秋は音の輪郭から崩れていく。風鈴はまだ鳴るが、鳴り終わりの尻尾が短くなる。道場の板は夏ほど鳴かなくなり、踏みしめたときの返事が一拍遅れて戻る。六つで竹刀に触れ、七つで「距離」を覚え、八つ、九つと数えるうちに、沖田静は気づいた。自分の中にある目に見えない拍子木は、外の世界の季節と勝手に歩調を合わせるらしい。
十歳を越えたころ、町は剣の拍で季節を刻んでいた。朝は体操、昼は教室、放課後は道場。祖父の源蔵が窓の開け幅を一寸、二寸と変えるたび、風の入る角度が変わり、拍は変わる。矢野蓮は一年上。背が伸び、声が低くなり、石工の家の筋がますます骨に馴染んだ。礼の角度は相変わらずで、深すぎず浅すぎず、降りるだけ降りて、床の埃を立てない。
「面!」「胴!」
道場の梁に跳ねた声が、太鼓の皮みたいに張っていた。町の子が集まって稽古をする日は、道場の気温が上がる。祖父は少しだけ窓を開いて、風鈴を止める。風鈴は外しても、風は鳴る。
秋の終わりに近い日、町の大会があった。尾道の向こう、川向こうの小さな道場との試合だ。軒先に紙の幟がはためき、魚屋の久兵衛が桶を抱え、紙芝居の政吉が拍子木を持って先陣を切る。行列の中に、田畑巡査の帽子が黒く光る。潮の匂いが薄い。空は近い。空が近い日は、声が届きすぎるから、無駄な言葉は自然と削がれる。
先鋒に出た静は、最初の合図で相手の息を見た。見えるはずのないものが、見える。最初の一歩が早い。間はまだ合わない。合わなければ、合わせなければいい。祖父に教わった通り、「先に在る」。相手より、風より、拍より。竹刀の先は一寸、引いておく。引いた一寸に、相手は気づかない。気づかせないでおくことが、礼の一種だと静は感じていた。
「面あり」
旗が上がり、白い声が道場の外まで弾けた。続く二本目は打ち切らない。ただ、打てる気配だけを相手の眉間に置いて、置いたものを自分で回収する。その置き取りの動きに観客は気づかない。気づかなくていい。気づかなさは、演技ではなく、生活の厚みの中に自然にある。
中堅の蓮は、相手の「負けない」を正面から受け止め、「折れない」で返した。二太刀のあと、三太刀目。音が出ない音が梁に吸われ、祖父が短くうなずいた。引き分け。だが、引き分けは負けではない。ここぞというときの引き分けは、勝ちよりも深く刺さる。相手の中に残る「次」が、こちらにも残るからだ。
大将戦。静はまた立った。相手は年も体つきも上だが、礼で降りる角度に余計な棘があった。棘は戦う前から勝とうとする者の礼に出る。静は棘を避けた。避けて、相手の息の背骨に、そっと触れた。触れただけで、相手の膝が一寸、沈んだ。沈んだ拍に合わせて、静は「面」。面の音が鋭く、短く、梁を縦に割った。
「一本」
祖父が旗を上げた。歓声は大きくないが、音の質が良い。喜びは大きさより、質の良し悪しで残る。
帰りの石段で、蓮が竹刀袋を肩にかけ直し、笑わない顔で笑った。
「静、勝つ時の呼吸、変わらないんだな」
「蓮の負けない呼吸も、変わらない」
「負けないばかりだと、折れるかもしれない」
「折れないばかりでも、負けるかもしれない」
二人で同じ言葉を、面の内側で噛んで、飲み込んだ。噛んだ言葉は舌に残らない。残らないかわりに、骨に入る。
冬。祖父は窓を狭く開ける。風の入る厚みが増し、竹刀の皮が鳴く。油は手に入りにくくなり、菜種油を薄く伸ばして使う。祖母のサトは茶碗の湯気を二度回す所作を変えない。変えない所作は、変わる世界の中でいちばん効く。
十一歳になるころ、町の掲示板に標語が増えた。国民学校の看板も新しく掛け直された。寺子屋で香の持っていた匂い袋は、もうなく、香からはときどき葉書が来る。文字はきれいで、短い。「いまは水仙」。紙の上の香りは薄く、けれど確かだ。香は町にはいない。いないことで、季節がわかる人もいる。
剣の拍は、まだ町の中心にいた。運動場では木剣での組太刀、号令の声は以前より揃っていた。先生は「合わせろ」と繰り返した。合わせることの美しさはわかる。だが合わせすぎると、合わせた者から折れる。祖父の声が、耳の奥で繰り返された。
十二歳の手前、初夏。空は高く、呉の方角から重い汽笛の響きがときどき遅れて届く。町の大人は低い声で話すことを覚え、子どもは高い声をしまうことを覚えた。静と蓮は、試合を重ねるたびに、言葉が少なくなった。少ない言葉で、十分通じるからだ。拍が揃えば言葉は不要になる。不要が増えると、人は楽になる。だが楽は、ときに鈍を呼ぶ。鈍はすぐに怪我を連れてくる。怪我は皮膚に出ないかもしれないが、心に出る。
