焼け跡の町は、もう地図にはない。線路も川の輪郭も、戦前の形とは少しずつずれている。けれど、人の足音が長い年月をかけて踏み慣らした道筋だけは、土の下に残っていた。
沖田家の道場も、その土の上に立っている。壁の板は黒ずみ、梁は白い埃を吸っている。戸口には、かつて風鈴があった釘跡だけが残る。音のない夏。音のない家。
だが、部屋の奥――棚の一角に、瓶たちがあった。
薄い光が障子の穴を抜け、瓶の肩をなでる。ラベルの文字はもうほとんど読めない。
《滑走路の砂》《移動隊舎の夜》《矢野( )》――括弧のなかは、どれも空のままだ。
けれど、その空白だけが光を通し、瓶の内部を透かしている。
瓶の内側に貼りついた微細な砂粒が、まるで呼吸のようにきらめいていた。
それが、彼らの記録だった。
訪ねてきたのは、若い女性だった。
矢野千砂。
彼女は、矢野蓮の妹である。
兄の名前が「戦死公報」に載ったのは、もう十年以上も前のこと。
彼女はその紙を、母の仏壇の引き出しで偶然見つけ、そこに付された住所――「沖田静」の名を、ずっと心に残していた。
そして今日、偶然手に入れた広島の古地図の隅に、その家の地名を見つけた。
たったそれだけのきっかけで、千砂はここまで来た。
庭の草は肩の高さまで伸びている。
戸口の木札にはもう字がない。
扉を押すと、重い音が鳴った。埃が一気に舞い、日差しが白く割れた。
息を吸う。湿った木と、古い畳と、鉄の混ざった匂い。
そのすべてが、戦争の残り香のようだった。
千砂は靴を脱ぎ、道場の真ん中に立った。
床板が少し軋んだ。
壁にかけられた竹刀掛けは空だ。
だが、視線を右にずらすと、瓶があった。
十数本。大きさも形もまちまちだ。
埃をかぶった瓶の群れ。
そのすべてが、沈黙の中で並んでいた。
千砂は手を伸ばした。
瓶のひとつ――ラベルがまだ読めるものを取る。
《矢野( )》
筆跡は細く、震えていた。
文字のすぐ上には、紺色の布の切れ端が巻かれている。
それを見た瞬間、千砂の呼吸が止まった。
母が兄の出征の前夜に縫った布と、同じ手の縫い目だった。
千砂は瓶の蓋をゆっくり回した。
錆びていて、少し固い。
回すたびに、古い金属の軋む音がした。
――ぱきん。
小さな音を立てて、蓋が外れた。
中から風が出た。
あり得ないはずの風。
けれど、確かに彼女の頬を撫でていった。
瓶の中には、ほとんど何もなかった。
ただ、小さな紙片が一枚。
それに、鉛筆で書かれていた。
《礼は、続いていくもの》
千砂はその言葉を見つめ、指先が震えた。
兄がこの家で、どんな時間を過ごしたのか。
瓶の主――沖田静が、兄とどんな約束を交わしたのか。
何も知らないのに、胸の奥で何かが音を立てた。
その音は、涙の音に似ていた。
彼女は瓶のなかを覗きこんだ。
底には、細い紐の切れ端と、白い砂の粒。
それを光にかざすと、瓶の内側に光の筋が生まれた。
砂が舞い、きらめいた。
まるで瓶の中で、風がまだ生きているようだった。
そのとき、障子の隙間から本物の風が入ってきた。
瓶の列がわずかに鳴った。
――からん。
その音は微かだったが、確かに“拍”を持っていた。
千砂はその音を聞いて、瓶を胸に抱いた。
「まだ……ここにいるんだね」
その夜、彼女は道場に泊まった。
畳の上に座り、瓶を並べ、ひとつひとつラベルを読む。
《移動隊舎の夜》《滑走路の砂》《矢野( )》
そして、最後の瓶だけが、白紙のままだった。
彼女はその瓶を手に取り、光に透かす。
瓶の内側に、細い傷があった。
爪で引っかいたような跡。
それがまるで、誰かが「書こうとして、やめた」線に見えた。
千砂は思う。
――書くことは、確定だ。
書かないことは、祈りだ。
瓶たちはその祈りの形だったのかもしれない。
夜更け、風が強くなった。
屋根の隙間から入った風が、瓶を鳴らした。
その音が、不意に兄の声に似ていた。
