訓練は、日に日に「拍」を鋭くしていった。黒板の数字はもう数えるためではなく、やめる位置を示すためにある、と教官は言わない。言わないが、静の体は知っている。降下、旋回、再上昇——手順の並びは俳句のように短く、短いぶんだけ一語ごとの呼吸が重くなる。滑走路の端の白線のきわで、静は操縦席へ上がる前に一つだけ礼をして、機体の皮膚に掌を置いた。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。三度目の反芻は、やはり少し可笑しく、可笑しさは救いに似ていた。

 操縦桿に、手を置く。握らない。置く。竹刀を持つときと同じ距離感で。指の腹のどこで風を受け、どこで風を逃すのか。教官は背後で「もっと力を」と言い、肩の一枚上のところで音を張る。命令の声には角があり、角は人の肺に刺さる。刺さるまえに、静は指先の微小な震えを許す。震えは恐怖ではない。礼の余白だ。余白がない礼は、刃になる。刃は音を持たない。音を持たないものは、空の側に長く残る。

 「沖田、引きが浅い。もっと——」

 言葉を最後まで聞かないで、静は一寸だけ引いた。引きすぎない。引かなすぎない。中間のところで、操縦桿は竹刀よりわずかに太く、太いぶんだけ遊びを持つ。遊びは、折れを遅らせる。遅らせられた折れ目は、やがて布の皺のように体に馴染む。翼の端の白布が風向きを示し、破魔矢の羽根に似たその揺れは、祖父の親指の角度を思い出させる。紙一枚。窓の幅。瓶の口、半指。やめる位置は、いつも先に置いてある。

 離陸。滑走。砂の粒度が、今日も違う。違うのに、同じ。同じのに、違う。機体の骨が熱を吸い、車輪が砕石の混ざった地面を短く蹴る。拾い上げられる前の一瞬、胸の内側で「矢—」がはじまる。はじまって、上がらない。半音下げて、喉の布で包む。布の角は、昨夜の涙で丸くなっている。丸い角は、名の刃に刺さらない。刺さらないなら、呼吸は続く。

 空は今日も機嫌が良いふりをして、意地悪く突風を差し込んでくる。怒った空の癖は、上向きの心の裏側をつねるみたいに来る。つねられる前に、静は手を置き直す。握らない。置く。置き直す拍を、体の奥の拍に合わせる。合わせすぎない。半拍、ずらす。ずれたところに、風の逃げ道が生まれる。逃げ道は、礼の別名だ。

 上空で短い旋回。旋回は、道場での間合いの詰めを思わせる。詰めすぎない。詰め足りない。中間の円。見下ろすと、滑走路の砂が糸のような白帯になり、兵舎の屋根の鉄は薄く光り、補給の列が蟻の行列に変わる。列の先頭で、年嵩の整備兵が腕を組み、破魔矢の羽根を見ている。羽根は、風に従いすぎず、逆らいすぎず、ちょうど中間の角度で揺れていた。中間の角度は、降下の手の覚え書きだ。身体のどこかに書かれてしまえば、読み返す必要はなくなる。

 降下。指先に、地面の匂いが戻ってくる。匂いのグラデーションは数字より繊細で、数字より嘘をつかない。着地の一拍前、操縦桿を一寸、引く。引き過ぎない。引かなすぎない。祖父の親指が黒紙の縁を押すのと同じ力加減で。触れたものの形を変えず、こちらの息だけを変える。息を変えれば、地面はやさしい。やさしくない日に備えて、やさしい日にも礼を置いておく。

 接地。短い衝撃。機体の骨が鳴り、静の骨は鳴らないで応える。鳴らない応えのほうが、長く持つ。滑走路を戻ると、整備兵が駆け寄る。油の匂いが強い。金属に触れた指が、乾いた風のなかで鈍く光る。静は瓶を取り出しかけて、やめる。匂いは瓶に入らない。入るのは、名ばかりだ。名は祈りを殺す。祈りは、名を呼ばない。呼べるまで呼ばない。家の礼を、前線の空気に薄く延ばす。