秋。神輿は今年も町を通った。担ぎ手の肩は赤く、歯は見えないところで食いしばられている。祖父は深く礼をし、静は瓶を持って風を捕まえた。瓶の口は少し欠けている。その欠けが、風の端をやさしくした。蓮は「明日も行く」と言い、名を呼ばずに去る。名を呼ばないで、芯だけ立てる。芯は風に折れない。
冬の手前、静は十二になった。手の大きさが、竹刀の柄の太さをようやく「握る」という言葉に合わせた。これまでは「摘む」に近かった。指が一本増えるような感覚で、柄は掌の真ん中に居場所を持った。
十二月八日、朝。雨は降っていないのに、空が濡れている日だった。港のほうで汽笛がふたつ鳴り、すこし間をおいてもう一つ鳴った。家の中でラジオのつまみが回される音がいくつも生まれ、道の向こうからも、隣組の家からも、同じ時間に同じ音が流れ始めた。先生の声ではない。町内会長の声でもない。もっと遠くて、もっと硬い声。臨時ニュース、という言葉が、床板に落ちて転がった。
「帝国陸海軍は……」
静は意味を半分も掴めなかった。掴めなかったが、掴めなかった部分が骨に入る感じは知っていた。骨の深いところに、冷たい砂が少し入っていく。祖母のサトは茶碗の湯気を一度しか回さなかった。いつもは二度なのに、一度だけ。二度目は、別の場所に使う湯気だったのかもしれない。
校庭に集まる。校長先生はいつもより正しい背広で、言葉は正しい角度で降りた。宮城遥拝。頭を下げる。空の向こうに何かがあるのだと、子どもの背骨が勝手に理解する。君が代。声を合わせる。合わせすぎないように、静は心のどこかで拍をずらした。そのずれは、礼を失わない程度のものだ。蓮も、同じずれを持っていた。ずれが合っていることが、二人の呼吸の芯だった。
「万歳」の声が空に跳ねた。跳ねたあとに、空はすぐに平らになった。平らになった空に、紙の幟の白が刺さる。先生の声は硬いままだが、硬さの奥に震えが混じった。震えは隠せない。震えは拍と同じで、隠すと余計に聞こえる。
そこから町は早く変わった。灯火管制。夜の窓には黒い紙。蝋燭の火は低く、影は高く。隣組の回覧板は速く回り、空襲の演習が増える。砂袋を積む。防空壕の掘り方を教わる。鍋、やかん、子どもの金属の玩具まで供出の札が貼られた。寺の鐘も鳴らなくなった。鐘の鳴らぬ町は、それでも風が鳴る。風は名乗らない。名乗らないものだけが、名のために鳴らない。
配給の列に並ぶことが生活になっていく。祖母の買い物籠は軽い。軽いのに、手が痺れる。芋、麦、麦粉、かさ増しの工夫。祖母の料理は薄いが、薄いものには薄い美しさがある。大根の葉を刻み、塩で揉み、湯気の上で少しだけ香りを戻す。戻す技術は、戦の前から祖母にはあった。戦がそれを必要にしただけだ。
道場には子の数が減る。兄を送り、父を送り、男手が少なくなった家が増える。夜の稽古は短くなり、油は節約され、窓は半分しか開けられない。祖父の教える声も低く短くなった。短い声は、遠くまで届く。届いた先で、意味を膨らませる。意味が勝手に膨らむ声が、いちばんよく効く。
それでも、当座のうちは剣の拍が町を支えた。学校でも体練の時間に木剣を持ち、組太刀をし、号令が響く。蓮は相変わらず、半足先に在ることを知っていた。静は相手の呼吸の背骨を見て、そこに触れる術を深めた。二人で立てば、面は軽く入る。胴は相手の刀の行き場をなくしてから入れる。小手は相手の目の中の「次」を見てから打つ。打つ前に「次」を見ると、打つことが小さくなる。小さくなった打ちは、正確だ。
十二歳の冬。雨の夜、道場の戸口で祖父が言った。
「合えば勝ちなら、合わせた者が最初に折れる」
「……」
「合わせるな。合わぬために、先に在れ」
祖父の声は、灯火管制の闇の中でいっそう澄んだ。闇の中で澄む声は、怖いくらい正しい。正しさはときに残酷だ。残酷さの角を、祖母の湯気が丸くする。祖母は黙って、湯気を一度だけ回す。二度目の湯気は、瓶の口に譲る。瓶は今日は二つ。風の入口と、無風の入口。出入りは狭い。狭い改札を、人は行き交う。
翌日、学校の講堂で、体錬の先生が言った。
「これからは、より鍛える」
鍛える。剣だけではない。走る、担ぐ、掘る。土の匂いが授業に入ってくる。黒板の粉より、土の粉。算術は少し減り、歌は行進曲ばかり。唱歌の裏にあった水の匂いが薄れ、言葉は角を持った。角は、心を立たせる。立ち続けると、折れる。折れないために、丸を持つ。祖母の布の角を戻す指を思い出す。丸は心を戻す。戻す場所は、まだここにある。
