朝の点呼の声は、きのうの声と同じ喉から出ているのに、乾きの質が違っていた。砂を通した水のように薄く濁り、早く沈む。番号が呼ばれ、番号が返され、紙の上の文字が一枚ずつ体温を失っていく。上層からの命令が降りると告げられたとき、整列した背中は一斉に息を止め、風の通り道が列と列のあいだで細く曲がった。言葉は短い。表情は長い。短い言葉は角を持ち、長い表情はその角を包む。包まれた角は、やがて別の場所で露出する。

 「特別攻撃」

 その名称は、声帯に乗ると妙に滑らかに通る。滑らかさが、現実の粗さを覆い隠す。覆い隠された粗さは、あとでまとめてやって来る。静の名は読み上げられなかった。読み上げられない名のほうが、次に読み上げられる。順番の問題ではない。風向きの問題だ——整備兵のひとりがぼそりと呟いた言葉が、列の底で薄く響いて消えた。

 整備兵が一様に無言になる。無言の中では、雑音だけがよく聞こえる。ボルトの転がる音。工具箱の蓋の跳ねる音。遠い犬の鳴き声。砂の上で竹箒の柄が倒れる乾いた音。日常の音が、非日常の前に立つと、急に輪郭を取り戻す。輪郭は、見えない線を太くする。静はその線に礼をした。礼は、角度ではなく距離。距離を一寸、引く。引いた手前で、名の刃がすり抜ける。

 滑走路の端へ歩く。砂は靴底で崩れ、崩れた形を次の足が上書きし、太陽がその上から熱を押しつける。押しつけられた熱は、夕暮れには薄い膜になって剝がれ、風に巻かれてどこかへ行く。どこかは地図にない。地図にない場所へ、人は命令で送られる。命令は紙でできている。紙は薄い。薄いものほど、折り目が深い。

 午前の訓練は、さらに拍が詰まった。降下、旋回、再上昇。操縦桿に手を「置く」。握らない。置く。竹刀を持つときと同じ距離で。教官は背後から「もっと力を」と言い、声の角を静の肩の斜面で滑らせた。静は微小な震えを許す。震えは恐怖ではない。礼の余白だ。余白があるから、空の怒りは肩越しに通り抜ける。怒った空は意地悪く突風を差し込んでくるが、置き直すだけで済む風もある。置き直す拍は、祖父の親指の力——紙一枚、竹の先一寸。

 昼、神棚の前。仮設の木箱に白紙を貼り、紙垂を四枚、羽根のように垂らしただけの神棚だ。古い鈴の紐を引く若い兵が、声にならない声で何かを言った。言葉の輪郭が喉の内側にだけ立って、外へ出ない。名を呼ぶな、声が泣く——祖母の家の紙片に書かれていた石碑の文言が、不意に静の喉へ移り住む。名は祈りを殺す。祈りは、名を呼ばない。静は名を呼ばない祈りを短く置く。《遺る道》。遺るは、残るでも存るでもない。他者の手と、風の仕事が混じる文字だ。

 神棚の横にくくりつけられた古い破魔矢の羽根が、風に逆らい過ぎず、従い過ぎず、ちょうど中間の角度で揺れる。中間に立つものだけが、長く持つ。羽根の骨は細く、細いもののほうが、礼の重さをよく受ける。静は帽子の庇をすこしだけ下げ、遠くから礼を返した。近づき過ぎない礼。風を妨げない礼。

 昼食の器に盛られた米は粗く、箸の先で簡単に崩れた。崩れる白のほうが、舌の記憶を掴む。隣の席で誰かが冗談を言い、誰かが笑いそこね、笑いそこねた残りが宙に漂う。漂うものは重くなりにくい。重くなりにくいものだけが、午後の号令に間に合う。静は水をひと口飲み、喉の布の角を丸くした。丸い角は、命令の刃を受け流す。

 午後の空は硬く、補給の列は規則正しい乱れを保って機体の尾を回った。油の匂いが濃い。瓶に吸わせることを考え、やめる。匂いは瓶に入らない。入るのは、名ばかりだ。名は確定を連れてくる。確定は、心を折る。心が折れる前に、括弧を空けておく——静は内側で繰り返した。