 「沖田、よし」

 整備兵の男が短く言った。「よし」は短い。短いのに、長い。長いのに、軽い。軽いのに、沈む。沈んで、残る。残る声の上で、静はうなずいた。うなずきは、瓶の外だけに置く言葉だ。

 昼。補給の列が滑走路の端で折れ、油缶が陽を呑み、兵たちの爪の奥では砂が小さな鉱床になっている。手を洗う水はぬるく、ぬるい水は罪を責めない。掌の線を親指でなぞると、線と線の谷に砂が残る。砂は畳の粉塵より粗く、粗いものほど記憶に長く残る。粗さは、体の奥に刻まれた拍を粗くしない。粗くなるのは、名だけだ。名は、粗くなるほど早く固まる。固まる前に、括弧は空けておく。

 夕暮れ、滑走路の端で、一人の若い兵が泣いていた。泣き方が下手で、肩から先に崩れる。崩れた肩は、地面のほうへ正しく倒れられず、少し斜めに宙づりになる。宙づりの時間がいちばん長い。静は近づかない。近づかないことが礼だと知っている。代わりに、少し離れた位置で、空に頭を下げる。空は返事をしない。返事のない礼は、世界でいちばん静かだ。静かな場所では、名が生まれにくい。生まれにくい場所を、今日の自分に残す。

 兵の背中の向こうで、破魔矢の羽根がまた中間の角度に戻る。戻るたびに、やめる位置の印が濃くなる。印が濃くなるほど、体は軽くなる。軽くなった体で、静は兵舎へ戻った。夕餉の匂いが薄く漂い、笑いそびれた笑いが宙でふらふらとした。ふらつく笑いは、刃にならない。刃にならない笑いだけが、夜を壊さない。

 その夜、静は矢野の死の知らせを運んだ紙片を取り出し、折りたたんだ。紙は薄く、薄いものほど折り目が立つ。立った折り目を指の腹でやさしく潰し、祖母の紺の布の小片に包む。包む所作が遅い。遅さは、確定を遅らせる。遅らせた確定は、呼吸の間に少しだけ風を通す。風が通るうちは、名は固まらない。固まらない名は、刃になりきれない。刃になりきらないものは、人の側にいる。

 布の上に瓶を置き、口を半指だけ傾ける。呼吸の縁から零れそうなものを、器に入れずに持ち上げる。持ち上げたまま、置かない。置けば、確定が来る。確定は、心を折る。折れた心は、名を呼ぶ。呼ばないために、静は鉛筆を取り、ラベルの白に、ことばにならない線を少しだけ引いた。《矢  野》——二字の間に、わざと大きな空白を残す。空白は痛い。痛みは輪郭をつくる。輪郭ができると、体の内側に地図のような面が現れる。地図は、帰り道のためだけにある。戦場では、地図は往路を描かない。

 瓶のラベルの下に、小さく点を三つ置く。……。止めるための点ではない。風を通すための穴だ。穴の向こうで、鳴らない音の層が梁に一枚増える。増えるたびに軽くなる。その軽さが、眠りの入口を薄く撫でる。

 眠り。夢の前庭で、静は観客席に座る。立ち会わない。書き手でもない。ただの呼吸者。舞台には何も出てこない。幕も上がらない。矢野の顔は出ない。出ないことに、救われる。人の顔は、呼ぶためにある。呼べば、確定が来る。確定は刃物だ。刃物は音を持たない。出ない夢は礼だ。礼は、生の側に残る。生の側に残ったものだけが、朝の番号に間に合う。

 目が覚める直前、道場の梁が見えた。梁の上には、出ない音が薄く積もっている。祖父の親指が黒紙の縁を押し、「紙一枚」と呟く。祖母の湯気が一度だけ回り、面紐の塩が額に触れ、垂の角が正しいところで止まり、胴の軽さが指に乗る。全部が鳴らない。鳴らないものの上で、静はもう一度だけ操縦桿に手を置いた。握らない。置く。それだけを、体に言い聞かせる。

