祖父の道場は、夏でもどこか薄暗い。磨かれた床板に低い光が滑り、軒の風鈴が鳴ると、音は梁で折れてから畳の上に降りる。六つになったばかりの沖田静は、裸足の裏に張り付く木の冷たさを舌の上のひんやりと同じものとして覚えはじめていた。
 初めて竹刀を握った日の掌には、汗より先に躊躇があった。祖父は何も言わない。黙って、礼の角度だけを正す。礼は角度ではなく距離の学びだと、少年のうちは知らない。面も胴もまだ借り物。面紐は他人の塩を吸っていて、汗の匂いの古層が鼻に残る。静は鏡に立ち、竹刀の先を、鏡の中の自分の眉間に置く。長い。祖父は竹刀の先を一寸ほど引かせ、「それが、おまえの今の長さだ」とだけ告げた。

 勝ち負けの話は出ない。祖父は「勝つ」を語る前に「居る」を教える。足幅、膝の緩み、踵の沈め方、視線の置き場。どれもが生き物の「棲み処」を選ぶ所作で、静はその日、初めて自分の身体に住所があることを知った。道場の隅では、古びた水差しに挿した竹が一本、節の内側で静かに鳴っている。午後、祖父が不意に道場の窓をすこしだけ開ける。風が入る。風は名乗らない。名乗らないまま、少年の汗を乾かし、竹刀の先に目に見えない塵の帯を作る。静はその帯を切らずに保つ練習をする。打突より前に、「切らないこと」を覚える。

 祖父の名は源蔵という。目の白目が少し黄ばんで見えるのは、若い頃に長い海の行軍で日差しを浴びすぎたせいだと母は言っていた。背は高くはないが、柱のように動かない。畳の上に座ると目線が低くなるぶん、静はますます祖父が大きいと思った。祖母の名はサト。小さな声でよく笑い、よく黙る。黙っているほうが、笑っている時よりも温かい不思議な人だ。
 「礼をしなさい」
 祖母は、茶碗の湯気を静の手前で二度ほど回してから差し出す。
 「お辞儀」
 それは人に対してではなく、息に対してだと静は直感する。布の端に、祖母の指で薄く墨が染みている。何かの名がかつて書かれて、いまは落ちた痕。静はその落書きの不在を見つめ、名のない場所に礼をする。

 道場の外は坂の町だ。尾道の海は、晴れた日ほど遠くに見える。家から道場へは細い石段を上り、稲荷の祠の赤い鳥居をくぐる。鳥居の前で、魚屋の久兵衛が籠を下ろし、「静坊、手伝え」と笑いながら氷の上の鯖を並べ直す。氷は白く光り、触ると指が一度消えるみたいに痺れる。
 「坊主、剣は重たいか」
 「重たい」
 「重たいか、そりゃいい。軽いやつは風に飛ぶ」
 久兵衛の手は魚の匂いがして、油紙で包まれた笑い声は道の石に染みた。

 石段の途中、髪の短い女の子が立っていた。元気で、背筋が真っ直ぐな子だ。
 「静くん、また竹刀?」
 「うん」
 「痛くない?」
 「まだ誰にも当てない」
 「ふうん」
 女の子は布で包んだ小さな本を抱えていた。寺子屋の先生の娘、香(かおり)だ。香はいつも匂い袋を首から下げている。その中の香りは季節で変わる。春は沈丁花、夏は薄荷と柑子の皮。彼女は匂いで月を覚える。静は竹刀の重さで覚える。

 石段を上り切ると、港のほうから警笛が響く。汽船が横腹を見せて、白い泡で自分の軌跡を消していく。波止場にいるのは、いつもの顔だ。煙草屋の与三、紙芝居の政吉、太鼓を担いで神社の手伝いに行く与太郎。政吉は飴玉を分けてくれる代わりに、必ず「よく観る練習」をさせた。
 「坊、赤い紙と青い紙、どっちが重い?」
 「同じ」
 「同じ。そう、風が吹けば、赤いほうが先に揺れる気がする。けど、それは目の嘘だ。風の方の都合だ」
 政吉はそう言って、うっすら笑い、飴を一つくれた。飴は透けて、内側に小さな泡が閉じ込められている。風の都合の泡。

