昼の白さは、砂よりも紙のほうに似ていた。前線の中隊本部の机の上に、白い封筒が束になって置かれ、赤い印が乾いた鉛のような色で固まっている。窓は半分しか開いておらず、木枠の継ぎ目は熱で少し膨らんで、風は紙一枚ぶんの幅でしか入ってこない。入ってきた風は、封筒の角を一度だけ撫でて、すぐに別の隙間へ抜けた。机の端には、剥がれかけの地図が貼られていて、地名の文字の上を人の指が行き来する。指は、汗で少しぬめっていた。ぬめりが紙のざらりを拾い、ざらりは指の腹に移される。移されるたび、紙のほうが軽く見える。

 「次」

 短い声が落ちる。落ちる声は、床板で音を持たずに沈む。沈んだ声の上を、別の靴音が踏む。靴音に砂が混じっていて、砂は銃油の匂いと一緒に靴底の溝から上がってくる。電報の束が小さくずれ、紙の角が光る。光は短い。短い光は、長い影をつくる。影の境目に、静の名が呼ばれた。

 呼ばれる「名」を、静は一拍遅れて拾う。拾い方を間違えると、名は刃になる。刃は音を持たない。だから、遅れて拾う。遅れたぶん、角が丸くなる。丸くなった角は、喉の奥で布といっしょにたわむ。たわんだところから、息が出入りする。息は軽い。軽いものは、落ちない。落ちないものだけが、いまは長く持つ。

 上官が差し出したのは、静宛ではない一枚の複製だった。封はない。紙は薄い。文面は短く、乾いている。乾いた文は、水を弾く。弾いたあとに、皮膚のほうへ染みてくる。《矢野蓮 戦死ノ報》。文字は黒い。黒は重い。重い文字は、静の目の中で鉛の粒になる。粒は重く、視界の底へ落ちる。底に落ちた粒が、砂のようにひとところに集まろうとして、集まらない。集まらないまま、重さだけが広がる。広がった重さの下で、祖母の紺の布の端がゆっくり揺れた。揺れは、風のせいではない。静の呼吸のせいだった。呼吸のほうが、先に揺れた。

 どこかで、茶碗が小さく鳴った。鳴りの短い器の音は、家の音に似る。似ているのに違う。違うことが、いちばんよく似ている。静は紙から目を外し、上官の脇に置かれた砂袋の灰色を見た。灰色には種類がある。海辺で見た雨上がりの灰と、道場の梁に積もった“鳴らない音”の灰と、滑走路の砂に混じる粉の白。この部屋の灰は、紙の白と混ざりたがっている。混ざったところで、音は出ない。

 「……ご苦労。戻ってよし」

 上官の声は、短くすることで長さを持たせようとしていた。短くすると、余白が増える。余白は、重さの居場所になる。静は礼をして、紙を机に戻した。返す指がわずかに震える。震えは止めない。止めれば、別のところで大きくなる。震えを、礼として受けとめる。礼は角度ではなく距離だ。机から一歩離れる距離を、体が正しく知っている。正しく知っていることを、静は恥じなかった。恥じれば、呼吸が折れる。折れた呼吸は、すぐに名を呼ぶ。名は、いま呼ばない。

 兵舎を出る。廊下の板は古く、釘の頭がいくつか浮いている。浮いた釘のまわりの木目は、汗のように濡れて見えるけれど、乾いている。乾いた板を踏むと、砂の粉がきしむ。きしむ音は、道場で竹刀が畳の目を撫でる音に似ていない。似ていないという事実が、静を正気に戻す。似ていない音を、似ているものの箱に入れない。入れた瞬間に、箱が壊れる。壊れた箱の破片で、手を切る。切れた手で、名を呼ぶ。呼ばないために、似せない。

 滑走路の端まで歩く。歩くたび、靴底の形が砂で崩れる。崩れた形は次の歩みで上書きされ、上書きの上から太陽が熱を押しつける。午後の光は硬く、影は短い。短い影のほうが、嘘をつかない。風は横から吹く。横の風は、人を斜めに立たせる。斜めでないと、立てない時刻がある。滑走路の端には、整備兵が立てかけた竹箒が二本、倒れていた。柄は、竹刀より重い。重さのなかで、かつての拍が薄く目を開ける。

 静は瓶を取り出した。祖母の紺の布で巻いた小瓶。ラベルはまだ白い。鉛筆を出し、白の上に、書けない字をゆっくり置く。《矢野( )》括弧は空にしておく。空のほうが重い。重さは、掌にのる。掌の線に沿って、重さが眼に見えない水のように動く。動く重さを、静は礼として受け取った。受け取ることができる重さは、まだ軽い。持てない重さは、名を欲しがる。名を与えれば、確定が硬化する。硬化は、心を折る。折れる前に、括弧を空ける。