千砂は瓶を抱え、目を閉じた。
耳の奥で、拍が聴こえる。
竹刀が畳を撫でるような音。
息を合わせる音。
「切らない」「合わせない」「延ばさない」――
どこかで聞いたような言葉が、風のなかに混じっていた。
翌朝、千砂は机の引き出しを開けた。
中に、一枚の古びた紙があった。
鉛筆の薄い線。
書きかけの文。
《風は、名を呼ばない。名を呼ばぬものだけが、風に遺る》
筆跡は、あの日の瓶の文字と同じだった。
沖田静。
彼は確かにここで、風に祈りを託していた。
千砂は瓶を棚に戻した。
埃を払い、白紙のラベルに新しく鉛筆を走らせる。
《風の記録(沖田 静)》
括弧の中に名前を入れる。
それは彼が最後まで避け続けた行為だった。
だが今は、もう確定を恐れない。
書くことが、風に形を与える。
それが、彼の「続く礼」になると信じた。
瓶を戻すと、障子がふわりと鳴った。
外の風が少しだけ強くなった。
瓶の口が一斉に震えた。
音ではない。呼吸だ。
その呼吸が、道場全体を包みこんだ。
埃が舞い、光が屈折する。
彼らの“在り方”が、形を持たないまま立ち上がる。
千砂は正座した。
瓶の前で、深く礼をした。
膝の間を拳一つ分空け、背をまっすぐに。
その礼は、沖田静が何度も繰り返した角度だった。
「ありがとう」――声には出さなかった。
けれど、その沈黙が、言葉の代わりになった。
外では、子供たちの声がする。
笑い声と、何かを打つ音。
千砂は障子を開け、外を見る。
近所の少年が竹の棒を振っていた。
拍を合わせながら、友達と笑っている。
その拍が、遠い道場の稽古の音に重なる。
風が、その音を拾い上げる。
瓶の列が、微かに鳴った。
《からん》
その音は、戦争を知らない子供たちの拍と、戦争で失われた彼らの拍が、いま重なった音だった。
千砂は、瓶の方を振り返る。
瓶の中の砂が、ゆっくり沈んでいく。
まるで、時がいま、ひとつの礼として落ち着いたように。
――風が、瓶の口をひとつずつ鳴らした。
誰の名も呼ばずに、それでも確かに――生きていた。
沖田家の道場も、その土の上に立っている。壁の板は黒ずみ、梁は白い埃を吸っている。戸口には、かつて風鈴があった釘跡だけが残る。音のない夏。音のない家。
だが、部屋の奥――棚の一角に、瓶たちがあった。
薄い光が障子の穴を抜け、瓶の肩をなでる。ラベルの文字はもうほとんど読めない。
《滑走路の砂》《移動隊舎の夜》《矢野( )》――括弧のなかは、どれも空のままだ。
けれど、その空白だけが光を通し、瓶の内部を透かしている。
瓶の内側に貼りついた微細な砂粒が、まるで呼吸のようにきらめいていた。
それが、彼らの記録だった。
訪ねてきたのは、若い女性だった。
矢野千砂。
彼女は、矢野蓮の妹である。
兄の名前が「戦死公報」に載ったのは、もう十年以上も前のこと。
彼女はその紙を、母の仏壇の引き出しで偶然見つけ、そこに付された住所――「沖田静」の名を、ずっと心に残していた。
そして今日、偶然手に入れた広島の古地図の隅に、その家の地名を見つけた。
たったそれだけのきっかけで、千砂はここまで来た。
庭の草は肩の高さまで伸びている。
戸口の木札にはもう字がない。
扉を押すと、重い音が鳴った。埃が一気に舞い、日差しが白く割れた。
息を吸う。湿った木と、古い畳と、鉄の混ざった匂い。
そのすべてが、戦争の残り香のようだった。
千砂は靴を脱ぎ、道場の真ん中に立った。
床板が少し軋んだ。
壁にかけられた竹刀掛けは空だ。
だが、視線を右にずらすと、瓶があった。
十数本。大きさも形もまちまちだ。
埃をかぶった瓶の群れ。
そのすべてが、沈黙の中で並んでいた。
千砂は手を伸ばした。
瓶のひとつ――ラベルがまだ読めるものを取る。
《矢野( )》
筆跡は細く、震えていた。
文字のすぐ上には、紺色の布の切れ端が巻かれている。
それを見た瞬間、千砂の呼吸が止まった。