 夕方の稽古。祖父は何も言わない。黙って立つ。立っていることで十分な教えになる。静は竹刀の先を一寸引かされ、その一寸が世界の厚みとして掌に残る。畳の端には白い線が引かれている。そこを境にして、声がわずかに変わる。境界は声でできている。
 「はい」
 静は返事をする時だけ声を出す。声を出すと身体が一つに戻る。祖父は、静の踵が少し浮いているのを見て、何も言わず、窓をすこし開けた。風が入る。風は名乗らない。
 「風の中に居ろ」
 祖父は小さく言った。
 「風の外で刀を振ると、刀が嘘をつく」
 静はうなずく。理解はあとから来る。今はうなずくだけでいい。

 稽古の合間、道場に町の人が集まってきた。町内の用事があると、道場の板間が会合の場所になる。乾物屋の女将・おとせは手早く包みをほどき、祖母に煮干しを渡す。与三は新聞を丸め、字の読める誰かに読ませようと目で探す。
 「おお、先生が来なさった」
 寺子屋の先生、香の父が道場に入ってくると、空気が少し水に近くなる。言葉が湿って、音が遠くまで届くような感じだ。
 「読んでくれ」
 与三が新聞を差し出すと、先生は少し眉をしかめ、眼鏡の位置を直した。
 「……上海にて、我が軍……」
 新聞の文字は静には意味を成さない。けれど、文字の並びの向こうにある黒い塊が、海の向こうで蠢いていることだけは伝わる。
 「景気はどうなるかね」
 誰かが言った。
 「景気の話をする時期かどうか」
 別の誰かが返した。
 祖父は何も言わない。静は竹刀の柄を握る指の汗を襦袢で拭いた。

 夜、家に戻ると、祖母が古い布を机に敷いた。布は何度も洗われ、やわらかくなっている。祖母は茶碗の湯気を静の手前で二度ほど回してから差し出す。
 「お辞儀」
 静は茶碗に、息に、部屋に、礼をする。祖母は笑わない。笑わない優しさが部屋を満たす。
 「静や、瓶をとっておいで」
 祖母に言われ、静は台所の戸棚の奥から小さな空き瓶を見つけた。祖母が煎じ薬に使っていたもの。瓶は空だから重い。空は、時々、重い。静は空の重さを掌に乗せ、道場の風の匂いが瓶の口に残っている錯覚のまま、枕元に置いて眠る。
 彼の最初の「記録」は、言葉ではなく空の容器だった。

 翌朝、祖父は「竹は、急いで大人にならん」と言い、静はうなずいた。その日から、長さの単位はセンチでも間合いでもなく、風の質で測られる。
 「風は名乗らない」
 祖父は繰り返す。
 「名乗らないものに、先に名をつけるな。名は、あとから追いつくもんだ」
 静はうなずき、その意味を竹のささくれに指を引っかけながら考えた。竹刀の皮は少し乾いてきしむ。油を塗ると、竹の匂いが少し甘くなる。祖父は油の量を決める手つきで季節を測っていた。

 昼下がり、道場の前を、郵便配達の男が自転車で駆け抜けた。鈴の音が空気を裂き、すぐにふさがる。彼は坂を上りきると、肩で息をした。
 「おや、静坊」
 「こんにちは」
 「大きゅうなったのう。竹刀が伸びたか」
 「昨日より、一寸短くなった」
 配達人は笑い、「そりゃ、賢い」と言って、鞄の口を押し下げ、祖父宛ての手紙を置いていった。封筒の切手に印刷された飛行機が、小さな影を落としていた。

