怪我をする。怪我をさせないために、呼べるまで呼ばない。呼べるというのは、戻す場所が用意できたときだ。戻す場所は、窓の幅、湯気の回数、瓶の順番で決まる。家の中にしか作れない場所だ。
授業で竹槍を持つ。持ち方は木刀に似ているが、似ていない。重さの居場所が違う。「突け」と言われ、突かずに、竹の先を一寸だけ引いた。引いた一寸の手前に、誰かの喉がないことを確認する。確認してから、突かない。突かない練習は、突く練習より骨が疲れる。疲れた骨は、夜に鳴る。鳴らない音で鳴る。
昼下がり、配達の鈴が一本、長く鳴った。一本鳴りに体が先に反応する。喉の薄皮が立ち、目の角がわずかに鋭くなり、指の腹の糊が蘇る。祖母は湯気を一度回し、祖父は窓の縁を押さえた。封書の角に赤い押印。赤は小さくても刺さる。祖母は紙を開き、読み、たたんだ。赤紙ではない。供出の督促だ。安堵と恥が同時に胸に落ちる。自分の家ではなかった、という安堵。次は自分かもしれない、という恥。恥は、瓶の内側にゆっくり沈む。沈んだものは、急に浮かばない。浮かないままで、夜になる。
夜、祖父は言った。
「窓は、紙一枚」
「紙一枚」
「竹刀の先は、一寸」
「一寸」
竹刀はもう持っていない。まだ持っている。持っていないものを、体は持っている。持っているものを、外には出さない。出せば、火が寄ってくる。寄らせない。寄らせないための所作を、静は体の中でなぞった。足幅、膝の緩み、踵の沈め方、視線の置き場。面はない。胴もない。けれど、今も稽古は体の中で続いている。続いていることが、かえって苦しい。苦しいのに、手放せない。手放せないものが、ある。
「静」
蓮が言った。家のほうの石が重い、という言葉を言わないで、言った。石は名を持たない。名を持たない重さは、人の背中の皮膚の下で筋になり、筋は夜にだけ、痛む。痛みは遠くの鈴と同じ形で、骨に入る。
「うん」
静は答えた。「うん」以外の言葉は、今は全部、瓶へ行く。「うん」だけは、瓶の外側に置いておける。置きっぱなしにできる言葉だ。
その夜、瓶の前で指が止まった。風、無風、火の手前。指の止まる位置が、昨日とわずかに違う。違いを正す。正せるうちは、まだ大丈夫だ。正せなくなる前に、誰かの名を呼ばない。呼ばないで、やめる位置だけを置く。置いて、眠る。眠れれば、朝が来る。
朝は来た。配給の列は長く、籠は軽く、空は白い。祖母は湯気を二度回した。二度目の湯気は、静の手前で薄く消え、消えた白は、瓶の内側で丸くなった。丸は角を持たない。角のないものは、家の中で長く居られる。居られるものがあるうちは、声の角を立てないですむ。
蓮の歩幅は、半足。半足の遅れは、すぐには増えない。増えないのに、目には残る。残るものほど、呼びたくなる。呼べば、刺さる。刺さるものを、今は避ける。避けることは逃げではない。怪我をさせないためだ。怪我をさせないほうが、長く居られる。
学校の後方の空席に、日が落ちた。夕暮れの光は、赤い。紅葉が窓の黒紙に貼りついている。赤は三つ重なる——押印の赤、釘抜きの赤錆、紅葉の赤。三つは同じ赤ではない。同じでないから、どれかを呼んでも、どれかは傷つかない。傷つけずに呼べる赤を選ぶ。それが、今の言葉の道筋だ。
道場の梁は、今日も鳴らない音で鳴る。鳴るたびに、薄い層が増える。層の軽さは、人の指のざらつきで支える。祖父は窓の縁を紙一枚押さえ、祖母は机の布の角を直し、静は瓶の順番を変えずに置いた。変えないことが、守ることになる夜がある。変えなければ、持っていけるものがある。
——その夜、鈴が一本、鳴った。
