前線の滑走路には、名がなかった。地図の符号では等間の線として描かれ、上官はその線を指でなぞって「ここ」と呼んだ。呼ばれても、地面は頷かない。砂と砕石の混合が、踏まれるたびに靴底の形を崩し、崩した形を次の足が上書きし、上書きの上から太陽が熱を押しつける。昼の匂いは、鉄の残り香よりも砂の乾いた癖が勝っていた。砂は歯の間に入り、唇の縁を白くし、指の腹の線に入り込んで、いつまでも出ていこうとしない。
静は、整備兵に混じって砂を均した。竹箒の柄は竹刀よりも重い。重いが、重さの中にかつての拍が潜んでいた。箒は押して使うより引いたほうが砂の粒がそろう。引く拍と、心を半歩退ける拍を一致させる。退け過ぎないこと。退け足りないこと。中間の拍。箒の先は砂の上を音もなく走り、走り終えたところに浅い光の筋が残る。筋の向こうで、整備兵の男が「そこ」と短く言った。短い声は、影を増やす。影の増えた場所のほうが、砂はおとなしくなる。
機体の腹に触れると、金属の冷たさが皮膚に浸み、手の内の汗はすぐ蒸発した。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。命令が近くにあると、体は勝手にやめる位置を探しはじめる。昔、祖父が窓の黒紙の縁を押すときに使っていた親指の力。紙一枚。竹刀の先、一寸。その小ささの中に、火は来られない。来させない。それと同じやり方で、静は機体の縁を撫で、撫ですぎないときの皮膚の温度を記憶へ押しつけた。
上官が名を呼んだ。ここでは姓のほうが前に来る。姓は音の角が短く、短い角は命令に向く。静は「はい」と答えた。矢野の「はい」に似すぎないように、半音下げて。礼は模倣ではない。隣り合うことだ。隣り合いながら、間に風を通すこと。返事の音の低さに、喉の布切れがすこしなじむ。布の角は、昨日より丸かった。
昨日までの訓練で、彼は機体の諸元を暗記した。翼面積、エンジンの出力、燃料の搭載量、離着陸の速度、揚力係数の簡単な数字。暗記は礼の一種だが、祈りではない。祈りは、名を呼ばない。暗記は、名前に寄る。寄り過ぎると、角が立つ。角は、刃になる。刃は、音を持たない。音を持たないものには、やめる位置の印で応じる。暗記した数列の端に、目に見えない拍の印を置く。それでやっと、数字は道具になる。
砂を均す列の向こうで、年嵩の整備兵が破魔矢の羽根を思わせる白い布切れを機体の端に結んでいた。風向き指示のためだという。布は風に逆らいすぎず、従いすぎず、ちょうど中間の角度で揺れている。あの角度は、のちに降下の姿勢を決めるとき、体が勝手に参照することになる。体が先に見たものが、機械を通して別の名前に変わる。名前に変える前に、礼の側へ写し取っておく。
午前は砂、午後は機体の下で針金を曲げ、簡易の修理に手を貸した。針金は思ったより意思を持つ。曲げ過ぎれば反発し、弱い力で少しずつ折り目を増やしていけば、いつの間にか意図した形に近寄ってくる。竹刀の手の内に似ている。握りしめるのではなく、指の中で何度もやわらかく置き直す。置き直すたびに、拍は細かくなり、細かくなった拍が、息の乱れを拾う。
昼、休息。兵舎脇の簡易水場で手を洗う。水はぬるい。ぬるい水が、砂の粉を充分には流さない。指の間に残るざらりが、皮膚の地図を勝手に書き換える。掌の線を眺めると、線と線の谷に砂が入っている。砂は矢野と振った竹刀の拍を思い出す畳の粉塵より粗く、荒いものほど記憶に長く残る。粗さは、無造作に見えて、それ自体が拍を持っている。拍の粗さを数えるように、静は瓶を取り出した。ラベルの端に鉛筆で小さく書き足す。《滑走路の砂(呼吸の粒度)》括弧の内側には何も入れない。ただ表題の下に点を三つ置いた。点は止めるためではなく、風を通すための穴だ……。三点の穴から漏れた白の記憶が、瓶の口の内側へ薄く貼りつく。貼りついた薄さは、見えない。見えないもののほうが、長く持つ。
