■あとがき ― 風が残した余白について
この物語は、敗戦から長い時間が経ってから見つかったいくつかの「空の器」から始まった。中身はほとんどない。砂が少し、紐がひと筋、紙片が一枚。けれど、空であること自体が意味を持ち得るのだと、私はこの記録に触れて学んだ。
“空”は不在ではなく、通り道だ。風が通り、呼吸が抜け、涙が乾くための道。沖田静は生涯を賭して、その空白を守ろうとしたのだろう。「名を呼ばない礼」は、彼の弱さの形ではない。むしろ、確定が刃に変わると知るがゆえの倫理だった。
瓶に貼られた白いラベル、鉛筆の痕の揺らぎ、括弧の中に残された空白。どれもが未完ではない。未破だ。破らないために、呼ばない。呼ばないことで、続く。
やがて戦後の風を受け継いだ者が現れ、現代の風の中でまた誰かが耳を澄ます。そうして、音のない記録は連鎖し、沈黙の系譜ができあがる。私たちが彼らの名を軽率に呼ばないこと、それこそが彼らを“使わず”に“遺す”道なのだと思う。
以下に載せるのは、道場の床下から後年見つかった沖田静の短い日記の断章である。
紙は湿気を吸い、ところどころ文字が流れている。日付は必ずしも整っていない。けれど、そこに綴られた呼吸の拍は、瓶と同じ無音の音を持っている。
読む人は、どうか「名を呼ばない」側の姿勢で、ページの余白にも耳を澄ませていただきたい。
■沖田 静 日記断章
(※旧かな遣い・旧字は一部読みやすさのため改めた。括弧や長音・句読法は原文に従う)
昭和十二年 水無月
祖父が言う。「礼は角度ではない。距離だ」。
夕方、窓を半寸だけ開ける。紙一枚。風が通る。通った後に残るのは、埃の薄い輪。輪の内側で、心が少し軽くなる。
道場の隅に小瓶。ラベルの白を見つめる。まだ書かない。書くのがこわいのではなく、いまはまだ風のほうが速いから。
昭和十五年 霜月
蓮、初雪の前に来る。
面をつけず、木刀で三太刀だけ。打たないための三太刀。
「合わせるな」と彼。
「合わないで並ぶ」を、私は礼と呼んでみた。
瓶に点をひとつ置く。点は名ではない。息の留め石。
昭和十七年 弥生
建物疎開の列。釘抜きの音が昼を刻む。
黒い紙で窓を覆い、祖父が親指で「紙一枚」押す。
その力加減を忘れないために、瓶の口を半指だけ傾ける。
ひとが燃えぬように、名を燃やさぬように。
昭和十八年 長月
稽古を当面やめる通達。
祖父:「拍は数えるためでなく、やめる位置を示すためにある」。
道場の梁の上に鳴らない音が一枚増えた。
それを見た。聞こえはしないが、在るという手触りだけは確かだった。
昭和十九年 葉月
蓮の家に赤紙。
厨房の湯気が二度まわらない日。
私は万歳を言わない。喉の奥で布を噛む。布は裂けない。裂かないように、呼ばない。
夜。道場で蓮が言う。「俺が帰らなかったら、全部捨ててくれ」。
うなずかない。それは彼の帰り道を一本残す所作。
瓶に書く。《矢野( )》——括弧の中を空のまま礼として置く。
昭和二十年 弥生
移動隊舎。鉄の匂い。
眠りは訓練の延長。夢はまだ来ない。来ない夜は守りになる。
瓶のラベル:《移動隊舎の夜( )》空白の重さを掌で確かめる。重いのに、持てる。
同 卯月
滑走路の砂は踏まれるたびに形を失い、次の足で書き直される。
書き直すことは誤りではない。誤りを延焼させない術。
降下の手。操縦桿に「置く」。握らない。やめる位置が先にあると、空は怒っても短い。
同 水無月
中隊本部に束の電報。
《矢野蓮 戦死ノ報》
文字が鉛の粒になる。視界の底で沈む。
その底で、祖母の布の端がゆれる。私の息のせいだ。風ではない。
泣かない。泣けない。泣かぬことが美徳ではなく、礼の最後尾だから。
夜。面紐の結び目を思い、結ばないで持つ。
結び目は意地を持つ。意地はときに生還を拒む。だから、結ばない。
同 文月
「特別攻撃」という語、滑らかすぎる。
滑らかさは現実の粗さを覆う。
だから瓶に点を置く。点のざらりで、言葉の滑走を止める。
同 葉月(見送りの逆位置)
見送りはない。
誰も見ない。誰にも見られない。確定の回避。