 午後、港のほうで祭の準備の太鼓が鳴った。夏の終わり、八朔の祭りが近い。道場には、祭りの若い衆が顔を出し、竹の担ぎ方を相談していく。
 「源蔵さん、今年の担ぎ手は人が足りんようで」
 「足りんぶんは、足りんように運べばええ」
 祖父は簡単に言う。
 「足りるように運ぼうとするから、腰を悪うする」
 若い衆は笑い、肩の位置を確かめ合う。静もその輪の端っこに居る。背丈が低いから、まだ棒の下には入れない。けれど、棒が肩に乗る角度だけは、わかる気がした。
 「静、肩を貸してみい」
 祖父は静の肩にそっと掌を置いた。骨がそこにあること。骨がある場所は、不思議と安心する。祖父の掌は風を止めない。風を通す掌だ。掌が風を拒まないと、人は倒れない。静はそう思い、何も言わない。

 その日の夕暮れ、道場に、見慣れない少年が来た。静より背が高く、夏の光を一枚羽織ったような顔だ。
 「道場はここですか」
 「ここ」
 静が指で示すと、少年は礼をした。礼の角度が美しかった。
 「矢野の子か」
 祖父が言うと、少年は「はい」と答えた。
 「蓮と申します。父がこちらに世話になれと」
 矢野。名前は聞いたことがある。町外れの石工の家。蓮という名は、静には水の匂いに聞こえた。少年の頬には、石粉の白が細く残っている。
 「今日は顔だけ出しに」
 蓮はそう言って、もう一度礼をした。祖父はうなずき、指で床の埃を軽く払った。
 「お前の礼は、よく降りる」
「え?」
 「降りる礼と、刺さる礼がある。お前のは降りる。降りる礼は、風の邪魔をせん」
 蓮は戸惑った顔をして、それから静を見た。静は何も言わない。言葉はまだ、蓮に届く形ではない。ただ、同い年ではないことだけはわかる。蓮の目の奥に、静の知らない夜がひとつ、丸く沈んでいた。
 「今度、稽古に来い」
 祖父が言い、蓮ははいと答えた。
 その名前は、静の胸の奥で、まだ音を持たないまま、小さな鈴のように揺れた。次の話で、その鈴は鳴るのだろう。けれど、この日はまだ、名乗らない風の中だった。

 夜更け、遠くでラジオの声が滲んだ。隣組の家から、男たちの笑い声が消えると、ラジオだけが一つの肺のように呼吸を続ける。「大本営……」「満洲……」言葉の断片は、畳の目に引っかかり、翌朝になっても取れない埃のように残る。祖母は布団を干す時、埃を叩く音を柔らかくした。叩くというより、触れて戻す音。
 「静や、瓶はどうした」
 「ある」
 静は枕元の瓶を持ち上げた。空っぽの瓶。瓶の口を耳に当てると、遠くの風が小さく鳴った気がした。
 「なにが聞こえる」
 「風」
 「どんな風」
 「名乗らない風」
 祖母はうなずいた。
 「名乗らない風は、嘘をつかない」
 その言葉は、瓶のガラスの内側に薄く残った。

 翌日は雨が降った。道場は湿って、木の匂いが濃くなる。畳は少し重たく、静は踵を沈めると水の上に立ったような心地がした。祖父は窓をさらに開けた。雨の音が入る。雨の音は、風鈴を働かせない。
 「雨の日は、重さで覚えろ」
 祖父は言い、静の手首を軽く押した。
 「重さで覚えると、晴れの日に軽くなる」
 静はうなずき、竹刀の皮を撫でる。皮は湿って、柔らかい。湿ったものは嘘をつけない。指が沈んだだけ沈む。
 そのとき、道場の入口で誰かが咳払いをした。見れば、町の駐在・田畑巡査が立っていた。
 「源蔵さん、組合の集まりのことで」
 祖父は頷き、短く言葉を交わす。巡査は無駄のない身振りで礼をし、帰っていく。彼の靴の底についた泥が、板の間に暗い半月をいくつも置いていった。半月はすぐに祖母が拭き取った。濡れた布巾が、半月を丸に戻した。
 「丸はええ」
 祖母は小さく呟いた。
 「角は心を立たせるが、丸は心を戻す」
 静は頷いた。祖母の言葉はいつも、あとから利いてくる。