整備兵の男が近づいてきて、洗槽の縁で指の砂を落としながら、「お前は返事の音がええ」と言った。褒め言葉ではない。器に収まる音だ、という意味だと静は受け取る。器から溢れない声は、ここでは命の長さを増す。声を増やすのではない。溢れない器を選ぶのだ。「矢野」という名は、喉の奥で半音上がろうとした。上がる前に、静は布を撫でる。喉の布は、今日も裂けていない。
午後の陽は濃く、滑走路の端に立つ影が、織物のほつれのように揺れていた。遠くで機関音が連なって、同じ音が少しずつずれている。ずれがある音は、長く続く。ぴたりと合う音は、折れやすい。音と音の隙間に、砂の粒が入り、白い熱が噛む。噛む白を、瓶の口で止めるふりをして、止めない。止めない白が、空へ帰るのを見送る。
夕刻、初めての短時間実機搭乗の命が下った。命という言い方が、この場所では似合い過ぎる。似合い過ぎるものを、静は少しだけ低く受け取る。低く受け取ると、角が丸くなり、角の丸さに息が触れて、喉の奥の布がたわむ。たわんだ布は、声の刃から肉を庇う。
機体の側面に掌を当てる。空に対して礼をするみたいに。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る——さっきもそう思ったはずなのに、ここでは同じ言葉が、少し違って聴こえる。掌の下の金属は、名を欲しがらない。名を与えると重くなるからだ。重くなれば、空が嫌がる。空は、軽いものを好む。軽さは通り道だ。通り道の両側に、風の白い手が見える気がした。
座席は硬く、背中の骨を二本選んで押した。押された二本の間に呼吸を降ろし、レバーの遊びを指の内側で測る。遊びは短い。短い遊びを、延ばさない。延ばせば、戻らない。戻らないことが、ここでは最も危険だ。祖父の言った「やめるための拍」は、空でも同じ顔をしていた。小さな揺れの前に、先に終わりの位置を置く。それだけで、体は勝手にそこへ行く。
滑走。砂と砕石の混合が、機体の下で掻かれ、裾のほうへ押しやられていく。押しやられる砂が、靴底の形を次々に上書きする。上書きの上へ、機体の影が短く走る。身体が空に拾い上げられる寸前、静の喉に叫びが上がりかけた。その叫びは名を呼ばない。「矢—」の前で、息を飲み込む。飲み込んだ息は、血の中に散り、筋肉のどこかに熱を残す。熱は、証拠だ。生の証拠は、音ではなく温度で残る。温度は、瓶には封じられない。封じようとすれば、割れる。
揚力は、数字で覚えたものと違う顔をしていた。数字の角が削れ、風の柔らかい側面が指に触れ、触れた場所がすぐに遠ざかる。遠ざかりながら、体は少し遅れてそこへ戻り、戻ったところでまた別の風に拾われる。拾い上げられるたび、喉の布が薄く鳴った。鳴らないはずの布が鳴った気がして、静は笑いそうになった。笑いは礼の別名だ。礼は、空にもある。
短い周回と降下。羽根に結ばれた白い布切れが、地上で見たのと同じ角度で揺れている。うまく降りようとする気持ちと、強く降りるしかない事情は、しばしば隣に立つ。隣に立つ二つを、同じ拍へ連れていくのが礼だ。静は一度だけ目を閉じ、祖父の親指を思い出した。黒紙の縁。紙一枚。窓の幅。空気の通り道。半指だけ傾いた瓶の口。すべてが、同じ側へ揃う。揃いすぎない程度に。
地面の匂いが戻ってきた。砂の粗さが、機体の下で急に現実になる。現実は丁寧だ。丁寧であることが、体を救う。接地。短い衝撃。機体の骨が鳴る。鳴ったあと、静は自分の骨がひとつ増えたような気がした。増えた骨は、名を欲しがらない。欲しがるのは、汗の塩のほうだ。額の端に古い塩がひと粒だけ現れ、指で触れる前に、乾いて、戻る。