 砂の上に、小さな白い羽毛が落ちていた。風で転がり、すぐ止まる。止まるところを、風が忘れる。忘れられた羽毛は、浮かない。浮かないものは、長く居る。長く居るものには、名が要らない。名が要らないから、拾わない。拾ってしまえば、誰の羽か、いつ落ちたのか、どの風が運んだのか——いらない問いが生まれ、いらない答えが重くなる。

 瓶の口を半指だけ傾ける。砂の匂い、油の匂い、鉄の匂いが、順番を決めずに瓶の口の縁へ集まり、集まったまま、入らない。入らないでいる匂いは、長い。長くある匂いのほうが、やさしい。やさしいものには名を与えない。名前は、角をつくる。角は人に刺さる。いまは、刺さるほうを避ける。

 夕刻が近づくと、整備兵たちの声が低くなる。低いつもりの声が、実際には高くなっていることを、本人たちは知らない。低くしたい声は、肩に落ちる。肩に落ちた声は、肩甲骨のあいだで少し跳ねて、そのまま背中へしみる。背中の途中で、声は消える。消えた声のところへ、風が来る。風が来ると、体は楽になる。楽になったところで、静は瓶を布で包み直し、兵舎へ引き返した。

 兵舎の明かりの下で、火にかけた鍋が薄く鳴った。鳴る鍋の音は、家の音に似ている。似ているけれど、塩の匂いが足りない。塩は別の場所にある。別の場所の塩を思い出そうとすると、喉の布が固くなる。固くなると、角が立つ。角を丸くするために、静は水を一口飲んだ。水はぬるい。ぬるい水は、人を責めない。責めない水で、喉の布が少しだけひるがえる。

 周囲の同僚が冗談を言う。冗談は軽い。軽さは、救いだ。救いの手は、毎回、別の方向から伸びてくる。矢野を知らない軽さが、いちどだけ静の肩に触れた。触れた肩が、軽くなる。軽くなったことに罪悪感が立ち上がるまえに、静は自分に命令した。罪悪感を持つな、と。命令は礼ではないが、礼を守るために必要な時もある。命令の声は、静かでなければならない。声が強すぎると、喉の布が裂ける。裂けた布では、明日の番号に間に合わない。

 「なあ、こないだの風、海の匂いしとったな」

 誰かが言う。別の誰かが、「湿地やろ」と笑う。笑いそびれた笑いが残り、宙で薄く揺れて、消える。消えたところに、空気の素が見える。素は透明で、瓶の口の内側と同じ形をしている。そこに名前はない。名前のないところで、人は食べ、眠り、翌朝をもらう。もらった朝には、番号が用意されている。番号の後ろに、名がある。名は、呼ばない。

 消灯。電球は、ゆっくりと夜に沈むように暗くなり、暗くなった灯りの縁で、小さな虫が光を探す。探す虫は、何度も同じところに戻る。戻ることは、悪くない。戻る場所は、紙一枚の幅の窓の内側にある。そこに、名はない。名のないところへ、静は毛布を引き上げて入っていった。

 毛布の下で、拳を開く。掌の皺をなぞる。矢野の面紐の結び目が、そこにあるように感じる。結ばれて、ほどかれて、また結ばれないままの紐。紐は、祈りの線に似ている。祈りは、名を呼ばない。線はどこへも届かなくても、そこに在る。存在のための線。静はその線の傍らに座る。座ることしかできない。その不自由を、彼ははじめて受け入れる。受け入れたら、少し楽になる。楽になると、罪の影が足元へ移動する。移動した影を見ない。見れば、名が生まれる。

 喉の奥で、布が濡れる。濡れると、角が丸くなる。丸くなった角の手触りを確かめているうちに、鼻の奥が塩を思い出す。思い出した塩は、どこにもない塩だ。どこにもない塩の匂いが、涙と間違われる。静は、まつ毛が目に入ったせいだと言い聞かせる。まつ毛は、すぐに抜ける。抜けたものに名はない。名がなければ、確定は来ない。確定が来なければ、折れない。折れないかわりに、長く続く。長く続くものに、人は耐えにくい。耐えにくいものを、礼で薄める。礼は角度ではなく距離だ。距離を、一寸、引く。引いた手前で、泣くのをやめる。やめないと、朝が来ない。

 暗い貨車の壁が、遠い道場の梁に変わる。梁の上には、鳴らない音の層が積もっている。層は薄い。薄いほど、長い。長いほど、軽い。軽いものは、指で持てる。持てるものは、守れる。守れるものがあるうちは、呼ばない。呼べば、落ちる。落ちたものは、鳴る。鳴って、消える。消えたものを拾うのは、やめる。