 翌朝、風は少し湿っていた。滑走路の砂は夜の水分を吸い、踏まれる音を出しにくい。音が出にくい朝は、呼吸が楽だ。中隊本部の前で教官が紙束を持ち、数字を読み上げる。数字は名の手前で止まり、名は呼ばれない。呼ばれない名は、瓶の括弧の中で静かに横になる。横たわった名の横に、今日の任務の白が置かれる。白は軽い。軽いものは、持てる。持てるものだけが、空へ上がる。

 実機訓練は、実戦の拍にほとんど重なりはじめた。滑走、離陸、上昇、旋回、降下、再上昇。順番は変えない。変えないことが、礼の最小単位だ。変えないで、内側を薄く変える。薄く変わったものだけが、長く持つ。持続が力に見えるとき、力は余白を欲しがる。余白を、指先の微小な震えに渡す。渡し終えたとき、空の怒りは肩越しに過ぎるだけになる。

 降下。滑走路の端で、破魔矢の羽根がいつもより重たく揺れた。湿りが加わると、羽根は中間の角度へ戻るのに半拍いる。半拍の遅れが、体内の拍と重なる。重なりすぎる前に、静は操縦桿を一寸、引いた。引く位置は、祖父の親指の力。紙一枚。窓の幅。瓶の口は、半指。やめるための印は、今日も先に置いてある。置いてある場所に、まっすぐ降りる。

 接地。衝撃は短く、骨は鳴らない。整備兵の男が手を振り、短い「よし」をまた落とす。落ちた「よし」は砂に刺さらず、薄い波紋を作る。波紋の中央を、風が柔らかく通る。通る風の匂いを瓶に吸わせることを考え、やめる。匂いは瓶に入らない。入るのは、名ばかりだ。名は祈りを殺す。祈りは、呼べるまで呼ばない。

 夕暮れ、補給の列の端で、昨日の若い兵が今度は泣いていなかった。泣かない肩は、正しく地面に重さを渡している。渡す重さの量を、誰も量らない。量られないものは、軽い。軽いものは、長く持つ。長く持つもののそばで、静は空に頭を下げた。返事はない。返事のない礼は、世界でいちばん静かだ。それで足りる夜が、まだある。

 兵舎へ戻る。祖母の紺の布の小片を指の腹で確かめ、矢野の紙片をもう一度だけ包み直す。包み直しは、遅い。遅い所作が、確定をまた遅らせる。遅れた確定の隙間に、風が少しだけ通る。通った風を瓶の口元まで導き、「矢」と「野」の間の空白にそっと触れさせる。空白は痛い。痛みの輪郭が、また少しだけはっきりする。はっきりした輪郭は、地図の線のように細く、細い線は折れにくい。

 消灯。毛布の下で、静は手を開いた。操縦桿の感触が皮膚に残っている。竹刀に似ているくせに、似ていない。似ていないところが、救いだ。救いは、いつも中間の角度で待っている。待たれる前に、静は眠りの前庭に腰を下ろした。観客席。立ち会わない。書き手でもない。ただの呼吸者。舞台は暗いままで、幕は上がらない。矢野の顔は出ない。出ないことに、また救われる。出ない夢は礼だ。礼は、生の側に残る。残った生が、明日の番号を受け取りにいく。

 夜更け、風がテントの継ぎ目を通り抜け、瓶の口の縁を撫でていった。音はしない。鳴らない音だけが、梁の上の層を増やす。増えた層は軽く、軽くなればなるほど、人の指が要る。祖父の親指のざらりが遠くで蘇り、窓の黒紙の「紙一枚」が胸に貼りつく。紙一枚の幅で、眠りと起きるの境が引かれる。その境の上で、静はようやく目を閉じた。

 翌朝。滑走路の砂は昨夜より細かく砕け、踏む足音はさらに薄い。薄い音は、長く続く。続く音の上で、静はまた操縦桿に手を置いた。握らない。置く。置いた手は、やめるための手だ。降下の手。やめる位置を先に置く手。それがいちばん強く、いちばん長い。いちばん長いものだけが、帰り道の地図を覚えている。瓶のラベルの空白は、今日も空のまま。空のほうが重い。その重さは、掌にのる。掌の線に沿って、重さが動く。動く重さを、静は礼として、正しく受け取った。