滑走路の端に停められてから、静は機体の腹にもう一度掌を当てた。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ——同じ文を三度も胸で繰り返して、静は面白くなる。三度目の文は、少しだけ低い。低くなったぶん、喉の布がひるがえる。ひるがえった布は、声を巻き込まず、こっそり静の内側だけを撫でる。
「どうだった」
整備兵の男が、エンジンの蓋に肘を置いて言う。静は、うなずいた。うなずきには、角がない。角のない返事で充分な問いだったからだ。男は「砂が柔い」と続けた。「柔いと、早う上がる。上がったように見えて、足が残る」。男の言う「足」は機体の姿勢の隠語でもあり、人の心の残りのことでもあるのだろう。残るものを持ったまま飛ぶのは重い。重さに名前をつければ、さらに寄りかかる。寄りかからないために、ラベルの括弧は空けておく。
テントに帰る前、兵舎の脇の簡易水場でまた指を洗う。水はまだぬるい。砂はなかなか出ていかない。出ていかない砂のざらりを、静は今夜の瓶へ持ち込まないと決めた。ざらりは皮膚の知恵だからだ。皮膚に任せる。瓶は、空のままそこにいる。空であることが、記録の姿だ。所有に似た封じを、今夜はやめる。封じた瞬間に、音が生まれる。音のないものは長く、音のあるものは短い。その短さに耐えられない夜もある。今夜は、耐えられないほうの夜だ。
夕方の光が、テントの布の縁に細く集まり、縫い目に沿って白い線を作った。線は、程なく消えた。消えたとき、風が変わった。昼の風は乾いていた。夜の風は、水の匂いを連れてくる。遠くの海か、湿地か、あるいは見たことのない沼か。匂いは瓶の口を呼んだが、静は呼ばれたふりをしただけで、瓶に触れなかった。触れたときに、匂いが名前へ変わるのを恐れた。名前を与えれば、確定が来る。確定は刃物だ。刃物は、音を持たない。
テントの外で、誰かが咳払いをし、誰かが笑いそこね、笑いそこねた残りが宙に漂った。漂うものは、重くなりにくい。重くなりにくいものだけが、ここでは長くいる。鳴らない音の層が、また一枚、薄く増えた。増えるたびに軽くなるあの不思議。軽くなるほど、人の指が要る。祖父の親指のざらりが、遠い。遠いのに、触れられる。触れない指を作る方法を、静はまだ体に持っていた。
その夜、明かりが落ち、木枠の継ぎ目が膨らみ、窓が少しだけ勝手に開いた。風が入る。瓶は鳴らない。鳴らさない。鳴らないまま、空の重さが増す。空の重さを両手で支えるふりをして、静は目を閉じる。目を閉じる直前、滑走路の砂の白が、瞼の裏で細かい雪のように降った。降る雪は、熱を持っていた。熱のある雪は、地上では見ない。見ないものを体に置き、置いたまま眠る。眠りは訓練の延長であり、礼の延長でもある。夢はまだ来ない。来ない夜は、彼を守る。
起床の号令の前に目が覚め、静はテントの布の端を指でつまんだ。布は冷たく、冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。三度目の反芻を笑い、笑いの端を瓶の口の内側に引っかける。引っかかった笑いは、音を持たない。音を持たない笑いは、長い。長い笑いの上で、朝の番号が始まる。
砂は、踏まれるたびに形を崩す。崩された形は、すぐ上書きされる。上書きされた上から、太陽が熱を押しつける。押しつけられた熱は、夕方になると静かに剝がれていく。剝がれた熱の薄い膜が、滑走路の端で丸まり、風に乗ってどこかへいく。そのどこかへ、名前はない。名前のない場所へ、瓶は行けない。行けない瓶は、ここに残る。残ることが、記録だ。残って、何もしない。何もしないのが、いちばん難しい。