呉から低い音が日に日に増えた。町の空は近いままだが、空の向こうが遠くなる。この遠さは、戦前にはなかった。遠さが増えると、近さが削がれる。剣の拍はまだ近い。近いものを確かめるように、静と蓮は稽古した。初太刀は相手を見ないで、風を見る。二太刀目は風を見ないで、相手の「次」を見る。三太刀目で、自分の呼吸を最後に見る。最後に見る呼吸は、たいてい間違っていない。間違っているときは、打つ前にわかる。わかれば打たない。打たない勇気のほうが、打つより難しい。難しいことを、二人は子どもらしく、すんなりとやってのけた。
春先、配給の米がさらに細くなる。麦や芋や雑穀が混ざる。祖母は「混ぜものの拍」を覚えた。煮る時間を少しずらし、塩を最後の一息で振る。一息遅らせる塩は、薄い料理を深くする。祖母は静に言う。
「拍はね、最後の一息で決まるの」
静は頷く。剣も同じだ。最後の一息。打つ直前の、打たない決断。打たない勇気を最後に持てる者だけが、打てる。祖父の言葉と祖母の味が、同じ場所に並んだ。並んで、骨に入った。
その頃から、道場の竹が減った。竹刀の枯れを直す皮の紐が手に入らない。油は菜種からさらに薄くなり、米のとぎ汁で代用した夜もある。米のとぎ汁は白く、手に薄い膜を残す。膜は守る。守るが、滑る。滑りは危うい。危うさに拍を足す。拍を足すと、滑りは「間」になる。間は、味方だ。
十二の夏、静と蓮は「無双」という言葉を知らないまま、それに近いことをしていた。町の少年剣道会で二人は並べて出され、先鋒と中堅でほとんどの試合が片付いた。大将の出番は少なく、祖父は笑わないで笑う目をするときが増えた。笑わない笑いは、長く残る。残るから、あとで効く。
その夏の終わり、蓮の父が体を悪くした。石工の仕事は重い。重いものは名乗らない。名乗らない重さは、家の中で静かに広がる。蓮は稽古を減らし、家の石の世話をした。静は一人で打ち込み台に向かう時間が増え、瓶の口は風よりも無風を吸った。無風は音のない音で満ちる。満ちると、怖い。怖さは拍を細くする。細い拍は、深い。
十三の手前、秋。道場の梁の上に積もった“出ない音”の薄い層は、もう幾重にもなっていた。祖父は稽古の終わりに、ふいに窓を全開にした。夜の風が一度に入り、出ない音の層がぱらりと剥がれかけて、しかし剥がれない。剥がれずに、さらに貼り付く。貼り付く音は、戦の前触れに似ている。剥がれないのは、危険な兆しだ。けれど、その兆しの名を、まだ町の誰も呼ばない。呼ばないことで、守られていると思っているのかもしれない。
冬。静は十二になった。太平洋戦争がはじまって一年が過ぎ、町の空はますます低く、紙の色はますます白く、配給票の角は鋭くなった。授業は「体錬」が増え、「修身」は同じ話を繰り返し、歌は行進曲が日々に入り込む。運動場での槍の持ち方が一瞬、話題になりかけたが、竹は足りず、教室のほうが先に冷えた。防空演習は本物に近づき、笛の音は固く短くなり、子どもたちは暗闇の中で地面に伏せる姿勢を覚えた。伏せる姿勢は剣では習わない。習わない姿勢は、体にうまく入らない。入らない動きを、何度も繰り返す。繰り返すと、入る。入るが、居場所がない。居場所のない動きが増えると、人は疲れる。
ある夜、祖父が道場に集まった子らに言った。
「この先、稽古は短うなる。夜は灯りを消さにゃならん」
誰も文句を言わなかった。言わないかわりに、竹刀の柄を握る手が強くなった。強く握るのは良くない。祖父はそれを見て、静かに手を緩める動きを真似て見せた。真似るべきは力ではなく、緩みの方向だ。緩みの方向を知っている手は、緩めているのに強い。
帰り道、蓮が言った。
「静、僕ら、まだ行けるな」
「行ける」
「どこまでだろう」
「風の手前まで」
「手前か」
「うん。風を切らない場所まで」
蓮はうなずいた。うなずく音が夜に吸われる。
年が明ける。十三。山茶花が遅れて咲き、霜柱が石段の陰に立った。祖母は相変わらず湯気を二度回し、布の角を直し、瓶を窓辺に立てる。瓶は風の改札であり続け、無風の入口は狭くなった。狭くなった入口を通る音は、よく覚えられる。覚えられる音が増えると、忘れたい音が増える。忘れたい音は忘れられない。忘れられないものを抱えるために、祖母は煮物を薄くし、静は竹の節を磨いた。磨くと、節の内側で鳴る音が少し変わる。変わる音を、瓶は拾う。