 雨は三日続いた。三日目の午後、雨脚が弱まり、道場の窓の外に薄い光が戻る。祖父は、静に木刀を持たせた。初めての木刀。竹刀より重く、しかし、重さの奥に乾いた温もりがある。
 「振るな」
 祖父は言った。
 「持て」
 静は持つ。両手で持つ。持つと、腕の内側に自分の血の流れが太くなる。持つというのは、世界の一部を一時借りることだ。借りたものを、返す時の形を想像する。
 「返す形まで持てたら、おまえは強い」
 祖父の声は、雨上がりの濡れた石畳みたいに、少し滑って、でも確かだ。
 道場の隅で、香が覗いていた。
 「静くん」
 「うん」
 「持ってるだけなの?」
 「うん」
 「つまらなくない?」
 静は考えてから、首を振った。
 「つまらないと面白いの真ん中に居る気がする」
 香は笑った。
 「詩人みたい」
 静は詩人という言葉の意味を知らない。けれど、瓶の口には詩みたいな風がいつもいる。

 夏の終わりの祭りの日、町は色であふれた。赤い幟、白い紙垂、藍の浴衣、汗の透明。道場の前を神輿が通る。担ぎ手たちの肩が赤くなり、歯を食いしばる音が祭囃子の裏で歪む。祖父は道場の戸口に立ち、神輿が通る時だけ、深く礼をした。礼は角度ではなく距離だ。神輿と祖父の間に、見えない距離が縮む。
 静は祖父の横で、小さな瓶を持っていた。瓶の口は布で塞いである。祭りの音を捕まえるつもりだった。蓋を少しだけずらし、太鼓の音が通りすぎる瞬間に、風を一口だけ飲ませる。
 「なにしてるの」
 香が隣に来た。
 「祭りの風を入れてる」
 「匂い袋みたい」
 「似てるかも」
 香は自分の匂い袋の紐を指で弄び、
 「わたしのは秋になったら菊の香りになるの」
 「ぼくのは、秋になったら、どんな風だろう」
 静が言うと、香は空を見上げた。
 「名乗らない風」
 香は微笑んだ。
 その時、神輿の列の後ろのほうで、小さな騒ぎが起きた。担ぎ手の一人がつまずき、神輿がわずかに傾いたのだ。だが、すぐに別の肩がそこへ入った。間合いが埋まる。重さが渡される。祖父は微かに息を吐いた。
 「風の中に居た」
 祖父は独り言のように言い、静の頭を軽く撫でた。掌は、やはり風を通した。

 祭りの夜、港のほうに上がった花火の火の粉が風に散った。子どもたちは歓声を上げ、犬は吠え、老人たちは眼鏡を外して空を見る。静は瓶の口を空に向けた。風が笑った。
 「静」
 振り向くと、矢野蓮がいた。昼間は見かけなかった顔だ。浴衣の襟元から、石粉の白がまた少し見える。
 「やあ」
 「やあ」
 言葉はそれだけ。花火の音が大きすぎて、言葉が要らない。二人は同じ方向を見た。空の黒に、次の光が来る場所がわかる。次に来る光は、誰かの手が先に握っていたみたいに、すこし暖かい。
 花火が弾けるたび、静は思う。光は音より先に届く。けれど、胸に残るのは音のほうだ。音は、瓶に入る。光は、目の裏に溶けるだけ。
 「それ、なに」
 蓮が瓶を指した。
 「風の記録」
 「ふうん」
 蓮は笑わない。笑わないで、静の顔を少し長く見た。見られているのに、不思議と嫌じゃなかった。
 「また、道場に」
 静が言うと、蓮はうなずいた。
 「行く」

 夏が抜けると、町の匂いが薄く鋭くなる。干した畳の青、海藻の褪せた茶、石垣の冷えた灰。学校では、教師の声が硬くなった。唱歌の代わりに、行進曲が増えた。静は歌わない。歌わないで、風を数える。
 「一、二、三」
 雨樋の曲がる角で、風はよく数えられた。
 寺子屋では、香が字をすらすら書く。静は字よりも余白の形を見てしまう。余白の形は風の通り道に似ている。
 「静くん、字が踊ってる」
 香は笑った。
 「風が通ったから」
 「じゃあ、いい踊りだ」
 そう言って、香は自分の匂い袋を机の上に置いた。袋の口から、ほんの少し、菊の香りが漏れた。菊は正直だ。ふだんは無言で、求められた時だけ名を明かす。