母が兄の出征の前夜に縫った布と、同じ手の縫い目だった。
千砂は瓶の蓋をゆっくり回した。
錆びていて、少し固い。
回すたびに、古い金属の軋む音がした。
――ぱきん。
小さな音を立てて、蓋が外れた。
中から風が出た。
あり得ないはずの風。
けれど、確かに彼女の頬を撫でていった。
瓶の中には、ほとんど何もなかった。
ただ、小さな紙片が一枚。
それに、鉛筆で書かれていた。
《礼は、続いていくもの》
千砂はその言葉を見つめ、指先が震えた。
兄がこの家で、どんな時間を過ごしたのか。
瓶の主――沖田静が、兄とどんな約束を交わしたのか。
何も知らないのに、胸の奥で何かが音を立てた。
その音は、涙の音に似ていた。
彼女は瓶のなかを覗きこんだ。
底には、細い紐の切れ端と、白い砂の粒。
それを光にかざすと、瓶の内側に光の筋が生まれた。
砂が舞い、きらめいた。
まるで瓶の中で、風がまだ生きているようだった。
そのとき、障子の隙間から本物の風が入ってきた。
瓶の列がわずかに鳴った。
――からん。
その音は微かだったが、確かに“拍”を持っていた。
千砂はその音を聞いて、瓶を胸に抱いた。
「まだ……ここにいるんだね」
その夜、彼女は道場に泊まった。
畳の上に座り、瓶を並べ、ひとつひとつラベルを読む。
《移動隊舎の夜》《滑走路の砂》《矢野( )》
そして、最後の瓶だけが、白紙のままだった。
彼女はその瓶を手に取り、光に透かす。
瓶の内側に、細い傷があった。
爪で引っかいたような跡。
それがまるで、誰かが「書こうとして、やめた」線に見えた。
千砂は思う。
――書くことは、確定だ。
書かないことは、祈りだ。
瓶たちはその祈りの形だったのかもしれない。
夜更け、風が強くなった。
屋根の隙間から入った風が、瓶を鳴らした。
その音が、不意に兄の声に似ていた。
千砂は瓶を抱え、目を閉じた。
耳の奥で、拍が聴こえる。
竹刀が畳を撫でるような音。
息を合わせる音。
「切らない」「合わせない」「延ばさない」――
どこかで聞いたような言葉が、風のなかに混じっていた。
翌朝、千砂は机の引き出しを開けた。
中に、一枚の古びた紙があった。
鉛筆の薄い線。
書きかけの文。
《風は、名を呼ばない。名を呼ばぬものだけが、風に遺る》
筆跡は、あの日の瓶の文字と同じだった。
沖田静。
彼は確かにここで、風に祈りを託していた。
千砂は瓶を棚に戻した。
埃を払い、白紙のラベルに新しく鉛筆を走らせる。
《風の記録(沖田 静)》
括弧の中に名前を入れる。
それは彼が最後まで避け続けた行為だった。
だが今は、もう確定を恐れない。
書くことが、風に形を与える。
それが、彼の「続く礼」になると信じた。
瓶を戻すと、障子がふわりと鳴った。
外の風が少しだけ強くなった。
瓶の口が一斉に震えた。
音ではない。呼吸だ。
その呼吸が、道場全体を包みこんだ。
埃が舞い、光が屈折する。
彼らの“在り方”が、形を持たないまま立ち上がる。
千砂は正座した。
瓶の前で、深く礼をした。
膝の間を拳一つ分空け、背をまっすぐに。
その礼は、沖田静が何度も繰り返した角度だった。
「ありがとう」――声には出さなかった。
けれど、その沈黙が、言葉の代わりになった。
外では、子供たちの声がする。
笑い声と、何かを打つ音。
千砂は障子を開け、外を見る。
近所の少年が竹の棒を振っていた。
拍を合わせながら、友達と笑っている。
その拍が、遠い道場の稽古の音に重なる。
風が、その音を拾い上げる。
瓶の列が、微かに鳴った。
《からん》
その音は、戦争を知らない子供たちの拍と、戦争で失われた彼らの拍が、いま重なった音だった。
千砂は、瓶の方を振り返る。
瓶の中の砂が、ゆっくり沈んでいく。
まるで、時がいま、ひとつの礼として落ち着いたように。
――風が、瓶の口をひとつずつ鳴らした。
誰の名も呼ばずに、それでも確かに――生きていた。