春、蓮の家に国の仕事が回ってきて、蓮はしばらく稽古に来られない日が続いた。重い石を運び、川沿いの護岸の手伝いをする。静も学校で土嚢を積み、畑の手伝いをした。手の皮が厚くなり、竹刀の柄がなじむ。なじみ過ぎるのはよくない。なじみ過ぎると、驚きがなくなる。驚きがない剣は鈍い。鈍い剣は危ない。
その年の初夏、道場の風鈴が外された。金属供出の札がついたからだ。祖母は風鈴の代わりに、空き瓶の口に細い糸を渡し、糸の端に米粒ほどの木片を結んだ。風が来ると、糸が鳴り、木片が瓶の口に当たって微かな音を立てる。風鈴よりも小さい音。小さい音は、よく届く。大きい音は、遠くへ行くうちに崩れるが、小さい音は近くに留まり、骨に入る。
十三の夏は長くなく、秋は短く、冬が早かった。呉のほうの空がときどき光り、町では「訓練だ」と言い合った。訓練の言葉に、訓練でないものを包む癖を、人は身につける。包む言葉は丁寧だが、丁寧さの裏で、何かが固くなっていく。固いものは折れる。
十四の手前の冬の朝、祖父は静に言った。
「静。拍は数えるためにあるんじゃない。やめるためにある」
「やめる?」
「ここでやめる、という印だ。やめられる者だけが、また始められる」
静はうなずいた。道場の梁に貼り付いた“出ない音”の層が、薄く震えた気がした。その震えが、次の季節の合図に思えた。
十二歳の冬に始まった大きな戦は、町の四季の呼吸をひとつずつ奪っていった。奪うのは一度ではない。少しずつ。いつの間にか。気づいたときには、戻し方を忘れている。忘れるのは悲しいが、悲しさは拍を数えやすくする。数えやすくなった拍で、静は剣を振った。振らない日も、手は柄の形を覚えていた。握るのではなく、置く。置くのではなく、預かる。預かるのではなく、返す。返す形まで持てれば、人は強い。祖父が最初に言った言葉は、灯火管制の闇の中でも、読めた。
十四に近づくにつれて、町は剣の拍よりも別の拍で動くようになった。汽笛、笛、回覧板、配給、訓練、祈り。祈りの拍は、剣の拍よりも長い。長い拍は、息が切れる。息が切れると、礼が浅くなる。浅い礼は、誰かを傷つける。祖母は布の角を直す回数を増やした。直しても直しても角は丸くなる。丸くなるのは悪いことではない。丸は人を戻す。戻したい場所が減っていくのは、悪いことだ。
瓶の口は、夜ごと窓辺に立ち、風の出入りを見張った。名を呼ばれないものたちのための改札。呼ばない名が増えた。呼べば怪我をする名。呼んでも戻らない名。呼ぶ代わりに、拍を数える。拍は、やめるためにある。ここでやめる——そう決められるとき、人は、やさしい。
ある日の放課後、蓮が久しぶりに道場に来た。肩の線が硬く、手の甲の骨が浮いている。面をつけず、木刀を持つ。静は竹刀。二人の間に風が入り、祖父は窓をわずかに開けた。初太刀。打たない。二太刀目。半足。三太刀目。目の奥に灯る「負けない」と「折れない」が、互いに互いを照らす。照らされたものは影を作る。影を見て、静はふと、彼らの背中のさらにうしろにある長い影を感じた。呉のほうから来る影。影は名乗らない。名乗らないから怖い。怖いから、礼を深くする。深くして、降ろす。床に、静かに降ろす。
祖父がうなずき、「引き分け」とだけ言った。町の廊下の奥に、ラジオの声が滲んだ。「臨時」「発表」「大本営」。言葉の粒が壁の隙間から這って入り、瓶の口に触れる。瓶は鳴らない。鳴らないで、覚える。覚えて、黙っている。黙ることが、礼の最後の形であることを、静はもう知っていた。
その夜、静は瓶を二つ並べ、片方の口を少しだけ閉じた。もう片方は開けたまま。開いた口から、風が入って出ていく。閉じた口は、無風を集める。集めた無風は、明日の朝に開く。開いたときの音を、まだ知らない。知らない音を、聞く準備だけして眠る。準備は、拍を揃えることでできる。揃えすぎない拍で、息を合わせる。合わせない勇気で、眠る。
十二歳の冬の終わり、少年期の幕は、まだ下りない。だが、舞台袖に暗い人影が立ち始めた。立ち始めたものに、名を与えない。与えないで、礼をする。礼の角度ではなく、距離で。距離を間違えない者だけが、怪我をさせない。怪我をさせない者だけが、その先を見られる。静は竹刀の先を一寸、引いた。その一寸は、世界に怪我をさせないための一寸だった。己にも、誰かにも。
拍は数えるためではなく、やめるためにある。やめた先で、また始めるためにある。はじまりは、風が決める。風は名乗らない。名乗らない風の中で、十二歳の沖田静は、矢野蓮と並び、無双の影から、戦の影へと、足場を渡した。渡し終える前に、振り返らない。振り返らないのは、忘れるためではなく、忘れないためだ。