風に礼。風は返事をしない。返事のない礼は世界でいちばん静か。
布に息を一度だけ通す。息は名の代わり。名は呼ばない。
(日付なし)
書くことは確定。書かないことは祈り。
だが、祈りばかりでは風が迷う。
だから点を置く。点は道標。名ではない。
(鉛筆、擦れ強く判読困難)
蓮、
おまえの拍を合わせたい夜がある。
合わせすぎると刃になる。
ゆえに半拍ずらす。
ずれの谷間でだけ、人は生き延びる。
(最後の頁/端が欠ける)
風は、名を呼ばない。
名を呼ばぬものだけが、風に遺る。
誰かがこの瓶を開けたなら、どうか、やさしく閉じてくれ。
風を捕まえず、ただ通してくれ。
それが、わたしたちの礼だ。
(以上)
※編者注
断章の「礼」の語は、単なる礼儀作法ではなく、彼の生存戦略=倫理の核を指す。
「点」について:頻出する“点”は「記名の手前の息」を意味し、表記の最小単位による抵抗でもある。書く=確定、という重力から逃すための工夫。
「名を呼ばない」は忘却ではない。名を“使用しない”ことで生を保護する態度である。
「遺る」の表記は、静の造語的用法で、他者と風の共同作業としての“残存”を意味する。
■祈りのかわりに
この国ではいつも、語られた戦争より、語られず、置かれたままの呼吸のほうが多い。
瓶の列は、それらの呼吸を割らずに並べるためのささやかな仕組みだった。
どの瓶にも、名はないか、名の手前で止まっている。
それでも私たちは、風の拍を耳の奥で受け継ぐことができる。受け継ぎ方は、呼ばないことだ。
呼ばずに、寄り添う。寄り添う距離を一寸だけ引いて、風を通す。
そのとき、梁の上の“鳴らない音”が一枚ふえ、軽くなる。
軽くなるほど、人の指が要る。
あなたがその指で、瓶の口をそっと押さえてくれるなら、きっと風は迷わない。
どうか、風の通り道を守ってほしい。
彼らの名を、乱暴に確定しないでほしい。
呼べるまで、呼ばないでほしい。
それが、沖田静と矢野蓮が遺した礼であり、私たちが今を生きるための小さな方法なのだから。
この物語は、敗戦から長い時間が経ってから見つかったいくつかの「空の器」から始まった。中身はほとんどない。砂が少し、紐がひと筋、紙片が一枚。けれど、空であること自体が意味を持ち得るのだと、私はこの記録に触れて学んだ。
“空”は不在ではなく、通り道だ。風が通り、呼吸が抜け、涙が乾くための道。沖田静は生涯を賭して、その空白を守ろうとしたのだろう。「名を呼ばない礼」は、彼の弱さの形ではない。むしろ、確定が刃に変わると知るがゆえの倫理だった。
瓶に貼られた白いラベル、鉛筆の痕の揺らぎ、括弧の中に残された空白。どれもが未完ではない。未破だ。破らないために、呼ばない。呼ばないことで、続く。
やがて戦後の風を受け継いだ者が現れ、現代の風の中でまた誰かが耳を澄ます。そうして、音のない記録は連鎖し、沈黙の系譜ができあがる。私たちが彼らの名を軽率に呼ばないこと、それこそが彼らを“使わず”に“遺す”道なのだと思う。
以下に載せるのは、道場の床下から後年見つかった沖田静の短い日記の断章である。
紙は湿気を吸い、ところどころ文字が流れている。日付は必ずしも整っていない。けれど、そこに綴られた呼吸の拍は、瓶と同じ無音の音を持っている。
読む人は、どうか「名を呼ばない」側の姿勢で、ページの余白にも耳を澄ませていただきたい。
■沖田 静 日記断章
(※旧かな遣い・旧字は一部読みやすさのため改めた。括弧や長音・句読法は原文に従う)
昭和十二年 水無月
祖父が言う。「礼は角度ではない。距離だ」。
夕方、窓を半寸だけ開ける。紙一枚。風が通る。通った後に残るのは、埃の薄い輪。輪の内側で、心が少し軽くなる。
道場の隅に小瓶。ラベルの白を見つめる。まだ書かない。書くのがこわいのではなく、いまはまだ風のほうが速いから。
昭和十五年 霜月
蓮、初雪の前に来る。
面をつけず、木刀で三太刀だけ。打たないための三太刀。
「合わせるな」と彼。
「合わないで並ぶ」を、私は礼と呼んでみた。
瓶に点をひとつ置く。点は名ではない。息の留め石。