 夕刻、上官が静を呼んだ。呼ぶ声は、彼の苗字を短く刻む。刻まれた音は、机の角でいったん止まり、紙の白へ染みていく。事務机の上には薄い封筒が二枚、斜めに置かれていた。封筒の紙質は、矢野の死を知らせた紙とよく似ている。紙の手触りが同じだと、言葉の内容が違っても、心は同じ場所に連れていかれる。上官は「明朝」とだけ告げ、封を押し出すように指を退けた。命令は明朝という形で渡された。朝は、遅れて来る夜の裏側だ。

 静は礼をし、部屋を出た。廊下の木は古く、釘の頭がいくつか浅く浮いている。浮いた釘の周囲の木目は汗のように濡れて見えるが、乾いている。乾いていることに救われる。乾いた面は、音がよく通る。靴音が薄くきしみ、窓の黒紙が風で一度だけ鳴った。紙一枚——祖父の親指が教えた幅は、いまも家の幅と同じだけ、胸に貼りついている。

 兵舎へ戻ると、灯りはまだ落ちていないのに、夜の形が先に机の上に置かれていた。瓶の列を再び見直す。《慟哭の空》《捏造》《名を呼ばない祈り》《滑走路の砂》《矢野( )》……。ラベルの白が疲れている。白は疲れると、紙の繊維の奥へ退き、表面の光だけが残る。新しい一本のラベルの白紙を引き寄せ、鉛筆を持つ。迷う。書けば確定が来る。書かないでいると、祈りが濃すぎる液体になって、瓶の外へ溢れる。こぼれた祈りは、床で黒く乾く。黒は重い。重いものは、瓶に入らない。

 彼は白紙に点を一つだけ置いた。点は名ではない。名の手前の息だ。息には角がない。角がないものは、長い。点は小さく、瓶の口の内側でささやかな影をつくる。影は、鳴らない音の層に似ている。層は薄く、増えるたびに軽くなる。軽くなるほど、人の指が要る。祖父の親指は遠く、祖母の湯気は一度しか回らない。回らないことで、家は壊れない。

 消灯。電球が、夜へ沈むのを手伝うように暗くなる。外の風は、貨車の継ぎ目を探して紙一枚ぶんの幅で忍び込み、窓の黒紙の縁を一度だけ震わせた。空の音を聞く。空は夜でも呼吸している。呼吸は、彼の呼吸と干渉する。干渉の拍が一致するとき、眠りが来る。眠りは今夜、遅れて来る。遅れた眠りのほうが、身体に優しい。優しいものは、名を欲しがらない。名を与えられないまま、静は目を閉じた。

 眠りの前庭で、観客席が用意されていた。舞台は空で、幕は開かない。矢野の顔は出ない。出ないことに救われる。出ない夢は礼だ。礼は、生の側に残る。生の側へ残しておけるものは、だんだんと少なくなる。少なくなるほど、点の重さが増す。点は小さい。小さいのに、重い。掌の線に沿って、点の重さが静かに移動し、やがて鳩尾の左で落ち着く。落ち着いたところに、呼吸を置く。置いた呼吸の上で、夜は長くなる。

 明け方の手前、遠いところで犬が一声吠えた。吠えはすぐに途切れ、代わりに釘の頭が木を押し返す小さな音がした。音があるあいだだけ、名は遠い。名が遠いうちに、静は瓶の口を半指ぶん傾け、点の上に薄い風を通した。風は名を軽くする。軽くなれば、人の指で持てる。持てるものだけが、朝に間に合う。

 夜のしじまに、誰かの嗚咽が一度だけ喉に引っかかり、音にならずに消えた。消える前に、静の喉の布がわずかに濡れる。濡れた布の角は、さらに丸くなる。丸い角は、命令の刃から肉を庇う。庇われた肉のほうは、かすかに熱を持つ。熱は祈りではない。祈りは、呼べるまで呼ばない。熱は、生の証拠だ。証拠は、紙に写らない。写らない証拠だけが、朝の点呼で崩れない。