昼、再び砂を均す。整備兵の男が「踏むと消えるもんほど、よく残る」と言った。意味はわからない。わからないのに、わかる。足跡は消える。消えるが、消えたことの重さが残る。残るものは、名を欲しがる。欲しがる前に、括弧を空けておく。空けておけば、風が通る。風が通るうちは、機械も人も、長く持つ。
短い休憩の間、静は瓶のラベルを指の腹で撫でた。《滑走路の砂(呼吸の粒度)》の下に置いた三つの点は、鉛筆の芯の粉を薄くまとい、ほとんど見えなかった。見えない穴から、風が出入りする。出入りする音は、聞こえない。聞こえない音だけが、体の側の記録になる。記録は、祈りではない。祈りは、名を呼ばない。記録は、名を先に空けておく。
夕方、空の端から雲が崩れ落ち、湿った匂いが前線の裂け目のようなところから漏れ出してきた。砂はまだ乾いている。乾いているのに、指の腹のざらりに水の気配が混じる。混じり合うものは、名を欲しがらない。同じ器の中で、しずかに横に並ぶ。並ぶための距離を、礼が測る。測った距離は、一寸。窓の幅は、紙一枚。瓶の口は、半指だけ傾く。
夜、テントの外で風が変わる。昼の風は乾いていたのに、夜の風は水の匂いを連れてくる。遠くの海の匂いか、湿地か。静はその変化を瓶に封じようとして、やめた。封じることは所有に似る。所有は、祈りから遠い。瓶は空のまま、そこにある。そこにあることが、記録だ。瓶はものを集める器ではなく、風が通る穴だ。穴の形を守るために、今夜は何も入れない。入れないで、やめる位置だけを、その縁に印しておく。
静は毛布を肩まで引き上げ、喉の布の角を確かめた。角は、今朝よりさらに丸かった。丸い角は、名の刃に刺さらない。刺さらないことが、ここでの救いだ。名は、呼べるまで呼ばない。呼ばないことが、礼だ。礼は、角度ではなく距離だ。距離を一寸、引く。引いた手前で、風が替わる。替わる風が、眠りの入口でしばらく立ち止まり、名を持たないまま、テントの奥へ入っていった。
鳴らない音の層は、その上にもう一枚、そっと増えた。増えるたびに軽くなるあの不思議を、静は幾度目か数えかけ、数えないでやめた。やめたところに、眠りがあった。眠りは、訓練の延長であり、礼の延長でもある。夢は、まだ来ない。来ない夜は、まだ彼を守っていた。
静は、整備兵に混じって砂を均した。竹箒の柄は竹刀よりも重い。重いが、重さの中にかつての拍が潜んでいた。箒は押して使うより引いたほうが砂の粒がそろう。引く拍と、心を半歩退ける拍を一致させる。退け過ぎないこと。退け足りないこと。中間の拍。箒の先は砂の上を音もなく走り、走り終えたところに浅い光の筋が残る。筋の向こうで、整備兵の男が「そこ」と短く言った。短い声は、影を増やす。影の増えた場所のほうが、砂はおとなしくなる。
機体の腹に触れると、金属の冷たさが皮膚に浸み、手の内の汗はすぐ蒸発した。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。命令が近くにあると、体は勝手にやめる位置を探しはじめる。昔、祖父が窓の黒紙の縁を押すときに使っていた親指の力。紙一枚。竹刀の先、一寸。その小ささの中に、火は来られない。来させない。それと同じやり方で、静は機体の縁を撫で、撫ですぎないときの皮膚の温度を記憶へ押しつけた。
上官が名を呼んだ。ここでは姓のほうが前に来る。姓は音の角が短く、短い角は命令に向く。静は「はい」と答えた。矢野の「はい」に似すぎないように、半音下げて。礼は模倣ではない。隣り合うことだ。隣り合いながら、間に風を通すこと。返事の音の低さに、喉の布切れがすこしなじむ。布の角は、昨日より丸かった。
