明け方の風は、まだ眠っている。
 整備兵たちが、手の音だけで朝を起こしていく。ボルトの締め直し。燃料バルブの点検。翼端灯の微かな点滅。そのすべてが、呼吸の延長のように静かだ。掛け声はない。音は金属の隙間に吸われ、空のほうへうっすら返っていく。
 静は、その音に礼をする。礼は言葉ではなく、距離で示す。近づきすぎない。離れすぎない。そのわずかな間に、風が通る。
 風はまだ名乗らない。
 名乗らない風の中で、彼は機体の腹に掌を置く。金属の肌は夜の冷えを残していて、掌の温度をゆっくり奪っていく。その奪い方が、丁寧だった。まるで「生きていること」の裏側に、やさしさが隠れているみたいに。

 整備兵のひとりが声をかける。
 「沖田。滑走路、乾いてる」
 短い報告。
 静はうなずく。言葉を足さない。言葉を増やすと、確定が増える。確定は、刃だ。
 整備兵は笑わない。笑わないことが、ここでは礼儀になっている。彼らはもう、出撃を見送る顔を覚えないようにしている。覚えると、あとで痛む。痛みを分け合わない優しさが、この場所にはある。

 列の奥で、若い兵がひとり、竹でできた小さな守りを腰から外した。ひもは擦り切れ、竹の節には手垢の色が沈んでいる。
 「これ……誰かの置き土産らしいです」
 そう言って、数人に配ろうとして、やめた。
 「置き土産」という言葉のなかには、名が潜んでいる。誰かの、がつく。
 名を呼ぶなら、彼は受け取らない。
 静は首を横に振り、短く言う。
 「持ち主のないものは、風のほうがよく運ぶ」
 風は、渡されたものを壊さずに運ぶ術を知っている。壊すのは、人の手のほうだ。

 点呼。名前がひとつずつ読み上げられる。声は乾き、返事は均一だ。静の名は、紙の上で一度、指に触れ、そして読み上げられずに通り過ぎた。
 呼ばれない名のほうが、次に読み上げられる。
 順番の問題ではない。風向きの問題。
 呼ばれなかったことで、いまはまだ、ここにいることができる。
 それだけで十分だった。

 静は列を抜け、滑走路の端に立った。
 空はまだ薄く、夜と朝が溶けあっている。
 遠くで整備兵の金属音がつづく。油の匂いがわずかに焦げて、風の粒に混ざる。匂いの奥に、祖母の台所の湯気を一瞬だけ思い出す。
 匂いは、記憶の形を持たない。けれど、消えない。
 それが、記録の原型だ。

 静はポケットから紺の布を取り出す。布は薄く、色の端がすこしだけ褪せている。
 匂いは、もうない。それでも繊維の間に、祖母の指の温度が残っている錯覚がした。
 「息を通す」
 それだけを、祖父は昔、言っていた。
 布の上に瓶を並べる時間はない。
 だから代わりに、布へ顔を寄せ、息を一度だけ通す。
 その息は名の代わりだ。名は呼ばない。呼べば確定が来る。確定は、帰り道を消す。

 見送りの掛け声はない。
 逆位置の見送り。
 静は誰も見ない。見れば、確定が硬くなる。
 彼は風のほうを見て、風に礼をする。
 風は返事をしない。返事のない礼は、世界でいちばん静かだ。
 静けさの奥に、音の層が一枚、増える。
 増えるたびに軽くなる。軽くなった心は、空を持てる。

 滑走路の白線の向こうに、朝陽が滲みはじめる。
 燃料のにおい、油の粒、砂のざらつき——すべてが記憶のなかで矢野の声に変わる。
 「明日、万歳は言わなくていい」
 最後に彼がそう言った夜の道場。
 風鈴のない窓。瓶の中の空。
 そのどれもが、同じ温度でここにいる。
 空はつながっている。けれど、つながっているからといって届くわけではない。
 届かないことが、祈りの本体だ。
 静は目を閉じた。
 頬を打つ風の拍が、道場の竹刀の「間」に似ている。
 打たないこと。
 折れないこと。
 延ばさないこと。
 それらの教えが、身体の奥でまだ鳴っていた。

 滑走路へ向かう列が動く。
 靴底が砂を崩すたび、風が細く鳴る。
 誰も声をかけない。かければ名が生まれる。
 名が生まれれば、誰かが死ぬ。
 この国では、名と死が隣り合わせだ。
 だから、誰も呼ばない。
 呼ばないまま、見送りは始まり、見送りは終わる。
 逆位置の見送り。
 誰も見ない。誰も送らない。
 そのなかで、静は歩く。
 歩きながら、記憶の中の堤防を思い出す。
 潮風の匂い。矢野の笑い声。
 あのときも、彼は走っていた。
 竹刀を肩に担ぎ、砂の上で何度も転びながら、それでも立ち上がった。
 「静、拍を合わせるな。ずれるとこに風がある」
 矢野の声が耳の奥で反響する。
 拍をずらすこと。それが、礼だった。
 勝つためではなく、折れないための所作。
 静はその“ずれ”を胸に刻んだまま、機体の影の中に入る。