 夜が薄くほどけると、鳥の気配が滑走路の端に落ちた。翼の影は軽く、軽い影ほど、深い。砂は夜の水分を少しだけ抱え込み、靴音を弱くする。弱い音は、長く続く。続く音の上で、静は立ち上がった。ラベルの白に置いた点が、わずかに位置を変え、瓶の口の内側で別の影を作る。影は、行き先を指さない。指さない影のほうが、帰り道を覚える。

 朝の点呼の声は、きのうよりさらに乾いていた。水の気配はなく、白い粉の匂いが増えている。命令は明朝という形で渡されていたが、朝は予定どおりにしか来ない種類の客ではない。来るときは、先に目の奥へ入り、外の色は遅れてついてくる。静の名は、また呼ばれない。呼ばれない名のほうが、次に読み上げられる。順番の問題ではない。風向きの問題——誰かがもういちど、ほとんど聞こえない声で繰り返した。

 読まれない名の隣で、番号がひとつ増え、ひとつ減る。列は短くなるように見え、実際には密度を増す。密度が増すと、風は細くなる。細くなった風は、紙一枚の幅を探す。祖父の親指のざらりが、遠い。遠いのに、触れられる。静は胸の内側でそのざらりを再現し、窓の黒紙を一度だけ押さえた。「紙一枚」。紙が破れない力で、押しすぎないで、押さえる。押さえられた黒が、朝の白を正しい場所へ置く。

 命令が紙のかたちで回り、封筒の角が陽に鈍く光る。光は短い。短い光は、影を長くする。影の端に、瓶の列が並ぶ。《慟哭の空》《捏造》《名を呼ばない祈り》《滑走路の砂》《矢野( )》——そして、白いラベルに点をひとつだけ持つ新しい瓶。点は名ではない。名の手前の息だ。息のほうが、長い。長いものだけが、遺る。遺るは、残るでも存るでもない。他者の手と、風の仕事が混じる文字だ。

 午前の訓練が近づき、機体の腹に掌を置く。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。似ていても、同じではない。同じだと言い切る無神経を、静は持たない。持たないまま、操縦桿に手を置く。握らない。置く。置いた手は、降下の手だ。やめる位置を先に置く手。やめる位置さえ守れれば、火は延びない。火が延びないうちに、今日が始まる。

 整備兵の男が近づいてきて、破魔矢の羽根をちらりと見てから、短く言った。「風、変わっとる」。声は低い。低い声は、空を裂かない。裂かない声は、体の中心に降りる。降りたところに、点がひとつ転がった気がした。転がった点を、静は瓶の内側へそっと戻す。戻せるものは、まだ大丈夫だ。

 「沖田」

 上官が名を呼んだ——ように聞こえた。実際に呼ばれたのは番号だけだった。番号は、名の手前で止まる。止まったところへ、風が入る。入り込んだ風の細さで、今日の距離が決まる。距離は一寸。窓の幅は紙一枚。瓶の口は半指。その三つが揃えば、礼は保たれる。礼さえ保たれているあいだは、命令でも人を壊しきれない。

 静はうなずいた。うなずきは、瓶の外で生きる言葉だ。瓶の中にあるのは、点だけ。点は名ではない。名の手前の息だ。息があるうちは、書かない。書かないことで、遺る。遺る風が、滑走路の端で白い帯を細く揺らし、破魔矢の羽根が中間の角度でそれに応じ、祖父の親指のざらりが胸の内側で「紙一枚」と囁いた。

 点呼が終わる。命令が残る。残った命令の上を、日常の音がもう一度、薄く通り過ぎる。ボルトの転がる音。工具箱の蓋の跳ねる音。遠い犬の鳴き声。竹箒の柄が立てかけ直される音。そのどれにも、名はついていない。名がついていない音だけが、遺る。遺った音の上で、静は操縦席へ歩きながら、胸の中の瓶の列をもう一度だけなぞった。点は、まだ点のままだった。点のままでいることを、今日は礼として受け入れる。受け入れた手は、操縦桿にそっと置かれ、握らないまま、空のほうへ半拍だけ遅れて動いた。遅れは優しさであり、優しさは生存の別名だった。