昨日までの訓練で、彼は機体の諸元を暗記した。翼面積、エンジンの出力、燃料の搭載量、離着陸の速度、揚力係数の簡単な数字。暗記は礼の一種だが、祈りではない。祈りは、名を呼ばない。暗記は、名前に寄る。寄り過ぎると、角が立つ。角は、刃になる。刃は、音を持たない。音を持たないものには、やめる位置の印で応じる。暗記した数列の端に、目に見えない拍の印を置く。それでやっと、数字は道具になる。
砂を均す列の向こうで、年嵩の整備兵が破魔矢の羽根を思わせる白い布切れを機体の端に結んでいた。風向き指示のためだという。布は風に逆らいすぎず、従いすぎず、ちょうど中間の角度で揺れている。あの角度は、のちに降下の姿勢を決めるとき、体が勝手に参照することになる。体が先に見たものが、機械を通して別の名前に変わる。名前に変える前に、礼の側へ写し取っておく。
午前は砂、午後は機体の下で針金を曲げ、簡易の修理に手を貸した。針金は思ったより意思を持つ。曲げ過ぎれば反発し、弱い力で少しずつ折り目を増やしていけば、いつの間にか意図した形に近寄ってくる。竹刀の手の内に似ている。握りしめるのではなく、指の中で何度もやわらかく置き直す。置き直すたびに、拍は細かくなり、細かくなった拍が、息の乱れを拾う。
昼、休息。兵舎脇の簡易水場で手を洗う。水はぬるい。ぬるい水が、砂の粉を充分には流さない。指の間に残るざらりが、皮膚の地図を勝手に書き換える。掌の線を眺めると、線と線の谷に砂が入っている。砂は矢野と振った竹刀の拍を思い出す畳の粉塵より粗く、荒いものほど記憶に長く残る。粗さは、無造作に見えて、それ自体が拍を持っている。拍の粗さを数えるように、静は瓶を取り出した。ラベルの端に鉛筆で小さく書き足す。《滑走路の砂(呼吸の粒度)》括弧の内側には何も入れない。ただ表題の下に点を三つ置いた。点は止めるためではなく、風を通すための穴だ……。三点の穴から漏れた白の記憶が、瓶の口の内側へ薄く貼りつく。貼りついた薄さは、見えない。見えないもののほうが、長く持つ。
整備兵の男が近づいてきて、洗槽の縁で指の砂を落としながら、「お前は返事の音がええ」と言った。褒め言葉ではない。器に収まる音だ、という意味だと静は受け取る。器から溢れない声は、ここでは命の長さを増す。声を増やすのではない。溢れない器を選ぶのだ。「矢野」という名は、喉の奥で半音上がろうとした。上がる前に、静は布を撫でる。喉の布は、今日も裂けていない。
午後の陽は濃く、滑走路の端に立つ影が、織物のほつれのように揺れていた。遠くで機関音が連なって、同じ音が少しずつずれている。ずれがある音は、長く続く。ぴたりと合う音は、折れやすい。音と音の隙間に、砂の粒が入り、白い熱が噛む。噛む白を、瓶の口で止めるふりをして、止めない。止めない白が、空へ帰るのを見送る。
夕刻、初めての短時間実機搭乗の命が下った。命という言い方が、この場所では似合い過ぎる。似合い過ぎるものを、静は少しだけ低く受け取る。低く受け取ると、角が丸くなり、角の丸さに息が触れて、喉の奥の布がたわむ。たわんだ布は、声の刃から肉を庇う。
機体の側面に掌を当てる。空に対して礼をするみたいに。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る——さっきもそう思ったはずなのに、ここでは同じ言葉が、少し違って聴こえる。掌の下の金属は、名を欲しがらない。名を与えると重くなるからだ。重くなれば、空が嫌がる。空は、軽いものを好む。軽さは通り道だ。通り道の両側に、風の白い手が見える気がした。
座席は硬く、背中の骨を二本選んで押した。押された二本の間に呼吸を降ろし、レバーの遊びを指の内側で測る。遊びは短い。短い遊びを、延ばさない。延ばせば、戻らない。戻らないことが、ここでは最も危険だ。祖父の言った「やめるための拍」は、空でも同じ顔をしていた。小さな揺れの前に、先に終わりの位置を置く。それだけで、体は勝手にそこへ行く。