体が先に動く。目の角度が変わり、指の腹から糊のざらつきが蘇り、喉の薄皮が立つ。祖母は湯気を一度だけ回し、祖父は窓の紙の端を押さえた。足音が門の前で止まり、また動いた。封書は、赤紙ではなかった。けれど、一本鳴りの稽古だけが、家の中に残った。稽古は、まだ続く。体の中で続く。続くうちは、声の角を立てない。角のない声で、やめる位置まで出し、置く。置いて、引く。一寸。引いた一寸の手前に、火は来ない。来させない。
翌日、石段を上がる蓮の背中を、静は見た。背中はいつもと同じ方角を向いている。半足だけ遅い。遅いことに、名をつけない。名は、外の紙が先につける。外は、名を呼ぶ準備を終えている。呼ばれる前に、呼べるように準備をする。準備は、家の中でする。窓の幅を紙一枚にし、湯気を一度にし、瓶を三つ、順番どおりに置き、竹刀の先を、一寸引く。
「静」
祖父が呼んだ。
「はい」
「いつか、窓を開ける日が来る。そのときに備えて、閉めておく」
「はい」
閉めるのは逃げるためではない。守るための在り方だ。守るものがあるうちは、世界は全部敵ではない。敵でないものを、少しだけ残す。残しておくために、呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
夜更けになって、瓶の口に指を置いた。風の瓶は軽い。無風の瓶は、音のない音でいっぱいだ。火の手前は、喉の奥で鉄の味がする。三つの間に置いた釘抜きの欠片に、赤錆が薄く残る。赤は、ちいさければちいさいほど刺さる。刺さるものを、今は瓶に預ける。
蓮の背中の影が、窓の黒紙に重なる。半足の遅れが、影の中で見える。呼ばない。呼ぶ代わりに、静は竹刀の先を、一寸、引いた。引く所作は、世界の前で、礼になる。礼は、角度ではない。距離だ。距離を間違えない者だけが、怪我をさせない。怪我をさせない者だけが、明日を持ち運べる。
夜は続く。鈴は、いつでも、どこでも、一本、鳴る準備をしている。一本鳴りを鳴らさない夜が続く間に、やめる位置を体に刻む。刻んだ位置が、次の朝の湯気の置き場になる。置き場があるうちは、呼べない名を抱えられる。抱えて、呼ばない。呼べるまで、呼ばない。
翌朝、紅葉は黒紙から落ちていた。落ちた赤は、床の隅で小さく乾く。祖母は湯気を二度回し、祖父は柱に掌を当て、静は瓶を三つ、もう一度指で撫でた。瓶の内側で、無音の層が一枚、増える。増えた層は軽く、軽いものほど、長く居られる。
「蓮」
声にならない声を、静は喉の奥で呼び、呼ばなかった。その呼ばなかった声は、家の中のどこにもぶつからず、瓶の口の前で静止し、やがて、無音の層のほうへと沈んだ。沈んだものは、忘れていい。忘れていいものが増えると、呼べる名がひとつ、増えるかもしれない。まだ、そのときではない。外は、名を先に呼ぶ準備を終えている。家は、呼べるまで呼ばない準備を終えている。
風は名乗らない。無風は拍を数える。火は、延ばさない。
青春は、呼吸を合わせることだった。
戦争は、その呼吸を、半拍ずつ、外へ持っていく。
半拍ずつ外へ連れ去られながら、私たちは、内側にやめる位置を増やしていく。
増やした位置の数だけ、明日の湯気の置き場が増える。
湯気があるかぎり、声の角を立てずに、万歳を一寸、短く言える。
一寸、短く。
一寸、引いて。
火の手前に、立つ。
夜の終わりと朝のはざま、道場の梁の上で“出ない音”の層が、また一枚、そっと増えた。
その薄い層は、見えないが、指の腹に確かに触れる。
その触覚の向こうから、一本鳴りの鈴が——まだ鳴っていないのに——骨の弦を撫でた。
静は、竹刀の先を、もう一度、一寸、引いた。
呼べるまで、呼ばないために。
外で、誰かが名を呼ぶ準備を終えてしまう、その前の夜として。