 それでも、いくつかの音は勝手に立ち上がる。矢野の呼吸。素振りの拍。瓶に貼った白いラベル。括弧の空。駅の旗の繊維。見送りの日の「視線は呼ばない」一秒。面紐の塩のひと粒。祖父の親指のざらり。祖母の湯気の一度。窓の黒紙の紙一枚。滑走路の砂の粒度。機体の腹の冷たさ。全部が、鳴らない。鳴らないものだけが、今は音になる。鳴らない音を、静は聴くふりをした。聴かなかったふりもした。ふたつのふりの中間で、喉に溜まった水が、やさしく痛んだ。

 「泣いちゃダメだ、非国民だ」

 誰の声でもない声が、胸で短く言う。命令は、礼ではない。けれど、ときに礼を守るために必要だ。必要だと決めるのは、自分だ。自分が決めれば、命令は少しやわらぐ。やわらいだ命令は、喉の布の上を滑り、布の角を丸くした。丸くなった角の向こう側で、別の声が言う。「泣いたほうがいい」。どちらも呼ばない。呼べば、確定が硬化する。硬化は、心を折る。

 毛布の内側で、静はこっそり泣いた。音のない泣き方を、子どもの頃に一度だけ覚えた気がする。祖母の前では、泣き顔の角度を正す必要があった。角度が正しいと、涙は礼になる。礼になった涙は、家を荒らさない。今晩の涙は、家のないところで零れ、毛布の繊維に吸われ、すぐに冷える。冷えたところに、呼吸を置く。置いた呼吸の上へ、眠りが来ない。来ない夜は、長い。長い夜は、人を守らない。守らない夜に、静は自分で守りをつくる。瓶の口を頭の上に置く。窓の黒紙を胸の前に貼る。祖父の親指を喉の前に置く。祖母の湯気を額の上に載せる。矢野の面紐の結び目を、掌の中で結ばずに持つ。結ばずに、ほどけたままの紐の線のそばに座る。座ることしか、できない。その不自由を、いまは受け入れる。

 夜が終わらないので、朝が早く来た。起床の号令は、いつもより低いところへ落ちた。落ちた声を拾う前に、静は瓶のラベルに指の腹を置いた。《矢野( )》括弧は空だ。空の括弧は、風を通す。通る風の速さで、心臓の拍を合わせる。合わせすぎない。半拍、ずらす。ずらすことができるうちは、まだ大丈夫だ。

 外へ出ると、滑走路の砂は夜の水分を少しだけ拾っていた。乾いた砂より、湿った砂のほうが音を出しにくい。音が出にくい朝は、呼吸が楽だ。整備兵が羽根のような布切れに手を伸ばし、風向きを読む。布は、風に従いすぎず、逆らいすぎず、ちょうど中間の角度で揺れている。あの角度は、道場で稽古をやめる位置の角度に似ている。似ているが、同じではない。同じだと言い切れる無神経を、静は持たない。持たないで、近くに置いておく。

 午前、砂を均し、午後、機体の下で針金を折り、夕刻、滑走。手順はきのうと同じで、きのうと同じではない。きのうは矢野が地上にいたかもしれない世界で、今日は矢野が地上にいないかもしれない世界だ。かもしれない、の使い方は、瓶のラベルに似ている。括弧を空ける。空けたなかへ、風が入る。入った風は、匂いを持たない。匂いのない風は、長く吹く。

 「お前、顔が白いぞ」

 整備兵の男が、言葉を短く投げた。投げられた言葉の角は丸く、静の肩に当たってそのまま落ちる。落ちた言葉は、砂の上で静止する。動かないものは、やさしい。静はうなずき、顔を洗った。水はぬるい。ぬるい水は、泣いた痕跡を責めない。責めない水で、喉の布がまたひるがえる。ひるがえった布の向こう側で、矢野の笑い方が、短く浮かぶ。浮かんで、すぐ消える。消える速さが、今はちょうどいい。遅いと、名が生まれる。

 昼飯のあと、中隊本部の机の上にはもう封筒の束はなく、代わりに空の皿が積まれていた。皿の白は紙の白とは違って、すぐに油を吸い、吸った油を光らせる。光る皿のほうが、救いになる。救いは、足場だ。足場があれば、瓶を持つ手が震えない。震えない手で、静はラベルの端にもう一行だけ書き足した。《(空ノ括弧ノ重サ)》重さは、名の代わりになる。代わりにすること自体が、祈りではない。祈りは、名を呼ばない。祈りは、呼べるまで呼ばない、という家の礼の別名だ。