滑走。砂と砕石の混合が、機体の下で掻かれ、裾のほうへ押しやられていく。押しやられる砂が、靴底の形を次々に上書きする。上書きの上へ、機体の影が短く走る。身体が空に拾い上げられる寸前、静の喉に叫びが上がりかけた。その叫びは名を呼ばない。「矢—」の前で、息を飲み込む。飲み込んだ息は、血の中に散り、筋肉のどこかに熱を残す。熱は、証拠だ。生の証拠は、音ではなく温度で残る。温度は、瓶には封じられない。封じようとすれば、割れる。
揚力は、数字で覚えたものと違う顔をしていた。数字の角が削れ、風の柔らかい側面が指に触れ、触れた場所がすぐに遠ざかる。遠ざかりながら、体は少し遅れてそこへ戻り、戻ったところでまた別の風に拾われる。拾い上げられるたび、喉の布が薄く鳴った。鳴らないはずの布が鳴った気がして、静は笑いそうになった。笑いは礼の別名だ。礼は、空にもある。
短い周回と降下。羽根に結ばれた白い布切れが、地上で見たのと同じ角度で揺れている。うまく降りようとする気持ちと、強く降りるしかない事情は、しばしば隣に立つ。隣に立つ二つを、同じ拍へ連れていくのが礼だ。静は一度だけ目を閉じ、祖父の親指を思い出した。黒紙の縁。紙一枚。窓の幅。空気の通り道。半指だけ傾いた瓶の口。すべてが、同じ側へ揃う。揃いすぎない程度に。
地面の匂いが戻ってきた。砂の粗さが、機体の下で急に現実になる。現実は丁寧だ。丁寧であることが、体を救う。接地。短い衝撃。機体の骨が鳴る。鳴ったあと、静は自分の骨がひとつ増えたような気がした。増えた骨は、名を欲しがらない。欲しがるのは、汗の塩のほうだ。額の端に古い塩がひと粒だけ現れ、指で触れる前に、乾いて、戻る。
滑走路の端に停められてから、静は機体の腹にもう一度掌を当てた。冷たい。冷たさは現実だ。現実は丁寧だ——同じ文を三度も胸で繰り返して、静は面白くなる。三度目の文は、少しだけ低い。低くなったぶん、喉の布がひるがえる。ひるがえった布は、声を巻き込まず、こっそり静の内側だけを撫でる。
「どうだった」
整備兵の男が、エンジンの蓋に肘を置いて言う。静は、うなずいた。うなずきには、角がない。角のない返事で充分な問いだったからだ。男は「砂が柔い」と続けた。「柔いと、早う上がる。上がったように見えて、足が残る」。男の言う「足」は機体の姿勢の隠語でもあり、人の心の残りのことでもあるのだろう。残るものを持ったまま飛ぶのは重い。重さに名前をつければ、さらに寄りかかる。寄りかからないために、ラベルの括弧は空けておく。
テントに帰る前、兵舎の脇の簡易水場でまた指を洗う。水はまだぬるい。砂はなかなか出ていかない。出ていかない砂のざらりを、静は今夜の瓶へ持ち込まないと決めた。ざらりは皮膚の知恵だからだ。皮膚に任せる。瓶は、空のままそこにいる。空であることが、記録の姿だ。所有に似た封じを、今夜はやめる。封じた瞬間に、音が生まれる。音のないものは長く、音のあるものは短い。その短さに耐えられない夜もある。今夜は、耐えられないほうの夜だ。
夕方の光が、テントの布の縁に細く集まり、縫い目に沿って白い線を作った。線は、程なく消えた。消えたとき、風が変わった。昼の風は乾いていた。夜の風は、水の匂いを連れてくる。遠くの海か、湿地か、あるいは見たことのない沼か。匂いは瓶の口を呼んだが、静は呼ばれたふりをしただけで、瓶に触れなかった。触れたときに、匂いが名前へ変わるのを恐れた。名前を与えれば、確定が来る。確定は刃物だ。刃物は、音を持たない。
テントの外で、誰かが咳払いをし、誰かが笑いそこね、笑いそこねた残りが宙に漂った。漂うものは、重くなりにくい。重くなりにくいものだけが、ここでは長くいる。鳴らない音の層が、また一枚、薄く増えた。増えるたびに軽くなるあの不思議。軽くなるほど、人の指が要る。祖父の親指のざらりが、遠い。遠いのに、触れられる。触れない指を作る方法を、静はまだ体に持っていた。