 操縦席の梯子を登る。
 金属の段が冷たい。
 その冷たさは、現実の温度だ。
 現実は、丁寧だ。
 丁寧さは、ときに命令の口調に似る。
 座席に腰を下ろすと、シートの革が汗を吸い取るように沈んだ。
 指先に祖父の親指の感触が蘇る。
 「紙一枚」
 祖父はいつもそう言って、窓を一寸だけ開けていた。
 風は、紙一枚の幅でしか通れない。
 それでも十分だった。
 今日の風も、そこから入ってくる。
 風の粒のなかに、矢野の声が微かに混ざっている気がした。
 「静。おまえは呼ぶなよ」
 「呼ばない」
 心の内でだけ、応える。
 声は外へ出ない。出せば確定する。
 確定は、帰りを閉じる。

 機体の外では、整備兵が小さく手を上げた。
 その手は、礼ではない。
 礼の前にある、「確認」の所作だった。
 静は、目で答える。
 視線は名を持たない。名を持たないものだけが、純粋に届く。
 エンジンの始動音が、低く地面を揺らす。
 地面の震えが、道場の床の記憶を起こす。
 初めて竹刀を握った日の感覚。
 「それが、おまえの今の長さだ」
 祖父の声。
 あのときから、何一つ変わっていない。
 竹刀は操縦桿に、床は滑走路に、拍は息に変わっただけだ。
 すべては、同じ延長線上にある。

 滑走路の白線が視界の下で流れていく。
 風が機体の腹を叩き、音が一度だけ跳ねた。
 音は、出ない音の延長。
 出ない音が、梁に積もっていく。
 静は操縦桿に手を置く。握らない。置く。
 置くことで、やめる位置を知る。
 やめる位置がわかれば、怖くない。
 怖くなければ、名を呼ばなくて済む。

 離陸の号令。
 前の機体が走る。砂が舞う。
 視界が白に包まれ、音がなくなる。
 その無音の中で、静は小さく息を吸う。
 その息は、矢野への礼だった。
 礼は、届かなくていい。
 届かないことが、祈りのかたちだから。

 滑走。
 機体の腹が持ち上がる。
 タイヤが地面を離れるとき、重力が一瞬だけ遅れる。
 遅れた拍の中で、静は祖母の布を胸に押し当てた。
 布は柔らかく、時間の匂いがした。
 時間にも匂いはある。
 それを知ったのは、戦場に来てからだった。
 過ぎた時間は、匂いの粒となって、空のなかに漂っている。
 静はその粒のひとつを、吸い込んだ気がした。

 高度を上げる。
 空は青い。
 けれど、地上の青とは違う。
 この青には、帰り道がない。
 風の色だけが、ほんの少し、矢野の声に似ていた。
 「静。拍を合わせるな」
 拍をずらせば、風が入る。
 その教えを思い出しながら、静は操縦桿を一寸だけ引いた。
 引きすぎない。引かなすぎない。
 ちょうど中間。
 礼の角度。

 視界の端で、陽が白く揺れた。
 その光は、瓶の中の一点のように小さく、遠かった。
 あの瓶たちは、いまも机の上で並んでいるだろうか。
 《慟哭の空》《滑走路の砂》《矢野( )》——
 どの瓶も、呼ばれていない名の分だけ、軽い。
 軽いものは、風に乗る。
 風に乗ったものは、遺る。
 遺る風。
 それが、彼のすべてだった。

 空の匂いが変わる。
 焼けた油と、焦げた金属の混じる匂い。
 その中に、遠くの町の夕餉の香りが紛れ込んでいる気がした。
 錯覚だ。それでも構わない。
 錯覚のほうが、現実より優しいこともある。
 現実は丁寧だ。丁寧さは命令の口調に似る。
 けれど、命令はやめる位置を教えてはくれない。
 だから、彼が決める。
 どこで止まるか。どこまで延ばさないか。
 それを決めることが、最後の自由だ。

 遠くで陽が傾く。
 海が見える。
 白く、静かで、息をしている。
 波が風を押し返し、風が波を引き寄せる。
 その呼吸のあいだに、自分の拍が重なった。
 拍が重なったまま、彼は微笑した。
 笑いは、礼の別名だ。
 祈りではない。
 祈りよりも、ずっと静かなもの。

 「矢野」
 声にならない声で、名を置く。
 呼んでいない。置いただけだ。
 置いた名の上を、風が通る。
 風が返事をしない。
 返事のない礼は、世界でいちばん静かだ。
 静けさの中で、静は空を見た。
 その青のどこかに、矢野の拍がある。
 拍が合えば、きっともう一度、会える。
 けれど——合わせすぎてはいけない。
 合わないことが、生の礼だから。

 滑走路の下で、砂が風に舞う。
 整備兵の手が、一瞬だけ止まる。
 誰も声を出さない。
 出せば、名が生まれる。
 名が生まれれば、確定が来る。
 確定は、刃だ。
 刃のないまま、風が通り抜ける。
 その風が、静の頬を撫でる。
 その感触を最後に、空が彼を包みこんだ。