 道場では、蓮が本格的に稽古を始めた。礼は降り、足は静かに地に吸い、目はまっすぐ。祖父は多くを言わない。言葉の少ない人間が二人いると、空気は澄む。
 「面!」
 声だけが時々、天井の梁に当たって跳ね返り、静の胸骨にぶつかった。蓮の面は綺麗に入る。静はまだ木刀を持つのが精一杯だ。
 「静」
 稽古のあと、蓮が声をかけた。
 「これ、石」
 蓮は手のひらに白い小石を載せた。
 「川の底で見つけた。丸いから怪我しない」
 静は受け取り、指先で転がす。丸いものは心を戻す。祖母の言葉が、石の重さと一緒に手の中で転がった。
 「ありがとう」
 蓮は照れたように笑わず、頬を少しだけ掻いた。
 「君の瓶、すこし聞こえた」
 「なにが」
 「海」
 静は瓶を耳に当てた。海は遠くにあり、いつも近くにある。
 「海は怖い?」
 「怖いかもしれない」
 「どうして」
 「大きいから」
 蓮は少し考えてから頷いた。
 「大きいものは、名乗らない」
 静は瓶を膝に置いた。名乗らないもの。風と海と、祖父の背中。名乗らないものの前では、子どもはよく泣く。泣く代わりに、静は黙る練習をした。

 その冬のはじめ、道場に大きな紙が貼り出された。町の若者の名前が並ぶ。名の横に小さな丸印がついた者と、三角印の者がいる。大人たちは、その紙の前で静かに声を潜めた。
 「志願」
 「召集」
 静にはその違いがわからない。ただ、名前が紙に置かれると、名は急に重くなることだけはわかった。名は風に乗らない。紙に釘付けにされる。
 「源蔵さんは」
 誰かが祖父に言い、祖父は「わしはもう名を使い果たした」と答えた。
 「名は、一度きりでいい」
 祖父の声は、寒い朝の井戸水みたいに澄んで冷たかった。静は自分の名を、口の内側でこっそり呼んでみた。しずか。呼ぶと、胸の奥の小さな鈴が鳴った気がした。矢野蓮の名が、それに遠く応える。まだ会話は始まっていない。けれど、音は互いに覚え合う。

 年が明けると、空が少し低くなった。低い空は、町の音を集めてしまう。町の音は、すぐに満ちる。満ちると溢れる。溢れる手前の静けさが、静には好きだった。
 「静」
 祖母が呼ぶ。
 「なに」
 「息」
 静は息を吸い、吐く。祖母は頷く。
 「よくできました」
 息に対して礼をする。息は名乗らない。けれど、息だけは、裏切らない。裏切らせないようにするのが、人の仕事だと祖母は言った。
 「戦はね、息を奪うの」
 祖母はぽつりと漏らした。
 「だから、息を覚えなさい」
 静はうなずいた。息の形を、瓶に入れることはできない。けれど、瓶の口に息を触れさせることはできる。瓶に触れた息は、薄い曇りをガラスの内側に残す。その曇りは、冬の朝の窓と同じだ。曇りは手で拭くと、消えて、指紋だけを残す。指紋は、名の代わりに残る。