 夕刻、空に出る前、静は機体の側面に掌を当てた。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。三度も胸の中で繰り返した言葉は、少しばかり可笑しい。可笑しさは、救いだ。救いの笑いは、音を持たない。音を持たない笑いは、長く体にいる。体にいる笑いの上で、静は砂を蹴り、機体を走らせ、滑走路の端を超え、空へ入った。

 空は、名前のない場所だ。名前のない場所で、静は礼を守る。やめる位置を先に置く。置いた拍へ体を合わせる。合わせすぎない。半拍ずらす。ずれた拍の上で、「矢—」の前で、息を飲む。飲んだ息が、血に散り、筋肉に熱を残す。その熱は、生の証拠だ。証拠は、瓶には入らない。入らないから、長く残る。残った熱が、前線の夜を少しだけ温める。

 降下の前、風向きの布が地上で揺れ、羽根の角度が祖父の親指の角度に似る。似ているものが、時間の中で別々の名前を持つ。別々の名前を、いまは呼ばない。呼べるまで呼ばない。呼ばないで、降りる。接地。短い衝撃。機体の骨が鳴り、静の骨が鳴らないで応える。応えた骨のほうが、長く持つ。長く持つものは、帰り道を知っている。帰り道を知るものだけが、夜に眠れる。

 夜。兵舎の灯りの下、同僚の冗談はきのうと同じ軽さで流れ、笑いは刃にならず、静の肩にゆっくり降りた。降りた軽さに救われる。救われたことに罪悪感を抱かないように、静はもう一度、自分に命令した。命令は礼ではないが、礼を守るために必要だ。必要であるかぎり、命令は短く、柔らかく、角を持たない声で、胸の中にだけ置かれる。

 消灯後、毛布の下で、静はもう一度拳を開いた。矢野の面紐の結び目は、今夜も結ばれない。結ばれないことが、いまは救いだ。結んだものは、ほどく手順を欲しがる。ほどく手順は、記憶の中で逆再生され、余計な音を立てる。音は、鳴らないほうがいい。鳴らない音だけが、梁の上の層になる。層は、薄い。薄いほど、長い。長いほど、軽い。軽いものは、指で持てる。指で持てるものだけが、この夜を越える。

 眠らないまま、夜が明けた。沖田静は、その夜、一睡もできなかった。できないことに、名は必要ない。できない夜を、瓶の口が半指だけ傾いた姿勢で、最後まで見ていた。見ていたふりをして、見ていなかったふりもした。ふたつのふりの中間で、静はようやく息を長く吐いた。吐いた息が、喉の布の角をさらに丸くした。丸くなった角の向こう側で、電報の紙の白が、遠い天井の裏でひとつ、薄く崩れた気がした。

 朝の点呼で番号が呼ばれる。返す声は短く、低い。低さの中に、半音の余白がある。余白は、風の通り道だ。通り道さえ守れれば、火は延びない。延びないうちに、今日が始まる。今日の砂はきのうと違う。違うのに、同じ。同じのに、違う。その二つの間に、括弧がある。括弧の中は空だ。空のほうが重い。重さは、掌にのる。掌の線に沿って、重さが動く。動く重さを、静は礼として受け取った。

 中隊本部の机の上に、きょうは封筒がない。代わりに、地図の端が新しく貼り直されていた。誰かの指の腹のざらりが、糊の上に残っている。ざらりは、祖父の親指のざらりに似ていた。紙一枚。竹の先、一寸。窓の幅。瓶の口の傾き。面紐の塩。湯気の一度。梁の上の“鳴らない音”——すべてが、まだここに居る。居るものに、名は要らない。名を与えれば、確定が来る。確定は、刃物だ。刃物は、音を持たない。

 静は机の端で短く礼をし、滑走路へ向かった。砂は音を出さず、靴底の形を崩し、崩れた形をすぐ上書きする。上書きの上に、朝の光が薄く置かれる。置かれた光の端で、風がまた、紙一枚ぶんの幅で、通り過ぎた。通り過ぎる風の匂いから、矢野の生の匂いは抜けていた。抜けたあとの輪郭は、逆に濃かった。濃くて、重い。重さは、掌にのる。掌にのせて、歩く。歩きながら、瓶のラベルの白に、静は指で触れた。《矢野( )》括弧は空のまま。空のほうが重い。その重さの形が、ようやく掌の線に馴染みはじめる。

 前線の風は、名を持たない。名を持たない風が、今日も砂を撫で、紙の角を揺らし、木枠の継ぎ目を膨らませ、窓を半指だけ勝手に開けた。開いた隙間から入ってきたものに、静は名前を与えない。与えないまま、指の腹に残ったざらりで、瓶の口をそっと押さえる。押さえすぎない。押さなすぎない。中間の力。それが、いまの彼に残された、ただひとつの礼だった。