貨車を改造した移動隊舎は、昼間より夜のほうが鉄の匂いが強い。熱が引くときにだけ出る金属の甘い臭気が、木枠の継ぎ目から薄く立ち、鼻の内側に残る。暗くなるにつれて木は吸い込んだ湿気を膨らませ、釘の周囲に小さな隙間を作る。その隙間が、風のための口になる。夜半、どこからともなく風が差し込み、窓がひとりでに半指ぶん開く。誰も触れていないのに、古い戸締りが小さく鳴って止まる。鳴るものと、鳴らないものが交互に置かれている夜は、たいてい長い。

 沖田静は新兵の列のいちばん端に寝かされ、支給された薄い毛布を胸の上まで引き上げた。寝息は揃わない。揃わない呼吸が、天井のリベットにぶつかって跳ね返り、貨車の壁の木目に吸われ、また戻ってくる。戻ってくるたび、呼吸は少し形を変え、別の人間の息と重なりもしないまま横を通り過ぎる。名前は呼ばれない。呼べば、ここにいるという確定が生まれ、確定は翌朝の点呼で剥がされる。剥がされた名前は、鉄の床で薄く滑る。滑る音が消えたところに、風が入る。

 静は祖母の紺の布から切り取った小片を掌の中に忍ばせ、その上に小さな空の瓶の口をそっと重ねた。毛布の下、誰にも見えないところで、瓶は鳴らない。鳴らないが、鉄の匂いを吸う。吸った匂いを、瓶の内側の目に見えない膜へゆっくり塗りつけていく。駅のホームの粉、道場の梁に積もった“出ない音”、窓の黒紙、祖父の親指のざらり、矢野の面紐の塩——それらと同じ層が、ここにも作られなければならない。

 彼は瓶のラベルの端に鉛筆で小さく書く。《移動隊舎の夜( )》括弧は空けておく。空だから、風が通る。名は、呼べるまで呼ばない。紙を開ければ、そこに音の代わりをしてくれる白がある。白は軽い。軽いものを重くするのは、置いていく側の手のひらの温度だ。

 昼間の訓練は、竹刀ではなく銃と操縦手順に置き換わった。置き換わった、というより、取り替えられた。手順は丁寧で、抜け目がないほどに細かい。細かいところへ人を連れていくのが規律の仕事だ。礼は人に向かう。手順は物に向かう。物に向かう手順の前で、静は足の裏で「居場所」を探す。踏み込みの拍とレバーの引きの拍を一致させる。体の中の空気が替わっても、拍だけは替えない。替えないものを一本、持っていなければ、朝から夕までの間に自分がほどける。

 声の大きな上官がいて、声の大きさで命の長さを測ろうとするような振る舞いをする。静はその声の影にいる。影は涼しい。涼しさは、喉の布に効く。布の角が一枚、丸くなる。丸くなった角は、物にぶつからない。ぶつからないかわりに、長く残る。短く強い言葉より、丸い沈黙のほうが、道具の手触りに近い日がある。

 新しい階級章の金具が光ると、周囲の空気の密度が一段だけ変わる。光は人の視線を集めるためにある。集まった視線の中で、命令は角を持つ。角は、配られる。配られた角は、手順の隙間に差し込まれ、挟まれた人の呼吸が短くなる。短い呼吸にも拍はある。短い拍と長い拍を、同じ夜に体内へ並べる方法を、静はひとつだけ知っている。瓶を、掌の上で転がすことだ。転がして、止める。止める位置は、家で教わった礼の角度の中にもう用意されている。

 夕刻、風が油の匂いを運び、整備区域の端に仮設の神棚が立つ。木箱を反転させたような簡素な作りで、上には紙垂が四枚、二度目の風にもほどけない角度で吊ってある。その前で、年嵩の整備兵がひとり静かに手を合わせている。手は黒く、油で染められ、爪の縁が固い。しかし、指の節の曲がり方が祖父の指に似ている。似ていると気づくと、背筋がほんの少し伸びる。似たものの前では、礼の角度が自動的に正しい場所へ落ちるのだ。