そして夜はまた、瓶の口の小さな無音で縫い合わされ、道場の梁の上で、出ない音の薄い層が一枚、そっと増えた。
十歳を越えたころ、町は剣の拍で季節を刻んでいた。朝は体操、昼は教室、放課後は道場。祖父の源蔵が窓の開け幅を一寸、二寸と変えるたび、風の入る角度が変わり、拍は変わる。矢野蓮は一年上。背が伸び、声が低くなり、石工の家の筋がますます骨に馴染んだ。礼の角度は相変わらずで、深すぎず浅すぎず、降りるだけ降りて、床の埃を立てない。
「面!」「胴!」
道場の梁に跳ねた声が、太鼓の皮みたいに張っていた。町の子が集まって稽古をする日は、道場の気温が上がる。祖父は少しだけ窓を開いて、風鈴を止める。風鈴は外しても、風は鳴る。
秋の終わりに近い日、町の大会があった。尾道の向こう、川向こうの小さな道場との試合だ。軒先に紙の幟がはためき、魚屋の久兵衛が桶を抱え、紙芝居の政吉が拍子木を持って先陣を切る。行列の中に、田畑巡査の帽子が黒く光る。潮の匂いが薄い。空は近い。空が近い日は、声が届きすぎるから、無駄な言葉は自然と削がれる。
先鋒に出た静は、最初の合図で相手の息を見た。見えるはずのないものが、見える。最初の一歩が早い。間はまだ合わない。合わなければ、合わせなければいい。祖父に教わった通り、「先に在る」。相手より、風より、拍より。竹刀の先は一寸、引いておく。引いた一寸に、相手は気づかない。気づかせないでおくことが、礼の一種だと静は感じていた。
「面あり」
旗が上がり、白い声が道場の外まで弾けた。続く二本目は打ち切らない。ただ、打てる気配だけを相手の眉間に置いて、置いたものを自分で回収する。その置き取りの動きに観客は気づかない。気づかなくていい。気づかなさは、演技ではなく、生活の厚みの中に自然にある。
中堅の蓮は、相手の「負けない」を正面から受け止め、「折れない」で返した。二太刀のあと、三太刀目。音が出ない音が梁に吸われ、祖父が短くうなずいた。引き分け。だが、引き分けは負けではない。ここぞというときの引き分けは、勝ちよりも深く刺さる。相手の中に残る「次」が、こちらにも残るからだ。
大将戦。静はまた立った。相手は年も体つきも上だが、礼で降りる角度に余計な棘があった。棘は戦う前から勝とうとする者の礼に出る。静は棘を避けた。避けて、相手の息の背骨に、そっと触れた。触れただけで、相手の膝が一寸、沈んだ。沈んだ拍に合わせて、静は「面」。面の音が鋭く、短く、梁を縦に割った。
「一本」
祖父が旗を上げた。歓声は大きくないが、音の質が良い。喜びは大きさより、質の良し悪しで残る。
帰りの石段で、蓮が竹刀袋を肩にかけ直し、笑わない顔で笑った。
「静、勝つ時の呼吸、変わらないんだな」
「蓮の負けない呼吸も、変わらない」
「負けないばかりだと、折れるかもしれない」
「折れないばかりでも、負けるかもしれない」
二人で同じ言葉を、面の内側で噛んで、飲み込んだ。噛んだ言葉は舌に残らない。残らないかわりに、骨に入る。
冬。祖父は窓を狭く開ける。風の入る厚みが増し、竹刀の皮が鳴く。油は手に入りにくくなり、菜種油を薄く伸ばして使う。祖母のサトは茶碗の湯気を二度回す所作を変えない。変えない所作は、変わる世界の中でいちばん効く。
十一歳になるころ、町の掲示板に標語が増えた。国民学校の看板も新しく掛け直された。寺子屋で香の持っていた匂い袋は、もうなく、香からはときどき葉書が来る。文字はきれいで、短い。「いまは水仙」。紙の上の香りは薄く、けれど確かだ。香は町にはいない。いないことで、季節がわかる人もいる。
剣の拍は、まだ町の中心にいた。運動場では木剣での組太刀、号令の声は以前より揃っていた。先生は「合わせろ」と繰り返した。合わせることの美しさはわかる。だが合わせすぎると、合わせた者から折れる。祖父の声が、耳の奥で繰り返された。
十二歳の手前、初夏。空は高く、呉の方角から重い汽笛の響きがときどき遅れて届く。町の大人は低い声で話すことを覚え、子どもは高い声をしまうことを覚えた。静と蓮は、試合を重ねるたびに、言葉が少なくなった。少ない言葉で、十分通じるからだ。拍が揃えば言葉は不要になる。不要が増えると、人は楽になる。だが楽は、ときに鈍を呼ぶ。鈍はすぐに怪我を連れてくる。怪我は皮膚に出ないかもしれないが、心に出る。