 春が来る。風はやわらぎ、桜の花びらは石段をすべる。静は花びらを一枚拾い、瓶にふわりと入れた。花びらは、瓶の中で紙のようになった。乾くと、軽い音を立てて動く。
 「静」
 蓮が道場に来る。背がまた伸びた。
 「この前、川の上に燕が飛んでた。早かった」
 「風を切るから」
 「切ってるのかな」
 「切らないように、風のほうがよける」
 蓮は笑った。
 「刀も、よけられるといいのに」
 祖父が横で、微かに目を細めた。
 「よける刀が、いちばん強い」
 蓮は祖父の言葉を聞いて、真面目な顔になった。
 「先生、よける稽古を教えてください」
 祖父は頷いた。
 「よけるには、先に在れ」
 静はその言葉だけを胸の内側にしまい込んだ。先に在る。敵より早く、風より先に、そこに在る。そうすれば、刀も人も、嘘をつかない。
 稽古の合間、蓮はまた石をくれた。今度は少し灰色で、表面に白い筋が一本走っている。
 「筋があると、なにか、言い訳ができる」
 蓮は言い、静は首を傾げる。
 「言い訳?」
 「うん。まっさらなものは、こわい」
 静は石を握りしめた。まっさらな紙。名のない紙。そこに名前を書けば、紙は急に重くなる。石の筋は、名前の前のひびだ。ひびは、音を出す。

 初夏、海の向こうに薄い雲が横に伸びた。雲の端が黒い。父親たちは港で長く立ち話をするようになり、母親たちは白い布を洗う回数を増やした。白は、汚れが目立つから。目立たせるために白を着る。目立たせることで、心は引き締まる。
 「静、白はね、嘘がつけない」
 祖母は言った。
 「だから白を着る人は、心に小さな影を飼っておくのよ。影がないと、眩しすぎて自分が見えなくなるから」
 静は頷き、影の小さな居場所を胸の奥に作った。瓶の隣の小部屋みたいな場所だ。そこに、まだ名のない影をそっと座らせる。

 ある日、町の広場で演説があった。軍服の男が台の上に立ち、金色のボタンが空を映した。男はたくさんの言葉を、同じ高さの声で並べた。人々はうなずく者と、目を伏せる者とに分かれた。
 静は蓮と一緒に、少し離れたところから見ていた。
 「なにを言ってるの」
 「正しいこと」
 「正しいこと?」
 蓮は首を傾げた。
 「正しいと言われると、正しい顔がまだできない」
 静は瓶の口を軽く撫でた。瓶の中で、花びらが小さく揺れた。揺れる音は、演説の声よりも遠くまで届く。
 「静」
 蓮は急に言った。
 「いつか、行くことになるかもしれない」
 「どこに」
 「遠いところ」
 「海のむこう?」
 蓮は答えなかった。答えないことで、答えは瓶の中に落ちた。小さな音がして、誰にも聞こえなかった。

 その夜、祖父が珍しく酒を飲んだ。盃は小さく、酒は薄い。薄い酒は、夜の声を増やす。
 「静」
 「なに」
 「ものは、長いほうがいいというもんじゃない」
 祖父は竹刀を軽く掲げた。
 「短いと、届かん。長いと、余る。余ったぶんで、人は怪我をする」
 静は自分の竹刀の先を見た。一寸引いた場所。そこが自分の長さ。
 「長さは、あわせるもんじゃ」
 祖父は言った。
 「相手に、風に、場所に、そして時間に」
 「時間?」
 「時間にも長さがある。おまえの時間は、まだ短い。短いから、よく届く。大人になれば、時間は長くなる。長くなったぶんだけ、届かん場所ができる」
 静は、瓶を抱いた。瓶の中の風は、短い。短いから、よく鳴る。

 次の日、蓮が道場に来た。稽古のあと、二人で海を見に行く。坂の途中で香が合流する。三人になると、風はすこし分割される。分割されても、風は足りる。
 「わたし、明日から城下の親戚の家に行くの」
 香が言った。
 「しばらく戻れないかも」
 「どうして」
 「父が、字を教える場所が増えたから」
 香は変わらず笑っている。笑っているけれど、匂い袋を指で強く握っている。
 「この匂い袋、預かって」
 香は袋を静に渡した。
 「秋の匂いが逃げないように」
 静は受け取り、瓶と匂い袋を並べて持った。どちらも、名乗らないものを閉じ込める器だ。
 「返すよ」
 「返してね」
 香はうなずいた。