 静は遠くから礼を返す。近づきすぎない礼は、風を妨げない。神棚の横に古い破魔矢が一本、紐で結ばれている。羽根が、風に逆らい過ぎず、従い過ぎず、中間の角度で揺れる。揺れて、止まり、また揺れる。その角度を体のどこかが覚える。覚えた角度は、のちに降下の姿勢のために使われるだろう。地上で見たものが、空中で別の名前になることがある。名前を変えるまえに、体だけに写しておく。

 食事の時間になっても、話し声は少ない。鉄の器は口当たりが悪く、底のほうへ行くほど、味のない温度が増える。温度が増えると、誰かが昔の話をはじめようとする。始めようとして、やめる。やめた拍の上に、スプーンの小さな音が落ちる。その音は、地図の上で方角を一度だけ示して、すぐ消える。消える前に拾えれば、夜の見取り図に欠けている地点を一つ、埋められる。

 夜、灯りが落ちる。灯りが落ちると、音が立つ。寝台のバネが短く鳴り、毛布の布目が擦れ、唇からわずかな湿りが思い出のように匂い立つ。遠くで誰かが嗚咽を飲み込む。嗚咽は名を呼ばない。呼べば、別の涙が連鎖する。連鎖は、火と似ている。火は、延びる。延びないように、肩の上に置いた見えない瓶の口を、指の腹で押さえる。押し過ぎない。押さないと、こぼれる。中間の力。祖父の親指が黒紙の縁を押すときの力だ。

 毛布の中で拳を開く。掌の皺に、矢野の面紐の感触を想像する。紐はない。ないのに、皮膚の溝が一筋、増えた気がして、静は微かに笑う。笑うと、胸が少し軽くなる。笑いは礼の別名だ、と、昔、瓶に書いた。文字は残していない。書いたふりをして、残さなかった。残したものは重くなる。重いものは、落ちる。落ちて、鳴る。鳴らない音だけを、この場所には置いてゆきたい。

 消灯後、外の風が貨車の隙間から入り、瓶の口元でいちどだけ説明のつかない音を作る。音というより、気配。気配というより、誰かの呼吸の欠片。静はそれを聞いたふりをし、聞かなかったふりもする。二つのふりの中間で、眠る。眠りは訓練の延長であり、礼の延長でもある。夢はまだ来ない。来ない夜は、守る。守るかわりに、翌朝は少し硬くなる。

 朝の点呼は、列の端から始まる。番号が呼ばれ、番号が返される。番号の後ろに、名がある。名は呼ばれない。呼ばれた名が、別の場所へ持っていかれるときの手間を、誰も増やしたがらないのだ。静は番号だけを返し、喉の布切れを一つ、濡らしてから飲み込む。飲み込むことで、布は形を少し変え、角が丸くなる。丸い角は、朝の号令にぶつからない。ぶつからないかわりに、長く残る。

 小走りに整備区画へ向かう途中、整備兵の男が「お前、剣やっとった口やろ」と言った。声は低い。低い声は、空を裂かない。裂かない声は、体の中心に降りる。「足の置き方が、枠から出とらん」と男は続けた。枠、という言い方が懐かしい。床の木目の話を思い出す。足の裏で線を探し、線の上で止める。止まることが礼だ。止まれない人間が、先に折れる。折れる音は、名前の側から聞こえる。

 整備兵は年上で、髭の根元に油の黒が染み込んでいる。唇の端がよく乾いて、そこへ指の背を当てる癖がある。指の節を曲げたときの角度が、祖父の指とよく似ている。似ていると気づくと、静は数歩だけ歩幅を狭くした。距離を間違えないために、歩幅を修正する。礼は、角度ではなく距離だ。距離を一寸、引く。引いた手前に、火は来ない。

 操縦手順の講習では、注油の回数やレバーの遊びの幅が、黒板に大きな字で書かれる。書かれた字は、命令よりも正しい顔をしている。正しい顔は、時々、人を締めつける。締めつけられた人間は、呼吸を忘れる。呼吸を忘れた人間は、名前を先に呼ぶ。名前は、最後に取っておくべきものだ。瓶のラベルに括弧を空けるのは、そのためだ。最初に名を入れないことで、風が通る。風が通るうちは、機械も人も、少しだけ長く持つ。