秋。神輿は今年も町を通った。担ぎ手の肩は赤く、歯は見えないところで食いしばられている。祖父は深く礼をし、静は瓶を持って風を捕まえた。瓶の口は少し欠けている。その欠けが、風の端をやさしくした。蓮は「明日も行く」と言い、名を呼ばずに去る。名を呼ばないで、芯だけ立てる。芯は風に折れない。
冬の手前、静は十二になった。手の大きさが、竹刀の柄の太さをようやく「握る」という言葉に合わせた。これまでは「摘む」に近かった。指が一本増えるような感覚で、柄は掌の真ん中に居場所を持った。
十二月八日、朝。雨は降っていないのに、空が濡れている日だった。港のほうで汽笛がふたつ鳴り、すこし間をおいてもう一つ鳴った。家の中でラジオのつまみが回される音がいくつも生まれ、道の向こうからも、隣組の家からも、同じ時間に同じ音が流れ始めた。先生の声ではない。町内会長の声でもない。もっと遠くて、もっと硬い声。臨時ニュース、という言葉が、床板に落ちて転がった。
「帝国陸海軍は……」
静は意味を半分も掴めなかった。掴めなかったが、掴めなかった部分が骨に入る感じは知っていた。骨の深いところに、冷たい砂が少し入っていく。祖母のサトは茶碗の湯気を一度しか回さなかった。いつもは二度なのに、一度だけ。二度目は、別の場所に使う湯気だったのかもしれない。
校庭に集まる。校長先生はいつもより正しい背広で、言葉は正しい角度で降りた。宮城遥拝。頭を下げる。空の向こうに何かがあるのだと、子どもの背骨が勝手に理解する。君が代。声を合わせる。合わせすぎないように、静は心のどこかで拍をずらした。そのずれは、礼を失わない程度のものだ。蓮も、同じずれを持っていた。ずれが合っていることが、二人の呼吸の芯だった。
「万歳」の声が空に跳ねた。跳ねたあとに、空はすぐに平らになった。平らになった空に、紙の幟の白が刺さる。先生の声は硬いままだが、硬さの奥に震えが混じった。震えは隠せない。震えは拍と同じで、隠すと余計に聞こえる。
そこから町は早く変わった。灯火管制。夜の窓には黒い紙。蝋燭の火は低く、影は高く。隣組の回覧板は速く回り、空襲の演習が増える。砂袋を積む。防空壕の掘り方を教わる。鍋、やかん、子どもの金属の玩具まで供出の札が貼られた。寺の鐘も鳴らなくなった。鐘の鳴らぬ町は、それでも風が鳴る。風は名乗らない。名乗らないものだけが、名のために鳴らない。
配給の列に並ぶことが生活になっていく。祖母の買い物籠は軽い。軽いのに、手が痺れる。芋、麦、麦粉、かさ増しの工夫。祖母の料理は薄いが、薄いものには薄い美しさがある。大根の葉を刻み、塩で揉み、湯気の上で少しだけ香りを戻す。戻す技術は、戦の前から祖母にはあった。戦がそれを必要にしただけだ。
道場には子の数が減る。兄を送り、父を送り、男手が少なくなった家が増える。夜の稽古は短くなり、油は節約され、窓は半分しか開けられない。祖父の教える声も低く短くなった。短い声は、遠くまで届く。届いた先で、意味を膨らませる。意味が勝手に膨らむ声が、いちばんよく効く。
それでも、当座のうちは剣の拍が町を支えた。学校でも体練の時間に木剣を持ち、組太刀をし、号令が響く。蓮は相変わらず、半足先に在ることを知っていた。静は相手の呼吸の背骨を見て、そこに触れる術を深めた。二人で立てば、面は軽く入る。胴は相手の刀の行き場をなくしてから入れる。小手は相手の目の中の「次」を見てから打つ。打つ前に「次」を見ると、打つことが小さくなる。小さくなった打ちは、正確だ。
十二歳の冬。雨の夜、道場の戸口で祖父が言った。
「合えば勝ちなら、合わせた者が最初に折れる」
「……」
「合わせるな。合わぬために、先に在れ」
祖父の声は、灯火管制の闇の中でいっそう澄んだ。闇の中で澄む声は、怖いくらい正しい。正しさはときに残酷だ。残酷さの角を、祖母の湯気が丸くする。祖母は黙って、湯気を一度だけ回す。二度目の湯気は、瓶の口に譲る。瓶は今日は二つ。風の入口と、無風の入口。出入りは狭い。狭い改札を、人は行き交う。
翌日、学校の講堂で、体錬の先生が言った。
「これからは、より鍛える」
鍛える。剣だけではない。走る、担ぐ、掘る。土の匂いが授業に入ってくる。黒板の粉より、土の粉。算術は少し減り、歌は行進曲ばかり。唱歌の裏にあった水の匂いが薄れ、言葉は角を持った。角は、心を立たせる。立ち続けると、折れる。折れないために、丸を持つ。祖母の布の角を戻す指を思い出す。丸は心を戻す。戻す場所は、まだここにある。