 港に着くと、夕陽が水に沈む途中だった。水は光をすぐに消化できない。表面で少し消え残って、魚の鱗に似る。
 「静」
 蓮が言った。
 「将来、なにになりたい?」
 静は少し考えた。
 「瓶の蓋」
 蓮は笑った。
 「どうして」
 「名乗らないものが逃げないように」
 蓮は笑い終えると、まっすぐ海を見た。
 「僕は、石を積む人」
 「石工?」
 「そう。積んだ石が、時間に崩されないように、ひとつひとつ、筋を見つけたい」
 静は、蓮の言葉が、まだ未来のほうから届いているのを感じた。未来の言葉は、今よりも少し高いところから降ってくる。降りる礼のように。
 風が吹き、瓶の口が鳴った。匂い袋が、かすかに菊の香りを漏らした。二つの器は、同じ風を異なる言語で記録している。風は、それを許した。

 日が短くなると、道場の影は長くなった。影は、時々、剣の形に伸びて、廊下を横切る。静は影の剣を跨いだ。跨ぐと、自分がひとつ年を取った気がする。
 「静」
 祖父が呼んだ。
 「はい」
 「今年の終い稽古で、おまえはひとつ、面を受ける」
 「受ける?」
 「打つんじゃない。受ける」
 静はうなずいた。受けること。風を受けるように。刀の音を受けるように。
 終い稽古の日、道場は人でいっぱいになった。大人も子どもも、女も男も、みんな裸足で畳の上に存在した。祖父は中央に座り、目を閉じた。
 「沖田静」
 名前を呼ばれ、静は前へ出た。木刀を持ち、正面に立つのは蓮だった。
 「面!」
 蓮の声が落ち、木刀が降りる。静は動かない。木刀が額に届く直前、風が薄く差し込む場所ができた。静はそこに先に在った。木刀は、静の頭に触れないで、空気を薄く裂いた。裂け目は、すぐに閉じた。
 「よし」
 祖父が短く言い、誰かが小さく息を吐いた。
 静は、瓶の中に今の音が入っていくのを感じた。名乗らない音。額に触れない木の音。
 「終い」
 祖父の声で、道場の時間が一度止まり、それから今年という長さを畳の目の間に滑り込ませた。

 その夜、静は眠れなかった。枕元の瓶に耳を当てる。瓶の中で、海と祭りと太鼓と、蓮の木刀の音が、同じ高さで並んでいる。そこに、自分の息の音が混ざる。
 「名は、あとから追いつく」
 祖父の言葉が、瓶のガラスの向こうで揺れる。
 静は小さな声で、自分の名を呼んだ。
 「しずか」
 呼ぶと、鈴が鳴る。鈴は、蓮の名を呼びたがる。
 「れん」
 名は、まだ遠い。遠いから、尊い。
 静は目を閉じた。遠いものは、目を閉じると近くなる。近くなると、涙が出る。涙は、瓶に入らない。入らないものがあることを、静は覚えた。

 次の朝、道場の窓がわずかに開いていた。風が入り、竹刀の先に目に見えない塵の帯ができる。静はその帯を切らずに保つ練習をした。打突より前に、「切らないこと」を覚える。
 祖父は、ふと庭の隅の梅の蕾を見た。
 「静」
 「はい」
 「春が、すこし、早いかもしれん」
 祖父の声は、遠い戦のほうを見ていた。春が早いと、人は急ぐ。急ぐと、怪我をする。
 「急ぐな」
 祖父は言い、静はうなずいた。
 「竹は、急いで大人にならん」
 静は竹刀の先を一寸引いた。その一寸の向こう側に、まだ名乗らない未来が、風の形で横たわっている。
 瓶の中で、冬の風が新しい頁をめくった。音はしない。音を聴くのは、二話の仕事だ。今日はただ、在る。
 静は在り、礼をした。角度ではなく、距離に向かって。彼の距離は、もう少しで、誰かの距離と重なる。その誰かの名は、もう決まっている。矢野蓮。
 名は、いつか追いつく。
 風は、今日も名乗らない。
 名乗らない風の中で、六歳の沖田静は、竹刀の長さを測り直した。昨日より一寸短く。世界に怪我を負わせぬために。自分に嘘を負わせぬために。
 そして、その一寸の手前に、泣きたい心を立たせて、息に礼をした。