瓶の中に、風があるなんて、最初は冗談だと思っていた。
 大学の夏期実習で、古い町の資料館を整理していたとき、僕はその瓶を見つけた。
 木箱の中にきちんと並んだ十五本の瓶。ラベルには鉛筆の細い筆跡で、こう書かれていた。
 《風の記録》
 その下に、括弧書きで《沖田 静》。
 誰だろう――と思った瞬間、胸のどこかが小さく鳴った。音ではない。拍だ。

 瓶の一つをそっと持ち上げると、底に砂が少しだけ入っていた。
 砂の粒が、光を反射していた。
 それが何かの意味を持つのか分からない。
 けれど、ただ見ているだけで、なぜか喉の奥が熱くなった。
 瓶の口に耳を寄せる。
 ――風の音がした。
 ほんの一瞬。
 空調でも、幻聴でもない。
 それは“記録された時間”の音だった。

 館長は言った。
 「戦争のころにね、この町には沖田さんという剣の達人がいたらしい。
  出征した少年たちが彼の道場で稽古して、そのうち二人は戻らなかった。
  瓶は、その人が戦中に残した記録らしい」

 戻らなかった二人――そのうちのひとりが、矢野蓮という名だったと、あとで資料にあった。
 僕は矢野という姓に覚えがあった。
 祖母の旧姓が、矢野だった。
 それを口に出した瞬間、館長が静かに目を細めた。
 「なら、君は……あの“風の子孫”かもしれないね」

 冗談のような言葉だったが、胸の中で何かが確かに動いた。
 僕は瓶を両手で包んだ。
 瓶の表面に、薄く塩の跡があった。
 もしかしたら海風か、涙か。
 どちらでもいい。
 その跡が、時間の指紋のように見えた。

 瓶のラベルの裏には、鉛筆で小さく書かれていた。
 《礼は、続いていくもの》
 それは、祖母がよく口にしていた言葉と同じだった。
 祖母はもう亡くなっている。
 けれど、祖母が手を合わせるたびに、僕はいつも不思議な安心を感じた。
 ――あれも、きっと「礼」だったのだ。

 夜、宿舎に戻って、瓶を机の上に置いた。
 窓を少しだけ開ける。
 外は、八月の風。
 蝉の声が遠くで絶え間なく鳴っている。
 風が瓶の口を撫でた。
 その瞬間、ほんの微かな音がした。
 かすかな「からん」。
 それは、僕の鼓動と重なった。

 僕はノートを開き、鉛筆で書いた。
 《風は、名を呼ばない》
 書きながら、思った。
 呼ばないからこそ、届くことがあるのかもしれない。
 彼らが守った“名を呼ばない祈り”は、誰かの中で形を変え、風になって今も吹いている。
 その風が、僕の頬を撫でている。

 翌朝、瓶を返すために資料館へ行くと、館長が玄関先に立っていた。
 「昨夜、風が強くてね。ひとつ瓶が倒れて割れたんだ」
 言葉の途中で僕は胸が詰まった。
 けれど、館長は続けた。
 「不思議なんだよ。中に入っていた砂が、割れた瓶の周りを円のように並んでた」
 円――。
 風の形。
 礼の形。

 僕は笑った。
 「それはきっと、瓶が自分で礼をしたんですよ」
 館長は目を見開き、やがてうなずいた。
 「そうかもしれんな」

 帰り道、僕は歩きながら風を感じた。
 風は名乗らない。
 でも、確かにそこにいる。
 誰かの記憶の延長として、いまもこの空を渡っている。
 僕はその風の中に立っていた。
 風が、髪を揺らした。
 目を閉じると、瓶の音が聴こえた。
 「からん」――。

 まるで、遠い誰かが、まだここで稽古をしているようだった。