昭和十七年 弥生
建物疎開の列。釘抜きの音が昼を刻む。
黒い紙で窓を覆い、祖父が親指で「紙一枚」押す。
その力加減を忘れないために、瓶の口を半指だけ傾ける。
ひとが燃えぬように、名を燃やさぬように。
昭和十八年 長月
稽古を当面やめる通達。
祖父:「拍は数えるためでなく、やめる位置を示すためにある」。
道場の梁の上に鳴らない音が一枚増えた。
それを見た。聞こえはしないが、在るという手触りだけは確かだった。
昭和十九年 葉月
蓮の家に赤紙。
厨房の湯気が二度まわらない日。
私は万歳を言わない。喉の奥で布を噛む。布は裂けない。裂かないように、呼ばない。
夜。道場で蓮が言う。「俺が帰らなかったら、全部捨ててくれ」。
うなずかない。それは彼の帰り道を一本残す所作。
瓶に書く。《矢野( )》——括弧の中を空のまま礼として置く。
昭和二十年 弥生
移動隊舎。鉄の匂い。
眠りは訓練の延長。夢はまだ来ない。来ない夜は守りになる。
瓶のラベル:《移動隊舎の夜( )》空白の重さを掌で確かめる。重いのに、持てる。
同 卯月
滑走路の砂は踏まれるたびに形を失い、次の足で書き直される。
書き直すことは誤りではない。誤りを延焼させない術。
降下の手。操縦桿に「置く」。握らない。やめる位置が先にあると、空は怒っても短い。
同 水無月
中隊本部に束の電報。
《矢野蓮 戦死ノ報》
文字が鉛の粒になる。視界の底で沈む。
その底で、祖母の布の端がゆれる。私の息のせいだ。風ではない。
泣かない。泣けない。泣かぬことが美徳ではなく、礼の最後尾だから。
夜。面紐の結び目を思い、結ばないで持つ。
結び目は意地を持つ。意地はときに生還を拒む。だから、結ばない。
同 文月
「特別攻撃」という語、滑らかすぎる。
滑らかさは現実の粗さを覆う。
だから瓶に点を置く。点のざらりで、言葉の滑走を止める。
同 葉月(見送りの逆位置)
見送りはない。
誰も見ない。誰にも見られない。確定の回避。
風に礼。風は返事をしない。返事のない礼は世界でいちばん静か。
布に息を一度だけ通す。息は名の代わり。名は呼ばない。
(日付なし)
書くことは確定。書かないことは祈り。
だが、祈りばかりでは風が迷う。
だから点を置く。点は道標。名ではない。
(鉛筆、擦れ強く判読困難)
蓮、
おまえの拍を合わせたい夜がある。
合わせすぎると刃になる。
ゆえに半拍ずらす。
ずれの谷間でだけ、人は生き延びる。
(最後の頁/端が欠ける)
風は、名を呼ばない。
名を呼ばぬものだけが、風に遺る。
誰かがこの瓶を開けたなら、どうか、やさしく閉じてくれ。
風を捕まえず、ただ通してくれ。
それが、わたしたちの礼だ。
(以上)
※編者注
断章の「礼」の語は、単なる礼儀作法ではなく、彼の生存戦略=倫理の核を指す。
「点」について:頻出する“点”は「記名の手前の息」を意味し、表記の最小単位による抵抗でもある。書く=確定、という重力から逃すための工夫。
「名を呼ばない」は忘却ではない。名を“使用しない”ことで生を保護する態度である。
「遺る」の表記は、静の造語的用法で、他者と風の共同作業としての“残存”を意味する。
■祈りのかわりに
この国ではいつも、語られた戦争より、語られず、置かれたままの呼吸のほうが多い。
瓶の列は、それらの呼吸を割らずに並べるためのささやかな仕組みだった。
どの瓶にも、名はないか、名の手前で止まっている。
それでも私たちは、風の拍を耳の奥で受け継ぐことができる。受け継ぎ方は、呼ばないことだ。
呼ばずに、寄り添う。寄り添う距離を一寸だけ引いて、風を通す。
そのとき、梁の上の“鳴らない音”が一枚ふえ、軽くなる。
軽くなるほど、人の指が要る。
あなたがその指で、瓶の口をそっと押さえてくれるなら、きっと風は迷わない。
どうか、風の通り道を守ってほしい。
彼らの名を、乱暴に確定しないでほしい。
呼べるまで、呼ばないでほしい。
それが、沖田静と矢野蓮が遺した礼であり、私たちが今を生きるための小さな方法なのだから。