呉から低い音が日に日に増えた。町の空は近いままだが、空の向こうが遠くなる。この遠さは、戦前にはなかった。遠さが増えると、近さが削がれる。剣の拍はまだ近い。近いものを確かめるように、静と蓮は稽古した。初太刀は相手を見ないで、風を見る。二太刀目は風を見ないで、相手の「次」を見る。三太刀目で、自分の呼吸を最後に見る。最後に見る呼吸は、たいてい間違っていない。間違っているときは、打つ前にわかる。わかれば打たない。打たない勇気のほうが、打つより難しい。難しいことを、二人は子どもらしく、すんなりとやってのけた。
春先、配給の米がさらに細くなる。麦や芋や雑穀が混ざる。祖母は「混ぜものの拍」を覚えた。煮る時間を少しずらし、塩を最後の一息で振る。一息遅らせる塩は、薄い料理を深くする。祖母は静に言う。
「拍はね、最後の一息で決まるの」
静は頷く。剣も同じだ。最後の一息。打つ直前の、打たない決断。打たない勇気を最後に持てる者だけが、打てる。祖父の言葉と祖母の味が、同じ場所に並んだ。並んで、骨に入った。
その頃から、道場の竹が減った。竹刀の枯れを直す皮の紐が手に入らない。油は菜種からさらに薄くなり、米のとぎ汁で代用した夜もある。米のとぎ汁は白く、手に薄い膜を残す。膜は守る。守るが、滑る。滑りは危うい。危うさに拍を足す。拍を足すと、滑りは「間」になる。間は、味方だ。
十二の夏、静と蓮は「無双」という言葉を知らないまま、それに近いことをしていた。町の少年剣道会で二人は並べて出され、先鋒と中堅でほとんどの試合が片付いた。大将の出番は少なく、祖父は笑わないで笑う目をするときが増えた。笑わない笑いは、長く残る。残るから、あとで効く。
その夏の終わり、蓮の父が体を悪くした。石工の仕事は重い。重いものは名乗らない。名乗らない重さは、家の中で静かに広がる。蓮は稽古を減らし、家の石の世話をした。静は一人で打ち込み台に向かう時間が増え、瓶の口は風よりも無風を吸った。無風は音のない音で満ちる。満ちると、怖い。怖さは拍を細くする。細い拍は、深い。
十三の手前、秋。道場の梁の上に積もった“出ない音”の薄い層は、もう幾重にもなっていた。祖父は稽古の終わりに、ふいに窓を全開にした。夜の風が一度に入り、出ない音の層がぱらりと剥がれかけて、しかし剥がれない。剥がれずに、さらに貼り付く。貼り付く音は、戦の前触れに似ている。剥がれないのは、危険な兆しだ。けれど、その兆しの名を、まだ町の誰も呼ばない。呼ばないことで、守られていると思っているのかもしれない。
冬。静は十二になった。太平洋戦争がはじまって一年が過ぎ、町の空はますます低く、紙の色はますます白く、配給票の角は鋭くなった。授業は「体錬」が増え、「修身」は同じ話を繰り返し、歌は行進曲が日々に入り込む。運動場での槍の持ち方が一瞬、話題になりかけたが、竹は足りず、教室のほうが先に冷えた。防空演習は本物に近づき、笛の音は固く短くなり、子どもたちは暗闇の中で地面に伏せる姿勢を覚えた。伏せる姿勢は剣では習わない。習わない姿勢は、体にうまく入らない。入らない動きを、何度も繰り返す。繰り返すと、入る。入るが、居場所がない。居場所のない動きが増えると、人は疲れる。
ある夜、祖父が道場に集まった子らに言った。
「この先、稽古は短うなる。夜は灯りを消さにゃならん」
誰も文句を言わなかった。言わないかわりに、竹刀の柄を握る手が強くなった。強く握るのは良くない。祖父はそれを見て、静かに手を緩める動きを真似て見せた。真似るべきは力ではなく、緩みの方向だ。緩みの方向を知っている手は、緩めているのに強い。
帰り道、蓮が言った。
「静、僕ら、まだ行けるな」
「行ける」
「どこまでだろう」
「風の手前まで」
「手前か」
「うん。風を切らない場所まで」
蓮はうなずいた。うなずく音が夜に吸われる。
年が明ける。十三。山茶花が遅れて咲き、霜柱が石段の陰に立った。祖母は相変わらず湯気を二度回し、布の角を直し、瓶を窓辺に立てる。瓶は風の改札であり続け、無風の入口は狭くなった。狭くなった入口を通る音は、よく覚えられる。覚えられる音が増えると、忘れたい音が増える。忘れたい音は忘れられない。忘れられないものを抱えるために、祖母は煮物を薄くし、静は竹の節を磨いた。磨くと、節の内側で鳴る音が少し変わる。変わる音を、瓶は拾う。
春、蓮の家に国の仕事が回ってきて、蓮はしばらく稽古に来られない日が続いた。重い石を運び、川沿いの護岸の手伝いをする。静も学校で土嚢を積み、畑の手伝いをした。手の皮が厚くなり、竹刀の柄がなじむ。なじみ過ぎるのはよくない。なじみ過ぎると、驚きがなくなる。驚きがない剣は鈍い。鈍い剣は危ない。