その夜、明かりが落ち、木枠の継ぎ目が膨らみ、窓が少しだけ勝手に開いた。風が入る。瓶は鳴らない。鳴らさない。鳴らないまま、空の重さが増す。空の重さを両手で支えるふりをして、静は目を閉じる。目を閉じる直前、滑走路の砂の白が、瞼の裏で細かい雪のように降った。降る雪は、熱を持っていた。熱のある雪は、地上では見ない。見ないものを体に置き、置いたまま眠る。眠りは訓練の延長であり、礼の延長でもある。夢はまだ来ない。来ない夜は、彼を守る。
起床の号令の前に目が覚め、静はテントの布の端を指でつまんだ。布は冷たく、冷たさは現実だ。現実は丁寧だ。丁寧さは、ときに命令の口調に似る。三度目の反芻を笑い、笑いの端を瓶の口の内側に引っかける。引っかかった笑いは、音を持たない。音を持たない笑いは、長い。長い笑いの上で、朝の番号が始まる。
砂は、踏まれるたびに形を崩す。崩された形は、すぐ上書きされる。上書きされた上から、太陽が熱を押しつける。押しつけられた熱は、夕方になると静かに剝がれていく。剝がれた熱の薄い膜が、滑走路の端で丸まり、風に乗ってどこかへいく。そのどこかへ、名前はない。名前のない場所へ、瓶は行けない。行けない瓶は、ここに残る。残ることが、記録だ。残って、何もしない。何もしないのが、いちばん難しい。
昼、再び砂を均す。整備兵の男が「踏むと消えるもんほど、よく残る」と言った。意味はわからない。わからないのに、わかる。足跡は消える。消えるが、消えたことの重さが残る。残るものは、名を欲しがる。欲しがる前に、括弧を空けておく。空けておけば、風が通る。風が通るうちは、機械も人も、長く持つ。
短い休憩の間、静は瓶のラベルを指の腹で撫でた。《滑走路の砂(呼吸の粒度)》の下に置いた三つの点は、鉛筆の芯の粉を薄くまとい、ほとんど見えなかった。見えない穴から、風が出入りする。出入りする音は、聞こえない。聞こえない音だけが、体の側の記録になる。記録は、祈りではない。祈りは、名を呼ばない。記録は、名を先に空けておく。
夕方、空の端から雲が崩れ落ち、湿った匂いが前線の裂け目のようなところから漏れ出してきた。砂はまだ乾いている。乾いているのに、指の腹のざらりに水の気配が混じる。混じり合うものは、名を欲しがらない。同じ器の中で、しずかに横に並ぶ。並ぶための距離を、礼が測る。測った距離は、一寸。窓の幅は、紙一枚。瓶の口は、半指だけ傾く。
夜、テントの外で風が変わる。昼の風は乾いていたのに、夜の風は水の匂いを連れてくる。遠くの海の匂いか、湿地か。静はその変化を瓶に封じようとして、やめた。封じることは所有に似る。所有は、祈りから遠い。瓶は空のまま、そこにある。そこにあることが、記録だ。瓶はものを集める器ではなく、風が通る穴だ。穴の形を守るために、今夜は何も入れない。入れないで、やめる位置だけを、その縁に印しておく。
静は毛布を肩まで引き上げ、喉の布の角を確かめた。角は、今朝よりさらに丸かった。丸い角は、名の刃に刺さらない。刺さらないことが、ここでの救いだ。名は、呼べるまで呼ばない。呼ばないことが、礼だ。礼は、角度ではなく距離だ。距離を一寸、引く。引いた手前で、風が替わる。替わる風が、眠りの入口でしばらく立ち止まり、名を持たないまま、テントの奥へ入っていった。
鳴らない音の層は、その上にもう一枚、そっと増えた。増えるたびに軽くなるあの不思議を、静は幾度目か数えかけ、数えないでやめた。やめたところに、眠りがあった。眠りは、訓練の延長であり、礼の延長でもある。夢は、まだ来ない。来ない夜は、まだ彼を守っていた。