 訓練の合間、静は隊舎の裏手で、古い破魔矢の羽根を見に行く。昨日と同じ角度。いや、わずかに傾いたかもしれない。傾きが許容される範囲を、風が教える。教わると、体は勝手にそれを蓄える。蓄えられた角度は、のちに降下姿勢のために役立つ。機械の計器に表れないものを、体に持っていく。体の中の計器は、まだ壊れにくい。

 竹刀を持っていた頃、静は「切らない」ことを覚え、「合わせない」ことを覚え、「延ばさない」ことを家の礼として身につけた。ここではそれが、少しだけ別の名前になる。切らないかわりに、撃ち過ぎない。合わせないかわりに、近づきすぎない。延ばさないかわりに、火を延焼させない。名前が変わっても、やることは同じだ。やめる位置を先に置く。置いた拍に、体を合わせる。合わせすぎない。半拍ずらして置く。

 夜になると、貨車は冷えて、木枠が膨らみ、窓がまた自分で半指ぶん開く。開いたところから、見たことのない星座が入り込み、鉄の匂いをさらに薄くする。手の届かない場所で誰かが泣く。泣き声は、短い。短い声ほど、長く残る。残った声に名を与えない。それが守る、ということだ。

 消灯の合図の前、静は短い文を瓶のラベルに増やした。《ここで、乱れない》。乱れないことが勝ちではない。乱れないことが、延焼を止める。延焼が止まれば、誰かの呼吸がもう一度、拍を拾える。拾える呼吸が増えれば、朝の番号が少しだけ長く続く。長く続く番号の列は、名のほうへ行きたがらない。行かせないために、瓶はある。

 布団に横たわると、足の裏に貨車の床の微かな傾きが伝わる。傾きは波のように往復して、眠りの入口を濡らす。濡れたところに、遠い海の拍がやってくる。駅のホームで万歳の音を波に変える癖は、ここでも役に立った。波は誰の名も呼ばない。呼ばないのに、岸を叩く。叩いて、戻る。戻りの拍に、自分の心臓がかろうじて合う。その合い方は、乱れない。

 翌朝の空は、灰を薄く溶かした牛乳のような色で、遠い山の線がつかめない。点呼、整列、装備点検。油の匂いが新しく、金属の肌がまだ昨日の温度を覚えている。「いけるか」と誰かが言う。「はい」と返事が集まり、静は返事をしない。しないで、頷きだけを小さく置く。頷きは、瓶の外で生きる言葉だ。外に置ける言葉は、夜に持ち込まなくていい。

 整備兵の男が近づいてきて、矢野の紐のような細く固い縄を一本、静の掌に置いた。「予備だ」と短く言う。短い言葉は、角がない。角が無いから、刺さらない。刺さらない代わりに、長く残る。紐は掌の上で軽く、指の腹にざらりを残す。そのざらりは、瓶のラベルの括弧の内側と同じ触感だ。括弧は空。空の中で、紐の繊維が一度だけ、鳴らない音を立てた。

 昼、講堂の隅で、上官が地図を押さえている。押さえる指が地名の上を動き、紙がきしむ。紙の上でだけ世界は整って見える。整っているものは、裏返すときに大きく鳴る。一枚の紙の裏側に油の染みが一つ広がっていて、その中心が、ちょうど矢印の先に重なっている。偶然かどうかは、誰にもわからない。偶然に名を与えると、確定が来る。確定は刃物だ。刃物は、音を持たない。

 夕刻、神棚の前の羽根は、昨日より少し重く見えた。油の微粒が空気に混じり、羽根の縁に薄い光を作る。整備兵の男は、羽根を取り替えようとしない。取り替えない、という選択肢が、ここでは礼に一番近い。古いものに新しい名前をつけない。名は、呼べるまで呼ばない。古い羽根の重さだけが、風の角度を覚えている。

 夜、嗚咽はなく、代わりに歯ぎしりが増えた。歯と歯がこすれる音は、鉄の擦過音に似ている。似ている音を二つ、同じ夜に置くと、片方が消える。消えたほうが、長く残る。消えた音を拾うのは、朝の仕事だ。朝は、拾い物をするには向いていない。だから瓶がある。夜に拾う。拾って、置く。置いたものを、朝に見ない。見ないことが、長く持たせる。