その年の初夏、道場の風鈴が外された。金属供出の札がついたからだ。祖母は風鈴の代わりに、空き瓶の口に細い糸を渡し、糸の端に米粒ほどの木片を結んだ。風が来ると、糸が鳴り、木片が瓶の口に当たって微かな音を立てる。風鈴よりも小さい音。小さい音は、よく届く。大きい音は、遠くへ行くうちに崩れるが、小さい音は近くに留まり、骨に入る。
十三の夏は長くなく、秋は短く、冬が早かった。呉のほうの空がときどき光り、町では「訓練だ」と言い合った。訓練の言葉に、訓練でないものを包む癖を、人は身につける。包む言葉は丁寧だが、丁寧さの裏で、何かが固くなっていく。固いものは折れる。
十四の手前の冬の朝、祖父は静に言った。
「静。拍は数えるためにあるんじゃない。やめるためにある」
「やめる?」
「ここでやめる、という印だ。やめられる者だけが、また始められる」
静はうなずいた。道場の梁に貼り付いた“出ない音”の層が、薄く震えた気がした。その震えが、次の季節の合図に思えた。
十二歳の冬に始まった大きな戦は、町の四季の呼吸をひとつずつ奪っていった。奪うのは一度ではない。少しずつ。いつの間にか。気づいたときには、戻し方を忘れている。忘れるのは悲しいが、悲しさは拍を数えやすくする。数えやすくなった拍で、静は剣を振った。振らない日も、手は柄の形を覚えていた。握るのではなく、置く。置くのではなく、預かる。預かるのではなく、返す。返す形まで持てれば、人は強い。祖父が最初に言った言葉は、灯火管制の闇の中でも、読めた。
十四に近づくにつれて、町は剣の拍よりも別の拍で動くようになった。汽笛、笛、回覧板、配給、訓練、祈り。祈りの拍は、剣の拍よりも長い。長い拍は、息が切れる。息が切れると、礼が浅くなる。浅い礼は、誰かを傷つける。祖母は布の角を直す回数を増やした。直しても直しても角は丸くなる。丸くなるのは悪いことではない。丸は人を戻す。戻したい場所が減っていくのは、悪いことだ。
瓶の口は、夜ごと窓辺に立ち、風の出入りを見張った。名を呼ばれないものたちのための改札。呼ばない名が増えた。呼べば怪我をする名。呼んでも戻らない名。呼ぶ代わりに、拍を数える。拍は、やめるためにある。ここでやめる——そう決められるとき、人は、やさしい。
ある日の放課後、蓮が久しぶりに道場に来た。肩の線が硬く、手の甲の骨が浮いている。面をつけず、木刀を持つ。静は竹刀。二人の間に風が入り、祖父は窓をわずかに開けた。初太刀。打たない。二太刀目。半足。三太刀目。目の奥に灯る「負けない」と「折れない」が、互いに互いを照らす。照らされたものは影を作る。影を見て、静はふと、彼らの背中のさらにうしろにある長い影を感じた。呉のほうから来る影。影は名乗らない。名乗らないから怖い。怖いから、礼を深くする。深くして、降ろす。床に、静かに降ろす。
祖父がうなずき、「引き分け」とだけ言った。町の廊下の奥に、ラジオの声が滲んだ。「臨時」「発表」「大本営」。言葉の粒が壁の隙間から這って入り、瓶の口に触れる。瓶は鳴らない。鳴らないで、覚える。覚えて、黙っている。黙ることが、礼の最後の形であることを、静はもう知っていた。
その夜、静は瓶を二つ並べ、片方の口を少しだけ閉じた。もう片方は開けたまま。開いた口から、風が入って出ていく。閉じた口は、無風を集める。集めた無風は、明日の朝に開く。開いたときの音を、まだ知らない。知らない音を、聞く準備だけして眠る。準備は、拍を揃えることでできる。揃えすぎない拍で、息を合わせる。合わせない勇気で、眠る。
十二歳の冬の終わり、少年期の幕は、まだ下りない。だが、舞台袖に暗い人影が立ち始めた。立ち始めたものに、名を与えない。与えないで、礼をする。礼の角度ではなく、距離で。距離を間違えない者だけが、怪我をさせない。怪我をさせない者だけが、その先を見られる。静は竹刀の先を一寸、引いた。その一寸は、世界に怪我をさせないための一寸だった。己にも、誰かにも。
拍は数えるためではなく、やめるためにある。やめた先で、また始めるためにある。はじまりは、風が決める。風は名乗らない。名乗らない風の中で、十二歳の沖田静は、矢野蓮と並び、無双の影から、戦の影へと、足場を渡した。渡し終える前に、振り返らない。振り返らないのは、忘れるためではなく、忘れないためだ。
そして夜はまた、瓶の口の小さな無音で縫い合わされ、道場の梁の上で、出ない音の薄い層が一枚、そっと増えた。