 静は毛布の下で瓶を握り、掌の紺の布にその丸みを沈めた。瓶の口は、半指だけ傾いている。傾きは、列車の窓と同じだ。勝手に開き、勝手に閉じる。開いた隙間から、広い何かが入ってくる。広いものは、狭い器に入るときに音を立てない。立てない音だけが、体の中へ残る。残って、鳴らない。鳴らないものの側に、眠りはいる。

 眠りの縁で、祖父の親指のざらりを思い出す。窓の黒紙の縁を押し、紙一枚の幅を保つ指。祖母の湯気が一度だけ回り、瓶のラベルが白いままで、括弧が空で、矢野の紐の塩が額に触れて、道場の床の冷たさが骨へ上ってくる。全部が、鳴らない。鳴らないものだけでできている夜の層の上で、静はようやく眠った。夢は来ない。来ない夜は、守る。守られたまま朝があり、朝の番号が、また始まる。

 日々は、同じ形で更新される。更新は、書き換えとは違う。書き換えれば、古い文字は消える。更新すれば、古い文字の上に薄く別の透明が重なる。透明は読めない。読めないものの上で、拍だけが残る。拍が残るうちは、機械に触れる手は乱れない。

 午後の訓練で、静は初めて単独で操縦席に座った。座席は硬く、背中の骨を二本選んで押す。押された二本の間に、呼吸が降りる。レバーの先は、竹刀の柄より少し太い。太い柄は、手の内で適度に遊ぶ。遊びがなければ、折れる。レバーを引く拍と足の踏み込みの拍を、体の中で合わせる。合わせすぎない。半拍ずらす。ずれたところに、空気が生まれる。その空気が、機体の中の空気と、外の風の空気と、たしかに同じ名前を持っていることを、静は知る。

 降りると、整備兵の男が「ようやった」と短く言った。短く言って、矢野の紐のような予備の縄の端をもう一度、掌に押しつける。「結び過ぎるな」と言い、男は去る。結び過ぎると、戻らない。戻らない結び目は、確定だ。確定は、刃物だ。刃物は音を持たない。音を持たないものに、礼で対抗する。礼は、やめる位置を先に置くこと。置いた位置で、呼吸を止めないこと。

 貨車へ戻る道で、子どもの頃に見た破魔矢の羽根を、静はもう一度だけ思い出す。風に従い過ぎず、逆らい過ぎず。中間の角度。その角度を体に入れておけば、降下のとき、手が勝手にそこへ行く。勝手に行くほど、長く持つ。長く持つものは、帰り道を知っている。帰り道を知るものは、名を欲しがらない。

 夜、瓶のラベルの《移動隊舎の夜( )》の括弧の内側へ、静は鉛筆の芯を軽く触れさせた。触れて、離す。離れた芯の粉が、瓶の内側の空気へひとしずく落ちた気配がする。音はしない。匂いもしない。ただ、そこに「居る」。居るものに名を与えないまま、静は毛布を肩まで引き上げ、窓が自分で半指だけ開く音を待った。音は、来た。来て、すぐ止んだ。止んだところに、眠りがいた。眠りは、名を持たない。名を持たないものだけが、この夜の中で長くいられる。

 夢は来ない。来ないまま、朝が来る。朝の点呼で番号が呼ばれ、返される。返す声の奥で、瓶の口が、半指だけ傾いたまま、今日も鳴らない音を正しく持っている。正しく持たれた鳴らない音の上で、静はまた、やめる位置を先に置く。置いた拍に、体を合わせる。合わせすぎない。半拍ずれて、止まる。止まった先に、風が通る。風が通る場所だけが、今日の彼の居場所だった。

 その居場所の狭さは、祖父の言う「紙一枚」と同じ厚みで、祖母の湯気の「一度」と同じ時間で、矢野の紐の塩のひと欠片と同じ重さだった。軽い。軽いから、指で持てる。指で持てるものだけが、夜を越える。越えた夜の端に、貨車の窓がまた、ひとりでに半指ぶん、開いた。開いた隙間から入ってきたものに、名はない。名のないものだけが、静を眠らせた。次の朝、また番号が呼ばれるまで。